映画音楽急性増悪 第3回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」の第3回です。今回は主にモハビ砂漠が舞台のロールプレイングゲーム『Fallout:New Vegas』と影響されたであろう西部劇をはじめとする映画について。ゲームと映画の音楽の構成の違いなどについて書いてくれています。

第三回 蠅

文=虹釜太郎

モハビ砂漠が出てくる映画はいくつもあるが、モハビ砂漠がメインで出てくるゲームとしては『Fallout:New Vegas』(フォールアウト:ニューベガス、以下『ニューベガス』/2010年)がある。

デザートモハビ、モハビ砂漠、モハーヴェデザート…いずれの言い方が日本で使う時しっくり来るかわからないが(以下モハビ)、モハビに闇が、人はまた過ちを繰り返すという台詞がひたすらしつこく繰り返されるゲームが『ニューベガス』。

人の記憶が場所の記憶とすりあわされる映画は無数にあるが、場所の記憶が人の記憶とばかばかしくすりあわされ、ベガス・エンティティ(vegas entity)のようなものとして複数の勢力が混乱している新たなベガスのような何かにプレイヤーが介入していくのが『ニューベガス』。もちろんいっさい介入せずに娼婦たちやプッシャーとだけ過ごしてもよい。クラウス・キンスキーが復讐を果たす西部劇映画のようなミニクエストはあまりに複数存在し、マフィアの首領がサイバードッグの脳の治療を依頼してきたり、ゾンビカウガールやゲイの医者のなりそこねや行き場のない孤児たちと治療代などまったく持ち合わせていない多くの負傷者や無力過ぎる者たちのたまり場であるシェルターかつサバイバル寺院を運営する女医たちからの依頼などまったく無視し、地下格闘技界の運営者である女のヒモになりきってもよければ、飛行機の墓場らしきところでニューベガスラジオをただ晩から朝まで聞いていてもよければ、出会う人間たちすべてを殺す選択をしてもよい(殺し過ぎると世界はどうなるか)。あまりにも語り継がれる西部劇映画をいくつも撮ったペキンパーのデッドドッグポーカーの日々を再現しっぱなしでもいい。ネヴァダの火の谷に「デッドドッグへ出発!」などと言って出発し、夜にはスターたちをベガスに送り出し、L・Q・ジョーンズの部屋でストローザー・マーティン、ジーン・エヴァンス、フランク・コワルスキー、ボビー・ヴィシグリアらとポーカーし続けるようにただただポーカーだけしていてもいい。『ニューベガス』では5種類の異なるカジノがある(うち二つは閉鎖中)。しかしゲーム内で子供は一切殺すことはできない。フォールアウトシリーズのゲームをひたすら裸のラリーズをかけながら全ての登場人物を殺す縛りをしていたプレイヤーも子供だけは殺すことはできない。ベセスダによる『フォールアウト3』(2008年)でも『スカイリム』(2011年)でも子供がらみのクエストはどれも残酷過ぎるものはないが、『ニューベガス』ではアポカリプスニューベガスチャプターにいる子供たちやその近くの路上で走りながら鼠に名をつけて遊ぶ子供たちが印象的だ。『ニューベガス』はあきらかに1950年代以前のアメリカに魅了されきっているが、ゲーム内のアポカリプス寺院では、あまりに小さいながらもそこは18世紀の精神的孤児らに魅了されているような、孤児の拡大解釈の実験場の様相を呈している。そこで精神的孤児であるプレイヤーはどう過ごすか。現実逃避をし続けるか救世主たらんとしてこの世界の現実感の無さに直面するか親族の欺瞞に再度身を投じ、とうにアメリカで滅した感情革命(家族間の)を信じたふりをするのか。

猟奇的サブクエストの多い『ニューベガス』だが、『光る眼』(ジョン・カーペンター/1995年)のようなモンスターチャイルドは登場しない。ゲームにおける子供の扱いは映画におけるそれよりはるかに自主規制されている。

ゲーム内では、夜はコヨーテどもが鳴く砂漠で、昼にペキンパーの撮影現場ではあった凧揚げをすることはできない(『ワイルドバンチ』撮影時におけるジェイソンとデヴィッドによる汚れたコットン地下着になっての凧揚げ)が、ゲーム内では風の強弱がふらふら流される藁の玉で常に表現され、風で軋む何かの音がループしゲッコーの鳴き声がする。

プレイヤーがいっさい「歴史」に介入しないことを総力をあげて保護するのがベセスダの伝統である。しかしいまや隷属化の装置そのものである平たい板を使わずにオフラインのフェイクベガスを他人とつながらず長時間過ごすことはこの数年でさらに困難になってきてしまった。その長時間がどんどん短くなるなかで無意識がどんどんなくなっていくことに人が嬉々としてか否応なしにか結局参加し続けるなら、ゲームはもうかつてのゲームではなくなる。ベセスダまでが『フォールアウト76』(2018年)を用意したが、それは魅力的な世界だったか。ずさんなループを作り、それをネットに消失させず、他者とつながらずそのループどもと過ごす。そんなくだらなくすばらしいことがもう無理だという。であるなら永遠におすすめされる何かの絶対的範囲内で自分自身の起業家になったつもりの社会的服従の自由にただただ従っていくしかない。映画よりもゲームの近未来のほうが深刻にさえ感じる。

西部劇映画の専門家たちで西部劇のゲームもプレイしている人間がどのくらいいるのかはわからないが、西部劇ゲームの王道『レッド・デッド・リデンプション』(2010年/以下『RDR』)のシリーズがどんなに頑張っても、馬映画たちのように馬を描くことはできない…『モンテ・ウォルシュ』(ウィリアム・A・フレイカー/1970年)のような事態も起きない。しかし西部劇ゲームから遡っていくつもの西部劇映画を体験していく人たちが多数いるのは事実である。そこへの遡行から映画でもいままでのゲームでも現れなかった馬をイメージすること。あまりに自由度がない『RDR』だが、そのゾンビバージョンにおいては、ゾンビホースがひたすら駆ける画が可能にした主人公の帰還の虚しさはどの馬映画に似ているかをプレイヤーにしばし考えさせる。劇中の微細ながらも馬には馬の勝手にさせよという隠された演出意図を感じてしまう『悪党に粛清を』(クリスチャン・レヴリング/2014年)はミケルセン主演の西部劇だが、ストーリーと関係のない馬の勝手な動き方はまだ『RDR』は達成していない(馬が列車よりもあきらかに強い『悪党に粛清を』だが、やはり馬と列車が闘いあうほうがおもしろい)。ゲーム『RDR』がいつか『馬を放つ』(アクタン・アリム・クバト/2016年)に到達するか、いつの日か馬丁のロードナラティヴな移民プレイヤーの馬ゲームが作られるか、『ストランデッド・ディープ』(2015年)『アーク:サヴァイヴァル・エヴォルヴド』(2017年)『ザ・ロング・ダーク』(2017年)やその他の急増する無人島ゲーム群がいつ『スイスアーミーマン』(ダニエル・シャイナート、ダニエル・クワン/2016年)に近づくかは、ゲーマーの中にはそれを強く考えた者がいるはずだ。そのゲームの臨界どもこそをゲーム批評は日々考えるべきだとも思うが『ゲーム批評』誌はずいぶん前に廃刊し、両眼の不同性を映画とゲーム双方で日常的に論じる映画批評家の不在の現在は、これらのゲームはプレイしやすさやゲームの出来ぐらいか前作との比較や続編の予想程度くらいでしか語られない。あまりにも馬のゲームになってしまっている『RDR』の未来がこの先どうなるのか少し心配になると同時に、西部劇ゲームがいつ『さすらいのカウボーイ』(ピーター・フォンダ/1971年)や『スロウ・ウェスト』(ジョン・マクリーン/2015年)のように魅力的な衰弱をするのかも気になる(『さすらいのカウボーイ』をひとつの起点とした「父たちは観てくれなかった!父権爆音映画祭」をいつか)。しかし西部劇ゲームたちは、そんなものになどなりたくもないし、貴族の息子を主人公になどすえないだろう。しかしジョン・マクリーンはそうした。『スロウ・ウェスト』のコディ・スミット=マクフィーは本作にいたって新世代のメソメソの王たる境地を存分に発揮しているが、彼が今後ペキンパーにいびられることがないというのは悲しいことだ。このままいくとあと半世紀は世界はコディ・スミット=マクフィーのあらゆるメソメソの変奏(メソメソ・ウルティマ・トゥーレ)を見せられることになる。どんなゲーマーも「死に方をひとつ選んで」「じゃ弓矢で」などといちゃつきたくはない。しかしそれはいままでのゲーマーはだろう?とはいっても絶対にゲームにならない西部劇映画というのも確実に存在し、例えば『ガンスリンガーの復讐』(ジョヴァンニ・ヴェロネージ/1998年)はデヴィッド・ボウイ、ハーヴェイ・カイテル、レオナルド・ピエラッチョーニが出演しているが、この家族愛を賞揚し過ぎの映画はゲームになりようがない。語り部である少年がいたるところで『ニュー・シネマ・パラダイス』(ジュゼッペ・トルナトーレ/1989年)を反復するのに耐えられない観客も多かったかもしれない。絶滅に向かいつつあるガンマンに変わる新しい種の強さの扱いの残酷なまでの違いについて『ガンスリンガーの復讐』と『シェーン』(ジョージ・スティーヴンス/1953年)とガンマン葬送映画群を執拗に比較することが必要だった。しかしもしかしたら『RDR』は無意識にこの方向性を目指してるのかもしれない。『RDR2』における西部劇世界で過ごす際の日常動作のあまりにもな細かすぎるキーコンフィグの苦行はその方向への準備だろうか。

『ニューベガス』はあきらかにいくつもの映画を下敷きにしている。それについてはプレイした人の数だけその映画の数は存在する、と言いたいところだが、絞るとすれば自分としては5本になる。『ニューベガス』というゲームを、ゲームを一切しない人に説明すると、それって『アイアン・スカイ』(ティモ・ヴォレンソラ/2012年)みたいなやつ?って返されたことがあったが、『ニューベガス』は真剣に不真面目さを追及しているゲームではない。かといって乗り越えるべきベガスを選択すればゲームはそこで終わる。つまりゲームを続けるためには、どの派閥にも入らずに、またはすべての派閥に入るふりをして、えんえんと過渡期にしがみつくしかない。ちなみに『ニューベガス』における最大派閥はNCRである。NCRとはニューカリフォルニアリージョンの略。かつてはスペイン、アルゼンチン、イギリス、ロシア、メキシコ、アメリカがカリフォルニアに対する領有宣言をした。『ニューベガス』では六カ国でなく五派閥がそれを。併合の歴史とそのあほらしさについても強く考えさせるゲーム。

『ニューベガス』ではプレイヤーはえんえんと過渡期にしがみつかなくてもよく、個人の復讐を果たさなくてもよい。しがみついてもよく、しがみつかなくてもよく、個人の復讐を果たさなくてもよく、の宝庫が映画の西部劇たちで、これらの宝または屑の山にゲームは到底かなわない。だからこそゲームは映画をバキュームし続け、映画はその吸引されるさなかで、いくつもの宿敵と目的が入れ換わる。

『ニューベガス』のルーツと思える映画をごく普通に判断すればそれは『大砂塵』(ニコラス・レイ/1954年)『昼下がりの決斗』(サム・ペキンパー/1962年)『荒野のガンマン』(サム・ペキンパー/1961年)の三本。『大砂塵』の主題歌は、『ニューベガス』のラジオ局であまりにもしつこくしつこくしつこくかかる。ギターの渡り鳥そのもののキャラクターも登場する。しかしこの歌はゲーム内のモハビではゾンビの家族の悲哀として響く。ゲーム内でギターを持った渡り鳥そのものの男は変異蠍やデスクローだらけの砂漠にいきなり登場する。実際にはギターを持った渡り鳥に憧れてるだけっぽい雰囲気が濃厚な青年に過ぎないのだが。  『昼下がりの決斗』は運び屋の話だが、『ニューベガス』はそもそもが運び屋が主人公である。映画ではギルの裏切りとヘックの裏切りが、ゲームでは初めに運び屋が裏切られ撃たれ土に埋められるところからはじまる。そして『荒野のガンマン』。

原題『The Deadly Companions』の「デッドリーコンパニオン」は『ニューベガス』のゲームシステムそのものを指している。『ニューベガス』では8人のコンパニオン(人でないものを含む)と旅ができる。しかし一度に連れて歩けるのは一人だけだが(あまりに邦題『荒野のガンマン』がしっくりこないので、今回に限り以下『デッドリーコンパニオン』)。

『ニューベガス』ではペキンパーの別名たちがそのまま多くのキャラクターになり乱雑に粗野に散らばって生きている。ペキンパーの別の呼び名…キチガイ、意気地無し、ろくでなし、他人の業績の盗っ人、古き佳き男、高潔、裏切り者、子供好きの心優しい男、嫉妬深い利己主義者、アウトドアクッキングの達人、時代遅れの男…はすべて『ニューベガス』にばらばらになって存在する。アウトドアクッキングはゲーム内の必須の生存スキルであり、ペキンパーもまた監督としては無駄にアウトドアクッキングスキルが高い。

映画と違い『ニューベガス』は無数に出てくる人物たちからのお使いをこなし続けることで延々と本編を進行させないことが可能になっている。ペキンパーの別名どもとすべて出会い、記事はやめた、西部の歩き方の本を書くのをやめた、知られざる伝説だけを残そうというひたすらな迂回プレイこそが暗に奨励されているかのような『ニューベガス』だが、8人の道中を共にするコンパニオンの存在こそが作品の肝になっていることが、『デッドリーコンパニオン』こそが『ニューベガス』のルーツとしてもっとも濃厚だと感じさせる。

『デッドリーコンパニオン』には50箇所に音楽が入る。

ペキンパーは、この映画の音楽、ギターとアコーディオンとオルガンとカスタネットと石を敷き詰めた空き缶による音楽をひどく気に入らなかったようだが、『デッドリーコンパニオン』においては、イエローレッグ、ビリー、タークそれぞれのコンパニオンに特有の音楽がつけられている。イエローレッグをメインプレイヤーとするなら、ビリーとタークがコンパニオンになるが、ビリーにもタークにも固有の音楽が設定されている。もちろんこの方法は多くの西部劇映画で採用されているわけではない。またこの方法を多用し過ぎれば全ての映画は無惨に『ニンジャスレイヤー』化してしまう。『デッドリーコンパニオン』では、エンドクレジット手前の映画の最後に流れる音楽がイエローレッグのテーマ(彼の復讐の原因を常に想起させる)ではなく、「ジョニーが行進しながら帰ってくる」のフーガであったことが重要である。ラストが「ジョニーが行進しながら帰ってくる」のフーガ、すなわちタークのテーマであることによりうまくいっている。とはいえペキンパーは、あの音楽は好きじゃない、と公言してはいるが。

ペキンパーの演出では、イエローレッグがビリーを射殺してこの映画は終わるはずだった。しかしフィッツシモンズの介入によりイエローレッグがビリーを射殺するシーンはなくなり、ビリーはタークに射殺される。しかしこのようなすっきりしなさこそが『ニューベガス』の無数のサブクエ誕生の源泉のひとつになってしまったとあえて暴言すべきである。『デッドリーコンパニオン』のラストがサブキャラのタークのテーマで終わるというのはすばらしい。『ニューベガス』のプレイをプレイヤーがやめるのはゲームシナリオ「本編」が終わるからでなく、あるサブキャラとの旅の途中に突然にである。『ニューベガス』はその根底で映画『デッドリーコンパニオン』に多くのものを負っているがゆえに無数のタークやビリーやキットを増殖させた。

『デッドリーコンパニオン』に入っている音楽の総数は、臨時教会(サルーンです、エロい壁をその時間だけ隠しただけの)での讃美歌を除き、オープニングタイトルとエンドクレジットにかかる曲たちをカウントし、全部で50ある(オープニングとエンディングを除くと48)。うちタークにつけられたキャラクター固有の音楽は、入る音楽箇所の順番だと4、28、30、44であり、44番めでタークは将軍のテーマとともに連行される。

同様にビリーにも固有の音楽が設定されており、彼の無鉄砲さと直情っぷりがただただばかばかしく強調される。『デッドリーコンパニオン』におけるハーモニカの音はすべて死(突然の死)を定期的に思い出させるものとして愚直に機能する。もちろん登場キャラに固有の音楽を用意すれば映画がよくなるわけではまったくなく、それを用意せず過剰に状況説明の音楽だけを映画大好き人間が一生懸命用意していればクソがクソ以下になるだけでしかない。

一方『ニューベガス』の音楽はどう作られているのか。それについて振り返る前にまずは『ニューベガス』ゲーム内ラジオ放送局から流れてくる音楽を確認しておきたい。

このもうひとつのベガスではプレイヤーがラジオをつけると

"Johnny Guitar" Peggy Lee

"In the Shadow of the Valley" Lost Weekend Western Swing Band

"Heartaches by the Number" Guy Mitchell

"I'm So Blue" Katie Thompson

"It's a Sin" Eddy Arnold

"Lazy Day Blues" Bert Weedon

"Big Iron" Marty Robbins

"Stars of the Midnight Range" Johnny Bond and his Red River Valley Boys

といった曲たちが流れてくる。上記では"In the Shadow of the Valley"以外はどれも1940~50年代の曲で、これらが繰り返し流れてくる。特に"Johnny Guitar" はここではモハビのゾンビたち(ゾンビとグールと光りし者の区別は別の機会に)の生態にあう響きに変化して聞こえてしまうが、そういう話ではなく、このゲームが映画と違ってどう音楽を扱っているかについて。

『ニューベガス』の音楽は基本的に以下のもので構成されている。

○ロケーションミュージック

ロケーションに由来する音楽であり、それは三つの層で構成されている。ある場所に近づいていくと、メロディーがかすかに聞こえる。そこで遠ざかると音は消え、近いていくとそのメロディーははっきりしてくる。また離れてると、離れる距離に応じてメロディーが薄れていく。昼と夜でメロディーは変化する。カサドレスの生息圏では蠅のうなる音がする。レベルが低いうちはその飛ぶ音を聞いた数瞬後にはプレイヤーは絶命する。カサドレスの名をテキーラとして知る人もいるかもしれないが、この世界では悪名高い殺人蠅。放射能で変異したオオベッコウバエ。やたらめったら蠅がうるさい映画といえば『荒野の千鳥足』(テッド・コッチェフ/1971年)があるが、このビール映画もまた架空のベガスのばかばかしい細部でいっぱいだが、さすがにカサドレスはいない。収拾のつかなさと猥雑さが結託して帰ってこれないジャンクっぷりでは『ミーン・ストリート』をはるかに凌駕する作品だが、映画におけるジャンクということでは旧文芸座でかつて開催された「ジャンクフィルム映画祭」でかけられた『ミーン・ストリート』(マーティン・スコセッシ/1973年)がいかに真に「ジャンク」だったかはっきりしたのは、ずいぶん後にこの映画をDVDで観直した時で、その時に「ジャンクフィルム映画祭」でかけられた『ミーン・ストリート』はあまりにもあまりにも傷んで傷だらけのフィルムだったことがはっきりしたのだった。この「ジャンク」をゲームは永遠に「達成」できないことにゲームたちはある種の怨念を抱いており、それゆえに彼らは巨大化し続け、廃棄されるにも遅すぎたことを観る者でなくプレイヤーに実感させ続ける。映画であれば観終わることがとりあえずは可能でも、『ニューベガス』のようなメガゲームではリタイアしかない。それに触れた者たちが何度リタイアしてもジャンクになれないゲーム。しかし映画自体がジャンクになれない製作方法になってしまってからはとうのゲームのほうは余計にやりきれないだろう。

人の記憶が場所の記憶とすりあわされる無数の映画において安易にロケーションミュージックを流し続けるのは愚かなことだが、それら映画において相変わらず状況説明の音楽と音響しか流れていない場合、作り手たちはいかに人間のことしか考えていないかはあきらかだ。ブレッソンの『創世記』がつくられていたなら、そこにどれだけ人間以外の音がし、人間だけがどう感じたとか、こう感じるだろうという音楽がどのくらいあったか皆無だったか。それらがまったく考えられないことになったままでいままた無数の映画が作られていてみんな歓喜し失望し大騒ぎ。しかし…

『ニューベガス』におけるロケーションミュージックの徹底は、放射能をめぐるあらゆる表現と常に比較することを無意識に誘発する。メロディの発生する場所にはひたすら近づかない、メロディの発生しているところをひたすら迂回して終わってしまう映画がこの世界にはもっと必要に感じる。映画は易々と音楽により増悪する。

○ロケーションマーカー

その場所からどれだけ離れていればどの音が鳴るかを具体的に設定する。呪われた場所をめぐる映画で、これを律儀に設定したところで映画がよくなるわけではないが、そのケースでのロケーションマーカーは音以外で表現された方が効果的ではないか…ということを音スタッフからは提案できない。

○スクリプテッドミュージック

プレイを最初に始めるときのテーマ曲やゲーム内のカジノのカジノ別テーマ曲など。決められた場所でのみ鳴る。仮面セレブばかりのハイソカジノ専用の悪意たっぷりなラウンジミュージック、ゾンビストリッパーもいる肉欲カジノの専用音楽など。『ニューベガス』の肉欲カジノのゾンビストリッパーの日本語吹き替えスタッフのすばらしさは圧倒的で、その声聞きたさにカジノに通ってしまうくらいだが、もちろん彼女(ゾンビ)はコンパニオンにできない。ゾンビストリッパー映画の代表的なものとしては『ゾンビ・ストリッパーズ』(ジェイ・リー/2008年)と『ストリッパーゾンビランド』があり、二作とも過小評価がひどいが、特に『ストリッパー・ゾンビランド』(ショーン・スケルディング/2011年)において、ゾンビッチゾンビの(ビッチ)だけを路上でひたすら踊らせることに特化したラッパー「ダブルD」の存在は、ゾンビに人権をではなく、ゾンビとヒューマンが両方幸せになる珍しき道の希望の星であるが、あらゆるゾンビ映画談義でまったく話題にならない。一方、ゾンビとカジノを安易に足しただけの『BET OR DEAD』は予算の無さを別の過剰さでまったくカバーできず、『ニューベガス』と逆の結果に終わった。

○インシデンタルミュージック

ある空間をひたすら移動してる時にずっと音楽が鳴っていてはおかしいから空白を導入する。モハビ砂漠を歩く時に数秒から十数秒の音を間隔を空けてなど。監督がポスプロ現場で睨みが弱いと、空白の間隔はエンジニアの右手の遊び次第になる。

○バトルミュージック

戦闘になると、まず短いイントロが流れパーカッションが激しく鳴り、戦闘専用メロディーが流れ、戦闘終了と同時にアウトロ。どのゲームでも一般的。

○ホスタイルミュージック

『ニューベガス』独特の「敵意」の表現。

ある場所が、プレイヤーの所属勢力等により、敵意のある場所になっていた場合にそこで流れる音楽の扱い方。その「敵意」を三つに大きく分けたところが『ニューベガス』の地味ながら斬新なところ。

敵意1:「エクスプロア」

暗い環境音

敵意2:「テンション」

緊迫感あるピアノ

敵意3:「バトル」

激しいパーカッション

敵意ある勢力の上着を急遽装着するなどして敵意レベルを操作することも一部可能。

『ニューベガス』における音楽のデザインの基本は上記で、映画の音楽デザインとは大きく違うが、しかし映画における「敵意」の音での扱いはあまりにもずさんな例が多く、敵意と状況説明と感情説明が混乱したまま増悪していることはよくあることはいまさら言うまでもない。

また『ニューベガス』では、スーパーミュータントによるラジオ放送が魅力的だった。スパミュー村(スーパーミュータントたちが住む村)近くで聞けるスーパーミュータントによるラジオ放送のラジオパーソナリティーはスパミューにしてオネエ。ヒューマンの弱さとちっぽけさとみみっちさと何かといきりまくる好戦性をちぎっては投げるこの放送の存在が、このゲームを他とは隔絶させている。しかしスパミューのラジオ放送では、ヒューマンによるポストヒューマンの呑気な地図作成法で無意識に疎外されているものらについてもいちいちスパミューからもっと痛い言葉をもらってもよかった。スパミュー村での彼らは当然一枚岩ではないが、この村の描き方ひとつとっても『デトロイトビカムヒューマン』はアンドロイドたちの内部分裂の描写があまりに弱いと感じざるを得ない。スパミューたちはアンドロイドたちの上品なモラルパニックらしきものなどはなから笑いとばすだろう。しかし一部のスパミューからはあきらかに知性も失われている。スムーズスキンとはゾンビから形容したヒューマンの名称だが、ヒューマンとスパミューとゾンビをそれぞれがそれぞれをどう別名で呼び、ヒューマンとスパミューとゾンビはそれぞれ過去の「ブランド」として消失するところからはじめる非ヒューマンの映画論とゲーム論が必要であり、それらはスパミューもゾンビも笑うか投げ飛ばすかポストポストミンストレルショーの今宵のネタになるだろう(『ニューベガス』のカジノではゾンビによるポストポストミンストレルショーが毎晩開催されている)。そして客たちは常にスムーズスキンなのだ。

ヒューマンとスパミューとゾンビをそれぞれがそれぞれをどう別名で呼ぶかと同時に、各々が聞こえかたがどう違うかをどのように設定するかも映画の基本的な仕事のはずだが、それらはポストプロダクション会社の社員のいちインスピレーションに監督もプロデューサーも任せて平気なところに映画(製作)の権力構造が透けきっている。

また『ニューベガス』ではホロテープという設定があるが、これらはラボの研究者やいち兵士が残した戦場日記のようなものであり、彼らが事故で死ぬ直前の様が記録されているが、このホロテープ再生の際の古きよきノイズが癖になり、ホロテープを捨てられないプレイヤーもいる。かつて太平洋戦争では戦死者のポケットから集められた日記をひたすら読み情報分析する仕事があった。プレイヤーは戦場日記を読み続けるプレイに専念することもできる。従軍日記に見る兵士像と戦争の記憶については、『人類にとって戦とは』(東洋書林)他詳しい資料が世にたくさんある。

では『ニューベガス』のルーツであるあともう2本の映画とは…

それは『ニアダーク/月夜の出来事』(キャスリン・ビグロー/1987年)と『シルバー・グローブ/銀の惑星』(アンジェイ・ズラウスキー/1989年)。ビグロー監督作を好きなシネフィルなど皆無かもしれない。『ニアダーク』はヴァンパイアのリタイアを描いている。ヴァンパイア映画をどれも単調過ぎるしワンパターンだと切り捨てる人たちは一律に、ヴァンパイア映画どものおきまりの儚さとハンディゆえに生まれるある種の美しさの描き方やマッチョさに辟易しきっているが、本作もまた主演の二人の美しい描かれ方に心底うんざりしている人も多いかもしれない。しかし本作で注目すべきは「脇役」のヴァンパイアのリタイアを丁寧に描いたところ。「主役」の二人のヴァンパイアは無事にいとも簡単な方法でヴァンパイアをリタイアし人間に戻る。しかし真の主役はそれ以外のリタイア、中動態で自殺を選択する。本作製作についてのドキュメンタリーにおいて、監督はこの作品で西部劇とホラーの融合を実現したかったと語る。しかしそこで実現されているのはヴァンパイア映画において日の当たらない世界とはなにかの静かなあぶりだしで、それはメインのストーリーではあまりにばかばかしく、それ以外の場所で輝いている。日光に当たるとヴァンパイアの皮膚は当然ながら焼け焦げるが、当然そのシーンを描いたヴァンパイア映画は無数にある。本作ではそれをどうやって画にするかがメインのモチベーションであり、その意味で本作の主役は最後に人間に戻れた二人の男女ではなく、車で焼け焦げた中年ヴァンパイア夫婦であり、少女を追ってローストスーサイドを完遂したおっさんの少年ヴァンパイア(外見は少年で、中身はジジイ)である。意図的なゴシック排除の方向を愚直に設定し、そこでヴァンパイアのリタイアをどう描くか、ヴァンパイア化した際のすてばちの究極の困難を現在どう他と違って描くか、弱者に固定化されるヴァンパイアをどう描くか、まったくヴァンパイアとは関係なくただわたしたちは死なないのだという偶然結ばれた強い念を描くことで実質ヴァンパイア映画でないものがそうなってしまうものという4つの方向がヴァンパイア映画の未来でなければ複数化にあるとするなら、3つめには未映画化の『ニューオリンズの白デブ吸血鬼』(『FAT WHITE VAMPIRE BLUES』)も入るかもしれないが、4つめが『ファントム・スレッド』(ポール・トーマス・アンダーソン/2017年)であり、1つめは本来は『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(ニール・ジョーダン/1994年)で描かれるべきものであったはずで、何人かの監督はそれに無残に失敗している。

『ニューベガス』が他の幾多のゲームたちと違うのは、メインのストーリーを捨ててどこがリタイアしどころかを探るゲームに実質なってしまっているところで、それも人間ではもはやない存在になってしまった自分をもてあましてリタイアを探るという。もはや人間ではない存在がリタイアしどころを探る映画はそのルーツのひとつである。

そして『シルバー・グローブ』については…また別の機会に。

スーパーミュータントを含め、『ニューベガス』には様々なコンパニオンが登場する。

残念ながらその各々に『デッドリーコンパニオン』の「将軍」のようには個々にテーマ音楽は付与されてはいないが、一応登場したコンパニオンたちを復習してみる。

○クレイグ・ブーン

男。ヒューマン。白人。

コンパニオンにした際の特殊能力:スポッター

NCRのスナイパーだったが、妻を殺した人物に復讐しようとしている。

○キャス

本名はRose of Sharon Cassidy。女。ヒューマン。白人。砂漠の水商人。

コンパニオンにした際の特殊能力:ウィスキーローズ

『ニューベガス』に出てくる女性コンパニオンはみな魅力的で、それぞれがトラウマを抱えているとはいえ、同じ「無表情」であるドヌーヴに比べると彼らは「感情的」過ぎる。不思議なことに『ニューベガス』の女性コンパニオンたちと旅を続ければ続けるほどに、『夜顔』(マノエル・デ・オリヴェイラ/2006年)の出演を断ったドヌーヴとその彼女が敬愛したある女優、その二人のクールさ、自らを常に二重化し続ける彼女たちの危うさがはっきりしてくる気がする。オブシディアンでないベセスダによる『フォールアウト4』においても、元々が機械である「女性」コンパニオンをせっかく登場させながらも、ドヌーヴ化にほど遠い。女性コンパニオン(ゲームにおける)と女優論については新たな考察が必要である。女性コンパニオンたちが改めて感情的でなくなった時にどういう事態が生じるか。また彼女たち同士の葛藤がいかなるものに、人間の知らないところでなるか。女性アンドロイドたちによる人間への反乱を描いたはずの(アンドロイドたちによるデモシーンも描かれた)ゲーム『デトロイトビカムヒューマン』においても、迫害される女性アンドロイドと虐待される人間の女児との共闘というより脱走はあっても、女性アンドロイド同士の議論や決裂などがあまりに描かれないために、開発元が膨大な分岐を用意したとはいえ、それがないのでは残念でしかない。オブシディアンの執念がそれへの突破口を開くのか、それ以外のところからなのかはいまのところわからない。

○ラウル・アルフォンソ・テハダ

男。グール。メスティソ。230歳。

現在はブラックマウンテンの修理工。元音楽家。

コンパニオンにした際の特殊能力:レギュラーメンテナンス

メキシコ出身のグール。ガンマンとしても有名だった。プレイヤーと旅をするとガンマンだった過去を思い出していく。

○リリー

本名はリリアン・マリー・ボーウェン。スーパーミュータント。アフリカン。203歳。農民。

コンパニオンにした際の特殊能力:ステルスガール

記憶力低下が著しく、共に旅をすると介護プレイになる。

○アルケイドギャノン

ヒューマン。35歳。白人。医者。アポカリプスニューベガスチャプター信仰者。おそらくゲイであり、古代ローマの「システム」による社会の矛盾解決と、ニューベガスのアポカリプスの現実世界での矛盾解決とを常に頭でつつきあわせては混乱し疲れているようだ。

○レックス

本名: Cyber-Hound Mk. III,LEO サポートモデル。209歳の犬。

上記のコンパニオンたち(他にもいるが)とは別に、仲間にできないキャラクターの筆頭としてはジュリー・ファーカスがいる。

●ジュリー・ファーカス

モヒカン頭の女性。ヒューマン。アポカリプスニューベガスチャプター代表。

プレイヤーがいかにアポカリプスニューベガスチャプターの活動に共感しようと、その勢力でのエンディングは絶対に選択できない。アポカリプスニューベガスチャプターは、失われた戦前の技術発掘や医学知識やありあわせのドラッグでウェイストランドの人たちを助ける組織。難民を保護しグールを保護してはいるが、アポカリプス経由でドラッグが広まってしまう。『ニューベガス』でもっともイルで残酷な勢力「シーザーリージョン」の「シーザー」はかつてはここの一員だった。組織の発祥はサンディエゴ。

さまざまな解釈格子を専門家が機能させては、西部劇は終わったことにされてきたが、西部劇たちにさまざまに出てくる不安定過ぎる期限つきの仲間たちの各々の予期せぬ能力発現やその各自の退行との結びつきや彼らに到底癒しがたく眠っている自滅との離れがたさを何でもない彼らの動作の数々に今日も観る時、体系化や死亡宣告を免れ続ける細部たちをことさら持ち上げるのでなく、死亡宣告を免れるなどと言う必要もまったくなく、メインのプロットなどにはかき消されることなど話にならぬと普段の何倍もの音量で音を出すサルーンのピアノ弾きやバンジョー弾きがけたたましくなる時間が今日もやってきて、西部劇はまだ食い尽くされてはいない。灼熱焦熱の表現は映画が得意であり、あまりに茫々と拡がる砂漠の現出はゲームが得意とし、すべてが麻痺する無知の砂漠が絶望的になる描写は映画が得意とし、では砂嵐が吹き荒れ過ぎて撃つ対象もわからなければどうして倒れたかもわからない表現は…これは映画もゲームもどちらも得意としているようでいながらもまだまだその煙は描かれきってなどいない。映画以外の場所で存在し続ける西部劇の存在が迷惑でしかない評論家たちの狭量や原理主義者やそもそもその存在すら知らない者たちとはなんら関係なくそれはこれからもあり、しかしそれらをこれからいくら悪罵しても構わない。撮影所の時代の終わりと共に息を吹き返した映画たちがかつていくつもあったなか、『ニューベガス』はあたかも撮影所の時代の黎明期の残骸どもにスカベンジャーたちがたち悪く住み着いた時代錯誤に溢れている。映画愛好者や映画批評家たちは『ニューベガス』にほとんど関心を持たないが、しかし時代錯誤こそを専門職にしている映画のスタッフたちは評論や批評の有無とは何ら関係なく今日も仕事をしている。

『ニューベガス』のプレイを終えてもなんら爽快感などない。ただああもうひとつのモハビというクソを抜け出したというくらいで、すごい勢いで駆け抜けたなとかすんごい勢いでひり倒したなという感慨もまるでない。このゲームでは『昼酒 Noon Wine』(K・A・ポーター著)のように散弾銃での自殺などできない。いつも中途でリタイアしたというしっくりこなさだけが残る。そのばかばかしい後味の悪さはどこか毎回『荒野の千鳥足』を観た後に似ている。あらゆる批評家に無視されるこの映画はあまりに画に蠅がたかっている。

この砂漠で砂地をヒャッハーする鉄パイプ野郎ども(銃すらない、使える弾丸自体がそもそもなかなか見つからない)を尻目に柔道をやめた過去を無意味に背負いながらニコイチ(二つの武器を解体して強化する方法)で強化されるあらゆる銃器を持たずにひたすら回避飛び込みを続けながら砂漠を縦断し続ける。何のために?それはわたしがベガスの住人ではなく拡張された任意のベガスの住人であるから。多くの人間によるベガスの把握から独立した場所。モハビに柔道龍虎房が帰ってくる。しかしそんな無意味に柔道を止めざるを得なかった過去を背負ったプレイヤーもいきなり蠅に刺されて死ぬ。