妄想映画日記 その93

boid社長・樋口泰人による「妄想映画日記」その93。京都から帰ってすぐにお台場での爆音調整がスタート。シークレット上映作『ロスト・シティZ』の爆音上映に喜ぶもメニエルは悪化するのみ。『マーウェン』(ロバート・ゼメキス監督)、『世界の涯ての鼓動』(ヴィム・ヴェンダース監督)の試写へ出かけ、直枝さんのブートレグシリーズ、Soi48のミックスCD、そしてボブ・ディランの『ローリング・サンダー・レヴュー』を聴いた6月前半の日々。

文・写真=樋口泰人

6月1日(土)

京都から東京へ。その前に京都にできたばかりのアートホテルというのか、とにかく何人ものアーティストに部屋の内装を任せて作られたホテルの一室を梅田哲也くんが作ったというので覗きに行った。通常のビジネスホテルのシングルルームの倍くらいの部屋の半分くらいのスペースがコンクリートの台になっていてその上に水の溜まった容器や非常階段らしきものなどが飾られていて、その容器からはぽたぽたと水滴が落ちてコンクリートの上に水たまりを作っている。そしてコンタクトマイクで拾った落ちる水滴の音がスピーカーから流れ出るというような仕掛け。いわば、廃棄工場から切り取られてきたと思しき空間が何の衒いもなくそのまま何事もなかったかのように都会のホテルのシングルルームの中に同居しているといった感じ。スピーカーからの音がシングルルームと廃棄工場というふたつの空間の境界線を曖昧にしている。ホテルのシングルルームという狭く閉ざされた空間の中に広がる廃墟の風景とそれを閉じ込める部屋の狭さとのなめらかなつながりにめまいがした。果たしてここでこの音を聞きながらひと晩過ごしたらどんなことになるのか、せっかく京都まで来てそれなりの金額を支払って泊まったホテルで寝てみたら工場の廃墟が広がりだしそこにうごめくさまざまなものたちに時間を超えた接待を受ける感じ。自分の中にある時間の感覚が果てしなく広がる旅になるんじゃないだろうか。

帰宅したら入口のところのフィジョアが盛大に花を咲かせていた。

6月2日(日)

ぐったりしていた。実家からさくらんぼが送られてきた。

6月3日(月)

休む間もなくお台場の爆音である。座席数600という広い会場。音の届かない座席をつぶしても500席弱はある。前回もそうだったのだが、その広さのおかげなのかゆったりとした余裕のある音になって身体ごと映画の世界の中に持っていかれる感じ。実はこの会場、サラウンドスピーカーの位置が壁のデザインに沿って波打っていて、つまり音をメインに作られた配置ではなくあくまでもデザイン重視。バブル真っ盛りの頃に作られた劇場、というのがそれを見ただけでも何となく伝わってくる。そこさえもうちょっと普通に作られていたらもっといい感じで音に包まれるのではないかとも思うが、いやしかしこれはこれでこの会場独自の音にはなるからそれはそれで面白い。この日何を調整したかもうすっかり記憶の彼方であるが、名古屋での音があまりに素晴らしすぎて実はお台場での上映を心配していた『レディ・プレイヤー1』も名古屋とはまた違う空間の広がりを見せてくれた。めちゃくちゃ気持ちいい。これを観に来ないなんて馬鹿だ爆音観るのやめたほうがいいというツイートを昔だったらしていただろう。

6月4日(火)

引き続き調整と夜から本番開始。いつもは木曜日開始だったりしたのだが今回はどうせならもう少し長くということで平日もたっぷりの爆音。作品の幅も広がった。『ヘア・スプレー』がやれたのはうれしい。冒頭から圧倒的なスペクター・サウンド。その後の展開も含め、作者たちが50年代60年代のアメリカの音楽といかに親密な関係を築いてきたかがよくわかる。映画でアナログばか一代をやっているような気分になった。本当はこういう映画を日本中で爆音上映したいのだが。

6月5日(水)

爆音が続いたためにメニエルが悪化。休養。

6月6日(木)

頭全体に蓋をされた感じ。世界が遠すぎる。夜はマクロス爆音映画祭の打ち上げ。

6月7日(金)

恵比寿写真美術館ホールに。某作品の上映イヴェントが果たしてできるかどうかという下見も兼ねて。何とかなりそうだがあとは予算との兼ね合い。ぎりぎりの攻防となる。その後、爆音の今後の展開の打ち合わせ。

6月8日(土)

まだひどく調子悪く、起きられない。10時50分から上映開始の爆音シークレット『ロスト・シティZ』にもまったく間に合わなかった。とにかく無理やり起きて1時間遅れでお台場。だが、後半90分だけでも十分に面白かった。まったく違う世界に連れていかれた。主人公たちが最後にたどり着いたのが果たして「ロスト・シティZ」なのかどうかはわからないが、おそらく彼らはその旅の中で「映画が生まれる場所」としか言いようのない場所の空気に触れたはずだ。家族と別れる時のトラックの荷台に乗って去る主人公を追いかける娘の切り替えしショットに相変わらず鳥肌が立つ。どうしてあれは奥さんではなく娘だったのだろう。実はあの娘こそゼメキスの『コンタクト』のジョディ・フォスターだったのではないかとこの映画を観ながら何度か思う。あまり根拠はないのだが、最後のシーンでは奥さんが訪ねた役所のような建物から出ていくときに鏡に映ったショットになり、その役所の外は密林が映っていたのは誰もの記憶にあるはずだが、いったいどうして鏡に映ったショットでなければならなかったのかどうして役所の外は密林だったのか。説明不能のショットゆえの強い体験だけが残る。上映後の挨拶の時に途中で呼吸がうまくできなくなり声が出なくなった。自律神経が壊れているのでもうどうにもならない。

その後友人たちと昼食へ。あまりに映画が面白かったのでうれしくてみんなにおごる。こういう映画をやった時にふとやってきてくれる友人たちが心の支えである。爆音やっててよかった。

6月9日(日)

ほぼ寝ていた。体調悪い。

6月10日(月)

夕方までぐったりアナログばか緊急欠席しようかと思ったがまあアナログばかなのでいけば何とかなる。先日亡くなったドクター・ジョンを追悼する夕べ。わたしが追悼されないようにと何度か思うくらい、途中でボーっとしたのだが、結果的にドクター・ジョンに癒される夕べとなった。

6月11日(火)

もうこのまま回復できないんじゃないかと思うくらい具合が悪い。午後からはスタジオボイスの川田くんが来て今後のワンメコン関係の展開について話す。というか、無駄話をして少しずつ具合悪さを解きほぐしていく感じ。生きているのか死んでいるのかよくわからない時間の中で生きていくしかないというかそこにこそ生きる秘密があるとも言えるからまああまり焦らずぐったりしたままやれることをやる。

昨夜直枝さんからもらった直枝さんのオフィシャルブートレグシリーズの1枚をうっとりしながら聞いていた。

6月12日(水)

具合悪くて試写にも行けずいくらなんでもこれはひどいがせめてゼメキスだけはと他のことをうち捨てて『マーウェン』へ。実話をもとにした物語だが半分以上が人形アニメというのかモーション・キャプチャによる人形たちのシーンで、もはや現実も主人公の妄想もほぼ区別なく一続きのものとして現れる。ヘイトクライムの暴行によって障害を抱えた主人公が人形たちとともに過ごすことで少しずつ世界との新たな関係の在り方を作り出していくと言ったらいいか。しかし観ているとその暴行と障害がなくても彼はもともとそのような人生を生きていたのではないかと思えてくる。人形とリアルな人物の境目がないのと同様、その人間の過去と現在、あるいは映画の中の世界と現実の世界にも境目がなくなり、そして最後には彼とわれわれ観客との境目もなくなる。おそらく誰もが彼のような世界を生きているはずなのだ。それはあまりに確かなこと過ぎて説明ができず表立ってはっきり表れることはない。彼のような人がときどきこうやってわれわれにそれ見せてくれる。それこそ「ロスト・シティZ」なのだと言ってもいい。ゼメキスはいつもこうやって確実にあるにもかかわらず誰にも説明できず結局「ない」としか言いようのない何かとともに映画を作ってきた。いやそれこそ映画だと説明のできない確信こそがそこにあるように思えた。音楽は相変わらずまさにここでしかないという場所にここでしかないという曲をはめていて少しうっとうしいとも言えるのだがそれでもやはりあまりにぴったりとその場にはまっているのですっかり気持ちよく観てしまった。ツイッターにも書いたのだが、世界中の男が彼みたいにハイヒールを履いて街に出たら世界はもっと住みやすくなる。香港でデモをする200万人の人たちが全員ハイヒールを履いていたらそれはそれで壮観ではないかという妄想に囚われる。

マーウェン  Welcome to Marwen

2018年 / アメリカ / 116分 / 配給:パルコ / 監督:ロバート・ゼメキス / 脚本:ロバート・ゼメキス、キャロライン・トンプソン / 出演:スティーヴ・カレル、レスリー・マン/ダイアン・クルーガー、メリット・ウェヴァー、ジャネール・モネイ、エイザ・ゴンザレスほか

7月19日(金)全国ロードショー

公式サイト

そしてやはりツイッターにも書いたのだが、直枝さんの音源を聴くと直枝さんもまたすでにハイヒールを履いているに違いないと思えてますますうっとりした。

あまりに面白かったのでそういえばということで帰宅してから前作の『マリアンヌ』を観た。やはりそこでも主人公のふたりが結局はいきつくことのない、そして本当にあるのかどうかもわからないアメリカの田舎に行こうという話で盛り上がっていた。すでにその地名は忘れてしまったのだが、果たして現実にその街はあるのだろうか。しかし1日に2本も映画を観たためにメニエルはさらに悪化。

6月13日(木)

午後、税理士がやってきて毎月の税務報告。あとはボーっとしていた。調子悪い。

6月14日(金)

普通なら外に出る体調ではなかったが原稿のこともあってヴェンダースの新作『世界の涯ての鼓動』。すでに賞味期限が過ぎてしまったとひどい言い方をしたくなるくらい80年代の受容のされ方を知っているものにとっては現在の日本や日本だけではない世界中のその受け取られ方の変貌があからさますぎて世間の残酷さをわがことのように感じる。だがその受容のされ方とは関係なく、ヴェンダースは孤独に自分の道を進んでいる。もともとはそんなに大きな映画を撮る人ではない。閉ざされた世界で生きざるを得ない人間の鬱々とした戸惑いや悲しみを抱えて、しかし一方で世界の広がりの中に彼らはその鬱症状のまま一歩を踏み出して関係を生み出していく。そんな映画ばかりを撮って生きたと思う。今もそうだ。誰もがメニエルなんじゃないかとさえ思う。「鼓動」を「耳鳴り」と置き換えてもいいように思う。世界の鼓動のような耳鳴りを抱えて孤独の中に潜っていく女とここではないどこかの戦場へと旅立っていく男の物語。何かが解決されたり新しい世界が開けたりするわけではないが、言いようのない鬱に囚われた人間たちがそれから出ようとするのではなく欝を抱えたまま世界に出てやるべきことを孤独にやる。それは確かに孤独ではあるのだが完全に閉ざされているわけではない。なぜなら彼らには鼓動が聞こえているからだ。ぼんやりとしてはっきりとはわからない振動に似た形でかすかに感じるそれとともに生きる。やるべきことが終わると映画も終わる。それが映画の終わりとしてふさわしいかどうかはわからないが彼らとともに映画は終わる。呼吸するように作られた映画といったらいいのか。世界で多くの人たちから受容されようがされまいがヴェンダースはこうやって映画を作っていく。

世界の涯ての鼓動  Submergence

2017年 / イギリス / 112分 / 配給:キノ・フィルムズ・木下グループ / 監督:ヴィム・ヴェンダース / 脚本:エリン・ディグナム / 出演:ジェームズ・マカヴォイ、アリシア・ヴィキャンデル、アレクサンダー・シディクほか

8月2日(金)、TOHOシネマズ シャンテ他全国順次公開

公式サイト

帰りにユニオンによってsoi48のミックスCDなどを。SoiのCDを流れるゆったりとした時間、しかしだらっとなるのではなく自分の足元のさらに地中深くにある命のもとに働きかけて気が付くと身体が動いているようなそんな時間に力づけられた。メニエルは治らぬまましかしそれをベースに生きていくことはできる。

6月15日(土)

もうたぶんこのままこの体調は治らない。そう思えるくらいに十分具合悪かったのだがとりあえず届いたボブ・ディランの『ローリング・サンダー・レヴュー』の14枚組CDを聞きつつやり過ごし、夜にはネットフリックスでスコセッシが監督したそのツアーのドキュメンタリーを観た。久々のシャロン・ストーンにドキドキした。高校生の時にボブ・ディランに見初められてそのツアーのスタッフになったのだという。アメリカ映画の中で彼女の姿を観なくなって久しい。彼女が見せるどこあまり育ちのよくなさそうなとがった野心の強い輝きが大好きだったのだが。イミテーションの輝きではなく本物なのかイミテーションなのか判断不能にさせる輝きの強さと言ったらいいか。ボブ・ディランは高校生の彼女の中にそんな輝きを観たのだろうか。このときのボブ・ディランについては、夏に河出書房から発売されるムック『ウッドストック』の中に書いたのでそちらを読んでいただけたら。いったいどうして「ウッドストック」の原稿が「ローリング・サンダー・レヴュー」になるのか、という話を。

樋口泰人

映画批評家、boid主宰、爆音映画祭プロデューサー。98年に「boid」設立。04年から吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画・上映。08年より始まった「爆音映画祭」は全国的に展開中。著書に『映画は爆音でささやく』(boid)、『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社)、編書に『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド)、『恐怖の映画史』(黒沢清、篠崎誠著/青土社)など。
6/27(木)〜30(日)に初となる「爆音映画祭 in MOVIX八尾」を開催。7/4(木)~7(日)は「爆音映画祭 in MOVIX三好」も。