映画音楽急性増悪 第6回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」の第6回目はフィクションに登場する「もっとやれオジサン」としての映画音楽について。「もっとやれオジサン」とはどういったものなのか、どういったタイプのものがあるのかを『オペラ座/血の喝采』(ダリオ・アルジェント)、『ヴェノム』(ルーベン・フライシャー)、『殺人者の記憶法』(ウォン・シニョン)、『危険なメソッド』(デヴィッド・クローネンバーグ)などを例に展開してゆきます。

第六回 別名

文=虹釜太郎

あるフィクションにおいて何か事件が起きた時に、あなたの中のもっとやれオジサンがまったく起動したことがないという人は聖人であるか呼吸するように嘘をつくのが当たり前にできてしまうか記憶の消去がすばらしく上手かである。あなた自身が気づかないうちにあなたの中のもっとやれオジサンの消去をしている場合は、いかに瞬時に最速でそれがなされようとも、その捕獲をすることを映画ではできる。別に皆が捕獲する必要などさらさらないが。それは可視化してなくても構わない。その過程でその映画自体の観方も変わっていくかもしれない。

とんかつ大学のオヤジほどではないが(第五回参照)、映画によく出てくるのがこのもっとやれオジサンで(もっとやれオバサンでもいいねだけど、オジサンのほうが不可避なしょうもなさ感が強くなりふさわしいか…)、このオジサンはだいたいにおいて火事場において便乗する。ホラー映画やゾンヒ映画にもよく出てくるこのオジサンであるが、このオジサンがもっとも馬鹿馬鹿しく顕著に現れるのは例えばダリオ・アルジェント作品群においてで、特に『オペラ座/血の喝采』(1988年、以下『血の喝采』)にいたっては、この映画の中のあらゆる音楽たちのすべてはこのもっとやれオジサンのためにある。そんな馬鹿馬鹿しいことがはたしてあるのだろうか。

オペラ「マクベス」までもがオジサンのために徹底的に仕える。わかりやすい箇所でいえば、31:54~33:36。目蓋に針を接着された女を助監督である男が助けようとした刹那に処刑される箇所で、毎度毎度ながら呆れるほどにワンパターンのもっとやれな音がただただ流れる。どういう音楽かの説明は誰もが知っている音楽なので記さないが、とにかく31:54~33:36ではオジサンの登場があまりにも長すぎる。このもっとやれ(音)は長くても「お前は不感症ではない」の前で終わっていいはずなのに。でも終わらない。

そして33:36でこの音が止んだ直後の33:38にひどいめにあった女(もっとやれ視点では、不感症を無理やり解消される機会を経た)を慰めるようなコーラスが33:36~34:44まで流されるが、この音楽はあきらかに偽物としてある。本体はもっとやれであり、33:36~34:44は見せかけの偽物。もっとやれが軸な世界では、女がすぐに死なないための33:36~34:44の慰撫の音楽なのであり、それは35:03~のもっとやれのしもべである音楽の登場ですぐに馬脚を現してしまう。実際の映画製作において33:36~34:44の音楽をどうするかを監督も音楽監督もなんにも深く考えなかったとしても、もっとやれの軸はまったくぶれようがない。アルジェント作品ではあまりにそれが顕著過ぎる。これをアルジェント節と呼ぶのをそろそろ止めて、もっとやれオジサンのプロファイリングをその道のプロたちが取り組んでほしい。

映画内で警部が元ホラー映画監督の「マクベス」演出家に意見をきいた際に演出家は「現実の事件と映画は違います」と答えるが、その後の警部の質問「あなたにとって現実とは?」には演出家は答えないままに映画は進行する。「偶然が続くとは思えない」という警部だけでなく、カラスの担当のマウリツィオも真実を知らないが、真実はカラスが知っており、「からくり」はカラスも知らない。真実とからくりは次元が違い、「もっとやれ」はからくりの話だが、カラスは「もっとやれ」に時に接近する。もっとも映画内で「もっとやれ」にもっとも接近するものは生き物だけとは限らない。一部の映画製作スタッフの表に出てこない様々な尽力は人間中心以外の気づきを集合して模索してきた。『血の喝采』におけるカラスは、『田舎司祭の日記』(ロベール・ブレッソン/1950年)ではワインだろうか。

映画では「もっとやれ」は誰にもわかるかたちであきらかにされなくてもよく、作り手もそのからくりを無意識に作っている場合もあり、しかし無意識にそれがなされる方が望ましいという意見は議論しても意味がない。ただすばらしい美術に対し、からくりがぶれぶれだったりする場合もある。厄介なのは「もっとやれ」の登場が、映画の中の世界がとことん馬鹿らしくなったと心底感じられる場所からとめどなくやってくる哄笑というワンパターンさで、ではこの哄笑の主体は何かと言えば、それは存在自体が笑いとばされるために存在が存在たらしめられている事態全般ご苦労さんと笑う存在であり、その存在は常に生真面目な共犯者を必要とする。世の中にはこの「もっとやれ」がまったく存在しない映画も、そもそも「もっとやれ…とは?なんのことですか…」という映画作家も多い。この世界がなんで存在するかより、自分が切実である感情をより広く強く押し付けることや美しいものをそもそも作ろうとすること自体が大切な者たちの作品は世界に一定数存在し、それを熱心に鑑賞し涙をえんえん流し続ける者も多数いる。そんな現実と折り合いをつけるためにはどうしたらよいか。

『血の喝采』において、警部の演出家への質問「あなたにとって現実とは?」には演出家は答えないが、質問が「あなたの職業とは?」なら演出家は上記の共犯者を作ることというのを様々に言い換えることで答えるはずだが、その回答へ至る過程、警部のさまざまな質問もまた監督によって阻止される。この映画についていまさらネタバレどうこうもないと思うが、一応ネタバレを考慮して、警部についてはこれ以上書かないが、そもそもこの警部が演出家に「あなたにとって現実とは?」と質問している箇所は何度観ても面白い。捜査するべきことと探求すべきことが混濁する場は映画に許された最高のおもしろさであり猶予期間だから。それは時限でしかないけれども。

上記の阻止は具体的には、いきなり衣装を直さなきゃと割り込むジュリアによってなされるが、ジュリアは演出家への不満がそもそも事件を起こしていると語る。

『血の喝采』はホラー映画というより、「メイン」の演出家に対しての衣装班、美術班、動物班、照明班からの阻止できない反逆たちを丁寧にたどった映画である。

だからこそ映画『血の喝采』のオーディオコメンタリーは、普段それに登場しないスタッフたちによって、例えば衣装班、美術班、動物班、照明班、音響班らによってなされるべきであり、製作側やあらゆる輸入側や輸出側がそれをしないならば映画メディアがそれをやるべきだが、メディアはアルジェント節!健在!といつもの調子で、今日もずっこけて脱力し立ち上がれない。そして何度観ても13:06~13:41、22:22~23:51の音楽にはずっこける。この音楽とマネキンを身代わりにという時点で警部を憎めない人もいるかもしれない。

もっとやれもっとやれの無駄な加速のために世界は作られる『血の喝采』のもっとも無駄なシーンは、54:54~のジュリアが無駄に金のネックレスを不自然に飲み込み、不自然に残酷に体内を切り裂いてそれを取り出す箇所だろうが、もっとやれの噴き出しをコントロールできない事態をありのままにというこのシーンは他の監督であれば脚本段階で削除するかもしれないが、アルジェントはそうしない。

31:54~33:36で流されたもっとやれのメインテーマは99:33~100:51で再び流される。ではこの音楽は何のもっとやれだったのか。それははっきりしているが、こればっかりは各々が体験するべき宝であり病である。縄を解いてあげること…いや、縄を解いてあげることの前には縄で縛ることが必要だということ…いや縄を解いてあげることと縄で縛ることが等しいということ…それらは表でしかなく、風と光が人工的に用意され、彼女は演技することを学んだ。ただ音楽だけは彼女には聞こえない。

話をもっとやれオジサンに戻すと、このなにかと便乗するオジサン、とってもせっかちなため、時にはただ宇宙船が墜落しただけなのにすぐに登場したりもする。

例えば『ヴェノム』(ルーベン・フライシャー/2018年)冒頭がそれである。『ヴェノム』は観る者の感じかたを次々に化学調味料的に音で誘導し過ぎの音響過保護の点においてはどうしようもない映画で、音でわかりやすくし過ぎるのが映画をいかに陳腐にするかの典型になってしまっているが、84:02の音響兵器以降の闘いは、報われなさ過ぎたゲーム『ブラッディロア』シリーズのオマージュぽくもあり、名作ゲーム『ブラッディロア』はきちんと映画化されてほしいと切望するが、そこでは獣化はなぜ抑制されたのか、獣化を理論づけした男の悲劇と再発見などが描かれてほしい。ゲームの映画化はいまだ複数進行中で、製作中の映画『モンスターハンター』はすっかり軍の映画になってしまいそうだが(3Gの世界こそ映画化してほしいが、または操虫昆主体のスピンオフ)、『ブラッディロア』と『パンツァードラグーン』はいつか実現してほしく。獣化が解けた瞬間のブラッディロアプレイは他の格ゲーにないアンニュイさをプレイヤーにもたらした。獣化が解けないが、というかそもそも獣化してないが、その種のアンニュイさを強く醸し出してる例としては『ヘルボーイ』(ギレルモ・デル・トロ/2004年)があり、強化または変異を自らへし折る場を丁寧に描いた作品はすばらしく、『ヘルボーイ』は過小評価され過ぎである。いろいろ空回りしている『ヴェノム』では、84:54でエディが「しゃべり過ぎだ」と決め台詞を吐くが、しゃべり過ぎなのは過保護音響の方である。過保護映画『ヴェノム』の過保護の不気味な徹底。この過保護の徹底は極めて現在ぽくてうんざりする。この映画の音仕事はストーリーに対してあまりに過保護だが、ヴェノムはエディに対して徹底して過保護である。ヴェノムがエディに過保護すぎるのを隠蔽するために音響仕事が進んで泥をかぶったとするのは考え過ぎでしかないが、本作はカホゴとソンタクが世界的にあまりにも行き過ぎているのを象徴しているかのような後味の悪さをあからさまに残して気持ち悪い。その反動としてロブ・グリエを観たくなる人も多いかもしれない。今後作られるだろう『シニスター・シックス』ではカホゴとソンタクはどのくらい削られるか。ヴェノムはそこまでエディに過保護であるなら、エディを寄生先として選択する前の寄生の失敗が複数描かれないといけない。寄生の失敗ならライフ財団のラボで複数描かれてるからいいじゃないかといえば、それではまったく不十分で、ヴェノムが寄生先を優秀にすぐに選ぶことができるなら、ヴェノムがその種族で落ちこぼれてるという説得力がない。『シニスター・シックス』が作られるなら、ヒーロー映画の過保護たちをあばき倒しいじり倒す手法を様々に駆使してヒーローたちをおちょくりまくってほしいものだが、『ヴェノム』に足りないのは、ダブステップイズシットに対してダブステップイズベストと観客を即座におきざりにして即答するような細部かもしれないが、『ヴェノム』のエディは隣室のギター音に対して枕を抱え込むしかない。話をもっとやれオジサンに戻すと、とにかくもう少し登場を遅くできないのか、すぐに出てくるのを溜められないのかというつっこみが常に世界のいたるところから寄せられるだろうこのオジサンだが、基本的にはとんかつ大学のオヤジが作り出した火事場に便乗する。そして火事場に便乗するもっとやれでなく、静かなる【もっとやれ】がある。これについてはよい仕事はたくさんあるが、アルツハイマー設定があまりにご都合主義と批判されている『殺人者の記憶法』(ウォン・シニョン/2017年)では、多数あるとんかつ大学のオヤジな音たちや娘の顔が分からなくなってしまうセピアな音楽たちに埋もれてしまってはいるが、49:11~の殺人犯同士の対峙の際の49:26~50:39での二人の殺人犯へのもっとやれが地味ながらすばらしい仕事だった。『殺人者の記憶法』にもっとも似ている作品のひとつとして『ウォッチメン』(ザック・スナイダー/2009年)を思い出す人は多いはずだが、この二作品に共通するのはナレーションが延々と続くというのは誰もが気づくことで、『殺人者の記憶法』では主人公の引退した獣医によるそれが、『ウォッチメン』ではロールシャッハのナレーションがシンプルに発声がすばらしい。このおし殺したナレーションと抑制されたもっとやれの組み合わせは強固で、今後それを裏切る組み合わせが複数発見されてほしい。『殺人者の記憶法』と同じく殺人の記憶があいまいになるスリラーとして『心霊ドクターと消された記憶』(マイケル・ペトローニ/2015年)があるが、この映画にはもっとやれは存在しない。音楽が作品をわかりやすくしようとして作品の可能性を縮小させ、そこで予想外の何かが駆動することを遮りまくるよくある事例が繰り返される。その予想外の何かの駆動をわかりやすさが失速させ消滅させられるのを目の当たりにする映画体験とは実にアンニュイだが、それは意図されたものではなく、またただただ残念な。ただなかにはとんかつ大学のオヤジがまったく登場せずにもっとやれでずっぱりみたいなのもある。

映画の作り手はいくら時間がなくても自らのうちに眠るもっとやれオジサンの姿をどういう姿かどういう恥さらしの開き直りかどれだけ予想よりも巨大かなどをもっともっと直視すべきであり、こうしたオジサンがあまりにでずっぱりな映画は映画と言えるのか。もちろん映画であるが、しかしすべての映画がオジサンでずっぱりならそれはそれで困る。

もっとやれオジサンに似ているようで全然違うのが、【なぜもっとやらないのか】である。もううっとうしいので、オジサンはつけないが、【なぜもっとやらないのか】とは。【なぜもっとやらないのか】は【もっとやれ】ほど映画には多く存在しないが、その代表的な映画としての『裸のランチ』(デヴィッド・クローネンバーグ/1991年)がある。

世界的にも稀有な観察力を誇る音楽批評家の福島恵一がかつてtamaruについて書いたようなこと(呪力封じ他)が、オーネットとクローネンバーグについていまだ書かれない不幸が非常に残念である。

『危険なメソッド』(デヴィッド・クローネンバーグ/2011年)の助手の初のお手伝いの箇所の音楽は何の驚きもない11:09~からはじまるそれは、しかし数秒後にはもっとやれの音楽となるが、それは『血の喝采』のような華々しく馬鹿馬鹿しいものでなく、ともに落下していくことのもっとやれであるが、『危険なメソッド』では助手の初めての観察のシーンからあまりに助手が優秀すぎることの描き方があまりに早急かつあからさまなため、もっとやれな音楽はそこで肩透かしを食らうだけになってしまうが、この些細に聞こえる肩透かしはしかし映画全編を侵食する。

『コックファイター』(モンテ・ヘルマン/1974年)の音楽ではない効果音たちは【なぜもっとやらないのか】で満ちている。【なぜもっとやらないのか】に侵され過ぎている男からは女たちは去っていく。

『モラン神父』(ジャン=ピエール・メルヴィル/1961年)の97:35~の音楽は【なぜもっとやらないのか】ではないが、103:30~103:34に流れる音楽は、『モラン神父』には流れ、『田舎司祭』には流れない。このこぎつねが跳ねるような音楽たちはいったい何だろうか。この音楽は【なぜもっとやらないのか】をも断ち切る無垢さで溢れている。この無垢さに祝福されたような映画たちに自分は強い違和感を感じているが、それには抗しようがない。【なぜもっとやらないのか】を時に妨害するこの特殊な潤滑な生命により世界は周り、闘いはまたしても迂回される。がしかし…

『モラン神父』97:49~の経験論批判~突然の性的な強迫観念の爆発の音楽は、リュック・フェラーリの逸話的音楽とジャン・クロード・エロワのエレクトロアコースティックのルーツともいえる言葉の破片の超残響として斬新だったが、それはモラン神父の神への皮肉、隠そうとはしないその皮肉と対になっている。その対はしかし、106:40~のモラン神父の「隠れ」と梨を拒否するバルニー(エマニュエル・リヴァ)の隠れ(ここでの照明がすばらしい)の二つの隠れが前提になっている。神父は「また」はあるのかしらときかれたが「また」などなく、しかしその不在は後に多くの残響と逸話的音楽を生む。ここでの「『また』はあるのかしら」発言は映画の歴史の中でももっとも恐ろしい言葉のひとつであるだろう。『モラン神父』はいまもなお多くの残響を生み出し続ける怪物的映画である。食糧についての強迫観念だけは描き不足だといまでも感じるが。

【なぜもっとやらないのか】というのは「やらない」人間たちが愚かなわけではないが(生きている意味があるかどうかはともかく)、オリヴェイラ監督の映画は【なぜそんなに愚かなのか】な音楽に満ちている。【なぜそんなに愚かなのか】と【なぜもっとやらないのか】の往復により導かれる運命が毎回反復されることを観る者にすごく静かに突きつけ続けるようなオリヴェイラ作品は、他の監督たちは安易に真似することはできない。【なぜそんなに愚かなのか】と【なぜもっとやらないのか】の往還に無意識に躊躇と瞬きする音は『メフィストの誘い』(マノエル・ド・オリヴェイラ/1995年)の礼拝堂めぐりの後の19:29~21:20に。瞬くのは誘う者で躊躇うのは誘われる者で。その前の礼拝堂めぐりでは【なぜそんなに愚かなのか】な音楽が変奏される。

『メフィストの誘い』の23:40~24:46の【なぜもっとやらないのか】と『裸のランチ』の【なぜもっとやらないのか】。

『メフィストの誘い』の29:10~34:19のなぜもっとやらないのかの残響はいまだ空耳として体内に残っている。いやしかし空耳は体内に残るものではないだろうと。いや残るのだ。空耳としての『スプリット』(M・ナイト・シャマラン/2017年)論が必要だ。

【なぜもっとやらないのか】でなく「もっとやってしまった教室」の例として『THE DEAD CLASS/死の教室』(アンジェイ・ワイダ/1976年)がある。

ボンセカカボンセカカボンセッカッカと発話する老婆はまるで皆からとうに忘れられてしまったテレタビーズたちの老後のようだ。ミシャカシャゴンバッツェ…人形首塚…の『死の教室』を観るたびに中原昌也の様々なライブを思い出す。『死の教室』のおまえの父ちゃんクソをした前後のもっとやらないか音頭と『アンダーグラウンド』(エミール・クストリッツァ/1995年)と『ドッグヴィル』(ラース・フォン・トリアー/2003年)。『死の教室』の可動軟骨の重要さとカピトリヌスのガチョウが繰り返される教室とラファティの『カミロイ人の初等教育』(レイフェル・アロイシャス・ラファティ著)。ワイダが『地球礁』(レイフェル・アロイシャス・ラファティ著)を映画化していたらそこにはどんな創世記が現れたろう。

『マリア・ブラウンの結婚』(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー/1979年)の戸籍登録所でかかる音楽は【もっとやれ】か。再び爆破される予感の無人の建物を前に、ここで「赤ん坊の鳴き声」→「爆撃音」→「サイレン」→「鐘」と移り重なる音だけで、翻弄される人たちを追いつめる主体は?

男か靴下くらいくれるだろ!これだけ見せりゃのところでも街角でも頻繁に起きる回転は【もっとやれ】をするっとかわしていこうとする。【もっとやれ】をかわす音は存在するか。台詞とアンダースコアリングと延々と流れるつけっぱなしのラジオとテレビの複数の音が出っぱなしの『ローラ』(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー/1981年)はそれをかわしたか。加害者が犠牲者を探す映画の映画史は何度もまとめられるべきだが、【もっとやれ】に翻弄されすぎて自爆した者たちの映画史はまとめられる気配はない。【もっとやれ】をかわす音は存在するのかについて考える度にひどく絶望的な気分になる。映画が終わって、ああ観終わったという人はいるが、ああ聞き終わったという人はほとんどいない。

そして【とんかつ大学のオヤジ】と【もっとやれオジサン】と【なぜもっとやらないのか】に加えて、【一方その頃オジサン】というのが存在し、このようなオヤジやオジサンたちが登場し過ぎる「男」どもの悪循環に対して、「え?何?オジサンたちの介入は許さないよ、というかあいつらがいる前提の世界とは少なくともわたしは距離を置くよ」と観客を見つめるオヤジでもオジサンでも小娘でもない存在による態度と方法があるが、それは例えばファスビンダーの『ローラ』に顕著である。とんかつ大学のオヤジが○○でしょっ!!違うっ!?やっぱ○○でしょっ!でしょでしょでしょとでしゃばり続ける(そのような「効果音」で説明したがる)のは予言しているわけではないのに対し、一その頃オジサンは自らだけはわかっている世界の行く先について急いで見せたい親切心に溢れ過ぎている。これが『ローラ』のようにすばらしい度を越せば、世界を祝福はするが一筋縄ではそれはさせないという何者かの視線の介入とでも呼ぶべき事態を招き、一方その頃の頻出の加速はコメディとなる。それはあらゆる音楽のアウトロがコメディとなるのに似ている。ある音楽の終わりが近づくにつれて、ついつい笑ってしまうような経験を様々にしたことはないだろうか。自分はいまだにある曲が終わるアウトロの瞬間に常に爆笑しそうになるのを止めるのに常に必死だ。笑いを止めるのにもう疲れたが。その笑いがどこから来るのか。そういう経験がないというなら仕方ないが…

ある音楽の終わりと一方その頃のはじまりは基本的には関係ないはずが、あまりにそれが結託してるのに皆が当然のようにそれに従っている事態は悲劇か喜劇か。世界を祝福はするが一筋縄ではそれはさせないという何者かの視線の介入。これらの介入によりあらゆる映画のエンディングがすべてコメディになるという病いが発動する。つまりどんな映画のエンディングを体験したところで、常にそこには『ローラ』のあの一方その頃の転換音が鳴り響いてしまうのである。ああぁ!困ったことである。この世界は実際のところそういう何者かが介入し過ぎなのである。

※ファスビンダー映画における音楽については、『ファスビンダー、ファスビンダーを語る第2・3巻』(boid)を。絶版になる前に。