映画音楽急性増悪 第4回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」第4回は「狼女の発毛」についてです。普通に暮らす女性が意図せざる発毛とともに狼女へと変身する状況について『獣は月夜に夢を見る』(ヨナス・アレクサンダ・アーンビー監督)を中心に考察。その考察は、映画で使われる音や音楽についてもそれがどう聞こえるかを分類し展開されます。

第四回 毛

文=虹釜太郎

真皮細胞異常。バピラ暴走。基底細胞、有刺細胞、顆粒細胞、角化細胞の異常…狼女に起きている異常はもっと違うことを考えるべきなのは当たり前だが、実際のところ狼女の身体がどういったわけでああいう発毛をしているかなどまったくわからない。ん?お前はいったい何を言ってるのか…

意図せざる衝動 「‎Unintended impulse」、意図せざる発毛 「Unintended hairgrowth」…意図せざる発毛って何なのかと。そもそも発毛とは自らの意思で行うものでないだろうと普通はなるだろうが、強い意思で発毛している戦闘生物はいる。しかしそもそもなんで毛が生えてしまうのか。身体の保温。紫外線保護。外敵に見つからない保護色。毛が何かに触れることによる空間把握。毛皮関連汗腺らによる個体識別、異性誘引。では映画世界における発毛にはどういう豊かな毛生えの理由があるか。

狼女の世界はもちろん多様であるだろうが、今回とりあげたいのは、深い森から現れた白い雌狼が満月の夜に変身してひとりの男性を虜にするというような狼女やマンリー・バニスターやキャサリン・クロウ、エリック・ステンボックらによる狼女ではなく、普通に暮らしていたはずの女性がある日…という場合。

ウェルズ恵子によればオオカミ女物語の狼女はハリウッド映画に見られるような狼男の女性版ではなく、普通の女性に隠された分身を幻想のなかに呼び出すような影と輝きの存在ということになるが、森から現れて満月の夜に変身してひとりの男性を虜にするような、自然と人間の境界で愛する男性を餌食にするというような狼女たち(またはトルートまたはアルプ)でない人間の女性、成人女性であれ老婆であれ少女であれ、彼女たちがいきなり狼女になった場合に、彼女に、彼女が現れた世界にどういう事態が起きるのかを考えた時、その発毛、突然の発毛の描き方や演出はきわめて重要であり、とりわけ狼男でなく狼女のそれは今後もさまざまな可能性を強く秘めている。生粋の狼女でなく、人間から狼女になった、もしくは狼女が(人間の女性に)発現した時(人間の男性から狼女が発現する場合もあるだろうが、それについては…長くなるから割愛)、それは狼男の場合よりは、常に身体の古い機構にとっては排除すべき異物としての狼女の発現というニュアンスが強くなるかもしれない。しかし今後は、人間であったことがそもそも回顧であるということ、いままでの人間が回顧的異物であるということを積極的に描く狼女映画が増えていくかもしれない。ホラー映画、モンスター映画というのでなく、いままでの人間というのが回顧的異物であるということをさまざまにあきらかにする映画たちには何か別の名が与えらないといけない。それはそもそもホラーでないことが多いかもしれないのだから。まず狼女映画をホラーから解放することが初期段階としてあり、そして狼女として目覚めていく諸器官に露な活動の痕跡はいったい何者の痕跡であるのか、その痕跡が宿るものがとりあえず狼女や狼男や何かのモンスターとして描かれているようでもそれをいったん括弧に入れておくことが次の段階で、その痕跡を残す主体をとりあえずXとすれば、そのXをかんたんに超越的存在の別名で呼ばない言わないことがその次の段階である。そして痕跡を辿られてしまう存在(モンスターと言われがちな)が、その痕跡の主体とどう闘うのかそれともなすがままなのか第三の道があるかが映画からどう導かれるのかは次の段階である。しかしいきなり第四の段階から出発すればそれは映画というよりは本に近いものになってしまうかもしれない。しかしそれで観客がいくら困ろうが専門家がこれは映画ではないと喚こうが慨嘆しようが何も問題はない。いままで製作側が自粛していただけなのだから。しかし自粛していたのでないなら何を模倣していたのか?

意図せざる発毛…というか意図する発毛のほうが異常であろうが、狼女にもいろんな事例があるにせよ、生えてしまいたくない毛が生えてしまうという、どの女の子もこの世界で生まれた以上は遭遇するその事態があまりに強度を増してしまう事態を地道に描いた作品として『獣は月夜に夢を見る』(2014年)がある。ヨナス・アレクサンダ・アーンビー監督は本作を一人の少女が大人に変わっていく姿をリアルに肖像的に描いたとのことだが、もちろんそこには音の側面でもひとつの軸がきちんと設定されている。それについては後述する。本作におけるマリーの中に潜む獣とはある特定の人がかかる病気や狼女病などではなく、どんな人間の中にも存在する感情こそが獣ではないのかという感想は複数聞くが、たしかに感情は時にその人自身を喰らいつくし他人をずったずたにすることは事実だが、そのことをもって本作は感情=獣=狼女病の映画だとするのはマリーにあまりに失礼だろう。強すぎる意図せざる発毛をすること、そのことの由来とどう対峙するかは本来あらゆる人にも訪れる事態だととらえるほうが自然であるかもしれない。また感情=獣というのだけで本作観賞ほとんど終了であれば、マリーの母親の自殺がきちっと描かれたことはあまりに拾われない。陳腐過ぎるホラー演出だとか、『ぼくのエリ 200歳の少女』(“Let the Right One In”/トーマス・アルフレッドソン/2010年)(以下、『エリ』)よりはるかに劣る出来だとか批判されている本作だが、フェミの皮をかぶった駄作みたいな言いがかりまである。『エリ』と比較して本作がいかに駄作かをえんえんと罵る人たちもいる。しかし『エリ』のエリのあまりにもな逞しさとしたたかさに共感できない人間もいる。

『獣は月夜に夢を見る』の狼女はエリと比較して(比較などしたくもないが)あまりにも弱い。バイクに乗った村の青年(エスベン)を噛み殺した後のマリーのあのあまりもの弱さはどうか。こんな弱さなど『エリ』のエリには微塵もない。エリはまったく弱くなどなく次々と使い捨てる相手をなんなく見つけていく。エリは時には感傷的になる余裕があるが、マリーにはそんな余裕はまったくない。盗んだ母のカルテに戸惑うばかりだ。身体の変異に戸惑うことから離人してやさぐれてガラスのコップをやけくそに噛み砕いてふてくされることなどエリはまったくしない。自分の思い通りにならない時はぶちギレるかぶっ殺すか皆殺しにするだけ。マリーの弱さからはたしてどういう分岐があるのかは各自がいつかは徹底的に考えなければならないことを『獣は月夜に夢を見る』は要請しているのであり、その分岐を孕む描写こそが「撮った」というよりは「肖像画」というわけで、本作の見せかけの映像美がつまらないなどといくら罵倒しても虚しい。

『獣は月夜に夢を見る』はいままでさんざん『エリ』と比較されてきたが、強すぎて揺らがない余裕のありまくるエリの『エリ』よりは、本作と比較すべきは『ガーゴイル』だろう。『エリ』についてはあまりに美しい…とか性別は…とかではなく、広義の寄生の過去と未来とその他としてとらえ直すことが必要なはずだが、いつまでもいつまでも美しい…とかの段階なままではこれはまた別の病いだろう。それをあまりに続けるなら服従者としての歴史がまたひとつ積み上がるのかもしれないが、それが何になるのだろう。『獣は月夜に夢を見る』と『ガーゴイル』を交互に観直すと、本来「毛」映画であるべきはずの(?)の『獣は月夜に夢を見る』より『ガーゴイル』(クレール・ドゥニ/2001年)のほうがあきらかに毛を丁寧に丁寧に描いている。しかしどちらにも共通しているのは、人ならざるものに変容している主人公たちの血へのあまりの慣れなさである。『獣は月夜に夢を見る』には血の画が少なすぎるが、しかし血だらけの画ばかりのはずの『ガーゴイル』においては、主人公たちは血だらけになりながらもあまりにも血に慣れない。なぜそこまで慣れないかが観終わった後も強靭に観た者の体内に残る。ドゥニは天才的直感でこのように作れたのではなく、苦心して慣れなさへの洞察を深めたがゆえに。愛しつつ愛していないことについての映画は数あれど、血への慣れなさの交錯のなかで、否認の限界領域を描く映画はとても貴重だ。両作品ともに『エリ』とはかけ離れている。両作の人ならざるものは、『エリ』のエリのようには変容しきっていない。この両作を何度か往復した後に『エリ』を観ると、『エリ』は完成しきった人ならざるものがただ今回もサバイバルしました、ただただ今回も生存戦略うまくいきましたとしか映らなくなりがちなのは、エリがあまりに血に慣れっこだからだが、『ガーゴイル』においてはコレが血まみれで階段を降りるシーンの繊細過ぎる所作からもはっきりわかるように血にはエリのように慣れっこではまったくない。ところで血だらけに普段から慣れ過ぎている人は別として、普段から血まみれにあまり慣れていない人が血まみれになった場合どういう状態になるかは、まだまだ映画においてすらデータ不足であり、現在世界においてはデータの持ち帰り不足過ぎである。血まみれに慣れない筆者が血まみれになった時はいつも、背中に一定の毛の逆立つようなしょう気がまといついたまま動作が鈍くなることがいままで多かったが(何かを殺したり傷つけたり自傷したわけでなく)、コレが階段を降りる際の血の慣れなさの感覚の表現はそれらの体験と照らしてもよくできている…つまりコレはあれだけ人を殺していながらもいまだあまりに血に慣れていない。血に慣れすぎたものたちの映画は十分に撮られてきたはずだが、いくら血まみれになろうとも血に慣れない細部たちはまだまだ少ないはずで、そもそも血に慣れないなどということ自体がホラーの専門家たちは苦手もしくは関心の対象外かもしれないが、そうだとするならホラーとは何なのか。『獣は月夜に夢を見る』においてはマリーはまだ自らの行為すらもはっきり自覚できないままの段階で映画は終わってしまう。

意図せざる衝動と意図せざる発毛。

意図せざるある動き(衝動、欲求、不随意運動全般)をAとし、それについてつけられる音をSとする。(不随意音響筋)

意図せざるある動き(衝動、欲求、不随意運動全般)をAとし、それについてつけられたある効果全般(音、照明、その他特殊効果)についてをEとする

『狼女映画史』という本が書かれるならば、それはモダンホラー映画史のひとつとして成立してしまいがちだろうが、その中には本作以外にも『ワイルド わたしの中の獣』(ニコレッテ・クレビッツ/2016年)が「狼女映画」として扱われるかもしれないが、それにはおそらく『冬のセミ』(オムニバス映画『十年』より/2017年)は入らないだろう。ウォン・フェイパン(黄飛鵬)監督によるこの映画は、2025年の香港での二人の男女の物語だが、身の回りのあらゆる物を標本にすることにとりつかれた彼らを描いたようにみえるこの作品は、あきらかに人の身体に起きる本人の意図せざる活動たちについての問題提起をしたかった映画で、人の身体に起きる本人の意図せざる活動への違和感とその違和感からもたらされるある決定とその不徹底さを描いた作品である。本作が映画として評価されない理由があるとしたら、地球上の生命とは…の爬虫類から昆虫までの雑い挿入画たちやあまりにありきたりなセピアニカな音楽や自分を標本にしてほしいと頼みこむ男の演技にしては不可解なキョドった動きたちによるかもしれないが、本作は前半のそもそも人はなぜ睡眠活動するのかの疑いからラストの髪を切るシーンまで、人の身体に起きる本人の意図せざる活動たちへの強い違和感が基調となっている。本作のような作品は、わたしにはマイナスされた狼女映画として映る。マイナスというのは評価できないなどという意味ではもちろんなく、狼女という設定だからこそ、人の身体に起きる本人の意図せざる活動たちの異常性がどんなに鈍感な者にもあからさまにわかるかたちで伝わるが、狼女という設定があからさまになくてもそもそも人の身体に起きる本人の意図せざる活動たちの恐ろしさを問題にできる場合を指す。ではなぜそれがマイナスされた狼女映画であって、マイナスされた狼男映画でないかといえば、多くの狼男映画では、身体の異変にさらされた者がなんらかの気づきに至る前に殺戮の最中で死ぬか殺戮と変身がただただ習慣になったままの存在で描かれがちなのに対し、マイナスされた狼女映画は自らの身体の異変への対応がさまざまであり易いだろうからだが、もちろん製作側が狼男でそれをやってもいいのだ。その点において『ガーゴイル』の達成はいかに貴重かということだ。

『冬のセミ』は壊れやすい自治という観点からもさまざまに批評をされるべき作品である。『冬のセミ』で言及された現在地球上に存在する生物は870万種=地球上に存在した生物の2%=98%以上が絶滅。『獣は月夜に夢を見る』のマリーの母親は自分を標本にしてほしいとは頼まなかったが、『冬のセミ』の男は自分を標本にしてほしいと頼む。しかし『冬のセミ』の男女は標本を採取するだけで、拡張された生物体である動物の建築物などは採取していない。それをしない彼らに絶望する資格はあるか。『獣は月夜に夢を見る』の医師は狼女を標本にすることもないまま噛み殺される。

『水で書かれた物語』(吉田喜重/1965年)における8:05~9:06(9:07~9:23の「ダブ」を除く)、23:18~23:35他

[W]

(このような記載について批評ではないと激怒してもらって一向に構わないし、完全に無視してもらいたい。映画については非専門家がもっともっと勝手な発言をすべきだと強く感じるが、映画批評や作品分析がどうあるべきかなどにはまったく関心はない。そもそもタイムなど気にして映画を観ることなど間違っているし、しかし曖昧な誤解を避けるために必要な場合やくだらない神聖化を剥ぐのに必要な時はこのような記載をする。ダビング時の悪夢をおもいだすのでなるべくしたくはない)

『共喰い』(青山真治/2013年)における5:06~6:04、13:32~14:10、34:111~34:45他

[C]

45:27~46:00他

[R]

上記の[W]や[C]の音はどういう意味を持っているか([R]については…大部の「青山川沼論」を能力ある人物または機械にやってもらいたい)。

これらの音がSであるなら、そこでのAは何か。これらの音は単にSというよりは、貯められる音楽(音響)ではないのか。これらを他の貯められない音たちとは区別し、これらの音を仮にDとする。DはSに含まれるとして、Dの特異性は何かと探ることは映画の大学や録音の学校では教えられないことかもしれないが、それは手探りでもっともっと模索されるべきことだ。

[C]に使われている「音楽」(音の終わり方も)は凄まじくこの映画にあっているが、それはその「音楽」のはめられ方とは関係なしに、その「音楽」が来ない生を送ることが人にはほぼ不可能なようにも映る。どう人目を避けて逃亡しようにもその「音楽」から逃走することができないような。しかしこの「音楽」からの脱走者だけではなく、さまざまなその「音楽」からの脱走者たちがあらゆる映画でその脱走の潜在のただ中にいる。それがDの怖さだ。Dは映画の中では登場人物には聞こえていない。しかし例えば『エリ』におけるエリの空腹音は登場人物には聞こえている。なのでこの音はDと区別してHとする。

すると

  • HもDもSも聞こえない人
  • Hは聞こえ、DもSも聞こえない人
  • Hは聞こえ、Dは聞こえず、Sも聞こえないが、Aを自覚しはじめる萌芽がある人
  • Hは聞こえ、Dは聞こえず、Sも聞こえないが、Aを自覚したふりをし、それをさらに聞こえないふりをする人
  • Hは聞こえ、あることをきっかけにDもかなりはっきり聞こえはじめ、それでいながらSを聞こうともせず、Aを自覚もしない人
  • Hは聞こえ、あることをきっかけにDもかなりはっきり聞こえはじめ、それでいながらSを聞こうともせず、しかしAを自覚している人
  • あることをきっかけにHもDもSもかなりはっきり聞こえはじめ、Aを自覚している人
  • あることをきっかけにHもDもSもかなりはっきり聞こえはじめ、Aに敵対している人
  • Hは聞こえ、Dは聞こえる気がしはじめ、DとSの連関を考えはじめる人
  • HもDもSも聞こえるようにふるまうがAのことは考えもしない人
  • HもDもSも聞こえるようにふるまい、Aのことを考えはじめた人
  • Aの存在が気になるゆえに、HもDもSも聞こえるようにふるまう人
  • HもDもSも実際に聞こえる人

以下、映画内の人間と現実世界の人間をあえて区別せず彼らに何が聞こえ何が聞こえないかについて狂った記述をしていくことになるが(なぜそうするかは今後いずれかの回で)、まず13のような人は映画には基本的に存在しない。

メタ映画においてどう9が意味を持てるかということは問題だが、ここではそれを扱えない。

そして10と12は、人はなぜ「音楽」を聴き、聴いていないのかの問題でもある。音楽がかっこつきの「音楽」なのは、音楽を聴く、という時にあまりに演技としての「聴く」が常態化していること、人前で演奏することや人前で音を出している人間に群がることの病理があまりにもあまりにもそもそもそれは何なのかと顧みられなさ過ぎだからである。優秀な人は9から12および4をふまえて、映画『FAKE』(森達也/2016年)の細部、佐村河内をかつて聴きに行き、聴かなくなった人はなぜそうなのか、また佐村河内とチェルシについて論じてほしいのだが。チェルシは佐村河内よりはるか以前に佐村河内問題に突き当たっていた。

映画の観賞や批評や分析や罵倒においてでなく、一部の映画の作り手において強く問題になるのは7である。7である者は常に事態に遅れ、違和感を感じることを何らかのかたちで強いられている。その強いられが常人にはない強度であれば、その者はなにかしらを作る資格を持つ。7が皆無の映画作家も大量に存在し、彼らは皆、カオス過ぎる世界には耐えられないことの共犯のノスタルジーを強化することに日々懸命であり、とにかくやる気にあふれ、イメージそのものが自律して予定外の発見に導かれること全般を全力で無意識に無効化する。何のために?

8から10はヴァンパイアを含む映画における超越的存在について考える時に必要かもしれないが、願わくはヴァンパイアにインタビューするなら1でなく少なくとも3ではあってほしいものである。4がヴァンパイアにインタビューしてもヴァンパイア趣味やファッションしか聞き出せないが、低劣な4のような映画業界人は多数いる。4だけで廻る世界を前提に編集やネットコンテンツなどで触手を動かすだけで生きている者もいる。しかしもちろん4が3になることもあるし、4が1にさらなる劣化または虚無化をする場合もある。

1を馬鹿にするような2や、1と2を馬鹿にするだけでなく5を小馬鹿にする小賢しく愚かで傲慢な6、そんな6や2との議論に8は参加するはずもないが、現実でなく映画においてはさまざまな奇跡やでたらめが試されていく。数少ないとはいえ8の壮絶な総力戦と8を全力で疎外する存在については別の回で。

『午後の網目』(1943年)『陸地にて』(1944年)『カメラのための振付けの研究』(1945年)『変形された時間での儀礼』(1946年)『暴力についての瞑想』(1948年)『夜の深み』(1952-59年)以上マヤ・デレン監督作品、『鏡の中のマヤ・デレン』(マルティナ・クドラーチェク/2001年)『ボーン・イン・フレイムズ』(リジー・ボーデン/1983年)『特権』(イヴォン・レイナー/1990年)『5時から7時までのクレオ』(アニエス・ヴァルダ/1963年)らがまとめて上映されるフェミニスト映画月間特集上映があったが、今後のフェミニスト映画月間に『獣は月夜に夢を見る』が召還されるかどうかはわからないが、狼女月間があるなら、プログラムを組むほどにフィルムがないというなら、そこでどういう議論をすべきなのか。

『獣は月夜に夢を見る』のマリーの母親にはいまだいくつもの疑問が残る(彼女は狼女であり、狼女が発現中のマリーの母親)。あの母親は薬物中毒か、失語症か、ただまどろんでいるだけなのか。この母親は他の映画におけるゾーエー(ただ生きる状態に追い込まれた者)とどう違うか。また彼女は神経症の世界にいるのか精神病の世界にいるのか。「難病」当事者が自らの選択によって自らを廃棄していく可能性とあの母親を介護する父親。たしかにあの母親は狼女を覚醒させない薬に中毒になっているかもしれない。しかし人を薬物中毒に過ぎないと言うだけなら、何も言ってないに等しく、そういう態度こそが彼女をその境遇に閉じこめる。では彼女は失語症だったのか。それには疑問が残る。失語症は、人間の失語症、という(人間の)が当然ついている。失語症は思い出の縮小をもたらす。しかし失語症患者は自分をとりまく者たちが自分と同じ人間であることをわかっているという意味では、あの母親は失語症にもなれない。彼女は自分の力が衰えているのをどれくらい自覚していたか。またただまどろんでいるだけであれば、娘がいないならば、子供がいなくて夫婦ふたりだけならよかったのかもしれないが。それでもまどろんでいるだけなら、それはいっさい救うことはできない。本作は、モンスターが娘を持つこと、モンスターが子供を育てることについての映画でもある。そしてモンスターと言ってはもうどうしようもないということも同時に提示していて、観る側は疑問をつきつけられたままになる。モダンホラーとしてよくできているかどうかを専門家が問う時、あまりにトリッキーな脚本と俳優の力のみしか扱われないのが多いのはまったくよくわからない。もっともっと別のことが問われないのはなぜか。あの母親がそもそも薬物中毒になったのは、あの村で狼女であることを抑圧させて夫婦で生きていくことを決めた、というより受け入れた、というより何も考えなかったからか。そしてそもそも狼女自体の性愛が異性愛に整形され過ぎてはいないか。

『獣は月夜に夢を見る』のオープニングタイトルの音楽はとても陳腐なものとして響くが、そこでぷつぷつぷつぷつと蠢きはじめた音響は毛がどう生えるのかの言い換えに聞こえる人もいる。それがまばらにであれぼうぼうであれごうごうであれ、どう生えるか、その毛が生えてしまう事態への対処し難さの現実の連帯の音響。『獣は月夜に夢を見る』の主人公のマリーは、初バイト日に専用エプロンと手袋を渡され帰宅した後すぐに自らの身体の異変に気づく。異常を自覚しつつもそれにはっきり解決となる行動をとらず、それを忘れて過ごしていくうちにどうにもならない事態になっていく。マリーは意図せざる発毛を直視しない。『スリーデイズ・ボディ 彼女がゾンビになるまでの3日間』(エリック・イングランド/2013年)と比較してみると、この系はもっと多彩な描かれ方をもっと見も蓋もなくされるべきではと。

『獣は月夜に夢を見る』の場合と違い、『ガーゴイル』では意図せざる衝動でなく、十分に意識している衝動が扱われるが、『ガーゴイル』における女コレ(ベアトリス・ダル)を常に保護し助け出す医師であるレオは『獣は月夜に夢を見る』には存在しない。かといって、ここでの狼女は『エリ』のようには逞しくもなくしたたかでもない。

例えば『獣は月夜に夢を見る』を観て「その後の狼女たち」を考え続けることこそが映画を観ることの歓びであり呪いであるならば、本作の呪いは弱かっただろうか。『獣は月夜に夢を見る』においてわたしに浮かんだ「その後の狼女」のうちの一つは、拡大された闇の中絶医としての狼女であり、ヒト動物交雑胚とヒト性融合胚と動物性融合胚と動物性集合胚についてかつての人間では果たせなかった治療と経験と彼ら各々の自らの廃棄に体当たりする闇の広義の「獣」医であるが、それらの分岐が一挙に破裂するかどうかは、やはり当の映画がわかりやすさの名のもとに再発見の数々を阻んでしまうものの増殖をいかに抑制できているかが前提になる。もちろんマリーが上記分岐に覚醒せず、しかしダニエルが『ガーゴイル』では果たせなかった庇護を達成するならそれも見届けたいが。そうでなくあまりにやる気のないマリーとヘタレがはっきりあきらかになったダニエルの二人が殺されたりリンチされるのでなくどうしようもなくのたれ死ぬダメダメを見届けたい人や二人が遭遇する狂った分裂性分析の詳細を数え出している人やマリーのダニエルのみとりにおけるヴァンパイア映画の定番の更新を既視する者や新遺伝学再否定のモチベーションか新優生学断罪のためかどうかわからないが男のダニエルに狼女が発現する近未来や失われた過去を幻聴する者もいるだろう。

肉体の存在感が希薄であればあるほど多くの者が確実に手軽に安堵したいという希薄ノスタルジアにまみれてしまう世界の中で狼女映画の狼女は、それらの希薄ノスタルジアをぶっ飛ばしたりふっとばすのでなく、希薄な肉体の真逆の律動に我を忘れるわけでもなく、それらの底の底まで見「透」かしていく動きに何者かに祝福されている。そしてそれに成功せずに死んでいった弱い狼女たち。それら見透かしは意地の悪い眼差しでもなければ排除の果てに奇跡的に訪れる優しさでもない。またそれは見「通」すというエゴや支配らとも違う力である。

『獣は月夜に夢を見る』の7:27で早くもマリーは自らの身体の異変に気づく。医者にいまはまだ大丈夫だと言われたばっかりなのに。自ら身体の異変を認識した直後の7:30~7:38までの不穏な音響、しかしそれをイントロとしての7:39の穏やかな奇妙な明るさで狼女がこれから困惑していくのを燻す音楽がなぜ入るかといえば、それは『獣は月夜に夢を見る』が、8への静かな誘いの存在の視点の映画であるからだ。それは最後まで一貫している。15:57から16:07のとってつけたような「毛生え」ホラー音響は、この映画はそういう映画ではないですという申し訳のため夢枠でとってつけられている。8への誘いの視点を鬱陶しいし、うざいと感じる者もいるだろう。そこに誘われた後の可変性はどうあるのかないのか。薬漬けと休眠状態。それを息を飲むほど恐ろしく美しいなどと言ってもどうしようもない。マリーの初バイトの日、彼女は魚廃棄槽の中に突き落とされた後に救いあげられ「これで君も一員だ」と仕事仲間に祝福された直後の11:54、祝福されたはずのマリーに悲しい音楽がチープに流され、鴉がバカバカし~わ~とたくさん鳴く。鳴くというかほとんどつっこみだが。マリーの不幸であるはずの身体異変では明るい音楽だったのに。しかしこれは言うまでもなく当然で、マリーを魚廃棄槽に突き落として祝福したような「我々」にとっての祝福など、そんな祝福などいらないと、そんなとこでお前は祝福されるべきでないと。船上で生き残った二人が船内の浴槽で男が女の背に水を流しながら二人がこれから剃っても剃ってもまた生える~などと楽しく過ごすかどうかなどわかるわけもないが(船上シーンでは勝手にギドクの『弓』がなぞり書きされるように思い出されたが)、この先マリーが母のように自殺せず、自殺か栄光の身体かという二者択一もせず、その二者択一を疑似問題とし、生まれ直しを遂行していくかどうかもわからない。マリーは8へ静かに誘われたように映画は一見終わるようだが、彼女の見透かしが複数の水準で活性するのを、弱虫マリーがそれをするのをあなたはその後に観たかどうか。今月あなたのどこに毛が生え、あなたはその生えにいつまで気づかないでいるか。