ディー・テートリッヒェ・ドーリスのための五本のライナーノーツ

明石政紀さんによる特別寄稿。ディー・テートリッヒェ・ドーリスは1980年に旧西ベルリンで結成されたパフォーマンス集団で、音楽制作やライヴだけでなく、アート活動や映像制作、著作活動などさまざまな分野を横断するパフォーマンスを行っていたグループです。12月24日に33年ぶりとなる彼らの新録アルバム『特徴的なアレ:再現 (I) 』がSUEZAN STUDIO(スエザン・スタジオ)から発売されるのを記念して、今年1月~6月に再発された過去作5タイトルに収められた明石さんのライナーノーツを一挙掲載します。
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『特徴的なアレ:再現 (I) 』


ディー・テートリッヒェ・ドーリスのための

五本のライナーノーツ、または転載は忘れたころにやってくる



文=明石政紀
写真提供:SUEZAN STUDIO
 

連載《ファスビンダーの映画世界》は、ファスビンダー映画創作の第一期「アンチテアーター・フィルム」の全作品について書き終えた時点で、とりあえずはお休み。お休みしているうちに気がゆるみ、気がゆるむと体もゆるみ、ゆるみついでに風邪ウィルスが体内に侵入、ゴホン、ゴホンと咳をしているうちに、五本のライナーノーツを頼まれた。
思い返してみれば、わたしは過去22年ものあいだ、ライナーノーツというものを書いたことがなく、最後に書いたのも、『ドイツのロック音楽』という本で目いっぱい書き散らした本物ならぬ贋作ライナーノーツの数々。それから8000日ほどの日々がさっさと過ぎ去り、この世にライナーノーツなるものが存在することを忘れかけていたころ、ベルリンのグループ、ディー・テートリッヒェ・ドーリス(Die Tödliche Doris)の音盤をCDで再発売するという果敢な企画を立てた新潟県新発田のレーベル、スエザン・スタジオが本物のライナーノーツを五本頼んできてくれたのだ。
こうしてわたしは久しぶりにライナーノーツを記すことになり、これが添付されたディー・テートリッヒェ・ドーリスの五つの再発音盤は、今年すなわち2019年の1月から6月にかけて、無事スエザンから市場に送り出された。
それから150日ほど経ち、22年ぶりにライナーノーツを書いたことを忘れかけていたころ、今年はboidマガジンへの寄稿が皆無だったことに気づき、これはさみしい、これはいけないと思いながら、書いたことを忘れていたこれらの文章のことを思い出し、これを、この世にライナーノーツなるものが存在することを思い出させてくれたスエザン・スタジオに感謝しながら転載させてもらうことにした。



其の五分の一、『日常における七つの死亡事故』

 
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『日常における七つの死亡事故』


ドーリスは、同じベルリンっ子のマレーネのようにディートリッヒではない。テートリッヒ(致死、致命、必殺)である。
Dieはダイ(死ぬ)ではない。ドイツ語女性名詞の定冠詞、ディーである。テートリッヒは女性的に語尾変化してテートリッヒェと化し、ディー・テートリッヒェ・ドーリスとなる。これは周知のとおり、一字違いの薬物用語、ディー・テートリッヒェ・ドージス、すなわち、致死量にひっかけた洒落である。
とはいっても、ディー・テートリッヒェ・ドーリスは致死ではない。その逆である。ドーリスはその目の覚めるような発想とコンセプトにより、生きながらにして死にかけていた脳細胞や思考回路を蘇生し活性化させてしまう類まれなグループだった。
ドーリス誕生の背景にあるのは、そのころ異様な盛り上がりをみせていた1980年代西ベルリンの反予定調和ポストパンク音楽シーンだった。とはいっても、ドーリスは音楽グループだけというわけではない。音楽グループでもあるが、アート・グループでもある。アート・グループでもあるが、映像グループである。映像グループでもあるが、パフォーマンス・グループでもある。パフォーマンス・グループでもあるが、著作グループである。著作グループでもあるが、物語の主人公でもある。物語の主人公でもあるが、白ワインでもある。ドーリスはグループでもあるが、一個の人格でもある。一個の人格でありながら、無人格でもある。だれかでもあるが、だれでもない。ドーリスは変幻自在、時と場合によって、どれでもなく、どれでもあり、どこにも閉じ込められない自由奔放さを持っていた。
いってみればドーリスは、フィクションの登場人物のようなもので、ジャンルにこだわらず多種多様なものを投射投入することのできるキャラクターであり、思考や感覚や想像力を押し広げてくれる遊戯空間であり、そのほか何でもあった。
ディー・テートリッヒェ・ドーリスは1980年、そのころ壁で密封されていた陸の孤島、西ベルリンで生まれ、いさぎよく1987年に7歳で存在をやめ、最後には白ワインに変貌した。
ドーリスの生みの親は、ベルリン芸術大学でヴィジュアル・コミュニケーション、実験映像制作を学んでいたヴォルフガング・ミュラーとその同級生ニコラウス・ウーターメーレンである。このふたりに女性ひとりが加わり、三人組で活動した。歴代の紅一点は、両人の同級生だったクリス・ドライアー、壁の向こうのドレスデンから西側に渡ってきた美術学生ダグマー・ディミトロフ、そしてケーテ(本名エルケ)・クルーゼ。バンド編成のときは、この紅一点がドラムスを叩くのが通例だった。さらには当時の西ベルリン・サブカルチャーのカルト・スター的存在、タベーア・ブルーメンシャインがよくドーリスに参加していたものである(ブルーメンシャインが主演したあのすばらしい異端ベルリン周遊映画『酔いどれ美女の肖像 Bildnis einer Trinkerin』(1979、ウルリーケ・オッティンガー)はわたしの脳裏に忘れがたく焼きつけられている)。


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ディー・テートリッヒェ・ドーリス。左からニコラウス・ウーターメーレン、ケーテ・クルーゼ、ヴォルフガング・ミュラー、タベーア・ブルーメンシャイン


今回コンパクトディスクに姿を変えて登場するこの元12インチEP(1981)は、ディー・テートリッヒェ・ドーリスがこの世に送り出した最初の音盤である。とはいっても最初の音響作品というわけではない。最初の音響作品は、カセット・テープ『七つ頭の情報モンスター Der siebenköpfige Informator』(1980)だ。そう、カセット。当時は少量複製可能なサウンド媒体としてカセット・テープがおおいに重宝されたもので、ドーリスはカセット作品もかなりつくっている。
さて、このマキシEPにはレコード・タイトルがない。無題である。最初のトラック「日常における七つの死亡事故」がまさに冒頭に収められているという理由から、便宜上、流通用の名称として用いられているだけである。
「日常における七つの死亡事故」では、トラック名に反して、四つの死亡事故情報しか収められていない。それは上述のカセット作品『七つの頭の情報モンスター』と関係がある。ドーリス創始者のヴォルフガング・ミュラーによると、これは不定形アメーバ状の情報モンスターが、四つの頭を伸ばしたところのものとのこと。そのあと情報が三つ、あるいは無限に増殖していく含みが残されており、このテーマは後続のトラック「情報をストップ」や「基盤の戦争」にもつながっていく。
わたしがかつてダンス・チューンとしてよくかけていた本盤のトラックは「四角四面踊り」である。このポストパンク四角四面チューンの調べにあわせて、わたしはときおり四角四面に腰を揺らし、そのあと「アヴォン・ギャルド」の脱力サウンドをバックにベッドに入って脱力、アヴォン・ギャルドな夢をみたものである。



其の五分の二、『ファースト・アルバム』


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『ファースト・アルバム』

 
ディー・テートリッヒェ・ドーリスは「天才的ディレッタント」を身上としたグループだった。
ディレッタントとは、より流通度の高い言葉を使えばアマチュア、シロウトといったところなのだが、ディレッタントという芳醇な響きとデレデレした音感がわたしはなんとなく好きなのでこのままにしておこう。それにしても「天才的ディレッタント」とはなんなのか。
「天才的ディレッタント」は、わが国ではときおり五回くらいは誤解されるように集団名ではない。これは1981年9月4日、ベルリンの壁近くの大テント、テンポドロームを会場に、ドーリスをはじめする数々の西ベルリンの破天荒ポストパンク音楽グループやアーティストが一堂に会したイベントの名に発したものである。そのフルネームを「大没落ショウ~天才的ディレッタント祭り」という(すばらしいイベント名だ)。
ドーリスの発起人ヴォルフガング・ミュラーは、このイベントの翌年に出版された編著『天才的ディレッタント Geniale Dilletanten』(1982、ベルリン)で、この概念を詳説、弾き間違い、言い間違い、弾き忘れ、ど忘れといった「プロの世界」、敷衍すれば「既成の社会」では過失、誤謬、御法度にすぎないものを逆手かつ創造的に生かし、定型破りの発想から新しいものをつくりあげる者が天才的なディレッタントだと唱えた。さらには書名における「ディレッタント」の綴りも間違っており、正書法にこだわる凝り固まったプロの校正者に却下されそうな誤字も創造的に生かされている。この小冊、編著者ミュラーをはじめ、イベント参加者のB・バーゲルト、F・ブッツマン、G・グートといった当時のベルリン・シーンの担い手だった多くの人々が寄稿、その勢いとエネルギーを伝えてくれるものでもあるし、邦訳が望まれるところではあるが、望まれるだけで終わるかもしれない。
とにかく発想の天才ドーリスの敵は、発想を妨げる定型化と硬直だ。だからコンサートをやっても、ほかのミュージシャンのように毎回同じことを繰り返すことはなく、期待を裏切って新しいことをやった。そのうち毎回新しいものを期待されるようになると、またまた期待を裏切って同じことをやるようになった。
レコードを出しても、そのうちレコードというメディアそのものを俎板にあげる音盤へと変化していった。それが、規格外ミニ音盤と専用小型プレイヤーの特製ボックス・セット、二枚のレコードを同期させてかけると新しい音楽が生まれるというノンマテリアル音盤企画といったものだ。ミュージシャンとしてのドーリスは脱ミュージシャン的ミュージシャンなのである。


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「大没落ショウ~天才的ディレッタント祭り」に出演したドーリス。左からダグマー・ディミトロフ、ヴォルフガング・ミュラー、ニコラウス・ウーターメーレン


さて、ドーリスさんとおぼしき挑戦的なランジェリー姿のお姉さんのジャケット図に飾られたこの無題のファースト・アルバム(1982)、一年前の無題のファーストEPと同じく、ドーリスの音盤が完全コンセプト化するまえの、「ふつう」のレコードで、本人たちが言うごとく、各種スタイルのドーリス楽曲がア・ラ・カルトのように収集されたものだ。それがどんな音かについては、聴いてもらえばわかるので、わたしがここであれこれ書く必要はないだろう。
この二枚は、ドーリス解散後の1990年、若くして交通事故で亡くなったダグマー・ディミトロフがグループの紅一点だったころの録音でもある。ディミトロフの息子さんもこの事故で亡くなってしまった。この息子オスカー君が弱冠2歳半のとき主演したのが、ドーリスの映像作品『シド・ヴィシャスの生涯 Das Leben des Sid Vicious』(1981)である。これは、まだよちよち歩きだったオスカー君がシド・ヴィシャスに扮し、ハーケンクロイツをあしらったTシャツで街を歩きまわるという、ドーリスの数あるスーパー8mmフィルムのなかでももっとも論議を呼んだ有名作である。


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ドーリスのスーパー8mm映画『シド・ヴィシャスの生涯』でシド・ヴィシャスに扮するオスカー・ディミトロフ(2)


そういえば、わたしがはじめてディー・テートリッヒェ・ドーリスの存在を知ったのも、このアルバムが世に出た1982年くらいのことだった思う。それにしてもどうして知ったのかと記憶を辿ってみたところ、当時わたしはある雑誌にドイツのロックやパンクなどについて何か書いていて、この手の音盤を聴く機会があったせいだということが判明した。そのなかでドーリスは際立った存在だったことも覚えている。とはいっても掲載誌をもはや所持していないため、何を書いたのかは覚えてない。ドーリスについて書いたかどうかも覚えてない。ひょっとすると何も書かなかったもしれない(ご存知の方がいらっしゃったら、教えていただきたい)。とにかくそのあとも、わたしは必殺ドーリスにつきまとわれ、ドーリスの日本盤発売や日本公演にも関わることになった。 



其の五分の三、『コーラスとソロ』


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『コーラスとソロ』 


当たり前だと思われていることを、当たり前だと捉えないのがアートの基本である。
というわけで、ディー・テートリッヒェ・ドーリスは、ファースト・アルバムを出したあとに、セカンド・アルバムを発表するなどという「当たり前のこと」をよしとしなかった。そして、次の音盤はどのようなものにするか考えた。
そんなとき目に留まったのが、ベルリン西地区の巨大百貨店、KaDeWe(カーデーヴェー)のおもちゃ売場にあったお喋り人形。どうしてお喋りできるかというと、お人形さんの体内に再生装置が仕込まれ、専用のミニレコードをかけると、おねだりしたり、笑ったり、歌ったりする可愛い声が発生、あたかもお喋りしているかのようにみえる仕掛けになっていたのである。
これに着目したドーリスは、お人形さん用6cmミニ盤と再生装置を収めたボックス・セットを次の音響作品として発表することを画策。だがこのように規格を大胆に逸脱したうえ経費のかかる品は、脳内に案ができあがっても、流通可能な物体として実現させるには大きな困難が伴う。期待されたごとく、期待を裏切るこの異形企画に、以前のレーベルも他のレーベルも興味を示さず、ようやく果敢なベルリンの実験音楽専門店「ゲルベ・ムジーク」とデュッセルドルフのレーベル「プーレ・フロイデ」が話にのってくれ、この前代未聞の作品は、めでたくこの世の実在となったのである。こうして、あまりに当たり前だと思われていた音響再生の実情を、ユーモアと喜悦を交えながら問い直す作品が誕生したわけである。1983年のことだった。
この『コーラスとソロ』と銘打たれた愉しくも挑戦的な作品、マルセル・デュシャンの「グリーンボックス」に因んだ外装ボックスは緑だが、中身の音は赤ぺらである。つまり、アカペラである。音はタイトルどおりコーラスとソロのアカペラ・ソングで、曲が異様に短いのは、ミニ盤の片面収録時間が20秒に限られていたせいである。こうして本作は、外見はヴァーグナー楽劇全曲盤のような威容、中身は可愛くカラフルなミニ音盤と再生装置、音のほうもファーストLPの攻撃性を備えたポストパンク音響から一転、自宅録音されたアフォリスティックな童謡風ショート・ソングの連なりと、コントラストに満ち満ちたものになったのである。


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『コーラスとソロ』のためにつくられたミニレコードの余剰は袋に入れられ、かわいい贈り物として用いられた 


それから36年後の今、『コーラスとソロ』がミニCD セットとして新装再発されることになったのを機に、わたしは、かつてのオリジナル・ボックスのお姿をもう一度愛でようとしたのだが、どこを探しても見つからない。きっとだれかに貸してしまい、そのまま戻ってこなかったのだろう。このようなものをむやみに人に貸すという無謀なおおらかさは今後慎もうと悔いながら、かつてわたしの眼前に厳然たる物体として存在したあのオリジナル・ボックスは、こうしてわたしの脳内に残る像と音の記憶として脱物体化することになったのである。
たしかこのボックスは、日本を来訪したドーリスに貰ったものだったと思う。そうだ、前章のライナーで、次回はドーリスの来日公演について書くと予告してしまったんだ。思い出してよかった...。
そう、ドーリスは1988年晩秋、8000kmの彼方から東京に飛来、二回の公演をおこなったのである。披露されたのは、彼ら唯一のシアター・ピース『これがディー・テートリッヒェ・ドーリスだった』で、どうしてタイトルが過去形になっているかというと、ドーリスはこの公演の前年に解散していたからである。これは、必殺ドーリスが自らの軌跡を回顧する特別仕様の日本用舞台作品だった。
それではとりあえず、本公演が実現した経緯から。
その発端となったのは、ドーリスの日本盤とベルリン市誕生750周年である。当時わたしは、どういうわけだか、東京・六本木にあった巨大レコードストア、WAVEが始動させたレーベルの担当者をしていたのだが、ある日のこと、ドイツの文化機関、ゲーテ・インスティトゥート(東京ドイツ文化センター)から、貴殿のレーベルはディー・テートリッヒェ・ドーリスというベルリンのグループのレコードを出している、そこでちょっと相談があるのでいらっしゃっていただけないか、との電話があった。そこで行ってみたところ、当方はベルリン市750周年の関連イベントとしてドーリスを日本に呼ぶのはどうかと考えている、経費の一部を負担するので一緒に公演を開催できないか、とのことであった。わたしは、そりゃすばらしいと喜んだが、まだWAVE側のOKが必要だ。どうなることやら、と思いながら会社に持ち帰ってみたところ、ドイツの公的機関と仕事ができるせいなのか、さしたる障害もなくゴーサインが出た。ドーリスのほうも東洋の異国に来られることを喜び、こうして彼らは1988年の11月1日と2日、渋谷クラブ・クワトロのステージに立つことになったのである。
そのきっかけとなった日本盤というのが、ドーリスの最終音盤二作、『わたしたちのデビュー』と『第六作品』をダブル・アルバム化したものである。スエザン・スタジオによる画期的なドーリス再発シリーズの最後を飾るのもこの二枚。というわけで、この両作および公演自体の話については次章にまわそう。


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来日公演のメンバー:ヴォルフガング・ミュラー、ニコラウス・ウーターメーレン、ケーテ・クルーゼ




其の五分の四、『致死量ドーリス、わたしたちのデビュー』


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『致死量ドーリス、わたしたちのデビュー』


かつてレコード制作者をしていたとき、わたしはいろいろな企画を考案したものである。たとえば、音盤自体には音は入っておらず、消費者各自が添付されている子細な楽曲解説を読み、そこから想像される音を自分の頭のなかで鳴らしていくという脳内音響プロジェクト、あるいは、さまざまな音のパーツを音盤に入れておき、リスナーがそれを好きなように組み合わせ、自分の音楽をつくりあげていくレゴ式ドゥー・イット・ユアセルフ企画、さらには音盤の発売前に大々的な宣伝をおこない、関連グッズを売りまくり、前評判を盛り上げたところで、音盤自体は発売しないというメディア社会揶揄企画といったものである。残念なことに、これらはことごとく営業部の猛烈な反対に遭い、実現することはなかったが...。
というわけで、二枚のLPを同時に再生すると不可視の第三の音盤が生まれるというディー・テートリッヒェ・ドーリスの音盤企画《わたしたちのデビュー》と《第六作品》にわたしが並みならぬ関心を抱いたのは言うまでもなく、このコンセプトだけでも日本盤発売をゴリ押しする十分な動機となった。
こうして日本でも1986年にリリースされる運びになった両LPだが、双方の各トラックが完全同期するよう演奏するには、一秒たりともズレは許されない。そのためドーリスは録音作業のさい、かなり苦労をしたらしい。
もちろん再生する側も、不可視の第三の音楽を聴くためには、二台のレコード・プレイヤーで二枚のLPを完璧にシンクロさせる必要がある。一台しかプレイヤーを所持していなかったわたしも、もう一台どこかから拝借し、一瞬の誤差もなく針を落として同期させようと大いに緊張、動悸が激しくなったものである。
この同期プロジェクトは、当時まだ分裂していた東西ドイツの越境統一企画でもある。ドーリスは、一枚目の《わたしたちのデビュー》を西独の私営レーベル「アタタック」に、二枚目を東独の国営レーベル「アミーガ」に発売させることを画策、東西のレコードを同期させることにより、目に見えない新しい音盤が国境の壁を越えて発生することになっていたのだが、東独側に断れられ、けっきょく二枚とも二年ほどの間隔を置いて西側だけでリリースされることになった。そして発売からわずか数年後、奇しくも東西ドイツは本当に統一し、両者を分断していた物理的な壁は消滅、あとは目に見えない人々の心のなかに残る壁がしばらく存在するのみとなった。
ちなみに西ドイツでは発売当時、二枚のレコードを同期させると第三の音楽が生まれるというコンセプトはいっさい秘密にされ、両盤がペアであることを示唆する徴がそこかしこにあるというのに、それに気づいた者はほとんど皆無だったとのことである。
それに対し日本盤LPでは、秘密は内密にされず、コンセプトは最初からあけっぴろげに開陳され、両盤は公然とカップル化、ダブル・アルバムとして登場することになった。
この日本盤LP発売の翌年、ドーリスは解散してしまうが、さらにその翌年の1988年にわが国を訪れ、その舞台作品を披露してくれることになる。と、ここで前回のライナーノーツで予告してしまったとおり、この30年ほど前の公演について思い出せるかぎりほんの少々書き散らすことにしようかと思う。
この公演の宣伝活動でとくに記憶に残っているのは、街頭プロモーション用の巨大写真である。この写真用に、わたしはドーリスの面々がベルリンのクラブ「クンペルネスト3000」の男性用小便器の傍らで微笑んでいるマルセル・デュシャンばりのポートレートを選択、これをジャイアント・サイズに拡大させ、七階建ての六本木WAVEビルの外壁に数メートルに及ぶ垂れ幕としてかけてもらった。これによりドーリスは、一部通行人のあいだで「便所ドーリス」との愛称で親しまれることともなった。さらに集客が心配になったわたしは、女子アナ声の同僚に頼んで「ベルリンからやってきたディー・テートリッヒェ・ドーリスの公演があります。よい子のみんな、来てねぇ~!」とのプロパガンダ音声を録音、これをWAVE全館で流してもらった。わたしとしては、本当によい子のみんなに来てもらいたかったのである。


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1988年、六本木にあったレコード・メガストア「WAVE」の壁面に巨大サイズで垂れ下げられたドーリス日本公演の宣伝写真


だが前述のとおり、公演時にはディー・テートリッヒェ・ドーリスはもう解散しているわけだから、じつはドーリスは存在していない。というわけで公演内容は、元メンバーのヴォルフガング・ミュラー、ニコラウス・ウーターメーレン、ケーテ・クルーゼの三人が、かつてドーリスだったときの自分たちの姿を自ら演じるという自伝的演劇作品と化し、〈超かあちゃん〉や〈四角四面踊り〉といった初期ピースにはじまり、《コーラスとソロ》を経て、《わたしたちのデビュー》と《第六作品》にいたる自らの音響パフォーマンスの履歴を追い、《シド・ヴィシャスの生涯》や《壁紙》といった映像作品を交えながら、ドーリスが最後に白ワインに変貌するまでの軌跡を回顧するものとなった。舞台作品にふさわしく、パンク・ルックから正装まで幕ごとに衣裳替えもおこなわれ、最後に本人たちの自己紹介もあり、これだけ盛沢山のドーリスのステージを体験できたのは、世界広しといえども、当日渋谷クラブ・クワトロに公演を観にきてくれた観客のみなさんだけだったのではないかと思う今日この頃である。
とはいっても、わたし自身はこの盛沢山のステージを心置きなく観客席で享受することができなかった。舞台裏、ときには舞台上にいたからである。この回顧作品では進行役が必要とされ、どういうわけだか、わたしはこの小さな役をやることになり、台本どおりに幕間に登場、日本語でコメントを添え、薄気味悪い変調ヴォイスで〈日常における七つの死亡事故〉の訳文を語り、最後には白ワインに姿を変えたドーリス、すなわち1987年イタリア産テーブルワイン「致死量(ディー・テートリッヒェ)ドーリス」を試飲、「うまい!」との一言を吐き、そそくさと退場したものである。こうしてわたしは、二、三のいかがわしい役柄を演じたディレッタント学生演劇時代以来、ひさびさに舞台に立つことになったわけだが、これでわが役者キャリアは終わりを告げ、今ではときどき訳者をやっている程度である。



其の五分の五『致死量ドーリス~第六作品』、またはその後の後

 
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『致死量ドーリス~第六作品』


音楽は空気中の振動の産物。だから目に見えない。目に見えるのは、音を貯蔵した音盤、あるいは音を記号化した楽譜といったもの。
音盤は目に見えるというこの一大原則を覆したのが、ディー・テートリッヒェ・ドーリスの《わたしたちのデビュー》と《第六作品》の同期プロジェクトである。可視的な二枚の音盤に拘束されながらも、不可視の隠れ音盤が出現するというこの不可思議な企画、音盤が目に見ようが見えないが、けっきょくのところ音楽というものは目に見えぬまま脳内に発生するという、当たり前のことを当たり前ではない手法で意識化し、脳細胞の隠れ回路を不用意に活性化させる類稀な作品だった。
不可視の隠れ音盤の存在は、コンセプトを明かされるまでもなく、二枚の可視音盤の外装にすでにそれとなく示唆されていた。一枚目の《わたしたちのデビュー》のタイトル文字に付されている数字は4で、これはドーリスの四番目のレコード企画であることを示し、二枚目の《第六作品》は文字通り六番目。こうして、そのあいだに五番目の音盤が存在することが堂々と暗示されていたのである(ドーリスはかねがね自作音盤に番号を振るのを慣わしとしており、最初のEPがNo.0、ファーストLPがNo.1、《コーラスとソロ》がNo.2, シングル《天災》がNo.3、《わたしたちのデビュー》がNo.4となる。なお1986年のLP『ライヴ・プレイバックス』は音盤企画ではなく、コンサート企画の音盤化だったため欠番である)。
《わたしたちのデビュー》と《第六作品》のジャケットには、ほかにも連続性のあるヴィジュアルやグループ名のウムラウトの点々の増減など、両盤が切っても切れない縁にあることを示す要素が謎々クイズのように散りばめられているが、それをいちいち明かしてしまうのは野暮なので、本盤を享受されるみなさんが愉しみながら探していただければと思う。
ドーリスは、1984年に録音されたこの二枚のLP(と隠れアルバム)を最終音盤企画として、1987年に解散してしまうのだが、この同期プロジェクトは、その後もかたちを変え、品を変えて尾を引き、解散六年後にお目見えしたドーリス初のCDでは、二枚のレコードの音がそれぞれ左右のチャンネルを占拠、ステレオで鳴らすと不可視の同期音盤が文字どおりお目見えすることになったし、その二年後には、両LPの発売当初、ドイツの音楽誌〈スペックス〉 に載った酷評と絶賛のふたつを同期させるという朗読作品〈クネーデル:スヌーズル〉も初演された。


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白ワインに変容したディー・テートリッヒェ・ドーリス。一代目ドーリス・ワインは日本公演でも紹介されたイタリア産ヴィーノ・ダ・ターヴォラ・ビアンコ、二代目はドイツ産ヴァイサー・ブルグンダー(写真、撮影:明石政紀)


さて、このドーリス再発シリーズのライナーノーツもこれが最終章。というわけで、ドーリスのその後についての話にしようかと思う。
グループとしての実在をやめ、白ワインに変貌したドーリスだったが、その後も変幻自在に出没、解散して二十年ほど経ったころには、あるベルリンの新聞に書評を記していたこともある。ドーリスは記すだけではなく、記される存在ともなり、その音楽、アート、文章、映像、パフォーマンス、衣裳の各分野における所業を追った書籍が、ここ四半世紀ほどのあいだに六巻出版され、ドーリスは後世に語り継がれる存在ともなった。
ドーリスの最終構成メンバー、ヴォルフガング・ミュラー、ニコラウス・ウーターメーレン、ケーテ・クルーゼの三人も、わたしが知り合った時点ではもはやドーリスではなかった。その前年にドーリスは存在をやめていたからだ。それでも三人は解散直後、「ディー・テートッリヒェ・ドーリス派」を称して、それぞれソロの音盤を一枚ずつ発表したし、彼らの名は末永くドーリスと結びつけられて記憶されていくことだろう。
この三人のうち、画家、音楽家として活動していたニコラウス・ウーターメーレンは1996年に若くして亡くなってしまった。ケーテ・クルーゼはその後ヴィジュアル・アーティストとなり、近年ではベルリン、パリ、オーストリアのチロルなどで展覧会を開いている。ドーリスの発起人にして発想の主だったヴォルフガング・ミュラーは、ドーリス終焉後も多岐にわたって旺盛な活動をつづけ、数々の著作をあらわし、数々の音盤を発表し、数々の展覧会に出品、アイスランドとその妖精文化の専門家としても知られ、聴覚障害者のために手話による音楽もつくり、ラジオ作品のひとつは由緒あるカール・シューカ賞も受賞した。前述のドーリス本の大半を記しているのもヴォルフガングだ。ちなみに日本語で読めるこの三人の散文には、ベルリンの建築史家Ch・ボーングレーバーが編纂した『ベルリン・デザイン・ハンドブックはデザインの本ではない!』(原書1987、邦訳2013、ベアリン出版)に寄せられたエッセイがあり、三人三様の指向、志向、思考、嗜好がわかって非常におもしろい。
わたしが会ったことのないドーリスの元参加者については、伝え聞きで記すしかない。ドーリス最初の紅一点クリス・ドライアーは、音楽家、ヴィジュアル・アーティストとして活動し、ふたり目の紅一点ダグマー・ディミトロフは、以前記したように1990年事故で亡くなってしまった。同じく初期の参加者だったマックス・ミュラー(ヴォルフガングの弟さん)は、1986年以来30年以上の長きにわたって「ムター(母)」というバンドをやっている。この同期音盤プロジェクトにも参加している西ベルリン・サブカルチャーのカルト女優で衣裳デザイナーだった麗人タベーア・ブルーメンシャインは、80年代半ばにシーンから身をひいてしまった。
とにかく個人的には、ディー・テートリッヒェ・ドーリスは、わたしが知ることのできた80年代ドイツ・サブカルチャー新音楽のなかでも、その突飛な発想とユーモアで脳髄の裏をくすぐりながら解き放つ、飛びぬけておもしろい存在だった。それは音楽をしていたほかのグループとは違い、まさにドーリスが音楽をしていない分だけ、あるいは音楽を超えてしまった分だけ、音楽とは何なのかをもっとも考えさせてくれたからだと思う。
最後にもうひとつ。この再発シリーズでもお馴染みのドーリス・ロゴは、ベルリンの州立銀行シュパールカッセ(Sparkasse)の点つきSのロゴをさかしまに反転させたものである。このジョークは、ベルリンに住んでいる者ならみなさんすぐわかる。


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2019年のクリスマス・イブ、33年ぶりのドーリスの新譜『特徴的なアレ:再現(I)』が発売される。これは31種のバイブレーターのサウンドを収録したCD、そしてイラスト・カード31枚(絵:タベーア・ブルーメンシャイン)を収めた超豪華ボックス・セット。写真はそのなかの一枚



※この記事で紹介したディー・テートリッヒェ・ドーリスの音盤、6タイトルはすべてSUEZAN STUDIOのWEBサイトから購入できます。


明石政紀

著書に『ベルリン音楽異聞』、『ポップ・ミュージックとしてのベートーヴェン』、『キューブリック映画の音楽的世界』、『フリッツ・ラング』、『ドイツのロック音楽』、『第三帝国と音楽』、訳書にファスビンダー『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』全3巻および『映画は頭を解放する』、ボーングレーバー『ベルリン・デザイン・ハンドブックはデザインの本ではない』、ヴァイスヴァイラー『オットー・クレンペラー』、サーク/ハリデイ『サーク・オン・サーク』、ケイター『第三帝国と音楽家たち』ほか。賞罰なし。