映画音楽急性増悪 第12回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」第12回目の更新です。今回は逸話的音楽について、意味が剥ぎとられる過程そのものの音楽について、現地録音そしてリュック・フェラーリやガス・ヴァン・サントらに言及し考察しています。

第十二回 避難訓練




文=虹釜太郎

 
ペレックの『眠る男』の映画化である『眠る男』(ベルナール・ケイザンヌ、ジョルジュ・ペレック/1974年)冒頭シーンは、『ラストデイズ』(ガス・ヴァン・サント/2005年)や『セブン』(デヴィッド・フィンチャー/1995年)冒頭にまでも影響を与えていると感じるが(『ラストデイズ』は「眠る男」の映画だよねと言ったら違うでしょと言われてしまうだろうが)、そもそも『パリの片隅を実況中継する試み』を書いているペレックの映画化はまだあまりに少ない。
 
『パリの片隅を実況中継する試み』における取るに足りない細部を延々と書き連ねるという書くことと現地録音の違い。
 
書くことからそもそもはじまる映画とそもそも録音することからはじまる映画の違い。
 
「取るに足りない細部を延々と書き連ねる」という言葉自体は、翻訳書である『パリの片隅を実況中継する試み』の冒頭に収録されている「ペレックによる実験 - 問題提起の書」にある言葉である。関心ある方は翻訳書に実際にあたってもらえれば。その『パリの片隅を実況中継する試み』内の「ペレックによる実験 - 問題提起の書」における「〈ありふれたものの凝視〉という苦行的経験が観察者自身に対してもたらす影響のほど」における「苦行的経験」は、現地録音者と映画製作者たちにとってはどうなのか。
 
あらゆる行為の不在とそれでも音は在ること。時計を止めることと音楽を止めること。それでも流れている、いや流れているのでなく漂う音とその記憶。時計と心臓。仮死と音楽。仮死状態で聴く音楽である逸話的音感。逃避と音楽。逃避とひとことで言うことの暴力性。逃避と仮死。仮死と多重人格。仮死と分身。
 
少しでも「油断」すると時計の音は刻み出す…しかし刻み出す時計の針の音はだぶっている。
 
そして時計の針の音のダブりがまったくいま不可能である現在での分身の困難について、映画も犯罪学もいまだ鈍感であること。
 
映画『眠る男』はあらゆる未遂を巡る映画でもあり、未遂と分身はあまりに視角だけに頼り過ぎてきた。
 
音楽の未遂たちが、その未遂の主体が忘れた頃にノイズと光と別の何かが、ささやかな歓びに変わる。
 
逸話的音楽の名手であるガス・ヴァン・サントの作品の中でもっとも逸話的音楽が濃厚なのは『ラストデイズ』と『マラノーチェ』(1985年)だろう。
『ラスト』では主人公の死の前後、『マラノーチェ』では金を奪われるシーンまで冒頭からずっと続く汽車と鐘の音とそれにあわさる音たち。
 
そもそも逸話的音楽とは何か。
 
間違った解釈をするのは、その者があまりに無知であり、ただただ不勉強に他ならない、間違った解釈をする者はもっともっと勉強しろと。
 
作曲家の鈴木治行は「映画芸術1997年夏号」において以下の貴重な指摘をしている~

具体音を手中にした作曲家達の多くは音の固有の意味性に注目するよりはその純粋な音響の面白さの方にひかれたようで、例えばユピック・システムを開発する以前のクセナキスのテープ音楽では、たとえ炭火のはぜる音やラオスの笙の音を素材に用いていても、それらの音響はクセナキスの意のままに捩じ曲げられ幾層にも重ね合わされ、最終的には音響それ自体の物質的強度からある種強烈な表現性を獲得していた。ここにおいては、具体音はクセナキスの頭の中のイマジネーションを具現化するための素材に過ぎず、その音に元々付随していた意味性は排除されている。一方フェラーリだが、彼は音というものがそれの属している文脈の中で初めて意味を獲得するというそのありように極めて意識的だ。鳥の囀りや船のエンジン音がそれだけで独立してあるのではない。その音響の属している「場」(とは極めて社会的な存在であるはずだが)の中でこそ、音は固有の意味性を開示する。だから、彼は鳥の囀りや船のエンジン音をそれだけで切り取ってくることはせず、その「場」もろとも持ってくるのだ。ちなみに、サンプリングとは「場」を徹底的に切り離してしまうことの暴力性そのものなのであって、その意味でフェラーリの行き方の対極にあるといえる。フェラーリの数多いテープ作品の中には、現実音を録音してきただけで殆ど加工していない、というものもある。「プレスク・リヤン」のシリーズなどがそれに当たるが、録音技術が誕生して以来、音楽の分野でこういう方向が全く発展しなかったのは実に不思議だ。録ってきた音をそのまま聞かせるのは作曲家の怠慢である、というような、写真が誕生した時にも言われたような議論が音楽においてはいまだに根を張っているのであろうか。
 
リュック・フェラーリ全集を繰り返し聴いていると、そこには廃棄された生のゆるやかな歴史たちが、時に不埒に漂い、と同時にあらゆる言葉の定義が宙吊りにされていったまま、聴く者は聴く者として固定されないように促されていく。それは聴く繰り返しの最中に時に具体的鳥肌として接触してくる聴き触りの不気味さからもはっきりしているのだが、いまだその正体などわからない。しかしその聴く最中での剥ぎ取られはあきらかにフェラーリを繰り返し聴く動機になっている。
 
  
廃棄された生たちを聴く存在の有り無し。
 
現地録音という場合の録音する主体の特権視という違和感は、場合によっては録音の過程で、その特権は剥がされていく場合もあり、またはなからそのような特権などの主体ではないと自負する者が延々と硬直したコンサートを続けている場合もある。不幸と偶然の両方から遠ざけられきっているひじょうによく出来た音楽。そんな音楽がよく出来ているから、丁寧に作られているからという理由で讃えている人間はまだ世界にはいる。逸話的音楽の可能性はどこにあるのか。それはまったくわからない。
 
現地録音における現地同士が見つめあうような映画は、いかにそこに人が多く映ってはいても、その洗練の具合に差はあっても、過去と未来から発見されるべきだ。
 
ここでフェラーリに代表される逸話的音楽とされるもの(以下A)を前提とすれば、逸話的音楽の名手であるガス・ヴァン・サントとは、これはまったく間違った言葉の使い方ということになる。間違っている、ということで構わない。ではどう言い換えればいいだろうか。中性的な音楽、あらゆる意味を剥ぎ取られる過程であるさまそのものを提示する音楽、いや…
 
 一方で音楽家・音楽研究者であった大里俊晴は、リュック・フェラーリと並んでゲダリア・タザルテスも逸話的音楽として紹介をしていた。タザルテスといえば、なぞり書き音楽であり、そのなぞり書きは自らの声を使ってなされる。その声の多重はあまりに魅力的だ。タザルテスは様々な地域の人間から動物にまで変態していく。そのなぞり書きが、環世界移動を奇跡的にしている稀有な音楽であるかどうかはともかく、タザルテスを逸話的音楽と形容するにはやはり無理があるようにもみえる。間違った解釈と考える者もいるだろうが、大里が「不勉強」ゆえに「間違った解釈」をしたのではないだろう。大里は聴き過ぎたがゆえに「間違った解釈」をしているのか。わたしはこの無理が好きだし、この無理につっこむ人さえ皆無な日本は悲しいが。とりあえずは大里は聴き過ぎたがゆえにそのようにふるまっているかのようだ。この広義での逸話的音楽という少し乱暴な名指しは実際のところは、リスニングだけでなく、日常生活における逸話的音楽のつむぎはじめについても大きな意味を持つ。それは言葉でも写真でも動画でも不可能なつむぎはじめで、大里による逸話的音楽(の拡大解釈)の紹介は何より作品至上主義からの解放をもたらす。それは一部の音楽家にとっては苦痛なことかもしれないが。
 
しかし作品至上主義からの解放とは別に音楽作品、音響作品のことについてだけではない。意味にまみれた世界からの自由や性からの自由や、あらかじめセットされた設定からの解放。しかし解放というと弾圧された世界からの…のニュアンスもあるし、逃走というとおまえはいつまで逃走できるのかこの偽善者めという粘着が湧き、脱出というと…
 
例えば世界中で多くの人が観たはずの映画『ROMA/ローマ』(アルフォンソ・キュアロン/2018年)における「ねえ 死んでるのもイイね」の前後、二人が横たわる前から車のクラクションが鳴る前後までは、自分はそれを録音してありロングエディットでたまに聞き直すが、これは間違った解釈をしているのでなく、単に映画の細部は映画の製作者や間違った解釈を無知とする者とは関係ないところで単に膨張と収縮をしていることでなく、映画の細部ということでなく、切り取られた音は映画からも自由である。これらの遊びは、次に来る瞬間たちを裏切り続ける遊びか、または兆候を読む呪術か、それとも分岐の実践の幼児退行の愚行でしかないだろうか。映画からも自由であるなら、それらのいずれでもない。…しかし、その遊びの後に、その遊びの反復の後に再び映画を観る時、それは様々な枝別れがざわざわときりきりと収縮している瞬間がなんでもない箇所で明滅する。追い越し、追い越される枝たち。そして映画を論じることと映画の可能性と映画の潜在力とこれらの遊びは関係がない。
 
 
仮に大里により逸話的音楽とされるものをBとし、AもBも包含する広義の逸話的音楽群の不気味な広がりをCとし(それはAの立場からは許しがたいことかどうかわからないが)、生活における逸話的音楽のつむぎはじめをDとし、環世界移動をしているような音楽をEとし、映画のなかでその映画内の現実ではないと切り捨てられたものが現実世界に不法に漂いはじめたような感覚を与える音楽または音をFとする。
 映画におけるそれの音楽と音響の独立性があきらかであり、それが映画の映像によるメインのストーリーとは独立して鳴るような音たちのことをGとする。
 
Fは、映画であるシーンにつけられた効果的な、またはそうでない不穏な音楽または音響たちではなく、またある映画で通して鳴る同じメロディが速度を変え楽器を変えてまるでオリジナルのメロディ(初期パターンの速度と楽器選択)では考えられない効果を獲得している場合<わかりやすい例としては『わが青春のフロレンス』(マウロ・ポローニニ/1970年)>でもない。Fの不気味さを複数の人または考える存在に今後あきらかにしてもらいたい。
 ある映画からある音が、CまたはDまたはEとして、観賞後に観賞した者に残る場合は、その映画はいままであまり試されなかったことをやろうとしているかもしれない。
 
Fは、映画でできるかもしれない夢のひとつである。
 
映画においてGの音を作る立場は、映画音楽家や映画音響技術者がそれを兼ねてもよいが、独立してGの音を作る/つむぐ者を召喚してもよい。
『ラストデイズ』における音のクレジットがどうだったかを再度確認してほしい。この映画を複数回観た人でもそのクレジットの微妙さをすっかり忘れている人は多いはずだ。
 
 
Fの映画史については今後詳細に分析されることなどないかもしれない。Eが音楽と映画でどのように変遷してきたかについても。
 
ポランスキーの『反撥Repulsion』(1965年)で主人公のキャロルが道を歩くシーンでの音楽はあまりに【もっとやれ】な音楽に満ちているが(連載第六回参照)、ここでの不自然なマーチのドラム音や街の楽隊の奏でる音楽がもっとやれ化してしまう事態と次々に精神の亀裂が壁の亀裂となってそこで鳴る亀裂音が組みあわさって成立する、映像とは別の組織体(F2)はFになるかはわからないが、ここにはいまだ多くの可能性が眠っている。というのはじゃがいもが毒の芽を吐いてもそれを遠ざけず、常温で腐敗し続ける兎肉料理が放置される瞬間には(腐敗物をなぜ処理できないかについてもっと考えるべきである)いまさらながらポランスキーの観察力の恐ろしさを何度でも実感するが、その腐敗放置はそれにあきらかな音がつけられていなくても、そこには腐敗放置という無関心なサウンドエフェクトがはっきりあり、だめな映画監督はそれに音をつけてしまう。
 
知覚過敏を扱う映画の多くは、個々の知覚過敏に個々の音響の最善という段階にとどまりがちで、そこではF2のようなものをどうするかは今後も課題となるはずだ。これはマニアックな映画の音の話ではなくて、ただ映画を観賞する際にとても重要なことで、もちろんF2的なことに極めて鈍感な監督も多数いる。
 
『マラノーチェ』では、日本語字幕では「愛の難しさ」とされているものの、元の言葉は「ポシビリティ・オブ・ラブ」だったと思うが、「ポシビリティオブフィルムサウンド」においては、過激に大げさにでなく小走りに並走しているような映画における音楽と音響の独立性のささやかなDはなかなか論じられることはないが、またそれを実践する映画監督たちも多くないとはいえ、DおよびFは映画に許された貴重な歓びのひとつである。
 
今後、映画における音において不気味に開かれた感受性をあっけらかんと有する黒川幸則監督がDとFにおいて新たな挑戦をするかもしれないが、それができるかもしれない監督は少ない、というかそもそもそれら危うさに挑める共同作業者を選ぶ、または部外から召喚することすら考えがおよばない監督が大多数かもしれない。上記の言い方には間違いがあり、それは挑戦ではなく、映画製作の過程での監督とスタッフとの対話から召喚するかもしれない兆したちであり、対話という言い方も違う。監督は常に監督不在の映画を毎日追想すべきだが、強い監督たちの多くはそれができず、強い強い彼らの筋力はさらに強化される。
 
一部の人たちがいうところの映像と音が対等の…ということは、現存するほとんどの映画監督は…
 映画のメインストーリーと並走し、支援し、時に的外れなように脱輪し、また並走し、また逆走するような何かがたまに召喚されるかもしれないくらいな…
 
映像と音が対等の…における斬新さや過激さやもうひとつの映画という言い方はあまりに批評家寄りの言い分で、しかしそれらの言い方とは別にF2がたまに試行されることは、純粋に映画体験として楽しい。
 
そんな「映画における逸話的音楽」に対して、『マラノーチェ』が映像で返答したようなシーンが映画中盤の車から追い出し徒歩で捕捉可能な範囲で停止し、また追い出しては停まるという短い場面で、この短いおいかけっこは、映像だけみるとなんということはなくとも、CがあるからこそのそのDは映画史に残る永遠であり、それはまた映画自体の出来栄えとも特に関係ない。
 
 
リメイク版の『サスペリア』(ルカ・グァダニーノ/2018年)第二幕最後の逸話的音楽的音楽(逸話的音楽ではなく)と圧縮は、ひとつの希望を示した。
 
まだまだ便宜上のホラーには意味より発音でつながる方法の模索と、人間が怖がるだけでなく人間以外の感情のざわつき他についての音の馴染み方の乱暴な実験の余地がある。そして馴染むというとらえ方は改めて傲慢だ。
 
これからも実際に普段から音をいじってる立場(音楽家の立場とイコールでなく)と批評家の立場はずれていき続けるだろうと思う。
 
  
向こう見ずな体験の代償と不可能は、その不能さは逸話的音楽(C)でたっぷりとなぞり書きされる。その形式はまさに「最悪の夜」。逸話的音楽が映画に無理やり接続される事態「最悪の夜」=マラノーチェ。その最悪の夜は他のどんな映画たちに見られるかが気になるが、そんな作品はそんなに多くない。通常種の人間の気配とリアリティがいかにつまらないかを毎回毎回気づかせるガス・ヴァン・サントについてはいままでのやり方とは違う批評が必要ではないだろうか。通常の人間たちがどう復讐されるのか、されていくのか、どう見逃されてきたに過ぎないのかについて考えたこともない鑑賞者たちがどのくらい多数なのかはわからないが、常に忙し過ぎる彼らにはそれは難しい仕事なのか。忙し過ぎては分岐の実践の遊びをしている暇もないのかもしれない。ジョゼ・レジオが現在の日本にいたなら遊びに満ちた「映画」雑誌を作れただろうか。次に来る瞬間たちを裏切り続ける遊びがあまりにもない調書ばかりの映画語りが定期的に紅潮してはお互いに頷きあう。もはや映画とは言えないかもしれない別のはじまりは映画館や映画祭で発見されていくのは難しくとも、それが実現しやすい新たな場が用意されるべきであり、疎外されては過剰反応し激しく喜んだり悲しんだりするのでないガス・ヴァン・サントの作品群や繰り返される「散歩」たちについて、また『ラストデイズ』の明らかに映画音楽でない「逸話的音楽」な避難所について、その避難所がどこに開けており、それがいかなるものの過渡期なのかについて、『エレファント』(2003年)も『ラストデイズ』もそのモデルがなんであるかをすっかり忘れさせてしまうその特異な独立性やガスの稀有なるとりあえずはxとyをその環境においてみて、それをしばらく観察する、という映画のふりをした何か別の動きやその習慣、それらが醸成された経緯や動機群、それら運動の余波について、横長の諮問委員会や調書ばかりの語りとは別の場所で違う視点や聴点やまたそれ以外からそれらがより活発に取り扱われることを切に願う。
 
 
最悪の夜の形式。ガス・ヴァン・サントの作品群を好きでも嫌いでも苦手でも、この形式が、映画で扱われている表面上のことを超えて、絶望的な日常をやり過ごすためのある方法として小さな痙攣を苦しんでいるものたちに残し続けるという点で、ガス・ヴァン・サントはやはりその方法の偉大なオリジネイターの一人だろう。