妄想映画日記 その84

boid社長・樋口泰人による1月の妄想映画日記。年明けは風邪で体調を崩し、なんとか「ニール・ヤング爆音」で復活。その後各所で爆音調整をし、タイ爆音ではアンカナーン・クンチャイらのライブとカンボジア映画を含んだプログラムを上映。たむらまさき特集やイーストウッドの新作についても。

文・写真=樋口泰人

2019年の年明けは、またもやひどい風邪だった。2年連続。山梨の実家から元旦の夕方に戻ってきたのだが、その時点でぐったり。4日になってもまだダメで病院に行ったのだがインフルエンザではなく(これも2年連続)、解熱剤とか喉の痛み止めとかあれやこれやの薬をもらったのみ。熱は下がるものの体調回復せず。5日と6日は山口でのアナログばか一代、映画雑談会があって、前夜まではなんとしてでもと思っていたのだが、当日朝の具合悪さにやはり断念した。今年1年こんなことで乗り切れるのだろうかと不安は大きくなるばかりだが、いやまあ、すべてをやめればそれで良し、という気持ちも膨れ上がって結局は成り行き次第といういつも通りの場所に落ち着く。

とはいえ10日には大阪でのニール・ヤング爆音。さすがにこれまで休んでしまっては大変なことになるので、なんとか頑張ってみた。もちろん爆音聞けば元気になるわけで、逆に言えば年末年始は爆音不足ということなのか。いずれにしても爆音で観るニール・ヤングは格別、桁違い、と言ったらいいか。映画のど真ん中をピンポイントで抑えつつ、あとは適当。もちろん適当なわけではないのだが、こちらにそう言わせてしまう余裕というか目の前の物事に対する気構えのようなものがあって、それがこちらの身体を喜ばせる。何かものすごいことが起こっているわけではない。何もものすごいことが起こらなくてもものすごいのだということだけがわかる。つまり、我々が今ここで生きていることの奇跡が最もシンプルで乱暴な形でそこにある。こんな人の歌を聞いてきたおかげで、もう何十年、こうやって生き延びて来ることができたのだと改めて思う。

11日は梅田から堺。週末に行われる「ボヘミアン・ラプソディー爆音映画祭」の準備である。ニール・ヤングの音の後なので、もちろんこちらも音量ほぼ全開。出来る限りの事はした。そのまま東京に戻り、翌12日は招聘したタイのミュージシャンたちのライヴで、もちろんこちらも、ただ生きてるだけでものすごい、というニール・ヤングの映画をまったく別の形で見せられているようで、何かすべてのことがどうでもよくなった。モノラル・ミニプラグの演奏は夏以来急激に成長したように感じた。「成長」というのは偉そうな言い方だが、そう言わざるを得ないような、音のベースになっているものの根本的な変容があったように思えたのだ。井手健介と母船は、アンカナーンさんたちのバックバンドとしても世界にかつてない音を出し始めているのではないか。絶対この音では踊れないはずなのに身体が疼き始める。もちろん彼らの前にいるアンカナーンさんたちが、結局はすべてのツボを押さえているからそうなるのではあるのだが。その循環するグルーヴに何も考えず載せられて、妄想は果てしなく広がる。

翌日は新宿ピカデリーでのマクロス爆音映画祭の告知のためにラジオ出演した。15日には東京でのニール・ヤング爆音もあるんですよとひとこと言っておきたいところをぐっと我慢する。マクロスはマクロスで観るたびにその狂った音を実感している。14日は横浜。藝大のたむらまさき特集にて『秋声旅日記』『軒下のならず者みたいに』『私立探偵濱マイク 名前のない森』の上映後に長嶌とトーク。長嶌と出会ったのがおそらく80年代末くらい。30年前である。いったいこの30年間われわれは何をしていたんだという情けない思いもあるのだが、いや、青山真治がこんなことをしてくれていたとこの3本にまじで泣きそうになった。フィルムからデジタルへという映画の大いなる転換期に作られた作品。撮影や上映の素材が変化するだけではなく、撮影・編集・上映など映画の製作体制やその後のフォーマットもすべて新しく、われわれのやり方でやり変えることができるはずだと思っていたかどうかはわからないのだが、いったい誰が望んでこうなったのか、こうしたのか、無責任ということではなく、語りの主体がないということでもなく、まるで偶然のようにこうなってしまった必然の力に満ち溢れているとでも言いたくなる。井手健介と母船の前にアンカナーン・クンチャイがいなければそうならなかったように、そこには「青山真治」という監督名が大きく存在しているのだが、それでもいったい誰が、と言いたくなるこの大いなる広がり。映画と言う名の荒野をたっぷり体の中に入れられた。

15日は渋谷クラブクアトロにて再びニール・ヤング爆音。爆音15周年記念と銘打ったこともあり、友人たちがワイワイとやってきてくれた。今後もこの友人たちとあれやこれややっていくことになる。もちろん2本の映画は最高だった。ひたすらこういうものをやり続けていきたい。誰もがクレイジー・ホースになる時が来ている。

その後は何をしていたのかまったく記憶にないのだが、17日にはイーストウッドの『運び屋』を観たという記録がある。こちらもなんとも言えない映画だった。冒頭からご機嫌すぎる。こんなイーストウッド見たことない。サングラスもダーティハリーのサングラスとはまったく違う。しかもカーステレオでお気に入りの音楽をかけては一緒に歌う。なんどもそれが繰り返される。「運び屋」だからね、そりゃあ何度もあちこちに行きますよ。その度に歌だって歌うし、メキシコに行ったら若いお姉ちゃんたちだって抱きますよ。90歳を目前に控えてこの軽さ。目前に控えているからこそ、なのか。ルノワールの『草の上の昼食』とか黒澤明の『まあだだよ』とかを思い出す。要するに巨匠の晩年の作品特有の軽さ。オリヴェイラの後期もこんな感じだったのではないか。だが後半はその軽さのまま突っ走るのではなく、案外アメリカ映画的な泣かせもあるので、まだまだ野心満々と言ったらいいのか。こんな人の出ている映画、もう2度と見られないんじゃないかと、最後近くのアップのシーンではホロリと来た。カフェの外から窓越しにレモンパイを食う姿を影のようにとらえた『ミリオンダラー・ベイビー』のラストシーンも思い出す。だが今回は影ではなくアップだ。そのアップが影に見えてくるマジックにやられてしまったわけだ。

23日は久々に森下にある桜鍋の「みの家」に行った。佐向、小倉との新年会。予約していた昼の試写をキャンセルしたくらい調子悪かったのだが、夜に向けて体調回復。タイ爆音に向けてのいい景気づけになった。

25日からのタイ爆音は怒涛の3日間だった。それぞれ個別の作品というよりも、どうしてこれらがこんなにすべて繋がって見えてくるのか、そのようにまとめたのだから当たり前だということなのではあるが、こちらの期待をはるかに超えて、それらが共鳴しあった。タイ爆音と言いながら今回はカンボジアの映画を2本、それに加えて空族がカンボジアへ赴いて撮影したドキュメンタリーを1本加えたことで視界が広がり、広がった視界がさらに一周回って背後からタイ・イサーンを見つめた視界が、広がった視界に重なって、いったい誰が何を見つめているのかがよくわからなくなる。多くの争いがあった、多くの人が死んだ、多くの金が動いた、多くの悲しみがあった、多くの野心と多くの希望があった、そして多くの歌と音楽が生まれた。やることはまだまだある。そんな思いが残った。

29日のアナログばか一代は女性ボーカル特集で、いつもと違い、3人が持ち寄ったレコードを順番にかけていくというやり方。こうなるときりがない。湯浅さんが10時には下北沢を出なくてはならなかったために強制終了となるわけだが、もちろんまだまだ助走。次回も女性ボーカル特集ということになった。わたしはこの日、1年に200回くらいアナログばかをやってそれだけで生きていくのはどうかと提案したのだが、まあ、マジでそれができたら本望。マクロスではないが、歌は世界を救うと思う。

翌30日は大阪へ。なんばパークスシネマでのマクロス爆音映画祭とそれに続く爆音映画祭の準備である。31日朝からの調整に備え、なんばのど真ん中で火鍋を食し、31日はマクロス7本を爆音調整してさらにマクロスの深みへと足を踏み入れ、1月が終わった。

樋口泰人

映画批評家、boid主宰、爆音映画祭プロデューサー。98年に「boid」設立。04年から吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画・上映。08年より始まった「爆音映画祭」は全国的に展開中。著書に『映画は爆音でささやく』(boid)、『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社)、編書に『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド)、『恐怖の映画史』(黒沢清、篠崎誠著/青土社)など。