映画音楽急性増悪 第10回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」の第10回の更新です。『ヘレディタリー 継承』(アリ・アスター監督)を中心にホラー映画で描かれる家族間の争いと否認について考察されています。

第十回 赤色

 

文=虹釜太郎


 家族間の否認にはさまざまなものがある。家族のなかのBがAの死後もAを否認し続けることも世界ではありふれたこと。あまりにも幸せな家庭で育った者もそのことを時に深く理解できるはずだが、理解することと実感することと回復不可能なダメージを受けたことはそれぞれ別なことである。
 
 『ヘレディタリー 継承』(アリ・アスター/2018年)にもそれは顕著である。パイモンを宿らせる層よりも家族間の否認の層が濃厚であること。ミニチュア製作=パイモンの支配下の世界、悪魔=光線やパイモンの兆候=舌が鳴る音などの手法が効果的なよくできたホラーという層より、怖いのは家族間の否認の解決のしなさと話し合いなどでは到底溶けることのない絶望的なその強固さ。一見ホラーだが、実際にはまったくそこから逃れることができない人間のどうしよもなさや修正し難い根強い偏見やわかっていても止まらない嫌がらせたちの集積であるような作品は『ヘレディタリー』『哭声/コクソン』(ナ・ホンジン/2016年)だけでなく、今世紀にそれは膨大に製作されるだろうと思う。『ヘレディタリー』『コクソン』のジェネリックがいろいろと増えていくだろうけれど、それら映画の音がさらに単純になり過ぎて退屈に恐怖の誘惑をし続けることに苛立ったりはしない。しかし感情を制御できないだけでなく感情のぶつけ合いと増幅具合を切断しようとしない人間の、どうしてそうなるかの細部の集積というものに力と時間を注がないジェネリック映画たちは何重にも悲しいものになる。仕方なしの単純化はもう音だけで十分……
 
 俳優たちのそれら偏見や嫌がらせへの深い理解や直感や経験からの精度の高めあいにより、それらの集積は文学や語りでは達成不可能なものを映画は実現していくはずだが、嫌がらせや偏見のすばらしき集積は天才脚本家というものを要請しない。
 
 『ヘレディタリー』『コクソン』の二作品が今世紀最高のホラーであるなら、ホラー映画とはいったい何だろう。『ヘレディタリー』は『コクソン』よりさらにホラーから離れている。ホラーというより家族の困難をひたすら描くこの作品における母→母の母への否認。娘アニー(薄い娘)→母エレン(厚い母)。ぶ厚過ぎる母が傷つきやすい娘を過激にして自己破滅させる例は世界ではあまりに多く見られる。 
 破滅の前段階として偽の充実感に身を任せることになるのは通例過ぎる。スピリチュアリズムに浸かった母を否認する娘は世界中に無数に溢れているはずで、このような映画は今後さらに作られるはずだが、12分過ぎに母の幻影(とその音響)をピシャッと否定するのは、ありきたりな電気のスイッチで、その直後の学校の授業のシーンで、ヘラクレスの致命的欠陥は何かといえば、それは彼の傲慢さであり、彼は彼に対して示されるすべての兆候を認めるのを拒むから、という生徒の回答があり、○○に対して示される兆候を認めるのを拒まなくても恐ろしいことはやっぱり起きてしまう一例がその後に示される。世界は常に○○に対して示される兆候を認めないことばかりでいつも溢れかえっているが、その傲慢さは、争いを通じて体系化されていったさまざまな有効なはずの蓄積とそれが形つくったシステムには常に宿る。その傲慢さが時代や地域においてどのような濃淡を現すかなど簡易にわかるはずなく、単純化すべきでもないが、そのことの開示に挑むフィクションは常に手遅れの地点から開始され、そのような試みは常に支持したいけれど、毎回体験することになるのは、その手遅れの被害報告のえげつなさの濃淡である。
 電気をつければいったんは遮断または延期されるはずの危機は、なんの解決にもなるはずはなく(こういう描き方は映画ではあまりに多用されてきたので、いい加減何かしらの突破口がほしい)、この作品の世界では兆候が示されたのに○○をすれば避けられたのかもということはなく、それは迂回不可能なわけであるからただただ嫌がらせの告知にしかならない。チャーリーの死をめぐる家族間の言い争いとその争いに無言でいることは、世界中の家族のあいだで似た会話は延々繰り返されてきたはずだ。この地獄の解決へいたる方法はただひとつ、急いで遂行されなければならない家族の解消しかない。インナーマザーの肥大化にはインナーチャイルドを大切に…などと悠長なことを言ってる場合では到底ない。
 表面上のホラーを洗練させるためのいくつかの効果的な手法で大勢を納得させつつも、実際には家族間に潜在する膨大な否認と嫌がらせを作品内に散りばめていることこそが本作の魅力である。よくできた音楽や音響は表面上の階層を効果的に整えている。がそれはそれだけのこと。チャーリーの癖であった舌を鳴らす音はチャーリーの死後も、アニーやピーターにそれは効果的に鳴るが、それはそれだけのことでしかなく、本作における「音」の魅力をあえていうなら、それは映画音楽や舌を鳴らす音といったキーとなる音たちよりも、家族間の否認や無視における口調の詳細や無言たちである。
 
 その点において、本作は映画内の音たちに対しても仮面家族をしているような恐怖がある。しかしこのような恐怖は一般の観賞者やライターにはどうでもよいことかもしれない。しかし映画内部の仮面家族たちの実態についてはもっと普通の視聴者たちが意識できてるかもしれない。作品を崇めたてまつり過ぎであったりモノトーンにけなし過ぎであることは非常によくあることだけれど、ある表現が稚拙に見える時、それは他の何かから注意をそらしているというあるあるがある。
 効果的な手法がいくら洗練されていても降霊術からの、アニーの憑依、首切り自殺からの浮遊、死んだはずの者の復活という流れは、ジョーンが強引に登場し駆動していくのはあまりに強引で、そこからのペイモンの宿り先をめぐるメインストーリーは、アニーの弱さと自力で考えることの困難さが家族をずたずたにすることどもをまったく上回らない。自力で避難できないことが地獄を強化し続けることの前では、ペイモンをめぐるあれこれはお飾りでしかないが、その階層がなければそもそも映画自体製作することができない。
 チャーリーの表情や体の動きはとてもすばらしかったが(口の閉じ方がとてもとてもよいのだが、特に鳩を手に持ってゆっくりと歩くシーンのすばらしさは他の俳優には到底真似のできない輝き)、そのチャーリーの唐突な死(音響としては、まだチャーリーがパーティーに出発する前の、チャーリーがアニーに「裸足で出るなんて」と叱られる時点で、チャーリーの死を現す音が既に流れている)とともに本作のホラーはピークを迎え(アニーはチャーリーを死においやるパーティーに無理に行かせただけでなく、チャーリーの留守中にはミニチュアでエレンをエンパワーさせている始末)、あとはアニーの弱さと盲目さがひたすらに加速する強引なスクリューとしてはあまりにずさん過ぎるのに、ミニチュア製作、光線、舌が鳴る音による効果などの細部がそれをいくぶんカバーしてるだけという負債のままに映画はあっけなく終了してしまう。ペイモンが宿る先を巡るあれこれの不完全極まりない不完全燃焼が余計にアニーの弱さを不気味にはするものの、ジョーン登場からのメインストーリーの説得力はまったくなかった。そこの部分がなぜそうなのかは映画の専門家に解説してもらいたいが、しかしそもそもチャーリーという女の子の名前やピーターの肌の色設定などは…
 それら設定がリアルさよりも開かれ具合を重視するような事態は今後あらゆる映画でデフォルトになっていくはず。その開かれの行き着く先は、俳優たちの外観と設定があまりにかけ離れ過ぎなまま自然に進行するしかない、視覚優位から脱却した映画史を紡いでいく。何重もの視覚優位や自然さの優位から堂々と脱却していく一点をもってしても『ヘレディタリー』はすばらしかった。それをあざといとかいうなら、あざとくない歴史の中で今後も安穏としていればよいだけだ。
 
 本作はあらかじめホラーとしては荒唐無稽極まりない嘘です、しかし家族間に起きうる事態としては、淘汰されにくい多くのことを詰めこんでいるので、そこでいろいろダメージを受けたり、なにかを感じたり、忘れたころにそっかと背筋が嫌な感じになってほしいのですという宣言としても受けとれる。アニーの旦那であるスティーブンの自然発火にしても、チャーリーのスケッチブックの呪いというより、スティーブンのアニーへの無関心は憎しみの直前段階だと察知して不安定が超加速するアニーによる殺人にしかみえない。実際に自然発火するから映画なので、しかしそのような自然発火はパートナーの不安定の加速時に幻視というおおげさなものでなく感じとっている人はとても多いはずだ。本作での後味の悪さは、ペイモンの宿る先のメインストーリーのずさんさをそれ以外の細部が次々と追い抜いていく無駄遣いにあるのかとも感じるが、その点では無駄に作られ無駄に廃棄されるミニチュア=家族ということはぶれていない。
 
 映画冒頭でのミニチュア製作部屋で流れる獣が疾走しはじめる音楽は、この取り返しのつかなさを強調している。
 
 犠牲になるミニチュア(ドールハウス)=家族の立場などなんとも思わないという表現がさらにもっと強調されていたら本作はより残酷に別の怖さを獲得したのかもしれないが(後述する早回し音声でそれは一応なされてはいる)、三時間バージョンを観ていないのでわからないが、少なくとも二時間の劇場公開版に感じる違和感は上記の通りで、しかし家族の抱える解決不能の問題を幾多もの層でなかば強制的に考えさせることにおいては本作はしっかりした成果を残した。ミニチュア=家族があらわす家族間の冷然たる完全な無視というより、家族間のあきらかな壊れを軽視をする存在の継承が可能になりやすい幾多の場所についてもまだまだ多くの追求が映画ではまだ可能なことを強く示唆した作品でもある。
 アニーが家族をこのような結果に導かないための方法は映画冒頭でアニー自身が示唆している。全編に渡り絶望しかないようにみえる本作だが、実際には冒頭のエレンの葬儀のシーンには希望が充満していた。アニー自身がきちんと言葉で、エレンは理解するのが難しい人、立ち入ることができない人であったと話し、母だけの“儀式”、母だけの友人たちには違和感があるとはっきり公共の場で語っている。その唯一の希望の場所から既にしつこいくらい舌鳴らし音とペンダント(ペイモン)が強調されまくってはいる。エレンが残した本『スピリチュアリズムについて』に挟まれていたエレンからアニーへの手紙にある「犠牲は恩恵のためにある」でアニーがすぐに首を振るところまでは希望は十分にあった。アニーはもっと別のかたちで新作ミニチュアを作れたはずだった。
 
 『ヘレディタリー』でもっとも音響がおもしろかったのはピーターがぼんやりしている授業のシーンで、ピーターが先生の質問に答えられなかった直後に、別の女生徒がノーマルな発話とは思えない「早回し」音声で「希望がなさ過ぎる。避けられない運命なら、絶望的な仕組みの中での駒でしかない」とあっさり映画全体を要約しているところ。「早回し」はチャーリーが死んだ夜から翌朝へのピーターの顔のアップでも、学校でもピーターにまとわりつく。
 
 『クワイエット・ボーイ』(ステファノ・ロドヴィッチ/2015年)においては、リンダ(母)→トンミ(息子)。80分過ぎにリンダがリンダパパにトンミをベッドに運んでと頼む直後の、弱々しいカシャンッカシャンッという音は母による関係の放棄を効果的に現した。
 
 時空をさまよう鐘の断続音→限定されたある時間線で鳴る鐘の音→ある家の置時計の音というイントロが何度観てもすばらしい『叫びとささやき』(イングマール・ベルイマン/1973年)は、あまりにも真っ赤過ぎて日々の痛みを麻痺させる部屋でもまったくぬぐうことができない何かに絶望する刹那にカメラはドールハウスをとらえる。しかしこの園には『ヘレディタリー』と違い、孤独を求めてさまようことができる広い庭があり、そこで延々にいない母の幻影にとりつかれ続ける。脅迫的に誰かいる…誰かいる…と怯える『叫びとささやき』。
 『ヘレディタリー』が参照した作品は多数あるだろうが、いない母の幻影、ドールハウス…とそのルーツのひとつの『叫びとささやき』は巨大過ぎる。
 
 『ヘレディタリー』や『叫びとささやき』のようなドールハウスではないドールハウスと現実を行き来する『アバター』(ジェームズ・キャメロン/2009年)(なぜこの二作品に何の共通性もないのに『アバター』を思い出すのかといえば、それはシガニー・ウィーバーのせいだが、それについては割愛)では、『叫びとささやき』で描かれたような人々への嘲笑と冷淡さを超えて、現実でない世界への横断を決断する結末だが、『ヘレディタリー』では現実に負けることの妄態が様々に描かれる。いまだに過小評価されている『アバター』だが、西部劇の反復とか異種婚の言及以外であまりに本作が語られなさ過ぎるのは残念である。『アバター』でのシガニーのバスケプレイについてももっと語られるべき…
 
 苦しい苦しいと言いながらはなから治る気のない点においても『ヘレディタリー』と『叫びとささやき』は似ているが、喉がふくれあがって苦しいことが再三強調する点においても、寝室で時間が飛んで朝を迎える箇所でもベッドでひたすら助けてを連呼するような箇所でもこの二作品は酷似している。アングネスが死んだ後に「おまえはよく耐えた」と形式だけの言葉が虚ろに響く場で、これからも続いていくもの。
 積み重ねたウソを一瞬断ち切るのが自傷以外にないことにおいてもこの二作品は似ているが、赤の暗転で毎回刹那とはいえ正気に戻るチャンスが与えられているのは、鐘の音が平等に鳴るかのような環境がその土台になっていることを毎度毎度思い出させる。
 
 『叫びとささやき』はあきらかに「赤」のおかげでつまらない映画音響からさえも逃れられている。映画の音楽や音響を語ることがいかに無意味かをただただつきつけられる赤。正気に戻るチャンス。その多くをあまりにも日々忘れてしまう人間はまったく絶望的な存在だが、『叫びとささやき』の赤はただただ終わりを待っているだけの人間にとって暫定の有限の赤として開かれている。