映画川 『ガーデンアパート』

今回の「映画川」は、昨年劇場公開された『ガーデンアパート』を取り上げます。UMMMI.名義で多彩な映像作品を発表してきた石原海監督の初長編映画である本作において、ふたりの女性を通して描かれる愛について、原智広さんが考察されています。
『ガーデンアパート』は6月16日、CINRA.netShe isが主宰するオンライン上映会『CINRA CINEMA CLUB』にて上映されます。

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『ガーデンアパート』 植物の息遣い



文=原 智広


私は思い出について何も知らない。私は愛について何も知らない。私は言葉について何も知らない。この映画は途方もないひとつの愛についての物語だ。石原海(UMMMI.)は私が知らないことを知っているように思えた。彼女の眼差しは私より焦点が近いか、或いは反対方向を向いている。それは単純に男女の違いというわけではなく、彼女なりの感性で、正直、物語や役者の演技力に難点はあるものの、私はこの映画の照明や美術(植物)が好きで、それは一見装飾されたものではあるのだけれど、何もかもを視界から浚ってしまうようなときめきがある。「愛は映画みたいなもので、政治みたいなもので、料理みたいなもので、庭みたいなものだ」。と唐突に始まるモノローグ。すべてが愛おしいと感じる瞬間が果たしてくるのだろうかと。
 
私について言えば、すべてが不自由だと感じた時に、すべてに脱力する。作品が終わったら私は殆どのことを忘れる。すべてに意味がないように。私は何も知らなかったし、私は何も気づかなかった。そのことを知る。トマス・アクィナスが言ったように。「私が書いたものはすべて藁くずのようなものだった」と。そしてこの苦痛を繰り返す。神の名を持つ星々を眺めて、永遠に閉じ込められるという苦痛に苛まれて。すべてが永遠であったらよいのだが、すべては汚れてしまう。失われた残骸を理想化したことについて。自分の存在を滅ぼしたことについて。そしてこの執着地点にまたきたということについて。夜。響きのような静けさ。水の音と足音だけが聞こえる。「さようなら、いつか他所でまた会おう」と言えたらどんなに楽なことなのか。
 
哀しみに問う。存在に問う。すべてに問う。そしてそれらは何も答えない。私がすべてを愛するように誰かがすべてを愛するとは思ってはいない。浅はかさの痕跡と夕闇が病院の廊下を擦り抜ける。常に決定的な瞬間なのだ。そこで奏でられるただの息遣い。何もかもやめてしまえばどんなに楽なのかと。相似の如き数学的論拠、星を掴んで円を描く、もう誰にも届かない黄金色の夜、規則は境目と境目を明確に位置づけ自由を奪う、性と生という官能性、その狭まった枠の中でどう価値を見出していくかだ、あるはずもないものを、どうして生まれては死ぬのが定義されているのだろう。植物はそれらに抵抗するのだ。植物の息遣いと繁殖は愛のホログラムの結晶のようだ。私にとってはこの映画の物語は割りとどうでもよかった。一見地味な普通の子に見えるひかりの表情のなさと無気力さ、でも内部では激しさや異物を飼っていること、そして、中年女である京子、どこかもの悲しさを漂わせつつも生きることを諦めない強烈な色彩が鼓膜に直接響いてくる。それに比べれば男はなんて愚かでつまらないのだろう。共依存という関係は馬鹿らしい、妊娠したからなんだというのか、女はもっと先を見ている、偶然性や直感に頼って見えない何かを見ているのだ、それに恐ろしくなり、発狂するのはいつだって男のほうなのだ、まるっきり理解出来ないと、本能のまま自由に生きているのは女のほうなのだ。ある友人が若い女はいいなあちやほやされてと言っていたが、そんなことはない、確かに若いうちはいいだろう、だが年老いてしまえば彼女自身の傲慢さや脆さも崩れ去ってしまう、その意味で京子ほど魅力的なのは稀有な存在だ。ある映画のオーディションで50歳を超えた女優がまだ少女のような仕草や声で私に訴えかけたことをふと思い出したが、年齢を受け入れられない女性が一定層いるというのは知っている、だが男側からすれば異様で不気味でしかないし、何の魅力も感じない、京子のような存在は実際にはお目にかかったことない。愛も幻想で、時間も幻想で、物語も幻想で、植物だけが蠢いている。私はこの光景をどこかで見たことがある。蜃気楼の中、すべてははりぼてのようで、ゆるやかに息衝くものたちは発狂していく、植物を除いて。


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私にとってはアンナ・カヴァンの世界を思わせるようだった。ヘロインで温かく氷のようになった静脈が愛によって溶けるかのように、絶望と希望は相互一体関係にある。すべては動かない、止まったままだ。幾千も愛することを願い、そして裏切られ、宙を彷徨い、奈落に落ち、自分などどこにも存在しない自分だということを知り、生まれ変わる。石原海の年来の流儀であり、何らかの明証、あるロジックに従ってはいるのだが、それを誰かに分かち合えることは不可能なのかもしれない。或いはエモーショナルなものと一言で片づけてしまってよいのであろうか、いささか乱暴すぎるのではないか。ひとつの涙がこぼれる。ひかりにとっての恋とは、からっぽのショーウィンドウのような、完全な透明なものになってしまうということだろう。どうか空っぽにしておくれ、この愛という秘密も、あの涙も、あの微笑も。そして、こうした愛の残骸がこの空虚を再び埋めることだろう。私は眠る、そして、沈黙が息を口に投げ返し、植物たちが繁栄する中空に置いていかれる。そこは闇でもないし、光でもなく、泣いた後のしゃがれ声のような、うえでは霊たちにざわめく女たち。私が現実の女に恐怖を抱くように、私はこの映画に恐怖を抱いた、艶消しの猥らなものから遠い旅路へともう既に行っているのだから、私たち男のことなんて知る由もない。すべては抹消されてしまっていて、記憶は上書きされているのだから。この幸福であるとも不幸であるともいえる震えの中で体温のない女のマネキンを抱きしめて、夜は去っていく。唇への口づけがまるで余計なものだと言わんばかりに心臓を閉ざす。ねえ? 愛が早駆けだとそれまで気付いていなかったの? 感情が、思い出が、牢獄という牢獄から這い出てくる。はぎとられたドレスの音とともに通過していく、京子とひかりというふたりの「女」の、決定的に絞められた、そこでは何も溶けていなかった。
 
愛という柔らかなねっとりとしたヴェールで包まれながら京子は車を暴走させて「世界」を探すが、時が重なっていく一方で、こういった愛の発狂は、ますます熱していくか、冷めていくかのどちらかになる。その仕組みは私には分からない。いや、分かろうとしてはいけないのだろう。こういった主題を語ること自体は途轍もなく愚かなことのように思えてきて、自分があまりに滑稽で哀れな男にすぎないと気付かせてくれる、私は何も気づかなかった。微粒子が夜の空気と溶け合い、愛している男を探し、叫ぶ。そういえば、私がまだ麻薬中毒で恋愛というなにかに溺れて、途轍もなくバケモノじみた世界と対峙することに怯え、自分を見失おうと必死になっていた頃、お互いがお互いをズタボロに傷つけ合い、ちょっとしたことでいざこざがあって、逃げていく女を西新宿のビル群で一晩名前を叫びながら滑稽にも探したことがあった。次の日に同棲していた部屋に戻ると、あまりに普通に接してくる女に私は戸惑い、にこやかな笑みで私に笑いかけてくるものだから、ハンドバックにはよく見ると、私たちの持っているお金では到底買えない量の麻薬があって、何もかもが嘘だと思って、何も聞かずに逃げた、恐ろしくなったからだ。これは愛と言えるのだろうか? 分からない。私は時折思い出す、この馬鹿げた夜のことを。新宿の無機質なビル群は魂や感情を吸い込む途方もない装置のように思えた。風も体温も寒さも何も感じなかった。
 
見知らぬ関係の狭間で苦しみ、もがき、愛という異常な世界の中で、盲目のまま打ちのめされている。波打ち際で眠るようにこういった夢想から目覚めるのはいつのことになるのだろうか。この映画が終わってもそれは続く。終わりは分からない。男たちはそのうち疲れて蒼ざめて脱け出てくるだろう。女の気まぐれは本能的なもので、その決定にいつも男は声を失う。ランボーのように他者であろうとするならばそれはよい兆候だろうが、少しずつ望みに変わっていく度に、傷つき、眩暈、放棄、植物の根、霊魂、一続きの連鎖と恍惚。なんという引力か! 結局は自分自身に苦しめられ、偶像や理想像に思いを馳せ、それはやるせないものへと形を変えていって、やがて「現実」に撃ち抜かれる。彼女の眠り際の声は霞のようなもので、沈黙の声のようなもので、それに没入する度に、永遠に得られない実感を手のひらで弄ぶようにして、やがて京子のように発狂し、何も入っていないフライパンに火をつけ始めるだろう。何もなんというか愛には否定的なものはない。
 
誰にでもこういった体験はあるだろう。利益とか損得とかそういった感情を考えずに没入してしまうのが愛という装置だ。他人からみたらあまりに滑稽かもしれないが、本人にとっては心地いいのだから。『ガーデンアパート』はそういった懐かしい気持ちを蘇らせてくれる。洗練されても美しくもなくどこにでもあるような普遍的な物語だ。そして、愛については誰も知らず、そのことについて知っているのはこの映画の唯一の他者となる植物なのかもしれない。


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ガーデンアパート The Garden Apartment
2017年 / 日本 / 77分 / 配給:アルミード / 監督・脚本:石原海(UMMMI.)/ 共同脚本・プロデューサー:金子遊 / 出演:篠宮由香利、鈴村悠、竹下かおり、石田清志郎ほか
公式サイト

6月16日(火)、オンライン上映会イベント「CINRA CINEMA CLUB」で上映
参加方法:Peatixから作品鑑賞チケット(1500円)を購入、もしくは、She is の「Half Moon MEMBERS」(月額800円、そのほか特典あり)になって専用フォームから申し込み。申し込みの締め切りは6月16日(火)正午まで
開催日時:6月16日(火)午後9時〜、上映後には監督参加のZoom交流会もあり(作品の視聴は17日正午まで可能)
※詳細はこちら





原智広

1985年生まれ。中卒。作家、翻訳家、脚本家、映画制作。訳著に『戦時の手紙、ジャック・ヴァシェ大全』(河出書房新社)、論文に「光学的革命論」、「仮象実体的社会と電子的スペクタクル性、その全貌への憎悪」 。映画『イリュミナシオン』『デュアル・シティ』(共に長谷川億名監督)の原作、プロデュース、脚本。「ル・ポン・ド・ソワ」などの媒体で映画批評、フランス文学について連載中 。
監督作『ディストピア・サヴィア・ケース』のクラウドファンディングを実施予定。

『ディストピア・サヴィア・ケース』公式サイト