映画音楽急性増悪 第14回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」の第14回目「剥脱」は、映画で描かれてきたアンニュイについて、アラン・レネ、アルノー・デプレシャン 、リッキー・ダンブローズ、リュック・ムレ監督作品他を例に、ゾンビが感じるというアンニュイと人間が感じるそれの往復を参照しながら考えます。

第十四回 剥脱




文=虹釜太郎


もう人間に戻れないという感情、人間から見捨てられたというよりは世界から見捨てられたという感情、自分の名前を思い出せないことによる無力感、不死(限定条件つきの)であることからわきあがる感情、あらゆる喪失感に苦しめられている状態、異臭のような死臭のような、というか死臭そのものに麻痺していく自分の感情、また人肉を食べてしまったということからわきあがる感情とそのことをすこし後悔する感情とそれにほとんどなにも感じなくなりつつあることを自分で認識しているときに自然に口腔から出続けるゲップやよだれや胃液や体液が流れたままになる時に微かに感じる絶望感と麻痺してしまう恥ずかしさ、人間を憎むことよりも人間に食欲を感じてしまうところからわきおこる感情、人を好きになったときと人を食いたくなったときの理由もなく泣きたくなるような気分… 
 
これらはみなゾンビが感じるアンニュイな感覚についてのもの。では彼らがまだ人間であった時にはどんなアンニュイを感じていたのか…
 
 
『カップルの解剖学』(1976年/アントニエッタ・ピッツォーノ・ムレ、リュック・ムレ)。
 
この映画における妻の表情は実にアンニュイ極まりない、という時のアンニュイは、登場人物が登場人物に感じているものである。英題は『Further than SEX』。このカップルの解剖学は、多くの女が男に感じる徒労感の図鑑でもあり、またそれに反発する女性も多数いるだろうとも思う。妻役の女優の表情があまりにすばらしいのだが、ため息という演技が映画ではその排気の細部が伝わりにくいために吐く息よりも目線の微細な動きが磨かれる歴史のなかで、不信感とけだるさとほんのわずかな愛着と依存が長年に渡って作り上げた疲れた体幹が突出している。この妻の疲れた身体の動きに慨嘆してはいるうちに映画は終わってしまう。疲れた体幹の演技のステレオタイプはさまざまな名女優に見られるが、その動きとコメディアンによる動きとを区別するのは目線、呆れはてていることを伝えるために相手を痺れさす具体的な目の力である。
 
一瞬ゾンビ映画を観てるのかという瞬間が多数訪れるロシアのカントリーサイドのアンニュイがなんの解決をもたらさないかのような『Truce』(1990年/スヴェトラーナ・プロスクリーナ)は、クストリッツァ的な音楽の挿入が繰り返されるが、トラックを運転する主人公の背後に映る山々といきづまる時に必ず人間に聞こえてくる風が、置き去られた物たちの知覚を静かに準備するかのような終わり方をするなかで、主人公の青年は身長は185cm以上はあるはずなのに人に対しても自然に対しても常に上目遣いを繰り返していく仕草が人以外の知覚たちと呼応する。そのはじまりが他の人間たちにとってアンニュイに映るのであれば、世にアンニュイとされているものは、未知の知覚たちにあまりに無知な移行期の人間たちのボキャブラリーであるだろう。
 
 
『ワイズ・ブラッド』(1979年/ジョン・ヒューストン)。
繰り返されるテーマ音楽の映画全体の三分の二以降の変奏。プリーチャーが干し首を窓から投げ捨ててからのゴリラの着ぐるみで友人を作りたくもまたしても失敗に終わるまでのシークエンス。映画音楽自体に反逆とかではないボイコットを公然と行使する車のガタピシども。これらいずれもがバラバラなままに映画は終わりプリーチャーの命も終わり、そこで生まれる感情。それは『ワイズ・ブラッド』全体でしか生み出せないものだ。映画音楽だけを論じることがいかに無意味なことかはここでもはっきりしているが、そんなことなどどうでもいい。『ワイズ・ブラッド』を観終わったとき、いったい何が何に無為を感じたかは全体としてわからなくなる。そのすばらしさと徒労感はなにものにも代え難い。車が人にそれを感じて、それが開かれているとも言いたくない。しかしここにある感情は、映画を観終わった後も、無限に反射しあって世界を覆い尽くしていくことはあきらかである。
 

 『PILGRIMS』(2013年/リッキー・ダンブローズ監督)。 
青年の寝顔から床の染み、絵画へと溶けていくラストの背後に強く鳴りはじめる時計音は、『アリックスの写真』(1980年/ジャン・ユスターシュ)以降の四十年に渡る思考停止、疑問停止の時間がようやく終わることを告げるかのようだ。油断はできないが。『アリックスの写真』から四十年たってしまったフランスでは、ある映画雑誌の執筆陣にフレンドリーな記事を書くようにとの通達が。本作をいままでの執筆陣が離脱した新映画雑誌がどう評するのかはわからない。本作を観てアンニュイ映画の逸品などと言う白痴は世界にはいないはずだが、すべてを緊急で懐かしくしたい家畜たちはこの四十年でまた大量に飼われた。ちなみに本作が謝意を寄せているNeta Alexanderの『Failure』の日本版のような書物は現在の日本でこそ緊急で出版されるべき、巨大過ぎて死ぬことができないものとの闘いを前にいまだ小異の貶しあいがいまだ果てしない。
 
 
『内部』(2019年/波田野州平)と『朝の夢』(2020年/池添俊)は、映像に対して声が現在と過去を混交していったり、反撥したりという鈍く冷えた自由の横すべりの手つきが異なっている。自身の祖母の追憶をもとに作られた『朝の夢』の白黒での鍋の中身、既に室内の鍋ではなく地肌の上での鍋の中の白黒は、鈍い横すべりに紛れて死んでいくことを望む致死的な朝が現物として到来しているようで魅力的で、朝でもいつでも人が起きた時に、いままで見ていた夢の内容について無言で自身にコメンタリーをする時に、言語での慨嘆でない、横に鈍く滑り込めるのではないかという瞬間が人によっては確実にあるだろうことどもへと迫るかのような表現は監督の記憶力の良さを感じさせる。しかしもしも『朝の夢』がそんな瞬く合間を描いているなら、室内での鍋の準備の合間にはじまる音楽はいったいどこ視点の音楽なのかの疑問が残る。あの気怠い音楽を必要としたのは誰なのかという。また最後の祖母の声と記憶の中の別の声の混交は、混交、混乱などと一言で到底言うことを禁ずるような反撥やそれらを宙吊りにする切断の瞬間にもっと時間を割いてもよかったのではないかとも感じた。それには自らが大切と感じる感情たちを積極的に解体していき、それらの自律性を観察しながらも突き放す幾多もの過程が前提となるのかもしれないが。
 
戦死した夫に届かない手紙を送る妻を巡る、我々が普段見落とし過ぎている影を露わにする『影の由来』(2017年/波田野州平)は、遠い約束を思い出せる気がすることの抑制について、その語りとあまりにも雄弁過ぎる音楽には時に違和感を感じるのだが、現地調査をもとにしてその地の歴史を掘り起こしながらも、集合的記憶を開いていくことがどういうことを孕んでいくかを観客に考えさせていくことについて氏は多くの提起をする。この持続力と執拗さはとても貴重なものに思える。
波田野作品については、現在、映画書籍、映画雑誌だけでなくさまざまな人文書からインディペンデントな寄書やZINEまでを「共有地」に取り揃えるだけでなく、映画トークイベント自体も店内で定期開催している西荻窪の本屋ロカンタンの店主でもある映画批評家の萩野亮が「フィールドワークを作品制作の基礎に置き、ドキュメンタリーとシネエッセイの境界領域にたゆたう波田野作品は、「事実truth」に「虚構fake」を巧みにおりまぜることによって、正面からはたどり着けない「歴史」、あるいは「プレ・トゥルース」とでも呼ぶべき層へと沈潜し、たしかな手触りを映像に刻みつけて私たちに提示する。そこで語られているのは、はたしてほんとうのことだろうか。嘘のようなできごとがほんとうになる危機crisis の時代に、波田野州平の作品はきわめて批評的critical な鏡として、差し出されている」と述べていて、『「KANGEKI 間隙」vol.6 萩野亮presents 波田野州平特集』というイベントも企画されたが、このような試みのなかでなされていく「プレ・トゥルース」層の精査やそれについての異なる考えのぶつかり合いたちは現在きわめて貴重で、また集合的記憶が開いていく時の冷ややかな温度から火傷までについても、そこに潜む危険についてもさらにもっともっと論じられていくべきである。
それにしても萩野亮による共有地の試行は、所有ということの意味を作品世界においても現実世界においても問い質している。その問いはcovid-19蔓延以降、または世界恐慌や飢餓にもつながる世界での生き方や映像作品の作り方にも強く関係しており、他の映画批評家では踏み込めない実践を萩野はしている。
 
 
『ドアをノックするのは誰?』1967年
『明日に処刑を…』1972年
『ミーン・ストリート』1973年
『タクシードライバー』1976年
『ニューヨーク・ニューヨーク』1977年
『レイジング・ブル』1980年
『キング・オブ・コメディ』1982年
『アフター・アワーズ』1985年
『ハスラー2』1986年
『最後の誘惑』1988年
『ニューヨーク・ストーリー』1989年
『グッドフェローズ』1990年
『ケープ・フィアー』1991年
『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』1993年
『カジノ』1995年
『クンドゥン』1997年
『救命士』1999年
『ギャング・オブ・ニューヨーク』2002年
『アビエイター』2004年
『ディパーテッド』2006年
『シャッターアイランド』2010年
『ヒューゴの不思議な発明』2011年
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』2013年
『沈黙-サイレンス-』2016年
において「神の視点」を考察した人がいたが、『キングス&クイーン』(2004年/アルノー・デプレシャン)における、神の視点=反芻は、外観としては演技の不安定さという演奏と被写体を小刻みに多角度から撮るという演奏として現れる。真上から見下ろす視点は鳥の視点で、小刻みに反芻される観察は精霊によるものだと言う人もどこかにいるかもしれない。短い間に急ぎ反芻される観察と俳優たちが表情を成り立たせることができないことの裏表やその癒着は、そこにアンニュイなどという感触などを気持ち悪く惹起させることなどを許さない。たとえ俳優の視線が毎度のごとく泳ぎ、その遊泳時間がある刹那いくぶん長く感じられる時でさえも。『キングス&クイーン』の中の音楽たちが極めてなげやりかついいかげんにつけられているのは、上記の反芻と表情の不可能が度を超していることと深く関係していると思われる。
人工知能が書く、ナレーションが不可能な映画についてばかり論じた映画評論集があるとするなら、このリズムの反芻の急がれる時間についてどのようなことを書くか。今後、人間たちは映画において、そのようなことを日常的に考え直す事態にさらされていく。しかしそのようなことは喜ばしい事態ととらえたい。我々が普段、映画で見ることはない、演技未満とその小刻みな反芻による演技外を捉えることに終始する映画は、あらゆる感情をいったん乱暴に括弧に入れる。それは感情という重力という現象を阻んでしまうという観点からは上昇する力のようなものとして人には映るかもしれない。
 
あらゆる感情をいったん乱暴に括弧に入れることと『2/デュオ』(1997年/諏訪敦彦)で試されたことは無縁のように思え、しかしこの実験は引き続き行われるべきと強く思うが、アンニュイその他の滑稽な重力たちに抵抗し距離をとり、または一見そうとは見えないやり方で予想もしない無視を遂行するには、それについての問題意識が尋常でないアクターが召喚されなければいけない。デュオで試行される映画の可能性について、『2/デュオ』では順列組み合わせはなかったが、それらを含めた映画の可能性についてはまだまだできることはたくさんあるはずだ。
 
『ミュリエル』(1963年/アラン・レネ)については、さまざまに言い尽くされているので、ここでは『ミュリエル』をあまりに観過ぎると、どういう困った事態になるのかについて。この映画における、登場人物には聴こえない音楽がぶっきらぼうに鳴った後に必ず記憶の風景が七枚ほどぱらぱら映されるという繰り返しは、一部の人間にとっては危険である。それは『ミュリエル』を観過ぎ、というよりは物理的にダメージを受け過ぎた人間が、モートン・フェルドマンのような隙間の多い音楽を聴いた時に、音が鳴る瞬間に現在と過去の混乱を音楽の快感と勘違いすることが常態化する可能性が高いからである。『ミュリエル』が困った映画なのはその副作用が甚大だからである。しかし人間たちが副作用にいくら困ったところで、人々はブローニュという破壊された街たちの戦争の跡と無理くりな再建の副作用たちを忘れている。終り近くのエレーヌのアパートで社交であるはずの歌声(Source Music)から泡のような建築と社交が崩壊する音楽(Non-Diegetic Music…いつまでこんな分類をしているんだ…)へとあまりに間髪入れず直結する、レネの音楽への悪意、歌声が音楽に捕獲されるのを為すがままにする態度。
エレーヌがアルフォンスに手紙を書いてしまうように思い出したように過去にすがりはじめる習慣を人間はついついしてしまう。懐かしがることの正当化、常態化とアンニュイどもを爆破せよといくら爆破しようともこの病いは消えないなら、せめてそうしはじめる瞬間たちを忘れないでい続けること。フィクションである映画にしかできないこと。
しかし記憶の中でだけ再生し直す音楽は、映画は描けない。そうしている人間を他者は理解できない。
『ミュリエル』はまた順列組み合わせによるデュオによる剥脱するブローニュの街の観察でもある。そして八十分過ぎに即興が必ず陥る集団即興の袋小路の予兆のような音が、矢継ぎ早のリズムの編集の合間にすとんと警鐘を為すが、ダビングでは無意識のうちに行われただろうこれらの挿入と素早い音の切り上げは、入れ替わるデュオの観察たちと対照的であり、ブローニュのような街が何度も崩落することの予感を剥落させていく。デレク・ベイリーのカンパニーだけでなく、局地的にはごく一般化した少人数による遂行だけが成果をあげる、順列組み合わせによる即興だが、それがあまりにもそのまま映画で達成されている『ミュリエル』は冷徹にその組み合わせを変えていく。それができるというのは人間を信用していないからである。トリアーやハネケはまだまだ人間が好きでたまらない。いたぶり虐めるのはいかにそれの準備に時間がかかろうとも簡単であるが、人間を真に試し尽くすには上記の順列による機械的方法はいまだ有効で、そこでの「人間は」とは単数ではなく組み合わせで考えていくことでしかなく、『日本の夜と霧』(1960年/大島渚)に足りなかったのはその組み合わせへの目覚めをとりあえずでっちあげてかつそれを蹂躙するシーンである。『リベルテ』(2019年/アルベール・セラ)がそれを達成しているかどうかはわからない。しかし『バルタザールどこへ行く』(1964年/ロベール・ブレッソン)ではそれは人間以外と人間による順列組み合わせで達成される。この「可能性」を前にして、しかしバルタザールは死に、その死を前に気怠るさやアンニュイやどこか不満げな曇りの日の残光などという感情は一切入りこむ余地などない。
 
 
最後に人間でなくなった後もアンニュイから逃れていない存在が、それでも何を感じているかについて受信したメモを付す。人間はどうしようもない。しかし人間の境界領域になった存在は何かに気づいたのだろうか。
 
 
アンニュイ・オブ・ザ・デッド…
 
 
致死的な手持ちぶさたであったそれ、とてもすてきな倦怠感であるというでっちあげでしばらく人間界でかつては沈潜したけれどいまはもう違うなにかに漠漠と点滅したり気化したり沈下したり蒸発したりしているもの
 
 
身体中から血液が抜けていて力がはいらないことから発生するけだるさ
 
もう人間に戻れないという感情
 
人間から見捨てられたというよりは世界から見捨てられたという感情
 
自分の名前を思い出せないことによる無力感
 
不死(限定条件つきの)であることからわきあがる感情
 
あらゆる喪失感に苦しめられている状態
 
異臭のような死臭のような、というか死臭そのものに麻痺していく自分の感情
 
また人肉を食べてしまったということからわきあがる感情とそのことをすこし後悔する感情とそれにほとんどなにも感じなくなりつつあることを自分で認識しているときに自然に口腔からでるゲップ
 
人間を憎むことよりも人間に食欲を感じてしまうところからわきおこる感情
 
ゾンビには感情などないというゾンビ研究者とゾンビ映画監督へのあきれはてた想い
 
アウトブレイク後の荒廃世界を普通に感じすぎることにあらためて気づくこと
 
アウトブレイク後の荒廃世界を普通に感じすぎることにあらためて気づいたことをすぐに毎分忘れてしまっていることにあるとき一瞬だけ気づいたときに心身が包まれるある動き
 
自らの肉体の急速な変化に困惑している状態からすこし落ち着いたときに突如自らにわきあがる感情
 
完全なゾンビ化をやっとまぬがれたという時間からすこしたって感じる人間でも完全なゾンビでもないという中吊り感
 
不死なので自分はあまりにちっぽけな存在だとずっとずっと感じ続けないといけないということから自然と生じる絶望
 
これだけ絶望してるのに自殺できないことから生じる感情
 
隣人の肉を切望してはいけないという戒めによるつらさ
 
無駄無駄無駄無駄無駄とさえ感じない仲間のゾンビに気づきをうながすことさえ無駄と感じるゾンビはなんとアンニュイな気分だろうと勝手に想像する自己中すぎる人間の都合
 
人間を混乱させてはいけないというつらさ
 
早く走れないはずなのに全力疾走して人間を追いかけてるゾンビ仲間をみたときの不公平感からわきあがる感情
 
ゾンビに理解のない愚かなティーンエイジャーをまたぶち殺してしまったが、どうせ殺してしまったのだし食べるしかないかというときのやるせなさ
 
人間から逃走できないとわかったときの無力感
 
ゾンビ登場後の世界においては親しい人を喪う悲しみを二度経験する人間の立場をゾンビはわからないだろうとする人間の想像力の無さに接する半ゾンビの感情
 
ゾンビ登場後の世界においては親しい人を喪う悲しみを二度経験する人間の立場を老人はわからないだろうとする人間の想像力の無さに接するときの老人の感情
 
郊外的で人種差別的だと断定されるゾンビに反論できない仲間をみるときのけだるささえもない感じ
 
超やる気ある仲間ゾンビについていけないというときの感覚
 
ゾンビを飼育する人間のうんざり感
 
群衆行動するゾンビと距離をおくゾンビのどっちつかずの感じ
 
ゾンビの本質とは全員が平等で群れてしかも自由であることという人間側のゾンビへの勝手な理想のおしつけに対してリーダー格のゾンビは反感など感じもしないが、その理想のおしつけには少なからぬ不快感を感じるリーダー格ではないゾンビの感情
 
すべてのゾンビの行動に対応する人間の行動が奇妙な儀式の守護者になってしまっているさま
 
ゾンビサポーター(人間)のワークショップ会場でそこの黒板にYOU ARE NOT ALONE と書かれてるのをみたときにわく感情
 
ゾンビゲームをプレイするゾンビを看過するときの想い
 
ゾンビを飼育する人間を説得できないときにわきあがる感情
 
ゾンビ映画をみれるまでに回復したと人間側にジャッジされることのやるせなさとほのかにわきおこる殺気
 
食人音にへきえきするさま
 
人間の老人の加齢臭に辟易しつつも人のことはいえない気がする徒労 
 
死体に対する性愛を行ってはいけないといわれても死体には愛などもはや感じないということを直覚したときに現れるなんともいえない感情
 
マイノリティを擁護する人間たちのうざさから逃れようにも早く走れないもどかしさ
 
腐食する音の瞬間を聴いてしまうような感じ(微弱地震が常にあるかのように感じてしまうのに近い感覚)
 
撃たれる側になってはじめてわかる恐怖以外の感情
 
遺体安置所があまりに多過ぎ、その周囲で一服するゾンビの微妙な感じ
 
理不尽過ぎる運命に完全な無力な自分という感覚を覚えるゾンビ
 
ゾンビを飼育する人間や集団に対してもっと別なアプローチがあるだろうといいたいが、しかしそれをこちらから提案することもできないもどかしさ
 
失われた人間だったときの記憶をとどめようと色々なものを集めてしまう自分に嫌になる感情
 
失われた人間だったときの記憶をとどめるために人間とのつながりを欲する自分への疑問
 
群衆になれないゾンビの孤独の裏路地
 
なんでもかんでもすぐ忘れることにある瞬間気づいたときにわきおこるすべて
 
なんでもかんでもすぐ忘れることにある瞬間気づいたときにわきおこる多様で微細な感情について感じなおしているときにまたすぐなにを感じなおしているかも忘れてしまいしばしぼーっとなっているさま
 
ゾンビが警察官をみたときにわきおこる感情(ゾンビは取り調べされない)
 
ゾンビゲームで人間とは違う反応をしてしまう自分がもういままでのようなゲーマーではないことがわかってしまったという遠くまできてしまった感
 
目と耳では目が先に腐っていくというゾンビは耳がよいと勘違いしている人間のさま
 
ゾンビを養子にしてそれが認められるが、その養子をいじめる人間に対して、養子になったゾンビが自らを地下室に監禁してくれと願い、そうしてもらったゾンビが地下室生活で日常的に持つ感情
 
ゾンビ化=忌まわしき放浪=地獄が死者で溢れているため死ねない=しかし二度死ぬときのループ全体からにじみでるもの
 
HOWTOビデオ『ゾンビ学入門』で学んださまそのままで立ち向かってくる人間にまたかよというゾンビ側の感慨
 
ゾンビといえばブードゥーサウンドみたいなステレオタイプにやられるさま
 
撃たれるということが状態になってしまった、新たな戦場での日常でまといついているあらゆる感情
 
ガビガビな音聴いて感じるわが身の皮膚感覚
 
ゾンビがパントマイムしてる・・・・・とおもって近づいたらゾンビだった
 
人間がパントマイムしてる・・・・・とおもって近づいたら人間だった
 
人間がパントマイムしてる・・・・・とおもって近づいたらゾンビだった
 
ゾンビがパントマイムしてる・・・・・とおもって近づいたら人間てことはないよなあと思ったら、やっぱりゾンビで、そもそもパントマイムってなに?
 
ゾンビ特有のやさしい静けさ
 
テープスピードを落とした音を聴いたとき感じるわが身の皮膚感覚
 
自らの身体が発する異臭に麻痺しながらも、ゾンビ化を進行させないサプリを摂取した後にまた強く感じなおす自分の異臭
 
動作が緩慢でかつしゃべれないということから生じるある感覚
 
ヴァンパイアアンニュイが、人間がヴァンパイアになれたとしてもそれは新たな格差社会の底辺に参画するに過ぎずそこではじまるあらたな憂鬱な日々というようなものであるのに対し、ゾンビのアンニュイは無能な消費者や単なる意思のない労働者という存在ではない、永遠の宙吊り状態を懸命に生きているなかでうまれる感情とされるようなそんなロマンに対し、ゾンビ特有の時間感覚の麻痺を理解していないよなちっともと麻痺した身体でときたま想うこと
 
サンプリングされた音を加工する過程でここは剥がさないとなとかつて人間である自分が感じたものが自身の現在のゾンビっぽさと通底し過ぎていることにがっくりくるもそれさえもすぐ忘れてしまうこと
 
ゾンビとゾンビの悩みや苦しみとの間に形成される保護皮膜
 
重要な役割をもつリーダー的ゾンビやエリートゾンビだけが感じる感情
 
ゾンビ特有の感情の硬化、怠惰、醜い無関心
 
ゾンビが興味を持つ物音で踊らせてやろうという人間なのにゾンビDJを自称するやつをみたときに踊らせられないゾンビが感じる徒労感
 
具体的経験をなにひとつ蓄積しないゾンビ特有の感情と勘違いされているもの全般
 
具体的経験をなにひとつ蓄積しないだろうゾンビ特有の感情と勘違いしている人間の、しかしあなたたちを理解しようとしてますよという面にゾンビも人間も一瞬抱く感慨
 
虐待される児童と虐待されるゾンビの出会いとその友愛が長く続かない理由をおもうときにわきあがる気持ち
 
ゾンビの日常生活において食人性を失わせるなんらかの感覚を発見してぬか喜びするがけっこう手遅れだとはっきりあとでわかるときのあの感じ
 
スーパーマーケットでの人間のゾンビ化におけるステレオタイプ全般から逃走したゾンビに気づいたときのほんのすこしだけ新鮮でしかしそのあとの徒労感が混ざった感慨
 
ゾンビが走ることを覚えたという事実にきづいたときのあの感じ
 
自己を検証する意識を持たない存在特有の晴れやかさ
 
ゾンビバスターズに特定の人間の抹殺までどさくさで頼む人間のどさくささにうんざりしているゾンビの感情
 
ゾンビの飼育化とゾンビを鎮静化させる音がうまくかみあってないさま
 
ゾンビてんでんこ
 
トマトキラー遊びをひとりでまたしてしまったという無為な感じ
 
威嚇するだけのゾンビの無知っぷりこそゾンビの最低条件と語る人間のおろかさとずっとつきあっていかないといけないとわかったときに生じる感情
 
悩むゾンビなどおもしろくないという人間の勝手な主張にへきえきするゾンビが日常感じる喜怒死哀亡楽
 
具体的経験をなにひとつ蓄積しないゾンビと具体的経験をなにひとつ蓄積しないようにおもえるADHDとの類似とそのとりかえしのつかない青い痴呆
 
悩むゾンビなどおもしろくないというゾンビ専門家がつくった架空のゾンビ映画リストを回し読みしたゾンビたちがかわすなんともいえない目線
 
ゾンビホームレスの常態化という語の矛盾と省みられ無さ
 
第一感染者(汚染)>第二感染者(噛まれた人)という緊急時の差別など意味ないねと思うゾンビ側の感慨
 
第一感染者(汚染)>第二感染者(噛まれた人)に拘泥に象徴される人間のしがみつきたさを憐れむきもちとそれから解放されたという気持ちが交互にくること
 
おそろしくいいかげんで無防備すぎる廃棄物にときに宿るなんらかの切実さ
 
ゾンビが持つ絶望感とおりあいをつけるための建設的方法をゾンビ自体が考えないことが発生させる徒労感
 
人間たちの脳を食べるとその被害者たちの思念が自分に流れこむことから発生するさまざまな感情
 
人間たちを食べると視界がよくなると信じていた人間がそれを確かめられないことを知るリーダーゾンビの孤独
 
ぬるすぎるブラッディマリー
 
骨を俳句に詠むことができない西洋人にうんざりする東洋人のゾンビ
 
ゾンビの鼓動=音圧のない四つ打ちキック音という誤解
 
意識を持ったままゾンビ化することがさも珍しいかのように言われるが、まったくすべてを忘却できないゾンビの苦悩もある
 
ナイトマーケットでゾンビ化した家族を見つけて連れて帰るが別人だったときの感慨
 
ゾンビになると多くの苦痛にみまわれるがその一方でいろんなギフトにも恵まれるという事実に気づいたゾンビと人間の間に生じるあの感じ
 
ゾンビになると多くの苦痛にみまわれるがその一方でいろんなギフトには実は恵まれているということなどまったくないことにも気づいていないゾンビを安全地帯から眺めている人間の油断を発見する一部のゾンビに一瞬だけわき起こりすぐ消滅する感情
 
完全なゾンビと半分ゾンビと死にかけのじーちゃんが一緒に旅をするときに生まれるある感情
 
骸骨祝祭のリズムに乗り切れない非西洋ゾンビの憂鬱と逃避
 
塩を食べさせると自分が死んだ事を思い出し墓へ帰るゾンビの習慣にああぁあとなる感じ
 
ゾンビが自警団を組織しているのに驚愕するやつらにまたかよ!というゾンビの諦めとたんたんとした殺戮
 
孤独と群衆のあいだの可動的境界線であるという雑多な議論に似た雑多に荒廃するゾンビの内蔵とリンクしないゾンビの感情の過疎
 
ゾンビ映画を大いなる西部映画の歴史ととらえる人間たちの輝く瞳にうんざりするさま
 
アンデッドたちが心を取り戻していくさまざまな方法をゾンビ仲間たちと議論できない無力感
 
朝4時のロマンティック・アゴニー
 
飛んだり跳ねたりするゾンビになったときの全能感後に訪れる感情
 
冷麺好きなゾンビに共感しているがそんなに日常的に冷麺は食べないという現実
 
ゾンビが負けるということはどういうことかという果てしない議論
 
群衆浴とそれとセットの愚かな感情
 
ゾンビに英語でおkと伝える人間の愚かさにぐったりするゾンビ
 
遺骨を自己のアイデンティティに組み込むあらたな西洋のゾンビのハイブリッドな感情
 
集団感染後発症までの短期間に生じるテレパシーを後に懐かしむこと
 
集団感染後発症までの短期間に生じるテレパシーを後に懐かしむことなどできないんだなあとゾンビを時間をかけて殺すときに数瞬わきおこる感覚
 
隣のゾンビ・・・・という語感
 
死人の真似をしろと人間にアドバイスするときの笑ってしまう感じと悲しい感じ
 
工場と大砲のあいだ、スーパーマーケット音とゾンビ狙撃音のあいだにも花が咲く
 
ゾンビを使った新たな娯楽や見せ物は無賃労働であると思う結束できないゾンビのすぐ忘れる徒労の舞夕方のループ
 
あったまったゾンビールを飲んでもはやげっぷさえできないさま
 
元人間?あぁ?元人間?元人間
 
ゾンビだけが受け取れるギフトである忘却と疲労と諦め
 
他の種への責任を放棄できつつ死ねることの解放感
  
剥脱していく皮と剥脱していく感情