映画音楽急性増悪 第13回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」。第13回目の更新は『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』(デヴィッド・ロウリー監督)、『スキン〜あなたに触らせて〜』(エドゥアルド・カサノバ監督)、『ハウス・ジャック・ビルト』(ラース・フォン・トリアー監督)などを中心に映画における、奇形、変異、架空の症候群、創られる病、幽霊と建築について。

第十三回 奇形と創病と建築




文=虹釜太郎


 
今回の原稿は昨年末に書きはじめ、当初は「創病」というタイトルにしていたが、この三ヶ月間のあまりの状況の変化のためタイトルを変更した。
 
raveの語源。自らに嘘をついて盛り上がる会合。仮面をつけての奇形の歓迎。
 
『スキン〜あなたに触らせて〜』(2017年/エドゥアルド・カサノバ、以下、『スキン』)の劇場公開記念グッズは、悪魔の辞典ではないけれど、現在この世界で映画とされているものについて、映画にどんなに愛があろうとも別の形での悪定義を施した小辞典がよいだろうか。そこではソースミュージックとアンダースコアについても物語音楽と非物語音楽についても映画音楽についても映画監督についても音楽監督についても別の定義が並んでいる。
『スキン』の世界のほとんどが紫とピンクの往復であることとここでの音楽のほとんどが極めてわかりやすいものであることは、人々がまだこの鼻行類世界に慣れていないから、というより人々は数個以上の奇形と創病に耐えきれないことを了解し過ぎていることをあらかじめ見切っている優しさだからだろうか。上記の小辞典の書き手にとっては、そんな優しさに違和感を感じるどころか、そもそも奇形に苦しみぬく彼らがまったくもって固定されきった建築物に居住し続けていること自体を批判するかもしれない。なぜ彼らはラース版『王女メディア』の「布の家」に住めないか、なぜ彼らは『生きものの記録』(1955年/黒澤明)の焼け跡からの手作りの家に住めないのか、なぜ彼らは『めざめの方舟』(2005年/押井守/*これは映画ではなく愛知万博の映像作品だが)の人間たちがいなくなった世界に隠れられないのか、などを問うことは完全に無意味だが、映画内で肛門が口にある彼らが住む家はスイティエン公園や最果タヒホテルやフォレストスパイラルに毎日無理やり住まわせられるくらいに馬鹿馬鹿しくひどい。そもそもなぜ養老天命反転地やフラー建築に我々は普段住んでいないのか。人間のほとんどすべてがあまりにも変わりたくはないことについてのかりそめの建築映画群のまとめについてはまだまだ混乱が足りない。
『スキン』のようなコメディ?について少しでも考えてどうするのかという映画好きは多いと思う。しかしこの笑えなさは重篤だ。奇形は現実世界では敬遠され、映画の世界では歓迎される、というわけではないということへの道を示しているのか。そもそもいつから映画に奇形が出現しなくなり、創病に取り憑かれた映画監督はいつその憑き物が落ちるのか。
 
創病は、現実世界からも映画世界からも外にある視点である。
 
誰にも似ないかたちで創病に取り組んだかもしれない映画に『ウラーーー!』(2011年/チェ・ジョフン)がある。狼男ドキュメンタリーでもフェイクドキュメンタリーでもモキュメンタリーでもなく、現実拒否でも状況適応でもなく、男は月を見つめ、月は男を照らす。
 
奇形と創病に取り組もうとしたわけではないが、取り憑かれてしまった映画監督には、言うまでもなくクローネンバーグが存在しているが、そもそもまだまだ映画の世界は創病不足極まりない。
 
『スキン』でのBDDI(身体完全同一性障害)ひとつとっても、それをこの世界に召喚するにはいくつものわかりやすさが必要とされてしまう。その慢性的な創病不足とそれによるあまりにもな鍛錬不足と鑑賞不足が『スプライス』(2008年/ヴィンチェンゾ・ナタリ)のような映画を生んでしまう。『スプライス』の一体何が壊滅的だったかについては『スキン』との比較の上での大規模な検証が必要なはずだが、そんなエネルギーは映画サークル内の何処にも残っていない。それにしてもエイドリアン・ブロディは奇妙なアクターだ。戦場のピアニストからのプレデターズの時空を超えたソルジャーからの『BACKTRACK』(2015年/マイケル・ペトローニ/*『心霊ドクターと消された記憶』これの邦題はあまりにひどくないか)。『Harrison's flowers』が『戦場のジャーナリスト』(2000年/エリ・シュラキ)にされてしまうのもひどい。エイドリアンは2009年に『スプライス』『ジャーロ』(ダリロ・アルジェント)『ファンタスティックMr.FOX』(ウェス・アンダーソン)に出演しているが、この仕事の選ばなさとは。
 
『遊星からの物体X』(1982年/ジョン・カーペンター)をはじめあらゆるエイリアン招来映画ではない日常から創病があってほしいという観点では、『ハプニング』(2008年/ナイト・シャマラン)はいまだ観る度に可能性が吹いている。
 
『快楽の漸進的横滑り』(1974年/アラン・ロブ=グリエ)における司法組織(「通常」のストーリー)とアリス(横滑りダイナモ)の対決や追跡や逃走も、『スキン』にはない。『快楽の漸進的横滑り』のような、司法組織はアリスになりたいか、アリスは司法組織になりたいかを自問したり、お互い問い詰めあうことは『スキン』ではあらかじめ剥ぎとられている。治せる奇形だから治してくれは嫌だ、奇形が好きだから君を好きになったは嫌だという会話はあるが、お互いが問い詰めあい、手術自体や住居自体を撃ちあう契機もなく、そこで破綻する画がなんらかのおもしろさをもたらすこともない。奇形と創病と変異。あらかじめ奇形な者の変異はこの映画には訪れない。変異というからには自らの意思でなく強制的ななんらかの力が必要である。では創病する立場は変異をどう考えているか。創病する立場の存在がフィクションにはまだまだ足りな過ぎる。
 
創病する立場の存在は、あらかじめの奇形には興味がないということ。しかしこの世界自体がもはや創病する立場からも見捨てられた存在だと考える時、奇形とは何なのか。
 
クローンの脅威を声高に叫ぶわりには自身らがクローンそのものでしかない多数派の通常種の暴力と暴威がまったく減る気配のないこの世界で、通常種が長年に渡って培ってきた詐術と処世術とレイヴの語源のような習慣によって常に遠ざけられるものとは。
 
奇形と創病でなく、変異に、とりわけ同じことが別の場所で何度か起きればそれはどういう変異を発現するかに極めて取り憑かれた映画監督にリチャード・リンクレイターがいる。
リンクレイター監督作品がどれもこれも映画の中における音楽のあらゆる効果を極めて信用していないように感じられるのは、変異の観察にそれが邪魔だからだ。
音楽を邪魔とするリンクレイターとブレッソンの比較を専門家たちに改めてお願いしたい。
 
『スキン』を観る時、わたしたちは自然とおじさん、またはおばさんの視点でこの映画を観るように強いられているかもしれない。親、子、恋人の視点で見ることを遠ざけるように作られているこの映画から逆に改めて新鮮にみえてくるおじさん映画、おばさん映画とは。映画の観客がかつてない同期性を求めむさぼりまくっている現在では、そう強いられ過ぎている現在では、そこでおばさんの視点、おじさんの視点での映画ばかりを集めた映画祭と映画語りが足りない。
 
『スキン』の世界がピンクだけの世界に住むことから解放されるにはまだまだ時間が必要なはずだが、どれだけ時間かけても無駄かもしれない。奇形をなくそうとする現実世界に映画がどう接していくかは、今後、映画を大切にしない場所で改めて問われる。既に誕生してもう長い時間がたっている遺伝子を改変された人間たちの数が一定数を超えた時に世界がどう変わるのかの映画ではなく、映画自体が映画がまったく大切にされない健常遺伝子ファシズムのリズムだけが鳴る世界でどう変わるかについて、そんなものは絶対に変わらないでもそうでないでも、通常種が長年に渡って培ってきた詐術と処世術とレイヴの語源のような習慣は再度問われ直す。例えばcovid-19の現状を伝える際に検閲を逃れるために確実に伝えるために映像や会話を偽装する際に、チリの軍事政権下のラウル・ルイスの作品や、ソ連崩壊前夜の映画作家たち(アレクサンドル・レクヴィアシュヴィリ他)の作品に日常的に馴染んでいればまた違う世界が開けていく。
 
 
「味わいのある」建築が現れたから音楽もつけてしまう、ある「味わいのある」建築が現れたから音楽などいらない、が共に消滅する世界、そもそも「味わいのある」建築を作りあげる際の節度と映画音楽どもの抑制についても、それら「味わい」たちについてのミーハーな賞賛や手放しの絶賛以外の冷徹な時に無謀な論がまだまだいくつも必要である。ブレードランナー読本的な類いの本でいちばん残念なのはなんと言ってもそれらの不在だ。ナチス映画読本などにおいてもナチス時代の建築を再現する際にその再現にどのような批評が忍ばされたか、まったく足りなかったかについてももっと考えられるべきである。ナチスと建築については、廃墟価値の理論(Ruinenwerttheorie)のシュペーアとテセノウの二人に焦点を当てた映画が早く作られれて、それらについての議論が待たれる。
 
『スキン』においては、そこに監督でも製作者でもなく透けすぎる陰の存在としての怪物収集家があきらかだが、そんな収集家から奇形である彼らがいかに見つけられなくするか、いかに遠ざけていられるかの意識があれば、彼らがなんの理由もなく公共の暴力空間に置かれることから起きることが物語を駆動するのはあまりにご都合主義で、彼らがあのような空間に住んでいるのも、空間空間…と安易に場を捏造する傲慢で浅はかな怪物収集家が透けているということもあきらかになり、映画はまったく違うものになったかもしれない。映画の世界でいかに怪物収集家の輸出入が安易だったかを指摘することもまた映画批評家の仕事のひとつだと思える。
 
 
幽霊と建築の場合はどうか。幽霊の立場にたてば(定期的に幽霊の立場にたつべきであり、そして立場の語源についてとその翻訳についても疑わなければならない)、リノベ、新築、自治体主導、補助金…それぞれの場合の幽霊の入りやすさ(すなわち映画の撮りやすさ、作りやすさ、作るきっかけの多寡)について考える必要がある。自治体主導と幽霊、補助金と幽霊、なんとまあ馬鹿馬鹿しい文字の羅列だろうか。自分で並べてぐったりして、しばらく散歩していま戻ったが。
 リノベ、新築、自治体主導、補助金…それぞれの場合の幽霊の入りやすさ、もちろんそこで幽霊が入りにくいほどに、映画が作りにくいほどに、ひじょうに安易に音で突破する、というと聞こえがいいが実際には音でごまかしまくる局面は増えていく。その開き直りの歴史が長過ぎて、その看過のひどさは呆れかえるほどに磨きがかかっている。
 
『幸福都市』(2018年/ホー・ウィディン)の随所に見られる建築たちのあまりにもな「味わい」の無さで映画が撮り終えられてしまうなかで、これらの建築がどのようなかたちでその地につくられたかの思考がたとえば映画批評にはあたり前に必要である。味わいのある建築物に頼った映画群のノスタルジーの病いについては考察する必要がない。そんな映画は無数にあり過ぎる。そしてそんななか忽然と音もなく『A GHOST STORYア・ゴースト・ストーリー』(2017年/デヴィッド・ロウリー)は現れた。
 
 
映画という「娯楽」に必要な奇形建築について考えることと、たとえばみかんぐみやそれ以降のカムフラージュアイデンティティな建築がどう映画と関わっているか、もしくは敬遠されているかについて考えることはなかなか両立しない。みかんぐみやカムフラージュアイデンティティやさらにそれらの模倣や模倣ですらない建築と幽霊の映画に対しての安置房にどれだけ幽霊が居やすいかの映画。
そこでどう幽霊が登場できるか…
安置房とベーシックインカムと幽霊について表だってそれを描かないが、しかしそれらについて強く思索の機会を与える建築映画は今後いくつか作られるかもしれない。かつて『第九地区』(2009年/ニール・ブロムカンプ)の続編は建築映画になると思っていたけれど、そうはならなかった。素材には素材の意思があるを思索していく映画作家になると思っていたが。
 
建築家の個性をいかに脱するかということが映画ではどういう意味になるのか。 
もはや建築しない建築家という問題とそんな状況のなかでの映画の中の幽霊の困難さとそれが基層になった世界での幽霊映画の製作の困難さに、複数の階層から一気にいらつきを示す映画とはどんなものだろうか。
 
『ハウス・ジャック・ビルト』(2018年/ラース・フォン・トリアー)と『パラサイト』(2019年/ポン・ジュノ)という二本の建築映画に対して、日本ではどういう建築映画が近年あったのか。それは『未来のミライ』(2018年/細田守)なのか『ロスト・エモーション』(2015年/ドレイク・ドレマス)なのか…いや…
『パラサイト』について韓国における建築法改正による地下施設設置の義務付けから2020年でちょうど半世紀たっていることについて詳細に論じている映画語りは見かけないが、… そして日本ではリノベで活性化してもしなくてもそれらの場の限りない薄さを切実に描いた映画たちとは…… 
 
『ハウス・ジャック・ビルト』。
この映画について作曲家を目指しながらもほとんど作曲をしなかったグールドと建築家になれなかったならなかった技師の問題だけを執拗に論じようとする人はいないだろう。
次に作曲が困難だがジャチント・シェルシのようにあり得た方法群と建築が困難だがいくつもの工夫をした技師やその他について論じる人もいないだろう。
監督本人にきいたところでまともな答えなど返ってくるわけがない。ラースをいつまで二本足の太ったスフィンクスとして君臨させておくつもりなのだろう。『ハウス・ジャック・ビルト』においては、もっともっと「わたしがピッツァを食べるのに」みたいに正攻法でない介入をいくつも試みるべきである…と言ってみても空虚だ。正面から立ち向かい続ければ閉じた想定内を言い張る迷宮、映画内対話のバリアに取り込まれてしまい、その多くは無効化されてしまう、と言っても意味がない。
湖畔のほとりに理想の家を建てようとするのでなく、リノベに集う幾多の希望者たちを執念深く、しかし粉々に砕ききる、そしてその場で殺すだけではなく時間差で殺してゆく、建築しない建築家の新たな殺人鬼が映画には必要である、と言っても虚しいだけ。
 
しかしその前に、攻撃を誘発する建築とは何なのか。凶悪犯罪を誘発するロケーションと設計についてもっと注目せよと主張する者は少ないが存在する。結果的に攻撃を誘発することになる建築物については現実でも映画でもまとまった考察が必要なはずだが、それは映画批評家の手には追えず、映画についての話ではなくなる。
 
時間差での殺戮について意識が働かない殺人鬼が閉じ込められている場所とは…
 
犯罪計画を執拗に練ったことすらない飛べない正義の味方たちにそれらについて多様に論じろというのは無理がある。映画はそんな正義の味方に無意識のうちになってしまっているものたちに分析され続けているくらいの集合知の発表会場程度のもので大半は今後もあり続ける。そこでの最良の観方は正義の味方のゲームに付き合っているに過ぎないものたちを満足させる。がそれ以外の意味はあるのか。犯罪計画者の観方が常に気になる者は映画語りゲームからはあらかじめ脱落どころかそもそも脱輪している。時間差で殺していく悪役は人間ではないことからもはじめなければならないし、その萌芽は過去のどのような映画のどこにあったかと問うことはどうやら映画語りにはまったく関係ないことのようなのだ。
 
グールドの「副作用」の解毒剤としては何があるのかと考えても無駄である。
グレン・グールドタイプ、ミルフォード・グレイヴスタイプ、クセナキスタイプ、オーネット・コールマンタイプ、それぞれのタイプの犯罪者ごとに映画も音楽も当然にあり得るが、グールドタイプは殺人の歴史を踏まえた上で完璧主義ゆえに殺人の創作に向かえない?殺人の創作の完遂においては、殺人という行為自体が消滅することを含む。グールドが執拗に弾いたバッハ以外の作曲家たちを再び聴き直すようなことが、ジャックの建築においては必要だったわけでもない。意味がない。
ジャックは執拗ではあるがまだぜんぜん探求が足りない。そのぶん音楽班の仕事は楽になる。彼らの仕事を楽にさせてはいけない、というのも余計なお世話だ!
 
理想の建築に付随する殺人、個性を幾重にも剥奪された屋台の元締めの息を止めるために付随する殺人…あまりに前者のような作りが多くないだろうか。しかし後者を讃えたいわけではない。それらの多くは杜撰なヒーロー映画の塗り絵にしかならない可能性が極めて高い。やはり殺人者たちへのインタビューがまだまだ足りない。しかしそれらが足りなく、かつ得られたものもまだまだ物足りないことについて『ハウス・ジャック・ビルト』は最初からあからさまにしているわけではない。
だからこそ絶賛してる場合でなく、映画を論じたつもりで終わっている場合でなく、なぜ殺すかの広義のインタビューの圧倒的な不在を強く痛感するべきなのだ、と憤ることさえ無効化されている。
ここでまたしても当事者性の問題が出てくる。ラースは映画の観客を掘った穴に次々に放り込む。
その穴のロケーションがそのまま映画になってしまう事態。
ラースは、暴力性をどう制御するかの技術的工夫について、凡人や知識人や犯罪者も含む人たちによるそれら工夫について、それらの工夫を粉々にしていく小さなスフィンクスである、と言っても意味がない。
無視したり、好みではないというのは自由だが、今後も上記の良心ゆえ、倫理ゆえの工夫は閉じた画面のなかで蹂躙され続ける。残念ながら、でもない。『スタンドアップ』(2005年/ニキ・カーロ)という映画において、その邦題に込められたような希望も含む弛緩らはこのような映画の前ではすべて灰燼に帰す、というのも的外れだ。
ラース、ハネケだけではない、ダルデンヌやワイズマンまでを含めたつけこまれやすさ映画祭的なものが必要なのだが実現はしない、と迂回しても虚しい。しかしまた、つけこまれやすさとはまた、なんと人間中心の認識だろう。
 
素材には素材の意思があるを徹底していけばあらゆる批評が崩壊するかもしれない。しかし暴力の制御の工夫をしないことと素材の意思を自動化することは関係がない。なにを素材とするかで視点は変化する。そしてそこにおいて、困難だが、まだ映画の音には可能性がある、と考えるのも違う。
 
第三のエピソードではサイコパスのステレオタイプが嘲笑われ、第二のエピソードでは潔癖症が虚仮にされる。
 
ジャックが最下層の二つ上というところまで過大評価されていること、橋が破れる前は最下層で上に戻れた時があったということで地獄はいつ破れたのかということが気になる人はいるだろうが、その問いにはしかし建築が関係している…わけがないだろう!
ヴァルジを幽霊と言うのははっきり適切ではないが、彼がジャック相手ではなくかつて困惑した相手や苦戦した相手を、そんな彼らの時間を描いた作品の方が観たい。
あらゆる批評を遠ざける外殻をさまざまに纏う技に長け過ぎた似非建築家である監督に対し別のデカローグをでっちあげるには…
 
『ハウス・ジャック・ビルト』は、創病映画ではないが、しかし広義の詐病に我慢がならない映画である。そして地獄の手抜き建築にも。
あらかじめ廃墟になりやすい建築物と地獄の手抜き建築については、あらかじめ廃墟になることを前提とした設計で著名な建築家を含む建築家と建築しない建築家へのモニターが必要である。地獄の手抜き建築(この映画内での具体的造形はかつてリカルド・クレメントらが隠れ住んだアルゼンチンのある建物を思わせる)については、そもそも既存の映画史自体が手抜き建築史そのものであるとの重ねあわせでビデオエッセイでない動画が日本以外の場所で様々に現れてくるはずだ。
シュペーアが主役の建築映画が撮られることを強く希望する。
 
物件を物語にということどもが蔓延しきった世界において幽霊がどう侵入できるのかについては、その幽霊の当惑自体を映画にすることは今後もあらゆるかたちでできるだろうが、その場合にはロケハンとポスプロでの音響担当者との事前打ち合わせはほとんどありえない。しかしわたしはそういうことをやろうとした監督がいたことを知っている。その監督は残念ながら他界してしまったが、その監督がやろうとしていたことは後にデヴィッド・ロウリーが秘密裏にルーニー・マーラとケイシー・アフレックを伴い静かに遂行したことにも似ている。この秘密で孤独ながらも孤立してはいない拡大されたあくまで小規模なロケハンにはたしかに映画政策方法の具体的な未来のひとつがある。ロウリーの『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』とジョルジオ・アルベルタッツィの『Gradiva』(1970)を含む幽霊建築映画論はまるごと一冊編まれるべきである。そして『Gradiva』のリメイクはいつできるか。
 
創病映画だった『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』(1970年/デヴィッド・クローネンバーグ)の冒頭の音は、病院建築内の検査機器の残響とそれら建造物すべてが燃える様をふてぶてしく頭から提示したような音楽だったが、そんなこともまとめて忘れられて我々は建築物に住んでいる。そしてそれを見通す主体は複数化していくことにいかに人間たちが無自覚であろうとその流れは止めることはできない。その点において『Dias de Nietzsche em Turim』(2001年/ジュリオ・ブレッサーニ製作)は、真相はいまだにわからないニーチェ最後の日々において彼が獲得したかもしれない複数の未知の世界への接し方を、ハリウッドザコシショウの政見放送ギャグの髭よりもさらにでかい髭を蓄えたニーチェをとっかかりとした未知なる建築映画としていまだ新鮮である。カメラは時に髭の内部から鼻腔内を覗き込む視点をも備え、人体さえも膠着した建築としてばかばかしく写し出す。現在、世界で存在を許されている建築物への言い訳をもっともらしく呆れるほどに数多く言い募る者たち。そんなことがまだまだ長いあいだは続くだろう。そんななかファロッキの後継者たち、そのなかには人間ではないものも混じっていき、その後継者たちがそれら言い訳をまだまだ辛抱強く撮っていく。