特別寄稿:鬼火と二人のジャック

8月下旬に訳著書『戦時の手紙 ジャック・ヴァシェ大全』(河出書房新社刊) を上梓された原智広さんによる特別寄稿です。ルイ・マル監督作『鬼火』の主人公のモデルにもなったダダイスト、ジャック・リゴー(1898-1929)、シュルレアリスムの誕生に大きく寄与した作家ジャック・ヴァシェ(1895-1919)。この同時代を生き、若くして自死した二人のジャックの思想や死生観がどのようなものだったか、そして彼らの魂が原さん自身にどのようなインスピレーションを与えてきたかが綴られています。
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ジャック・ヴァシェの自画像とポートレート


文=原 智広


ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞を受賞したルイ・マル監督の『鬼火』はフランスの作家、ドリュ・ラ・ロシェルの『ゆらめく炎』を原作にした映画である。死に対する欲望に憑りつかれたアルコール依存症の男アラン。ヴェルサイユの療養所の鏡には7月23日の文字が書かれている。それは彼が自殺すると予定している日である。虚ろな目で街を徘徊する。腐蝕的疾患、常にヘロインを打ったかのような、催眠状態であるかのような、彼は決してもうこの世界で目覚めることはないだろう。昆虫学者が企む集団催眠実験のように、或いは光に目を眩ませながら禁断症状に陥った不眠の夜のように、ボロボロの静脈は朽ち果て、足首に麻薬を打つ。もはや街に戻ることはない。エリック・サティの曲と絶望感が重なりあって、退廃的な雰囲気を醸し出している。彼は決して引き返すことは出来ない。切断された本、からっぽの都市、徹底したダンディズム、くだらない日常、くだらない連中、無意味さ、冷凍された存在に含まれた死、影のように背後につき纏う死、飛び散るアルコール、そして通りではけたたましい悲鳴、呪わしいことに彼にとって30歳で自殺することは既に予定されており必然だった。
 
実は『鬼火』の主人公アランにはジャック・リゴーという実在のモデルがいる。彼は実際にはアルコール中毒ではなく、阿片中毒であった。
 
「生きる理由もなければ、死ぬ理由もない、我々に残された、人生に対して軽蔑を表す方法はただ一つ、そいつを受け入れることだ」(リゴー)
 
彼は殆ど作品を書かなかった。ダダイスムというものはそもそも、既存のもの、権力すべてに抗うという芸術方式であるから、作品を生み出すこと自体、ダダイスムの定義から外れてしまう。したがって、本当のダダイストはジャック・リゴー、ジャック・ヴァシェ、アルチュール・クラヴァンだけということになる。彼らの生き方そのものがダダイスムを表現しているのだ。自分が死んでもいいという感覚が彼らの中にはある、或いは潜在意識の中で殺されてもいいと死神に囁かれている。死の報せを受け取る度に日に日に彼らは衰弱していく。
 
「この私は何をしようかずっと考えてきた。だが、私に何が出来ようか? だが、何もすることがない。全く、何も」(リゴー)

私たちは組織に属して何かをしなければならないと思い込まされているだけで、実際には他人に命令されているだけですべきことなど何もないのだ。彼らはそのシステムに抗った。その結果、3人とも自殺した。
 
「私は、自分が存在していないと感じる瞬間にだけ生を感じる。私が生き続けていくためには、自分が存在していないことを信じるしかない」(リゴー)
 
心臓を抉り出してみようか? 脳みそを抉り出してみようか? 目ん玉を抉り出してみようか? それでもあなたは生きているだろう。器官がなくても人間は生きていける。西洋医学はたくさんの矛盾を抱えている。放射体に至るまで、無数の死の影が横切っていく、錯乱、狂気、自らが発狂者であることをただちに認めねばなるまい。実際に第一次世界大戦という陰鬱な背景があった結果として、彼らは自殺したのではなく、社会に殺されたのだ。そのことは肝に銘じておかねばなるまい。
 
「ジレンマ。二つに一つ。黙するか、或いは言葉にするか。自殺」(リゴー)
 
戦争中は英雄だった無様な姿。戦後の混乱期と、我々の現代と、生きる息苦しさで何が違うのか? むしろより一層世界は息苦しくなるばかりだ。神の審判と縁を切るためにリゴーは自殺を推奨した。これは良い選択だろうと私は思っている。未生以前のものの苦しみ。表意文字と無言の線と白黒の世界が眼球に映っている。私は子供の頃から、この世界はニセモノだと思っていた、本来の世界があるに違いないと思っていた、確信はなかったが、それはどうやら事実のようだ。
 
「眠りから目が覚める、なんと不本意なことか」(リゴー)
 
「あらゆる発達形成の完遂状態、それは死だ」(リゴー)
 
「私はいわゆる死の壮麗さ、死の成果、死の誘惑、死の陶酔、死ぬことの誇り、そうした死を放棄する」(リゴー)
 

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ジャック・リゴー


リゴーは殆どものを書かず、書いたとしても翌日には破り捨てていた。彼は究極の意識下において反芸術家であり、束の間のパフォーマンス以外に彼は何もすることがなかった。彼の一番好んだパフォーマンスは悪ふざけしたり人をからかって激昂させることだった。ヴァシェとリゴーは不幸ながら、殺戮現場の「見者」となってしまったのだ。そして、拳銃に憑りつかれた。
 
「その日暮らし、ひもの暮らし、居候の暮らし」(リゴー)
 
ダダイストやシュルレアリストが何をすればよかったのかと言うと彼らのようにパフォーマンスをするか沈黙するかどちらかの選択しかなかったのだ。実際に私は彼らに憧れつつ、彼らのような生き方はとてもじゃないが出来なかった。私は生にも怯えているし、死にも怯えている。鳥肌がたった後で、麻痺した片脚ともう一方の脚は凍傷にでもあったかのように動かない。空と日没は血の色に染まっている。ヴァシェやリゴーに憑りつかれると、非常に厄介である、何故なら、反芸術や完全否定に残された道は「自殺」でしかあり得ないのだから。私にもまだ生き延びる方法は見つかっていない。毎日、自分に嘘をついて騙して生きている。一つだけ確かなのは不治の阿片(オピオイド)中毒者がひとり現実にいるということだけだ。
 
推定年齢33歳。無職。生誕地不明。住所不定。補導回数13回。学歴中卒。病名、人間と世界に対するアレルギーがあること。社会に許される程度の麻薬中毒者。趣味、人間を罵り、挑発して、激昂させて遊ぶこと。あらゆる権威に唾を吐きかけること。
 
彼らは実際に何も持たなかった。所有するということは必然的に社会に縛られることになるからだ。だが、忠告しておこう、世界が崩壊した後で生き延びるのは我々のようなものたちだ。その後で拳銃の引き金をひく、痙攣したような、神経症的な笑みで。究極的な破壊を旗印しようじゃないか。これが我々の生の帰結だ。何もかもが下らない。嘲笑すればよいではないか。馬鹿げた人間どもの生活とやらを粉々にぶち壊してやる。生きることは即ち他人であることである。自分などというものはどこにも存在しない。すべては不合理だ。この生の麻痺状態は有限無限の神々が立ち去った後の何もない風景に似ている。生きていると感じた瞬間に私は困惑し、拳銃の引き金をひくことになるだろう。人生とは、やれやれ、酷く退屈な、面倒な仕事であり、私は何とか日常をやりくりしている、死刑囚のようなものだ。我々は世界に閉じ込められている。この世は牢獄だ。いっそのこと途轍もない嵐がきて、すべてを吹き飛ばしてしまえばよいのに。薄汚い人間どもを。そして、空白から出発しようじゃないか。だが、我々は存在せず、存在する可能性も殆どない。私は書くことですべてを忘れるように試みている。だが、このような延命措置はいつまで続くか定かではない。神秘的な啓示を直感することになればいいのだが、そのような体験はない。それは私が悪徳に人生を捧げたからだ、悔いはない。虚無、不条理、苦しまぎれの暗示、白紙のページ、言葉の意味と意味が接近するがもはや交わることはない。
 
当然のことながら、最も偉大な芸術家はクラヴァンやリゴー、ヴァシェのように何も創り出さなかったものたちだ、彼らは無論のこと芸術家であることを望まなかったが。彼らは当然気など狂ってはいない、しかし、周りを取り巻く人間どもは彼らを哀れに思い、二重人格だとか、麻薬中毒者だとか、狂人だと罵る。ふざけるな。正しいのは我々だ。私は彼らの血を引き継いだ。私は彼らの魂を継承した。私は彼らから挑発の技術を学び習得した。我々はあなたたちとは別の生をもち、別の世界で生きている。
 
私の肉片も海にばら撒いてくれたまえ。墓なんぞいらない。死んでまであんな狭いところに閉じ込められるなんて正気の沙汰じゃない。永遠の航海に旅立とう。感動は感動だ。恍惚は恍惚だ。戦慄は戦慄だ。私は自分の理性に日々語りかけている。隠蔽された神話を暴くために。実際にそれは偶然性の中にしか生み出されない。リゴーやクラヴァン、ヴァシェが人生という中で芸術を不幸にも生み出してしまったかのように。否定の行為と俗界からの離脱。束の間の休息。眼が盲目となって初めて「もの」を見ることが出来るようになる。奪い去られた世界を奪還するために、私は出来事の記者とならねばならないだろう。何という苦行! 何て馬鹿げたことなのか! 私は白痴だ。「世界の箍は外れている、まさかそれを修復する羽目になろうとは!」(シェイクスピア)。何故人はお金を欲しがるのだろう、何故人は権力や権威に憧れるのだろう、何故人は決められた人生に抗わないのだろう、何故人は危険を好まないのだろう、何故人は毎日同じようなことをして生きていけるのだろう、何故人はここまで残酷なのだろう、何故人は他人よりも優れていると思われたがるのだろう、実に不思議だ。実に不可解だ。実に滑稽だ。富と苦痛の平等を推奨し、街中で無作為に機関銃を撃たなければ! 早く! 早く! 急がなければ! どうやらあまり先は長くないようだ。


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ジャック・ヴァシェによるスケッチ


第一次世界大戦で彼らは生命など無意味であることを知った。もう一人のジャックである、ジャック・ヴァシェはアンドレ・ブルトンの唯一の師匠と言うべき存在だった。シュルレアリスムの本質を発明したのもヴァシェだ。ヴァシェとブルトンが最初に会ったとき、ヴァシェはナントの病院で一瞥しただけで殴りつけた。ブルトンは当時の流行、象徴主義を真似たような酷い出来の、文学部の将来を悩むような感傷的な詩を書いていた。ヴァシェはブルトンに辛辣なこと、脅し、罵詈雑言を繰り返し言った。ジャック・ヴァシェは本人が望んでいないのにも関わらず、不幸なことに人生を研究される立場になってしまい、何故かシュルレアリスムやダダの先駆者になってしまった。ヴァシェはブルトンをポエート(芸術坊や)と言ってからかっている。
 
「私は芸術も芸術家どもにもうんざりだ! くたばれ、アポリネール!」(ヴァシェ)
 
シュルレアリスム映画には『アンダルシアの犬』や『貝殻と牧師』、ルイス・ブニュエル、ジョセフ・フォン・スタンバーグ、ヤン・シュヴァンクマイエルなどの作品があるが、どの作品もシュルレアリスム的なだけであって、シュルレアリスムではない。したがってシュルレアリスム映画というのはこの世に1作品も存在しない。心の純粋さに従い無意識を最も重視するという点で、シュルレアリスムは映画には向いていない。演出があるし、無意味と無意味を繋げればいいわけではない。オートマティスムもデペイズマンも優美な死骸も所詮作品を生み出す前提でやっている行いだから「意識」となってしまう。「無意識」に作品を生み出そうと躍起になればなるほど「意識」になり、「意味」を持ってしまうという矛盾がある。(余談だが、もしかしたら、アントナン・アルトーの「もはや大空はなし」が映画化されていたとしたら、唯一シュルレアリスム映画となったかもしれない。)
 
シュルレアリストたちが表面的に現実離れした絵画や、フロイトの影響下の夢を重視した詩を書く中で、ジャック・ヴァシェだけは違った。彼は「ユーモア」という概念を発明した。その概念は「何の意味もない芝居がかった過激な振る舞いを感覚に従って行う。また、それは決して喜びを与えてはならない。行動を一切コントロールしない。夢想状態で、覚醒するために行う」。
 
だが、それは誰にも受け入れられることはなかった。ヴァシェは次のように語る。
 
「詮索好きな連中はおぞましい洗脳だと。何故、作品を作り出さないのか?だと。ユーモアそれ自体に目的をもち、何かを生み出そうとするならば不首尾に終わるのだから。自然に起こるものだ。何故理解出来ないのだ? ユーモアは皮肉を書くことで生まれるわけじゃない。望むままに、自然に愉快な体験の渦中に、自身の触覚に委ねること、それ以外の方法はない。そう、とんでもなく突飛な体験をありのままに受け入れる。それが生み出すということだ。すべてのことを愉快なことにするために、厄介なことでも躊躇することなく飛び込んでいく!」(ヴァシェ)
 
そういうわけで、芸術なんてものは存在しない。芸術があるとするならば、それはスキャンダルや行動や偶然性の中に生まれるひとつのある現象のことである。絶対的な矛盾を孕みつつも「もの」を生み出すという行為は非常に虚しい。だが、私に一体何が出来ようか?
 
苦痛と苦悩と破壊された夢語が今晩も静かにやってくる。私は震えた手でペンを走らせる。途轍もなく長い永遠に続くかのような不眠の夜。私のところに時折尋ねてくるのは、ヴァシェとリゴー、クラヴァンだけだ。いい気分だ、悪くない。 


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『戦時の手紙 ジャック・ヴァシェ大全』原 智広訳著(河出書房新社) 


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■2019年9月15日「ジャック・ヴァシェの召喚」@京都・SOCRATES
※ヴァシェの朗読ライブと、仏文学者の鈴木創士氏+原智広のトークイベント。19時30分開場。
https://www.facebook.com/events/519243078882472/


原智広

1985年生まれ。中卒。作家、翻訳家、脚本家、映画制作。訳著に『戦時の手紙、ジャック・ヴァシェ大全』(河出書房新社)、論文に「光学的革命論」、「仮象実体的社会と電子的スペクタクル性、その全貌への憎悪」 。映画『イリュミナシオン』『デュアル・シティ』(共に長谷川億名監督)の原作、プロデュース、脚本。「ル・ポン・ド・ソワ」、「NOBODY」などの媒体で映画批評、フランス文学について連載中 。