映画音楽急性増悪 第8回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」の第8回目は『袋小路』(ロマン・ポランスキー監督)から始まりさまざまな視点から考察される映画のコメディ性について書いてくれています。意図せず人間がコメディアンへと変形してしまう状況、○○の登場待ちのコメディ、音読しておもしろい映画、ジムノペディ、バルカンコメディ、『殺し屋とセールスマン』(エドゥアール・モリナロ監督)の音楽と効果音の対比、不死の者が元々のコメディアン属性に関係なくコメディ要素を持ってしまうこと、などなど。

第8回 チキンハウス



 文=虹釜太郎

 やっとおもしろくなってきやがったのにもう終わっちまうのかよ! 本来なら出会わなかったもの同士を無理やり投げやりに出会わせては先におっちんでしまう者どもはそんな台詞など吐くこともなくただただおっちぬ。ただただ死ぬ。それで残された者どもがああだこうだあれこれ言うわけだ。

 ポランスキーの『袋小路』(1966年)は、ポランスキーと共に脚本を担当しているジェラール・ブラッシュが切れ味ある仕事をしているのだろうけれど、やっぱりキャスティングがすばらしい。
 ドナルド・プレザンスとフランソワーズ・ドルレアックの夫婦の日常描写以前に古城が出てくるだけで可笑しい。ジャック・マッゴーランがもうダメだとつぶやき、ライオネル・スタンダーがひたすら汗をかいて禿げ散らかした髪が風に吹かれ、鳥が鳴き潮が満ちているだけで、ああこの世界にずっとずっといたいなあと思わせてしまう。
 本作の音の魅力について先に言ってしまえば、人間の作る音楽どもはたちどころにそれらの再生を止められてしまうところだろう。だから音の魅力というか、音楽(ただ「音楽」というよりは「音楽ども」とか「きゃつら音楽ども」と呼んだほうがいいが)をつくる人間どもへの不信感の魅力。レコードプレイヤーから再生されるレコードはやっと再生されたと思ったら、すぐに止められてしまうし、また再生されたと思ったら今度はクソガキによってめたくそに引っ掻かれてダメになってしまうし、ラジオから人間どもの作る音楽が流れればそれは一瞬でオフにされる。そんな世界では、車が猛スピードで砂塵をあげるだけでも可笑しいのだが、それも一瞬である。
 一応音楽はクリストファー・コメダだが、コメダの音楽もまた大きく人間不信に加担し、コメダの音楽自体が人間どもの作るしろものなんざあろくなもんではないですぜ旦那ぁ全開。
 いきなり遭遇する古城は俗と鳥にまみれていて、かかる人工の音楽たちはすぐに止められてしまう。鳥たちは最後の最後までうるさく、しかし鳥たちは自然の存在ではなく人間が介入したことによる結果で、人工物である凧のほうが疲れきっていて、闖入者である正気なギャングのおっさんは死んでしまい、それでも世界は続いていくが、またしても人間不信のポランスキーだよなと何も考えないままにレッテルを貼られまくってしまうポランスキー作品の中でも本作はもっともせつなく、それは鳥どもが最初から最後までひたすら鳴いていて卵まみれでドナルド・プレザンスの頭があまりにも卵そのものなことが基調であるからか。ここでのポランスキーは人間不信というよりはそれら卵総体が人工的に続いていくこと自体に不 信なのだという馬鹿馬鹿しいことを鳥たちの言葉に代弁させたい気持ちに映画の途中で何度も何度もなる。チキンハウスをぶち壊すことに発作的に共闘する場面はだからこそ清々しく。本作で救いとなる箇所は実際にはかなり多く、それゆえ本作はかなりのエンタメだが、そんな救いな箇所の一例は、たとえば俗たるものの代表的な存在である古城の若妻がギャングに出すコーヒーをコーヒーポットごと窓の外に投げ捨て、すかさずギャングがにゃはははははと思わず笑ったり、卵頭の古城の主人がギャングと一緒に妻が大事にしている鳥小屋をぶったぎったりするような細部で、墓穴を掘らされるシーンでもそうだが、ドナルド・プレザンスのやりゃあいいんだろやりゃあな奴隷条件反射な動作たちがいちいちすばらしい。なかなか専門職の俳優たちがこうした投げやりな自動動作に習熟することは難しいかもだが、日本では俳優以外でその能力が高いのはひねくれスリーの中でも三四郎の小宮だろうか。投げやりで自動動作といえばオギヤハギの小木も恐ろしい。そんな小木もついに映画準主役に。オートマチックな投げやりも余裕でできる(どうしたって知的過ぎだけれど)名優フィリップ・シーモア・ホフマンが他界してしまったし、その能力において現在の地球はかなりの人材不足なのかもしれない。
 それにしても車が走ってる一瞬だけでおもしろいって映画は貴重。ジョージが知人の家族と再会する時の車の挙動が本来あんなに獰猛なわけがない。テレサに成り行きでジェームスにされてしまうディッキーが「あれはトニーだ、たいしたハンドルさばきだ」の車のシーンは一瞬だが何度観てもおもしろい。ジェームス、昼食はチキンよ………はぁ…
 富裕層を風刺するコメディ?は『アイズ ワイド シャット』(スタンリー・キューブリック/1999年)他いくつもあるなか、そもそも「風刺」という言葉が耐用期限を迎えている。『袋小路』は富裕層風刺などという生やさしいものでなく、人間不信からの爆発しやすい可燃物がすてばちでやけくそな生死の賭けのその日暮らしどもにかつあげされ続ける無慈悲なブツだ。『袋小路』は映画でしか実現できなかった奇跡のひとつである。
 一部の満たされきっているはずの者がなぜかコメディアン/コメディエンヌに変形誘導されていく原因の大きなひとつには、世界からあまりに逆境なきままに受容されてしまったことに対するあせりや不安感や罪悪感があるはずで、その緊迫した笑いへの急ぎでの逃走経路の背景には強烈な自己否定があり、それが自らの身体を喰らい尽くしていく叫喚が、それが他者にはお笑いに映ってしまう場合があるだろう。

 さえないアホ面ばかり出てくるくせに、その当のアホ面の登場人物のひとりが「バカを探してる」とほざくのが笑えない『奇人たちの晩餐会』(フランシス・ヴェベール/1998年)は、ドヤ顔のアホ面たちが本気でバカを見つけたいとハードルを上げまくり、禿げ散らかしが足りないピニョン(ピニョンはコメディ向きの名前なのか…可能ならピニョンを無理やり和名にしてみてください)がとてもかわいそうになるのだが、バカをバカにして楽しむ会という主題は、バカをバカにして楽しむのがあまりにもSNSでも朝から深夜まで常態化している日本では、このような木曜日のバカを味わう晩餐会のまわりくどさは貴重な気もする。ブーメランバカのブーメラン論も、バカの語るバカの基準の話も、呼吸するようにバカを嘲笑するのが当たり前になっている国では何の衝撃も微塵もなく、この映画においてはそもそも音楽がすぐに止められたり急停止するような運動神経は皆無で、バカなピニョンが次々に数珠つなぎにバカを露呈するという構成だけで乗り切っているように見える。しかし実際にはピニョンはバカなのではなく重度の寂しがり屋なだけだ。愚者の中の愚者、まさに愚者の王たる佇まいの知人がいるのだが、彼はバカなのでなく、人から怒られるという強い感情=愛情というのに無意識にあまりに強く味をしめきっているため、表面上の行動は常に人を怒らすバカな行動をとり続けてしまう。それはその者にとって継続的に愛情を獲得するもっとも有効な方法のひとつである。しかしそれがめんどくさいのだよ!そしてそういう者と共依存になっている者とのユニットはほんとうに恐ろしく無敵であるのだが、ピニョンの重度の愛情不足が結果的にバカを擬装するのはまったく笑えない。映画の最初と最後のクレジットシーンの軽快な音楽がまったく荒涼として響いてしまうのはピニョンの底知れぬ愛情不足ゆえで、ジャンルとしては「コメディ」でなく「愛情不足」。本作ではキャスティングのフランセーズ・メニドレのドヤ顔が目に浮かぶ。

 『銀魂2 掟は破るためにこそある』(福田雄一/2018年)を観ている知人は皆無。わたしの知人たちが本作を映画として認めることなど永劫ないのかもしれない。原作からは隔絶している存在の佐藤二朗がある種のある種のある種のある種のある種のある種のある種のある種の…と、またはあるいはなるいはなるいはなるいはなるいはなるいはなるいはなるいは…というのが本作のもうひとつの映画音楽となってしまう佐藤二朗待ちみたいなことを、ホン・サンス映画での、ダメ男が女を口説く最初の台詞の言い方自体待ちと並べたらぶっちぎれる人たちだらけなのだが、それはともかく、いろんな映画単数ではなく、サーガとなる映画たちで起きている○○待ちについてはもっともっと書かれるべきである。○○待ちは当たり前だが人間以外でもあるので。
 『ヘウォンの恋愛日記』(2013年)のまたしてもな緑の瓶ババーン!は言うまでもない。ホン・サンスをまとめて観た後はきまって中国内朝鮮自治区料理屋で飲めない緑の瓶を頼みたくなる。しかし『また一年』(ジュー・ションゾー/2016年)を観た後ではもう何も飲みたくも食べたくもなくなる。ある種のある種のある種のある種の…が映画の音楽になってしまう世界よりは、年の功より亀&co.のスポーツガーデンひ、またの名を亀2(twokame_maeda)こと前田タイクソンが映画音楽をやる世界が早く到来してほしいが、ヒップホップもダブも一体なんだったのか毎度毎度に初期化される年の功より亀&co.のスポーツガーデンひが俳優をやる方がいろいろ早いのかもしれない。
 話を『銀魂2』に戻すと、銀魂の河上万斎のモデルの河上彦斎は、剣客というよりは異常な志士として記録に残っているが、『IZO』(三池崇史/2004年)という映画はあったけれど、『GENSAI』という映画がいつか作られてほしいものである(彦斎の読みは「げんさい」)。また映画好きには日本の漫画原作の映画を百%その存在を認めない人が多いが、しかし漫画原作の映画がこれだけ増えた現在、それが映画でないなら何なのかを考える場はもっともっと必要である。さらに関係ないが、廃刀令を描く映画は世界にはまだまだ足りないと思う。神風連の乱、佐賀の乱、秋月の乱、荻の乱に関係のない架空の乱や別の視点からでもよいからぜひ廃刀令映画はもっと増えてほしい。廃刀令題材はコメディ映画化と相性がよさそうだけれど、廃刀の衝撃波はいまだ世界には不十分。歴史本には到底描かれない情けない細部たちが無数にあったに違いない。さらにもっともっと関係ないが、勃興する男の娘文化はそろそろこの国でも代表作が撮られるべきだろう。

 『ジムノペディに乱れる』(行定勲/2016年)は日活ロマンポルノのリブート。全国の映画大学の歴代卒業制作でいったい何回ジムノペディが使われたか知らないが、とにかく『牝猫たち』(白石和彌/2016年)以外は軒並み酷評されていたりするこのシリーズだが、このリブートは今後もぜひ続いてほしい。『ジムノペディに乱れる』がエロでないとキレてる人がいたり、主役にお笑い芸人使ってる時点でダメとかの酷評は自分には意味不明だった。この映画を観た後ではゴールデン街でも地獄谷でもしょんべん横町でもそんな場所を早朝に歩けば疲れ笑いがこみあげてくるわけだし。ジムノペディ初体験がスネークマンショーでしかなかった者はたくさんいる。しかしそういう初体験でなくてもジムノペディという音楽自体が過剰にコメディ過ぎる。サティの人生を描いた映画など悪夢でしかないが、本人が真剣であればあるほど後世にがちコメディに響く偉大なサティに相当にはまってしまったリスナーはもうその淵から脱け出すことは不可能に近い。そして今日あなたに絶対にやってほしいことがあって、それは今日家に帰ったら、すぐに部屋で全裸になっていただいて、家族がいてそれができないなら家族が寝静まるのを待ってすぐに全裸になっていただいて、そこでおもむろにジムノペディを再生していただいて、バッカスを讃えながら一心不乱に全裸で踊り狂ってほしいのです。そんなあほなことができるかとなるかもしれませんが、ジムノペディとは元々そういうもの。全裸アポロン礼賛祭りジムノペディア。ちなみに自分も昨夜ジムノペディかけて全裸で踊り狂ってみたのだけれど軽い熱中症になり、そして雷が鳴っていた。とにかく全世界の映画大学の課題で音楽にジムノペディとジョー・ミークの「アイ・ヒア・ザ・ニューワールド」を使うのは一切禁止に。

 『ありがとう』(万田邦敏/2006年)は、プロゴルファーチャレンジモードになってからの無理な挑戦を鼓舞する音楽とフルスイングだけをループして観てしまうくらい好きな映画だが、知人たちにはあまりに観られていなくて愕然とする。しかし言うまでもなく『ありがとう』はやはり残酷な映画である。 小説では黙読しておもしろい小説と音読しておもしろい小説は必ずしも両立しない。音読して初めておもしろい映画という言い方は不可能な日本語であるが、初めてかどうか別として『ありがとう』は、それでも音読して初めておもしろい映画だと感じてしまう。万田監督を通過しての『ダーティハリー』(ドン・シーゲル/1971年)のX回目は、音読しておもしろい映画としてさらにエンジンを吹かしてもいくわけで、万田監督という存在は、いち映画監督というよりは、映画を音読させる腑活者としてこの世界に顕現しているのかもしれない。

 『ナポレオン・ダイナマイト』(ジャレッド・ヘス/2004年)は冒頭のポンチャック然としただらしない音楽がただそれだけで楽しいが、バス車内で子供がナポレオンに今日は何すんの?できいてはじまるナポレオンの一連の行動はかつて東京某所で延々と行われた、よよよっちゃんとツポールヌによる連続パフォーマンスを強く思い出させる。ナポレオンはバスの窓から紐をつけたルチャ人形を飛ばしたが、よよよっちゃんとツポールヌは筋肉マン人形と自らの身体をガムテで固定させてがんじがらめになりながら亜空間を次々に造り出していった。ナポレオンのようにバス車内でやっていればな…しかしナポレオンは世界共通のクソメンぽくふるまっているが、スペックが元々高過ぎる。これでは日本のクソメンどもは笑えない。ナポレオンは、らっこフェスティバルのようなトップクラスの日本のハガキ職人のように日々の努力を欠かさない。『ナポレオン・ダイナマイト』を含めた多くのしっかりと準備された小ネタの集積であるコメディ映画を観ていて毎回感じることなのだが、それら小ネタの優れた積みあわせは、『シャウト』(1978年)のシャウト一発に負けてしまうということで、スコリモフスキにしてもポランスキーにしても本人が俳優もやる監督の「シリアス」な作品映画がコメディ映画よりもコメディであるというのは、監督たちが不条理を蒙り過ぎた実人生の経験と切り離せない。

 合言葉は「カレー粉」とか象に乗ってたらいつの間にか鰐に入れかわってましたーでぐったりする『モンテカルロ・ラリー』(ケン・アナキン/1969年)は今回、『チキチキマシン猛レース』(ウィリアム・ハンナ、ジョセフ・バーベラ/1968〜1970年)DVD版と交互に観直したのだが、『モンテカルロ・ラリー』DVDには吹き替え版が収録されていない。レース吹き替えナイトをやりたかったのに。ターバン巻いた男たちのワヤクチャ大慌ての吹き替えを聴きたかったのに。仕方ないので『チキチキマシン猛レース』の「THE BAJA HA HA RACE」「SCOUT SCATTER」「REAL GONE APE」をそれぞれオリジナル音声と吹き替え音声で観直す。吹き替え版チキチキマシンはもう何度観ているかわからないが、吹き替えチキチキのケンケン神山卓三世代としては、オリジナルの英語音声はほとんど聞いていない。で改めて両バージョンを観比べ(聞き比べ)て感じたのは両者はまったく別の作品だということと日本語吹き替えチームの熱気と各参加マシン名の名付け方のとてつもないいとおしさであった。まあそんなこといまさら言うまでもないけれど。岩石オープン。ひゅ~どろクーペ。大好きな訳だが、それぞれオリジナル音声ではどう呼ばれてるかは関心ある方は確認してほしい。当たり前だけれど訳により可笑しさはまったく変わる。それはビーストたちが全員大阪弁を話しているアニメでも明らか。ちなみに「THE BAJA HA HA RACE」「SCOUT SCATTER」「REAL GONE APE」のそれぞれの日本語タイトルは「底なし沼のデッドヒート」「アパッチ平原大突破」「妨害ゴリラ作戦」であり、こちらの訳はいたってまともでしかないが、本編でのレース実況の野沢那智のような過剰さや逸脱依怙贔屓が『モンテカルロ・ラリー』の吹き替えでどんだけあるかを確認したかったのだった。ちなみに『モンテカルロ・ラリー』の原題は『THOSE DARING YOUNG MEN IN THEIR JAUNTY JALOPIES』。こちらはオリジナルタイトルの方がはるかによいですね。とにかくおんぼろ自動車がJALOPIESというのが、このJALOPIESという単語の語感自体がよい。おんぼろ自体が死語だけに余計ボロクズ感が増しますが、とにかくあらゆるJALOPIESの挙動音のキョドった音たちがすべて可笑しいのってチートですよね。

 書記長の書記局の書記係…の『スターリンの葬送狂騒曲』(アーマンド・イヌアッチ/2017年)は『清須会議』(三谷幸喜/2013年)と比較する人も多いだろう(清洲会議は1582年7月16日に開催)。『スターリンの葬送狂騒曲』冒頭の「ドイツ人をスープに」もモンテネグロ人の前では霞んでしまう。モンテネグロの国名由来。オスマンどもが襲って来ても自ら自国の山々に火を放つ。『スターリンの葬送狂騒曲』の面々たちが放つジョークとモンテネグロ十戒のガチの自虐を比べてみよう。バルカン恐るべし。勇猛勇敢はスピリットやガイストの問題ではそもそもないことをモンテネグロは我々に教えてくれる。モンテネグロが1905年から日本に宣戦布告しっぱなしのままだったというのもすごかったが。今後も世界は政治コメディ映画においてはバルカン地域を除いた「安全圏」でブラックコメディしていくしかない。バルカン恐るべし。『スターリンの葬送狂騒曲』では、ニキータ・フルシチョフとラヴレンチ・ベリアのNKVD警備隊最高責任者のおっぱいアタック、ヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣とゲオルギ・マレンコフの挨拶シーンの音楽たちが形造るリズムは長続きしない。マリア・ヴェニアミノヴナが再演奏拒否するとこでの客のいるなしで反響が違うなとディレクターが困惑するところなどがよいのだが、人間など反響防止素材でしかないという表現が続くわけでもない。本作では政争で翻弄される音楽家たちを描いた映画でもあるが、戦争に翻弄されたロシアの作曲家・音楽家といえばショスタコヴィチ、プロコフィエフ他多数いるなかで、しかし精緻に映画化してほしいのはフレンニコフとショスタコヴィチとの関係の詳細で、1948年から四十数年もソ連作曲家同盟理事だったフレンニコフによる愛国心ジャッジの細部や本音と周辺人物との葛藤を。しかしその点においてもっとも気になる旧ソビエト圏作曲家はヴァレンティン・シルヴェストロフで、特に戦時中のシルヴェストロフの作曲の困難とサバイバルについては映画という方法でしかできない問いかけが可能かもしれない。それはモンポウについても同じ。シルヴェストロフもモンポウもあまりにも複雑な感情が奇跡的に作曲に浸透しているが、その「豊かさ」と戦争体験は残念ながら切り離せない。だから「音楽は最後に近づいている。だが砦が決壊しないようにしなくてはならない」という言葉は何重にも咀嚼しなければならないものである。それにしてもいつかバルカン政治コメディが本気を出してきたらその時は恐ろしいことになりそうだが、そうなる前に稀有な映画論(映画評論でも映画批評でもなく)でも知られるダンシングライター佐藤健志監督主演(&ダンス指導)で政治コメディダンス映画を作ってもらおう。そして西部邁について『AA』方式で迫る映画『SN』が作られるなら佐藤健志の他にも柴山桂太、宮台真司、中野剛志、榊原英資、黒鉄ヒロシ、宮崎正弘、ひろゆき、栗本慎一郎、富岡幸一郎、三浦小太郎、田原総一朗、藤井聡、宮崎哲弥、桝添要一…といった水と油な出演者を並べなければならないはずだが、それと同数の女性出演者はでは誰なのかを考えてほしい。もちろん『SN』と同時に『NK』(小室直樹についての十時間映画)も作られるべきで、どうして『SN』や『NK』が従来のシンポジウムでなく映画でなければいけないのかは、SN(西部邁)もNK(小室直樹)も全く知らず関心も微塵もない人間が事故的に遭遇する可能性だけしかない。ちなみに小室直樹と長谷川和彦と栗本慎一郎による『罵論 THE 犯罪』(1986年)は映像記録が残っているならぜひ映画化すべきである。小室の存在感を定期的に思い出す時、どうしてもいまの日本の生存している俳優たちと比べてしまう。

 なぜ企画が通ったのか全編を通してさっぱりわからないロシアンコメディ『このサイト、マジでヤバイ』(パヴェル・フーディヤコヴ/2013年)は一瞬たりとも笑えるシーンはない。本作ではスヌープドッグがモスクワのPC修理屋役で出てくるのだが、せめてスヌープにはラップで本作を壊してほしかった。『ジョンウィック』や『デッドプール』らが延々シリーズ化していくなかで本作だけは続編は作られないはず。しかしロシアンルールはわからなすぎるので今後何が起きるかわからない。

 『このサイト、マジでヤバイ』の後で『殺し屋とセールスマン』(エドゥアール・モリナロ/1973年)を観直すと細胞の隅々までほっとする。本作ではメインの音楽はえんえんもの悲しく、効果音たちはずっこける。モンペリエに向かうすばらしいアホ面が乗るアホ車のワイパー音やホテルでの蛍光灯の点滅音たちは周到に敷き詰められていくのだが、これらのなんでもない音響たちは身体にすんなり吸収されるように可笑しい。殺し屋とセールスマン、アホ歯ニカ笑いとブチキレトラック運転手の眼光、自分の車の間違えと車に本来乗る人の違え、自分は診療代を払う一方でやつはクリニック開業、自殺と出産、狙撃未遂と自殺未遂、ヒッチハイクと置き去り、狙撃位置確保と自殺位置確保、音楽と音響の対比がつくりあげていく細部はいまだにコメディ映画の教科書。コメディ映画は孵化し全感情映画になるか残骸になるか。本作がいまだ古びないのは、その建築が丁寧で、その鮮やかな対比の反復がひとが持つ感情たちを立体的に揉み去っていくからだ。本作を観た後では人は何でもない日常音に苦笑し、仮に自裁しようとした時にも、自分の自裁の対比となるのは何かが気になるようになる。本作は人間の基本構造は感情であり、その表皮に理屈たちが貼り付いていることを明らかにし無情に去ってていく恐ろしい作品でもある。ところで本作でのピニョンもまた異常な寂しがり屋である。しかしピニョンが遭遇する事態での各々の寂しさたちはひとつの寂しがり屋さんとしてくくることができないのだ。一体どうなってるピニョン…

 エイリアンシリーズでいまのところ唯一の「コメディ」である『エイリアン4』(ジャン=ピエール・ジュネ/1997年)はいろいろ滑っていて、特に完全版の冒頭はひどい。『エイリアン4』はいくつもの箇所で笑かそうとしてくるが、本作でのリプリーのいらつき全般は、その半端過ぎるコメディ演出のせいではと感じられるほどである。少しややこしいが『エイリアン4』完全版はディレクターズカット版ではなく、ジュネ監督によれば、ディレクターズカット版はあくまで97年公開版で、では完全版が何かといえば、別のエンディングと別のメインクレジットが観れるファンサービスでしかない。ジュネチームなせいか、真面目に仕事している衣装班のはずだが、冒頭のオリガ号船内の乗組員の衣装と動きがインチキレストランコントにしか見えない。『エイリアン4』はなんだかんだでもうニ十回以上観ているが、毎回冒頭でなんなんだよこのダメコントのはじまりは…と萎える。そんな『エイリアン4』だが一ヶ所だけ大好きなシーンがあり、それは飼育してるエイリアンに科学者がなめきって近づいて顔芸をかますシーンではなく(ハイエナとディープキスしてハイエナの舌のザラザラが木工用やすりに近いと改め確認するパンク町田のことをジュネが知っていれば違う演出になったはず)、それはリプリーとコールの足ぶらぶらのガールズトーク。ガールズトーク…しかし二人とも人間じゃありませんというのが。名優ふたりが真面目に演技してるから可笑しいのであり、オリガ号のジュネチームの顔芸人たちではそうならず。

 『エイリアン4』でもうひとつよかったのは、エイリアン同士の仲間割れ。エイリアンシリーズでもプロメテウスプリクエルシリーズでも人間は常に仲間割れしているが、『エイリアン4』でエイリアンが隔離室を脱出したのは仲間割れして仲間を割り殺して体液をぶちまけたからであり、『エイリアン:コヴェナント』(リドリー・スコット/2017年)のネオモーフはすばらしいポテンシャルを示したが、エイリアン同士は仲間割れしない。人類はネオモーフよりはるか以前の原始形態のままであり、仲間割れで滅びるしかない。『コヴェナント』にはネオモーフという可能性があったが、『エイリアン4』には人間にもエイリアンにも可能性はないかのようだ。エイリアンシリーズにおいてはフェイスハガーは、寄生という喜劇を代表する形態で、大気中の微粒子から感染するエイリアンは喜劇性から大きく離れる。なお水中とコメディの模索は、怪獣を介在しないそれは映画においてはまだ模索途中。エイリアンシリーズはダン・オバノン&ジョン・カーペンターからホドロフスキーのたどり直しでの別の時間線での作品は今後作られるはずもないが、カーペンターエイリアンやホドロフスキーエイリアンは水中や砂中で分岐してほしくもある。
 『エイリアン4』でトースターの同類とされたコールちゃんのいじめられるシーンはよくできているが(ウィノナのいじめられっこ演技が突出している)、よー!コールッ『いさましいチビのトースター』(トマス・M・モディッシュ著)読めよっと言われないだけましだった。リプリーは言う「面白くても、本当は笑い事じゃないのよね」。

 大人数がやむを得ず狭い場所に同居しているだけでコメディになってしまうというのは様々にあると思うが、ドキュメンタリー映画『また一年』においてさえその事態は起きている。というか「ドキュメンタリー」ゆえに、また監督が成熟していないゆえにその可笑しさは惹起されたかもしれない。

 主人公が不死である映画は必ずどこかでコメディ映画になってしまうと思うが、『ハイランダー/悪魔の戦士』(ラッセル・マルケイ/1986年)の音楽と音響はつっこみどころが多過ぎるだけでなく、マルケイ監督の「まじめ」過ぎるコメンタリー自体が可笑しい。しかしコメンタリーがコメディになってしまうという意味では『プレデター』(ジョン・マクティナアン/1987年)の監督コメンタリーの冒頭部分が最強。言ってること、発音、タフさを超えた野卑さとピュアネスが混雑するこの監督コメンタリーは芸人のコメディDVDよりおもしろい。こんなにラフでストレートに野卑なコメンタリーなど聴いたことがない。スカしたとこが欠片もないのだ。
 『ハイランダー』では、不死の者が別の不死の者を殺した直後のチャージの描写が毎度毎度あまりにくだらな過ぎ、しかしそのチャージ回数(不死の者の生存数)が少ないのがはっきりわかるので観る者はアンニュイになってしまう。
 本作に限らず、そもそも不死の者たちは不死ゆえに定期的に戸籍を変えねばならない。また職業も複数持ち、変装用の衣装もいくつも必要で、それは何に似ているかといえばコメディアンの巡業そのもので、不死の者が元々持つコメディアン属性に関わらず、不死の者はコメディアンを兼ねることになる。それに「シリアス」な音楽がつけられればつけられるほど、それはコメディ舞台の音効でしかなくなってしまうのだ。そしてそんなコメディ化を防ぐような音効映画こそが『ファニーとアレクサンデル』(イングマル・ベルイマン/1985年)である。『ファニーとアレクサンデル』の音効さん登場シーンをもう一度おもいだそう。それに比べると『ファニーとアレクサンデル』濃度が高い『サンタ・サングレ/聖なる血』(アレハンドロ・ホドロフスキー/1989年)はいろいろ笑えなさ過ぎてつらくなってしまう。

 「コメディアン」が冒頭で殺される『ウォッチメン』(ザック・スナイダー/2009年)は、ロールシャッハの圧し殺した発音自体がコメディになってしまう悲しい作品だが、圧し殺した発音によるナレーションが常にコメディになってしまうということでは『キングダム』(ラース・フォン・トリアー/1994年)がいまだ不朽。12345678…キングッダムッのおもしろ過ぎる主題歌も反則だった。皆が皆、トリアー監督の全作品をコメディ映画として観ないように無意識に自らを調整してしまう…それくらいトリアー監督は根っからのクソ野郎で、トリアー監督には是非とも『ユリシーズ』を映画化してほしい。ユリシーズ産婦人科病棟編。『ドッグヴィル』(2003年)サーガは『ユリシーズ』から生まれたという疑いも。

 不死であり常命(じょうみょう)の者にはわからないことばかりをまくしたてる、ゲーム界きっての不死のコメディアンといえばこれはもうシェオゴラスだろう。正確に言い直せば、シェオゴラスはどんなゲームのキャラよりおもしろい言動をするが、彼はしかしコメディアンでなく、また我々を笑わそうなどとはしていない。我々人間(常命の存在)があまりに神々にとっては退屈すぎるゆえに世界をせめて(!)おもしろくしようとする不死の存在である。はっ!定命の者がひっかけに気づく瞬間はまったくたまらんな、そうじゃなきゃな!はシェオゴラスの口癖であり、我々人間すなわち小さき者に小さき者よ、私はお前の一部なのだ、潜在意識に居座る影で、壊れやすい心についた染みなのだ、お前は私のことを知っている、ただ気づいていないだけだと「親切」であり、いいぞいいぞいいぞいいぞいいぞお前もわしと同じくらい楽しんでいるといいがなほらほらこれを持っていけ、面白いおもちゃだぞ、さあ行け、わしに殺される前になと。神々の常命の者への言い方はいくらやさしくとも最低限このようなものであるべきではないのか、プロメテウスよ。そう考えるとシェオゴラスに比べてプロメテウス兄弟による人間の甘やかしっぷりは以前からかなり腑に落ちない。なので誰か無謀な監督にシェオゴラスとプロメテウスの対話映画を作ってほしい。お前はここがどこか分かるか?本当はどこにいるのかお前は分かるのか?と時折シェオゴラスが人間をさらったり閉じ込めたりするのをプロメテウスがいちいちえっ!!ていう顔を。シェオゴラスのつっこみはプロメテウス相手でも容赦はしないだろう。隠密とその他のくだらないこと全部を使えばこの難局を乗り切れるのかとお前は考えているな…そうだろう?あるいは…… と人間に問いかけ続けるシェオゴラスとは違って人間を甘やかすプロメテウスという対話映画のプロトタイプは『第七の封印』(イングマル・ベルイマン/1956年)になるだろう。騎士アントニウスと死神のチェス。もっともシェオゴラスは死神ではないが。キリスト教のための無意味な戦いに悩む騎士が海岸で死神と生死をかけたチェスをする。なんとしても騎士は死神に猶予をもらおうとチェスに勝とうとしているようにも見えるが、そもそもチェスに持ち込んでいる時点で人間の勝ちである。それは他の死神が出てくるフィクションでも毎回感じることだが。『第七の封印』で死神を演じているベント・エッケロートはすばらしいが、しかし死神にはシェオゴラスの話法を最低限は学んでいてほしい。いや話法ではなく性格か。海岸でチェスをという舞台では音響的にはもっとおもしろくなったはずだが、この設定自体がやはり何度観てもすばらしい。しかし会話してるだけで人間の勝ちではないかという感想を粉々にするリメイクは必要なはずだ。
 お笑い芸人ばかりが出演する映画はたくさんあるが、結核患者が全員コメディアンな設定の『魔の山』(トーマス・マン著)映画化の際の監督は、佐久間宣行になるはずだ。佐久間宣行のオールナイトニッポンzeroはよく実現したなという貴重な番組。佐久間は『フルメタルジャケット』(スタンリー・キューブリック/1987年)が大好きで、番組でも軍曹ネタがひじょうに多い。そもそもテレビ東京のプロデューサーがニッポン放送でレギュラー番組を持ち、ゲストにTBSラジオのレギュラーパーソナリティーや構成作家を呼んでいること自体があれだが、お笑い総力戦病の佐久間宣行が将来どういう映画を撮るのかいまから楽しみだ。

 前回、多重人格と映画の回で、『ミスター・ガラス』(M・ナイト・シャマラン/2018年)のラストについての疑問を書いたが、あのラストの時間線がそのまま進んでも、そうでなくても、行きつく先はヒーローがお互いを許しあう世界ではなくトラファマドール星人の諦念ではないのかという気がどうしてもしてしまう。『スローターハウス5』(ジョージ・ロイ・ヒル/1972年)は何度でもリメイクされるべきだと思うが、それはいつかコメディにならない日がくるということなどはなく、過去も未来もコメディでしかない。それは人間が失敗作だから。しかし人間が失敗作であることを開き直る鈍感過ぎる者どもは…もうどう料理してもおもしろくなどない。人間は失敗作なんてことはわかってるよ、そんなことは百も承知でやってんだよこの野暮がみたいな輩は世界に溢れている。しかしそんな輩が一見どんなに魅力的だろうとどんなに頼りがいがあろうと、そんな輩を認めることなどできない。なぜなら彼らは過去を百も承知ではないからだ。
 トラファマドール星人と『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ/2016年)の異星人。『メッセージ』の冒頭で、監督は「つぎは楽しい映画を撮ろう。これは失敗作である。そうなることは最初からわかっていたのだ」などとは言わない。『スローターハウス5』や『メッセージ』のような映画は何度でも作られるべきである。いくら笑えなかろうとそれがなされなければ、もっともっと笑えなくなるだけだ。『ファニーとアレクサンデル』があれば『スローターハウス5』も『メッセージ』もいらないだろうという地球人や異星人もいるだろう。それもそうだな。いや違うな。









[2019年7月〜8月新作]

『Bankrupt of the Dead』
sukers humanoid著/pussy gun roar publishing
電子:226ページ/8.8MB/文庫サイズ
紙本:224ページ 文庫版 EPUB:10.6MB
https://bccks.jp/bcck/159188/info

『Sophia's Metal』
人工知能ソフィア超初期型(笑顔で人類を滅ぼしますプロトタイプ)がブラックメタルを造ったら。

『DARK STAR irrestible surfers』
宇宙船爆破破片でサーフィンしながら消えていった『ダークスター』スペシャルトリビュート。爆弾との現象論会話ブースターパック。

『Phutko Funk Generator』
国籍不明のこんなファンクバーが宇宙の外れにあったなというかつての夢をかなり遅れて具現化。ランドスライド脱力ファンク。

『IRKTSK JIGEN NO GONG CRIMSON』
JIGENの未発表&故ウッドマン参加“エピローグインチャイナ”参加)のリコンストラクトをあわせて収録したスペシャルエディション。

『Lets DUCK!』
レッツダック!ダック!スーパーダック!ダックイズミュージックフォーエバーな超ダック盤。

ALL750JPY → spicyfoodresearch(at)gmail.com