映画音楽急性増悪 第7回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」の第7回目の更新です。M・ナイト・シャマラン監督の『ミスターガラス』と『スプリット』について、その映画音楽と映画音響から多重人格者、DIDとその治療者たちを扱った映画へと展開されてゆきます。

第7回 モノクローム

文=虹釜太郎

ある映画を観終えた時に、これはこういう映画だったよなととらえられているもの(以下X)とその映画における映画音楽と映画音響が実現しているととらえられているもの(以下XX)の間のズレ。もちろんXとXXが相思相愛であまりにラブラブな『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(ジェームズ・ガン/2014年、以下GOG)のような幸福な系譜は今後も延々と作られていくだろうし、自分はGOGのイントロは好きだけれど、このようなズレのないすばらしい世界を隅から隅まで違和感を感じる人間も、映画のシーンと楽曲歌詞とのシンクロをする選曲が決まるシーンをとことん気持ち悪いと思う人間も、映画をまるごと懐メロ介護業にするんじゃねえと辟易する人間も世界にはいる。そうでないような個々の作品においてこのXとXXのズレは黎明期においては少なかったか。またこのズレが大きいほうが優れた作品というわけでもなく。またXとXXの対等を試みた、目指した、挑戦した映画がより優れた作品というわけでもなく。

そのズレには<映画音楽と映画音響>(以下Z)に対する監督や製作者の理解度の違いが大きく関係するが、XとXXは共に作品を受けとる場合の問題である。監督が意図的にそのズレを見込んで仕組んでいる場合や積極的にズレの拡大を放任している場合、そこに大きく介入し、そのズレを極端に少なくできると確信し失敗する場合や、とにかくXXを映画からできる限り少なくすることに力を注ぐ場合も。批評家の多くは、あくまでその媒体で許容範囲内でしかない形式で、論じやすいことしか論じないのが通常なので(もちろん明石政紀がキューブリック映画の音楽たちについて記したようなすばらしい例外はあるが、それには著者の才能以外に編集者がどれだけ優れているか、思いがけないサジェスチョンができるか、引き受ける度量があるかが当然深く関係していて、大概は企画通りませんでしたで終了)、このズレに積極的に言及することはない場合が多い。爆音映画祭の爆音のような試みは多くの思いがけない複数の映画体験を持続的にもたらしてきたが、それはこのズレを明らかにする確率を確実に増したはずだが、しかしいまだこれらの見込まれたズレたちについての議論はあまり起きない。もしかしたらそれらを拾う場がまだまだ足りないのかもしれない。また監督やサウンドエンジニアのインタビューだけがすべてを明らかにするわけでもない。このズレが生じているのは映画自体がいまだ不気味な存在であるからに違いないが、ビジネスのためにその不気味さをなんとかして無くそうとしている製作者たちは多い。樋口泰人は『映画は爆音でささやく』で、「作品として作られた『映画』を堪能するのではなく、あくまでも『私』の領域が侵されることに『私』を投ずる試み」について触れているが、重要に思えるのは「その時『作品』もまた、侵食された『私』によって侵食されているはずだ」という箇所で、ではXとXXのズレがはっきりしてくるというのは作品が侵食されるいち形態か。もちろん堪能のプロたちはそうは考えないが、堪能だけをひたすら繰り返している者にも、侵食されることも侵食することも開かれている。樋口が言う「『作品』と『私』との距離が不透明になった『作品と私』という領域」は様々な言い換えが可能なはずだが、ここではっきりさせておきたいのはその「領域」での時間の流れは実に様々であるはずだということ。

よく言われることのひとつに、映画を観る意味とは何かという問いに、映画を観る前と後で自分がもう決定的に変わってしまったという体験こそがそれであるというのがあるが、それは常にあまりに短いスパンでしかとらえられないけれど、しかし非常にゆっくりとそれが生じる場合もある。さらに、あまりにも長い間の不溶の後に、やはり強く納得がいかないという強度が並外れているために繰り返し繰り返しその映画を観てしまうのであれば、その不溶は「領域」の揺らぎに強く関係している。XとXXのズレについては、「領域」の揺らぎ以前に、「『作品』と『私』との距離が不透明になった『作品と私』という領域」における「作品」自体がそもそも当たり前にズレによって揺らぎ過ぎなのと(もちろん樋口は「作品」それ自体がスタティックにならないよう長年に渡り様々な試行をしてきた)、そこへの突っ込みの蓄積が歴史上少な過ぎるというグレーゾーンというだけでなく、そこをいくつかあきらかにしたとしてもみんなそんなもの少しも求めてなどいないということがあまりに横たわり過ぎている。映画はいつからかわかりやすさの名のもとにいままで数えきれないくらい虐待されてきたことは様々にあきらかにしないといけないはずだ。虐待してきた側や枠に嵌めすぎてきた側はいつまでたってもその意識がない。あまりにもわかりやすいものしか咀嚼できないという製作者たちの傲慢への反動は今後もいくつもいくつも現れてくる。

XとXXのズレがはっきりしてくるというのは作品の侵食されるいち形態なのかどうかについては、それはいち形態というより、映画それ自体が本来XXが当然一部であるはずの細部たちの思いがけなさや杜撰さやその他により侵食され続けている存在である。

XとXXのズレは観ようによっては極めてバッドトリップで、そのバッドの報告もいまだ足りてはいないし、いまだXXがXの覚醒剤なままの中毒状態の映画をありのままに見つめる態度とそのありのままの報告も少ないままで、いまだXXに無自覚なライターがひたすら泣いていたりもする。ズレはいまだ無視され続けている。

劇場でもそうでない場所でも映画観賞環境で字幕OFFはあっても音楽OFFも音響OFFもできない。しかし製作環境ではもちろん違う。評論家たちが今後日常的にそれら製作環境ではできるOFFをトライすることは稀だろう。

イライジャ、デイヴィッド、“群れ”の「三人」がヒーローのいる世界のことを信じている度合いによりカラーの強度が変わるといったことや、ドクターステイプルの所属する組織=コミック規制団体とその歴史であるとか、シャマランの過去作との丁寧な比較など、『ミスターガラス』(M・ナイト・シャマラン/2019年)について書かれたレビューは、どれもみなシャマランへの愛憎を強く併せ持つすばらしいものが多い。俳優たちの突出した人格切り替えの演技、極端に単純化した演出、美術班の無理リクエスト緊急対応能力やプロデューサーたちの持続的な寛容さが高く評価されるなか、しかし『ミスターガラス』の音たちは混乱し、軸がいくつもブレていないだろうか。もしかして『ミスターガラス』の音楽自体がサイコパスではないのか…しかしいろいろ急いでは『スプリット』(M・ナイト・シャマラン/2016年)で天井を早急に剥がそうとする女の子みたいになってしまう…

『ミスターガラス』で三部作は完結したとのことだが、いくつかの理由で『ミスターガラス』は完結をあまりに急いでしまったと考えている。また『ミスターガラス』の続編が封印されたことから、“群れ”たちの苦悶や納得のいかなさが状況的統合をして納得いきません~と『ミスターガラス』を最後に観終わった後から反復して自分に抗議してくるのがいまだにとても気持ち悪い。映画を観終わった後もそのような作品内のキャラクターからの抗議が持続するような作品の存在はやはり映画という形態のすばらしさを改めて実感させるが、そんな強迫観念にいちいちとらわれていては映画など気楽に観れないではないかと言われれば、まったくその通りである。ちなみに「状況的統合」とは『A FRACTURED MIND』(邦題はかなり納得がいかない『多重人格者の日記 克服の記録』)でロバート・B・オクスナムが便宜上考えた術語で、それが適切な状況では一時的な統合は可能で、それは目覚ましい結果を生むことが可能であると。では上記での「目覚ましい結果」が何かといえば、半端に完結した『ミスターガラス』のような完結をしない、“群れ”を描いた映画(“群れ”のなかのキャラクター同士の会話を描いた映画を含む)が今後も作られ続けることであるだろう。それら“群れ”の複数については本稿の最後で触れる。

話を戻すと、イライジャはサイコパスとして施設に収監とあるが、はたしてイライジャはサイコパスなのか…

表面的にとても魅力的で口がうまい、あまりにも高い自己価値観、常に刺激を求め退屈しやすい、病的な虚言の繰り返し、常に人を操ろうとする、罪悪感の欠如、浅薄過ぎる感情、共感性の欠如、寄生的生活様式、行動のコントロールができない、性行動が放逸、長期的な目標が立てられない、衝動性、犯罪歴が多種多様…といったいくつかのサイコパスの定義があるなかで、イライジャはたしかに強い信念のもとで大量虐殺の罪悪感は皆無であるが、サイコパス特有の衝動性とは真逆では…

イライジャのはっきりした特徴のひとつは長期的な計画を遂行できる能力なのだから。

自分の知人で明らかなダークテトラッドがいるが、その人物に比べればイライジャにはナルシシズムもサディズムもない(ダークテトラッド=サイコパシー+マキャベリズム+ナルシシズム+サディズム、ダークトライアド=サイコパシー+マキャベリズム+ナルシシズム)。

ではケヴィンやデニス、パトリシアを含む24人格の“群れ”はDIDか。

DSM-5によれば、DIDとは…見捨てられることを避けようとするなりふりかまわない努力、理想化と脱価値化との両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる不安定な対人関係様式、持続的な不安定な自己像、自己を傷つける可能性のある衝動性、自殺行為、自殺のそぶり、自殺するという脅し、自傷行為の反復、顕著な気分反応性による感情不安定性が通常数時間持続…『ミスターガラス』で電車の乗客が表紙にDIDと書かれた本を読んでいたのが気になって実際にDIDについて具体例をいくつかあたった人は多いはずだが、映画の中の“群れ”がエンターテイメント映画たりえているのは“群れ”の中のビーストがショットガンの弾丸を跳ね返したり(弾が古くなってしけていた)、壁を自在に這ったりできる(“群れ”の中のいち人格がクライミング動画を…)といった超人能力が実際に描かれるから。しかしここで気になるのはDIDが何により発現したかが映画では最後まではっきり描かれないことである。『ヘンリー』(ジョン・マクノートン/1986年)ではそれが描かれないことこそが効果的だった。なぜ効果的かといえば『ヘンリー』のラストには何の希望もないからだ。それゆえに『ヘンリー』はいまも作品として力強い。しかし『ミスターガラス』のラストはそうでない。この映画のラストは希望に溢れているようにはっきり描かれている。しかしそのあまりに早急過ぎる希望の充満に激しく違和感を抱いた人は多いはずだ。と思っていたが、実際のところそういう感想をあまり聞かない。なぜ?

『ミスターガラス』の音楽自体はサイコパスか。

『ミスターガラス』の音楽自体はDIDか。

『ミスターガラス』の音楽自体は自己の重要性に関する誇大な感覚に溢れているか。

実際のところはどうか。

回答:実際にはそのすべてをあわせ持ち、かつビジネス映画音楽で世を渡る擬態もこなせる。

少なくとも『ミスターガラス』の音楽たちは時に極めて共感性に乏しい。共感性に乏しくない映画音楽たちは化学調味料だから、それはあんたがさんざん否定してきたものではないか、共感性に乏しい音ならばそれはよいものでないのか…とかそんな単純なものではもちろんない。

『ミスターガラス』01:49~03:03のイントロの音楽と03:36~04:18の不穏な効果音は極めてノーマルだが、06:06~08:21の誘拐現場と三角形エリアと工場地帯の分析からのシーンの音楽はヒーローの不遇の死を早くも冒頭で予感させるこれまた極めてノーマルな映画音楽(ここまでの映画のカラーは服装、建築物、椅子にいたるまですべてあからさまに「グリーン」で統一、そのあとに映るデイヴィッドの店の内装も看板もすべてグリーン)。また11:09~13:12でのクロック刻みな音楽はデイヴィッドの察知能力の高さを退屈に強調するが、それも極めてノーマルなもので、ビースト出現への予兆な音楽である13:53~15:34も、そこに13:54にデイヴィッドの集中を現す時計刻み音がかぶさるところもまた極めてノーマル。19分までの二人の戦闘能力が互角な部分の音楽もとてもよくできている。

しかしそのあとに登場するクローバー団体=治療者=コミック規制組織(精神科医ステイプル)から、ケヴィンが収容される19:25~20:50以降の音楽はどうだろう。

この映画があからさまな異常性をみせはじめるのは20:49からである。49個の放射ノズルや催眠ライトは、能力者と治療者を遮蔽するものがなにもないところがあきらかに異常であるし、これでは治療者の側自体が無駄なスリルを強く求めていることになってしまう。サイコパステストのあまりにも有名な例、強盗が家に来たらあなたは家の中のどこに隠れますか?のサイコパスの正解回答は、わかりやすくここでは治療者側にあてはまってしまう。シャマランの意図や無意識がどうであれ。24:17~24:49のケイシー登場のシーンは、ケイシーも近い未来に無力感に襲われるだろうという音楽だが、すでにこの映画の音楽たちはビジネス映画音楽の皮をかぶりながらもその異常性をあきらかにしてくる。30分ちょうどにデイヴィッドとケヴィンが一瞬にらみあうところのビジネス音楽や37:20~39:26のジョセフに寄り添うかのような一聴「無垢」な、純粋な者は常につらい立場に置かれて無力感にさいなまれるだろうという定型ビジネス音楽など、その無力感は39:27からのケイシーにブリッジされる。がそれはシャマラン監督が、画面の個別のカラーのわかりやすい使い分け方やモノクロ色の使い方ほどには強く意識していたかどうかはわからない。別にイアン、メアリー、ノーマ、プリチャード(日本映画が専門)に個別な音楽をつけないから異常とか冷酷と言っているわけではまったくない。唯一パトリシアにだけは専用の音楽が用意されていて、それは無音。『ミスターガラス』という映画においては、“群れ”の中のキャラクターは複数同時には登場しない。もし“群れ”の中のキャラクターが複数同時に登場するような映画であれば、この映画の音楽の冷酷さはやわらいだろうか。『First Person Plural』(アンドリュー・W・M・ベイアリー著)では、本来の人格と他の人格との間に共在意識がある例が丁寧に書かれている。この本の邦題は残念ながら『多重人格者として生きる 25の人格を持つ男の手記』となってしまっているが(日本で本を売る場合はこういう慣習は仕方ないのだろうけれど、せめて原題を大きく印刷、原題のニュアンスを冒頭かカバーに簡単にでも記す仕様に変更されたらどんなにいいか)、 First Person Pluralを直訳すれば「一人称複数形」。『ミスターガラス』の“群れ”が、もし『スプリット』の時よりヴィランとして進化し、本来の人格と他の人格との間に共在意識があるかたちになっていればイライジャ→ビーストの一方通行でない解決があり得たし、『ミスターガラス』の音楽も“群れ”にというより、“群れ”同士の会話には違った形で出現したはずだ。

収容室のドアの裏側に催眠ライトがある施設の設計は、侵入者をドア裏で待機するのがノーマルな?サイコパスよりもさらにサイコパスな環境のなか、41:49~42:51からのケヴィンの人格のスイッチにつけられる不感症な音楽は本体であり、しかしその「内部」の43:17~のケヴィン発掘につけられる音楽は偽装した姿であるという楽しみ方もできる。この箇所でもパトリシアは優遇されており、パトリシア登場時は最優先で無音になる(「あなたケヴィン好きなの?」)

45:03~45:50。ドクターステイプルとミスターガラスの対峙シーンでは、音楽はビジネスであるが、監視者が欺かれることになる最初のシーンであり、イライジャの部屋で常に鳴る音楽は彼の無力演技の成功を常に保証するが、イライジャが45:03~45:50でのビジネス映画音楽につきあうふりをするところ、ケヴィン・ウェンデル・クラム出現時につけられるビジネス音楽たちや51:05~51:44のデイヴィッドのスーパーストロング出現の音響たちを画面の左でミスターガラスが聞こえるはずなどないながらも演技しながらやり過ごす小芝居は何度みてもおかしい。

このシーンのドクターステイプルの茶番集団カウンセリング劇の恐ろしさは、イライジャの逆襲さえなければ、延々と各州でスーパーストロング相手に繰り返され続けられたということで、ドクターステイプルのスーパーストロングコレクションの各州ごとのそれをいくつも映像で観られなかったのは実に残念だった。

ビジネスに退屈してる本作の映画音楽たちがもっともいきいきしたのは、ヴィランコーナーでのウィスパーマンのアップ(それを見ているのはジョセフ)のシーン。

本作でもっとも恐ろしいシーンは、ビジネス音楽ばりばりの59:22~1:00:16であり(メインテーマ音楽登場直前)、デイヴィッド、イライザ、ステイプルが等価に順番に映り、ケヴィンが映らない59:22~1:00:16は、デイヴィッドとイライザだけでなくステイプルでさえ食糧でしかないという「本体」のえげつなさがここであきらかになる。本体が何かについてはもっと様々に考えられていいのではと。

ビジネス音楽的にもっとも高く機能したのは1:04:27~1:05:22のミスターガラスの観察力と分析力ブースト時の音楽だが、恐ろしいのは59:22~1:00:16の方である。音単体ではなんら恐ろしくなく、まったくおもしろくもないのだが。

映画音楽としてもっとも「美しく」機能しているのは、イライジャとパトリシアの対話途中からの1:07:56~1:09:10だが、そんな美しさも59:22~1:00:16の主体からすれば食糧でしかない。二回目三回目以降の観賞でドクターステイプルが可哀想に映る濃度が高い人はそこのところを強く受け取っているのだろう。

ミスターガラスはラストでお互いのヒーローを許しあう世界が実現しやすい環境を作ったかのようにこの映画では描かれている。しかしそこで生存が称賛されるのはビーストおよびパトリシア程度までで他のキャラクターは…

ミスターガラスが死ぬほど待望するビースト出現に必須なのはいまだ虐待者のまま。ミスターガラスは、『ミスターガラス』では『アンブレイカブル』のような大量虐殺でない別の方法で皆がお互いのヒーローを許しあう世界を作ったかのようだが、残念ながらラストのケイシーとイライジャ母とジョセフの光輝く未来を目前とした希望に溢れる姿は欺瞞に満ちている。自分は初回観賞時にここであまりに唖然とし、がっくし脱力したのを覚えている。欺瞞。DIDに限りない可能性をみているとしても、彼らの出現条件の多くで虐待者が必須であることのオルタナティブをまったく提示していないのにどうしてあのように眼球を希望の炎で燃やせるのか。久しぶりにバカなの?死ぬの?と自分でない何かが自分のものでない声色で指向性ないままに叫んでいた。あ~あ。いくら商業映画の終わり時間がきたからといってもあの希望に満ちた目の輝きは説得力がない。だから『ミスターガラス』は観直すたびに腹がたつが、しかし初回にがっかりした『スプリット』は観直す度に、マカヴォイの演技には個人的にまったく共感できないにも関わらず、清々しさを増していく。

映画におけるDIDの扱いについては、医療専門家の定義するDIDからいったん離れて、健常者だが幼児期から執拗な虐待をされてきてDID的傾向を強く持ち、入院も通院もしていない者たちの事例を複数サンプリングする必要が、このようは映画を作る関係者にはあるだろう。以下は、上記の傾向を濃厚に持つF君が普段から切実に日々考えてきた「過小妄想」(本人の言葉)をまとめたものである(本人の許可をいただき、またさらに文章をチェックしてもらい了解していただいた)。もちろんこれら過小妄想はF君の具体的遂行プランでなく妄想である。

「虐待した親に恨みをもっている」

「虐待した親に復讐したい」

「そもそも人間に絶望している」

「虐待しているすべての人間をやっつけたい(刹那的)」

「虐待しているすべての人間をやっつけたい(計画的)」

「そもそも人間自体がイカンので自殺したい」

「そもそも人間自体がイカンので人間全体を抹殺したい(衝動的)」

「そもそも人間自体がイカンので人間全体を抹殺したい(計画的)」

「そもそも人間自体がイカンので人間全体を治療したい(計画的)」

「そもそも人間自体がイカンので人間全体を治療したいと考え人間たちを延命させる者たちの考えを変えたい(計画的)」

「そもそも人間自体がイカンので人間全体を治療したいと考え人間たちを延命させる者たちの考えを変えることなど所詮無理なので、彼らの味方のふりをしてじわじわ彼らを絶望させたい(攻撃的)(計画的)」

「そもそも人間自体がイカンので人間全体を治療したいのだが能力的に無理なので何人かの賛同者とともに自殺したい」

「そもそも人間自体がイカンので人間全体を治療したいのだが能力的に無理なので、それを可能にする仲間がほしい(統率)」

「そもそも人間自体がイカン以前に人間を生んだ宇宙自体を滅ぼしたい(誇大妄想的)(計画的)」

「そもそも人間自体がイカン以前に人間を生んだ宇宙自体を滅ぼしたいが能力的に無理なので自殺したい(誇大妄想的)(刹那的)」

「上記のキャラクターたちと対話したい(共在願望)」

「上記のキャラクターたちと対話、会話したところで無駄である(刹那的)」

上記の「健常者」が普段考えているサンプルたちにいままでよりはるかに強く関心をいだかないならば、DIDやサイコパスや多重人格を描く映画の底上げはいつまでもなされないようにも感じる。まだまだ映画はDIDやサイコパスや多重人格を描くには未熟過ぎる段階に違いない。そう思えない者は幸せに映画まみれに死んでいける。『ミスターガラス』三部作が映画として優れているかどうかについてはプロの洞察は多いけれど、この三部作が何を描ききれなかったか、そもそもどうおかしいかについてはまだまだ語られなさ過ぎである。

F君は当初は「虐待した親に恨みをもっている」「虐待した親に復讐したい」から出発したが、もはやその二つは本当にどうでもよいと言う。F君にはわかりやすい考想化声はないらしいが(考想化声=自らの考えの音声化)、上記の「」のそれぞれの考えの持ち主同士の問いかけと応答は、労働時間以外のほとんどの時間でF君を圧迫していて、それにはあまりにも日々疲弊しきっているらしい。常に会話が行われ、それをひたすら観察しているのに疲れて気絶するように寝てまた起きて…

F君とは長時間に渡り『ミスターガラス』『スプリット』『アンブレイカブル』(M・ナイト・シャマラン/)について意見交換をしたのだが、『ミスターガラス』で、F君が特に気になった二点は、「ビーストは優し過ぎる」「ケイシーはまだ覚醒していない」だという。

まず「ケイシーはまだ覚醒していない」についてだが、F君によれば『ミスターガラス』でのケイシーのラストシーンは、『スプリット』のラストにたしかに豊かにあった可能性を大きく裏切ったと当初は感じたという。しかし二回目以降の観賞においては、『ミスターガラス』のラストでのケイシーの微笑みは「演技」にしか見えなくなったと言う(自分はそう感じなかったが)。このケイシーの偽りの笑みの描写により、ケイシーは『スプリット』のラストの描きかたから導かれるいくつかの可能性のうち、もっとも最悪の可能性(それは世界の大多数の人間にとってでしかないが)、すなわちケイシーはスーパーヴィランとしての覚醒をしたということがあきらかになったとF君は言う。しかしはたしてそうだろうか。自分はF君のこの指摘は考え過ぎではないかと伝えた。するとF君は、では君は『スプリット』のラストをどうとらえてるのかときいてきた。

『スプリット』のラストでケイシーがライオン像を見るところでは、音によるわかりやすいヒントはなかったはずなので、ケイシーは彼女に虐待をしてきた叔父との強い訣別をするのだろうということだろと伝えると、F君はたしかにそうだが、それ以外にスーパーヴィランとしての目覚めの可能性もあそこにはあったはずだと言う。しかしケイシー役の俳優のアニヤ・テイラー=ジョイの瞳が独特過ぎて真意ははかれなかったと。またF君は、“群れ”の中でもビーストのような極端な破壊をもたらすキャラクターを急速に鎮静させる能力は必ずしも善なる力ではないと言う。ケイシーは“群れ”のなかのビーストを唯一コントロールできる人物として登場したとされているが、F君によれば、パトリシアは平衡感覚に優れてはいるが俯瞰して位置関係を感じ取れる感覚には優れておらず、ケヴィンはあまりにどれくらいの時間が経過したかを感じ取れる感覚がなく、ケイシーは危険察知能力と気配消去能力に優れているが、何かを選択する時の勘と予知能力は未覚醒で、緊急救済が結果的にどういう未来を呼ぶかの想像力がなく、予知能力は今後もケイシーには発現せず(ケイシーが主人公の『ミスターガラス』の続編では、ケイシーのその欠陥を補うヒーローとヴィランの間を揺らぐプレコグのキャラが登場するはずだと…続編はないことになっているが)、デイヴィッドはより拡張された既視能力発現の前に殺されてしまったという。

五時間バージョンの方の『アンダーグラウンド』の最後でイヴァンは、ここに赤い屋根の家を建てると「流暢に」語った。恵みをもたらすものに感謝しながらもしかしその後にすぐにこう続けた。だが苦痛と悲しみと喜びなしには“昔ある所に国があった”と子供たちには伝えられないと。しかしそのために必要な苦痛はあまりに大き過ぎはしないか。『アンダーグラウンド』は多重人格を描いた映画ではないけれど、『ミスターガラス』の到底納得のいかないラスト(ヒーローたちが死んだことでなく、あの三人の笑み)の後のガラス破片散り散りのエンドロールの後に“群れ”の中のそれぞれが、『アンダーグラウンド』の「演技」終了後のイヴァンが語るように、苦痛は続くのかについてつぶやいたり無言になるのを幻視したくなった人もいたのではないかと思う。

『ミスターガラス』が幕を閉じた後のケイシーに残された闘いはそれは途方もないものになるはずで、ならないならケイシーとは一体…

そもそも自らを防衛するためにビーストを作り出す行為は必然としても、少なくとも『スプリット』や『ミスターガラス』でのビーストは、F君にとって世界にはかなり「優しい」。たとえビーストが人肉を喰らうにしても。そもそもビーストが覚醒しなければならない世界全体こそが間違っていると考えるキャラクターはポストミスターガラス映画群で今後無数に登場してくるだろうか。

またF君の『スプリット』についての細かい疑問点はいくつかあったが、そのうちのひとつは、精神科医が患者が診察室から帰る時には、通院時のキャラクターに戻すことを徹底していないのではないか、というもの。さらには『スプリット』の精神科医による最初期介入について映画で詳細に描かれなかったのはひじょうに残念だと。最後にF君は、シャマランまたはその「後継者」は、 『LITTLE DORRIT(リトル・ドリット)』(チャールズ・ディケンズ著) を映画化すべきと語った。

そんな世界全体には優しく、そこらへんに転がっている「失意していない者」には捕食者でしかない“群れ”を描いた『スプリット』では、冒頭の03:54~04:25の音の意味をずっと考えていた。04:25でいきなり“群れ”はずっと隣にいるケイシーに突然気づいたかのように、ケイシーにスプレーを噴射する。しかし03:54~04:25の音はなんだったのか。人によって解釈が異なるかもしれないが、ここでの三十秒間の世界がくぐもる音は、後の『ミスターガラス』での突出した共感能力が覚醒する前の、被虐待者が身につけがちな緊急回避でしかない。それは虐待される者が身につけるいわゆる気配消しの力である。自分はケイシーのこの気配を消す力が『ミスターガラス』では高い共感能力以外の別の発現をするのではないかと思ったが、その回収はなかった。

『スプリット』の04:28以降のタイトル時の音楽は、『ミスターガラス』でミスターガラスによって出現頻度を高められた後のビースト出現時のそれと同じ。

『スプリット』での07:08~の音楽は、『ミスターガラス』での59:22~1:00:16の視線の「主体」のミニチュアだろうか。ミスターガラスの逆襲により、困惑したかもな「主体」はしかし、ないはずの『ミスターガラス』の続編では、“群れ”を積極的に利用していくだろうか。そこでの闘いにおいては、“群れ”が他の“群れ”と共闘する以前に、“群れ”内での共在が丁寧に描かれなければならない。

ミスターガラスの逆襲により世界はお互いをヒーローとして許しあう世界が訪れるかのように描かれた『ミスターガラス』だが、しかし複数の覚醒者たちの出現よりも、さらなる“群れ”による延命と活性を望む「主体」の意図いや観察をどうやって阻止するか。お互いをヒーローとして許しあうのでなく、お互いを“群れ”として廃墟同士が廃墟として出会うべきではないか。しかしそれはいち映画で描くのは不可能だ。

『ミスターガラス』のラストで、ミスターガラスは無差別殺人でない方法での覚醒を提示したが、59:22~1:00:16の観察する主体は次々に現れる覚醒者たちを次々にすぐに食糧にするのでなく、層が薄すぎるドクターステイプルが属する組織以外を活性化させ、闘いを長引かせることでエネルギーを得ていくだろう。しかし介入はしない。監視ではなく観察をしているだけでは、冷酷とか残酷ですらない。長引かせられた闘いの先の先にある不確かな事柄の追求はいまだ当然不徹底なままである。しかし矛盾に満ちた『ミスターガラス』が作られたことにより映画はまた確実に宿題が増えたのであるし、協同的多重人格の苦は実際の映画製作の現場にも感染していくだろうことをいまここでは祝いたい。

ビジネス音楽に溢れた『ミスターガラス』で、ビジネスを離れて?音楽がもっともいきいきしたのは、ジョセフがヴィランコーナーに突然気づいたところであった。そして『ミスターガラス』での最大のポテンシャルは、ケイシーの覚醒がヴィランなのかヒーローなのかそれ以外の何なのかである。

繰り返すが、ラストシーンでのイライジャ母に促されての希望に溢れるケイシーの眼差しは、そのまま受けとることは到底できない。あの眼差しは演技であるか覚醒前であるのかペイルライダーの変装群を幻視していたのかそれとも…

ケイシーは“群れ”の何をヒーローとしてとらえたのだったか。『ミスターガラス』は、あるXが見方によっては善でもあり悪でもあるという古くから映画で描かれ続けてきたことをかつてない強度で宙吊りにすることに挑んで空中分解した映画でもあった。あるXが見方によっては…の視点がまったくないままに膨大に映画を堪能してきて膨大な視点無きまとめを紡いできたプロたちがいる。しかしそれは堪能であり、『ミスターガラス』は堪能の対象としてはあまりに貧し過ぎはしないか。しかし…

事後的にヒーロー映画のヒーローたちはこうであったら非常に都合が良いという事情がパンデミックしていくビジネスワールドの中で、このような映画がつくられたことは本当に素晴らしいことだったが、その空中分解をいつまでも堪能している場合でないことだけははっきりしている。

最後に納得のいかない希望の眼差しのもとに完結したことになっている『ミスターガラス』とは別に、今後どういうポストミスターガラス映画があるかについて、普段考えている15種についてごく簡単につけ加えて終わりにしたい。

ポストミスターガラス映画という言い方はシャマランに配慮し過ぎな気もかなりするので、広義の多重人格映画として今後どういうものがあるかについての15でも。

ひとつは『スプリット』にも『ミスターガラス』にも存在した治療者とは別の治療者(治療ではなく「自己解決」を促す者、しかしその自己解決は反社会的ととらえられ…)が、いわばイライジャ側から誕生し、表の治療者とそうでない治療者がメインとなる映画。ちなみに勝手に(「精神異常」「妄想」を)自己解決する映画としては、テレサ・ラッセル主演の『トラック29』(ニコラス・ローグ/1987年)が、ふわふわと常に明るい照明とリアルな鉄道模型と模型倶楽部での嘘明るい演説と年齢不明出身地不明のゲイリー・オールドマンの気持ち悪さとが相まって、主人公の自己解決の致命的空虚さの不気味な光をいまだに鈍く放っている。『トラック29』の映画レビューは読んだことはないが、この作品はエミール・ゾラ『獣人』を下敷きに、鉄道模型はトラウマをあきらかに象徴し、医師である旦那が腰が痛いという言い訳で看護婦と尻叩きプレイに励むのもわかりやすすぎる鉄道脊髄症由来で、人形と鉄道模型が派手に衝突するのは実に馬鹿馬鹿しい。鉄道脊髄症の被害者がはっきりしたトラウマがなかったように、テレサ演じる主人公もトラウマなどなく、では問題は何だったのか…

『トラック29』と『アンブレイカブル』『ミスターガラス』は明白な兄弟関係にあるなどとは言わないが、しかしそれは鉄道脊髄症~鉄道事故を通して繋がっている。『アンブレイカブル』で鉄道大惨事がイライジャによって発生させられるのに先行するのが『トラック29』で、旦那は疑似鉄道脊髄症でよがり、主人公は震盪をプールで再現する。

ひとつはトラウマの瞬間に内在化された否定的な価値観はいかにして治療において置き換えられるかを、いわばケイシーとイライジャが医師になった姿を描くような、「多彩」な経歴を持つ医師たちの映画である。ここで兄弟となる映画には『危険なメソッド』(デヴィッド・クローネンバーグ/2011年)も『インファナル・アフェア』(アンドリュー・ラウ/2002年)も含まれる。シュピールライン対シュピールラインを描くことなど。クローネンバーグは『赤の書』(カール・グスタフ・ユング著)を映画化するか…

ひとつは失意の者はより進化した者であるという考えとヒーロー誕生には虐待が必要不可欠であるという考えが衝突する映画。

ひとつは失感情表現症が併存するパーソナリティー障害に古きよき?男らしさが強く関係しているという一応の前提の中での女性人格同士の対話をメインにすえたもの。

ひとつは多重人格の一部においては極端に時間の流れが遅くなるのをいままでではありえないスケールで描いたもの。

潜入先の一部の場では時間の流れが極端に遅くなることにあまりにとりつかれた映画監督がいたが、その監督以外で“群れ”内の時間差を激しくエンターテイメントしてくる映画は複数できてくるはず。

ひとつは多重人格者同士の恋愛、または多重人格内での恋愛を描くもの。

ひとつは多重人格者と治療者と霊媒の三者による衝突が不可避なケースを設定し、そこで浮上する新たな問題を生け捕りにするもの、またはそれに失敗するもの。

霊媒は多重人格者に似ている。霊媒は多重人格者に似ていて、しかし治療が必要だというようには苦しんでいない。多重人格者のなかでまったく苦しみがないものたちたちをふわふわと描くもの。ジャック・オディアールが描く『スプリット』みたいな。

ひとつは苦しまない霊媒たちのデカローグ。

ひとつは、損傷回避=セロトニン、報酬依存=ノルエピレン、新奇性追及=ドーパミン…といったなかで、セロトニン、ノルエピレン、ドーパミン以外の発見をでっちあげ、そのでっちあげにより可能になった症状や感染をもとにドライブされるもの。ゾンビ映画以外で。

ひとつはそもそも多重人格は憑依の一段階に過ぎないというポストエクソシスト。

ひとつは治療者がAIで、そのAIの治療についての考え方が揺らぎまくっているもの。

ひとつは『スプリット』における“群れ”が『哭声/コクソン』(ナ・ホンジン/2016年)のような事態または磁場に置かれた、捲き込まれた場合、どういう常人ではない解決または悪化をするかを詳細に観察するもの。

『ミスターガラス』が『バリーリンドン』(スタンリー・キューブリック/1975年)として生まれ変わり、そこで『哭声/コクソン』と闘うなら…

シャマランのかつてのつぶやき…「 It was always my dream to have both films collide in this third film.— M. Night Shyamalan」

ひとつは人格窃盗の極端な戯画化。

ひとつは多重人格というよりは嘘に嘘を積み重ねた場合の観察例。『スプリット』『ミスターガラス』にはあまりに「嘘」がない。症例がフィクションだった場合に起きる様々な事態(偽善のXたち、義悪のXたち…)をフィクションでどう描くか。

もちろんこれら15の映画の音についてはいままでの過去の試みはいったん不確定になる。

[2019年7月〜8月新作]

『Bankrupt of the Dead』

sukers humanoid著/pussy gun roar publishing

電子:226ページ/8.8MB/文庫サイズ

紙本:224ページ 文庫版 EPUB:10.6MB

https://bccks.jp/bcck/159188/info

『Sophia's Metal』

人工知能ソフィア超初期型(笑顔で人類を滅ぼしますプロトタイプ)がブラックメタルを造ったら。

『DARK STAR irrestible surfers』

宇宙船爆破破片でサーフィンしながら消えていった『ダークスター』スペシャルトリビュート。爆弾との現象論会話ブースターパック。

『Phutko Funk Generator』

国籍不明のこんなファンクバーが宇宙の外れにあったなというかつての夢をかなり遅れて具現化。ランドスライド脱力ファンク。

『IRKTSK JIGEN NO GONG CRIMSON』

JIGENの未発表&故ウッドマン参加“エピローグインチャイナ”参加)のリコンストラクトをあわせて収録したスペシャルエディション。

『Lets DUCK!』

レッツダック!ダック!スーパーダック!ダックイズミュージックフォーエバーな超ダック盤。

ALL750JPY → spicyfoodresearch(at)gmail.com