Television Freak 第47回

家では常にテレビつけっぱなしの生活を送る編集者・風元正さんが、ドラマを中心としたさまざまな番組について縦横無尽に論じるTV時評「Television Freak」。連載第47回は、NHKスペシャル『東京ブラックホールⅡ 破壊と創造の1964年』や紅白歌合戦など、年末年始に見た番組について。さらにHair Stylistics 無声映画Live、新春SPドラマ『教場』における木村拓哉の存在について考察されています。
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貧しさと自由の行方は



文・写真=風元正

 
NHKスペシャル『東京ブラックホールⅡ 破壊と創造の1964年』の再放送に見入ってしまった。山田孝之が55年前の東京へ最新VFXで入り込むという趣向の番組である。私は3歳。はっきりした記憶はないが、感触は生々しい。東京中が工事中で、空気も悪く、モータリゼーションの初期、まだバキュームカーが走り回っていた。団地が憧れの的で、祝日は日の丸を揚げ、舗装が完備されていなかった道を雨の日ゴム靴で歩くとドロドロになり、蠅取り紙には黒い死骸がびっしり、夏のおじさんの正装はステテコにランニング、女性はシュミーズ姿、傷痍軍人が物乞いしている街……。トルコ風呂や売血の現場など、貴重な未公開映像で構成されている画面のリアルさにより、自分が2019年12月29日にいることが飛んでしまう瞬間があり、カメレオン俳優・山田孝之も見事に「64年」に紛れていた。
『ストレンジャー〜上海の芥川龍之介〜』は、1921年、29歳の時、大阪毎日新聞海外視察員として中国に派遣された際の紀行文『上海游記』の実写化を試みたものだ。ちょうど、中華民国が建国されて10年後の、120日で南京、九江、漢口、長沙、洛陽、大同、天津、沈陽などを巡る旅。当時の上海を「完璧に再現」した8K映像は美しく、「魔都」の風情に魅せられた。
とはいえ実は、21世紀初頭の中国にも、芥川が歩いたのと変わらぬ一角が残されている。『上海游記』には「朱泥のような丸焼きの鶏が、べた一面に下った店がある。種々雑多の吊洋燈(つりランプ)が、無気味な程並んだ店がある。精巧な銀器が鮮かに光った、裕福そうな銀楼もあれば、太白の遺風の招牌が古びた、貧乏らしい酒桟(チュザン)もある」という描写があるが、上海や北京を歩いていると、ピカピカの街の裏側に似たような光景がすっと出現する。迷路のような細い道、石造りの家には狭くても中庭があって槇などの庭木が植えられており、竹籠の中にキリギリスが飼われていたりして、まだチャイナドレスも廃れてはいない。
松田龍平が演じる芥川は、彼の地の混乱した政治に憤りを抱いている。しかし、私はむしろ、この100年間、社会の矛盾と街角の古い風景もすべて抱擁したまま、モダンな大国として覚醒した中国の底力に茫然としてしまう。上海を訪れた6年後、芥川は「ぼんやりした不安」により自殺する。1世紀後の世界の混沌に直面してみて、関東大震災で「江戸」という母胎を喪失した芥川の「不安」は正鵠を得ていたような気がしてきた。日本でも中国でも、貧しさから脱したからといって、人がより充実した生を保証されるわけでもない。
 
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NHKは「再現」づいているのか、紅白歌合戦では「AI美空ひばり」が出現し「新曲」を歌った。CD配信される「商魂」も含めて是非が分かれており、ヒトの方が「初音ミク」化する薄気味悪さがあるのは認める。しかし、たとえば死者自身が出席し質疑応答もできるというお葬式が実施される10年後が、ユヴァル・ノア・ハラリの『21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考』などを読みつつ想像されるとして、「死者は静かに眠らせて」的な「倫理」による批判はすぐさま無効になる気がする。今回の「AI美空ひばり」はTVで見る限り、正直、生々しさに欠ける気がしたものの、新曲「あこがれ」を繰り返し歌っている子供もいるそうだ。私はいつか、テクノロジーによって実現した「ゾーン」(byタルコフスキー)的な場に身を置いてみたい。ただ、すでにモウロクしていて、見知らぬ若人ばかりの現世には帰れないだろうな。怖ろしいが蠱惑的な未来……。『男はつらいよ』の新作ができても諦めよう。
今回の紅白は酒のアテにはちょうどよかった。やたらジャニースが目立つのはエグザイル色が思い切り薄まったせいと気づいた。嵐でなく米津玄師が「カイト」を歌えばよかったのにと思ったが、菅田将暉の「まちがいさがし」はいいというのは贔屓か。わりと新しい歌が多かったのもBGMとしては快適でつい酒を過ごしてしまう。むしろ、昔の歌に盛り上がる方がむずかしかった。
強く印象に残ったのは月並みだけれど、欅坂46と氷川きよし。平手友梨奈のカリスマ性は他を圧倒しており、今後どこへ向かってゆくのか目が離せない。「不協和音」の舞踏宗教的な群舞と「僕は嫌だ!」という叫び声は、年末の予定調和に亀裂を走らせていた。真の姿を顕現しつつある氷川きよしがあまりにロックで心が震えたものの、平岡正明流に三波春夫のソウルを想起すればさほど不思議な話ではない。来たるべき鮮やかな何かが酔眼に残ればそれでよし。
 

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令和元年のテレビ界で目立ったのは「ワイドショー」形式の限界だった。自分も会社員だからひとつひとつの裏事情は理解できるとして、結果的に政治的な立場は少差で、せいぜい主婦かお笑いの人かタレントか、というレベルの違いしかない「コメンテイター」が喧々諤々したところで、ただの時間ふさぎだろう。その上民放は、かつての梨元勝や須藤甚一郎などの芸能レポーターなどの活躍を含んだファクトの含有率が著しく低くなり、視聴層の中心が年長者である時間帯の経費節約が露骨に現れている。
その中で、紅白の裏番組『ぶっちゃけ寺』の爆笑問題、神田松之丞、カズレーザー、古市憲寿の4者のコメントの切れ味はすばらしかった。古市が神田に「楽屋で初めてお会いして、本当に生気がなくて、元気がない人だな、と思った」と突っ込み、「あんたに言われたくないよ」と返される問答には笑った。松之丞はいつまでホンネ講談師を貫けるのか、ハラハラしてしまう。
大晦日はMr.ビーン、いやカルロス・ゴーンの逃亡劇でもちきりだったが、世間の論調を眺めるにつけ推定無罪の原則を無視した「極悪人」呼ばわりで、これでは楽器ケースに入って日本を逃げ出しても仕方があるまい。ウオールストリートジャーナルは「報酬や企業統治に関する問題は取締役会で対処するべきだった。ところがどういうわけか。そしてこれが最大の謎でもあるのだが、刑事事件となった」と論評しており、ゴーンは悪事に手を染めているとして犯罪かどうかはまた別次元の話だ。いや、外国人の肩を持つわけではなく、「人権派」を激しく攻撃する人々がもし罪を犯したら法廷で命乞いするのか、という想像力の問題である。蓑田胸喜の暗躍により、「天皇機関説」を唱えた美濃部達吉が追放された状況とさほど選ぶところがない。くわばら、くわばら。
箱根駅伝も選手層の厚い学校と下位校の差がただ順位に現れ、ナイキの厚底靴が目立つだけの退屈な競技になりつつあり、「週刊文春」が報じた青山学院大学・原晋監督のパワハラ指導もさもありなん、である。


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何度目かの大ブレイクを迎えつつある木村拓哉のドラマに触れる前に、HAIR STYLISTICSの無声映画ライブについて語っておきたい。演奏のすばらしさはもとより、ジャン・エプスタイン監督『アッシャー家の末裔』とアルフレッド・ヒッチコック監督の『ふしだらな女』のどちらもあまりに野蛮な自由さに充ちていて、驚いてしまった。田舎の洋館、一軒燃やしてやれ、という勢いでアッシャー家は狂気に染まり、白塗りの顔の紳士淑女の顔がどんどんこの世ならぬ物に変化してゆく。後者は、女が法廷やポロ会場などの群衆から訳ありでひとりになるという運動を繰り返す構成がすでにヒッチコックである。フィルムや機材の貧しさをものともせず、ただ撮りたいものを撮るという徹底的な意志は清々しく、予算やキャストやロケ地などの制約だけが表現される最近の映画とは真逆のベクトルに貫かれていた。無声映画って、描きたい画だけを描いて成立させるアニメに似ているんじゃない?と中原昌也に問いかけたら、無言で頷いた。
『教場』では、木村拓哉が義眼に白髪の警察学校教官という珍しい役柄を演じている。しかし、長く木村と組んできた中江功の演出に手練れの君塚良一の脚本は木村の存在の生かし方を知り尽くしており、スパイすら駆使するすべてお見通しの鬼、というキャラクターの揺るぎなさは盤石だった。冷徹でぶっきらぼうでハンサムな木村がいればいい、という画面のあり方を枠組みとして受け入れれば、ほかの登場人物はかえって自由を確保できる。生徒たちは同じ制服を着ているゆえ、大島優子の小ささと健気さや、工藤阿須加のナイーブさが活き活きと表現され、無理矢理オーラを絞り出さなくていい川口春奈の美しさと可憐さが際立っていた。道場で川口と元レスリング選手の富田望生がガチでぶつかるシーンや、井之脇海が銃への執着を露呈する昏い眼は秀逸で、緊迫感が半端でなかった。
石原裕次郎や高倉健の映画は、どちらも様式美で成り立っている。プログラムピクチャーの魅力は、どこか無声映画の大胆さと重なる。現在、日本で2人と同じパターンに入ったのは木村拓哉だけと見るが、演技者にとって「いつも同じ」を求められることが幸福なのかどうか、これは想像のしようがない。バリエーションの多さが必ずしも自由につながるわけではないが、人間は飽きる生き物でもある。
さて、令和2年はどうなることやら。本年も宜しくお願い致します。
 
初春や声なき闇に白い猫

 
とまあ、のんびり構えていたら、坪内祐三さんの訃報が飛び込んできた。年末は元気な姿を確認していたので、心底驚いている。とにかく、よく一緒に呑んで、しゃべった。誰にも真似できない着眼点と活力の持ち主だった。『en-taxi』はすばらしい雑誌だった。あと10年はこの世にいて欲しかったが、生き急いだのか。ご冥福を祈りたい。合掌。


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風元正

1961年川西市生まれ。早稲田大学文学部日本史学科卒。週刊、月刊、単行本など、 活字仕事全般の周辺に携わり現在に至る。ありがちな中央線沿線居住者。吉本隆明の流儀に従い、家ではTVつけっぱなし生活を30年間続けている。土日はグリーンチャンネル視聴。