映画音楽急性増悪 第2回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」の2回目は「謎映画」について。どんな映画体験が「謎映画」となるのか、「謎音楽」の定義を交え、「謎映画」と「謎音楽」の問題点について言及しながら考察しています。

第二回 狼

文=虹釜太郎

映画を学ぶということが新しい言語を学ぶということであるなら、新しい言語の誕生の失敗の瞬間どもにあまりにもばかばかしく立ち会い続けることが謎映画を学ぶ…ことなのか…いや謎映画を学ぶ場所など世界のどこにもない…どころか謎映画を学ぶということそのものが何重もの意味で間違っている。しかしトホホ映画たちを謎映画と提示し直す習慣はあまりに世に溢れ過ぎていて、謎映画探索の探り針はいつまでもこの習慣にずっと埋もれ続ける。トホホる主体の即席まとめだけを日々甘受し続けそのまま人生最後の日を迎えるのがあまりにもあきらかな多くの人に日々すれ違っていると、謎映画を改めて学ぶというまったく意味などなかったはずのことがいまこそ要請されるべきようにも感じる。謎映画を学ぶことなど不可能。しかし各自の映画体験において何が謎映画だったか、そしてそれがいつ謎映画でなくなったかを各々が誰にも話さずにそれを検証することは必要である。映画に詳しい人たちがとうに忘れている彼らの最初期の感覚。その検証がなぜ必要かといえば、ある事態への無知が部分的に解消されることで謎映画がそうでなくなる場合、無意識に快楽になっている不出来たちへの嘲笑の習慣についに自ら醒めてしまって謎映画がそうでなくなる場合という二つの謎映画をめぐるよくある事態に自らがまさかはまっていたとはと改めて赤面するためである。なにものかをすぐ「愛すべき」と形容する者もまた後者の典型である。もちろん赤面するつもりなどまったくない賢い者たちのおきまりの仕草ばかりでこの世界は常にわかられきっている。しかしそれらの赤面をするのならその後に改めて謎映画とは何か。そして謎音楽とは。意味がまったくわからない映画。あまりにも説明不足な映画(あまりにも状況説明過剰な映画音楽が増悪しすぎなために、ただちに説明不足とされてしまう事態)。俳優たちがただただ残念な映画。クライマックスしか用意されていないようにしかみえない映画。宗教団体が作り、その信者しか観ない映画。対象との信頼関係がありすぎてドキュメンタリー映画にみえないドキュメンタリー映画。唐突に世界の終わりが到来するが誰も立ち尽くすこともない映画。俳優が謎の微笑みをし続けている映画。唐突にひきこもりに語りかけるナレーションでも詩でもなさそうな声が断続し続ける無間地獄映画。コメディ映画を目指したのに無理やりホラーシーンを挿入された映画。唐突に不幸な死に方をした者たちが次々と理由なく復活し続ける映画。どこから弾がとんできたかわからない映画。言葉が通じあわないことが続き過ぎる映画。予告編を裏切るのでなくまったく予告編だけでよい映画。本編と関係ない謎めいた静止画が映画が終わった後もまだ謎である映画。ある現実の災害が起きる前に、その災害そのものを扱ってしまったかのような映画。プロデューサーが勝手放題な介入をし続け、その介入の残骸どもをひたすらみせられる映画。嗅覚だけを扱い過ぎな映画。ただただ未熟なだけの映画…。

謎映画は映画自体へのあまりの無知とそれゆえの狂暴な楽観が生む一時的なカオス的ふるまいに過ぎないと強弁したところでどうにもならない。かつて自分は長らく謎音楽の奇跡として畏れ続けてきたある音楽家が実際には日本のクリスマスには日本人の誰もが聞かされてしまう曲を作ったあるシンガーソングライターたらんと音楽活動していたということであまりに愕然としたことがあるが、ではあの並大抵の音楽家たちでは到底つくれるはずもない音の揺らぎや脱輪の魅力たちはいったい何だったのかともはや長年の習慣ですっかりそらんじているその脱輪の音たちを身体の隅でいつものように再生しながら今日もただただ茫然としてしまうが、不用意な擁護がいかにその本人を傷つけることがあり、また自由な聴き方などという古えのたわごとはあまりにもな無知が前提となっていることに改めて愕然とするしかない。謎映画とは何かとか謎音楽とは何かなどというあらゆる戯言はそのような暴力と贋の流布を常にともない、その迂回をいつまでもいつまでも準備し続けるにはあまりに人には時間が足りない。では人間以外たちとの対話によるその迂回はどう可能となり、映画について語ることはどうこれから変態していくか。わたしには時間がなく、のらりくらりとその可能性について時間稼ぎするだろうわたしの未来の友人である機械がいつかはそれをあきらかにすると信じてくたばることにしたい。

『暗黒街の顔役』(ハワード・ホークス/1932年)のようなものを目指したのに『不思議の国のアリス』(ノーマン・Z・マクロード/1933年)のようになった映画は謎映画か。「不思議の国のアリス」をテーマにしたわかりやすく不気味なアルバム(これらの音についてサウンドコラージュなどといまだ言うのはいったいどういうわけなのか…「サウンドコラージュ」という言葉がまだ絶命しないのはなぜか、この思考停止はなはだしい脳死言葉は絶滅すべきはずだが、それを延命させている正体は何だろう)を作り続けたランディ・グリーフは実は不思議の国のアリスな音など作りたくなかっただろうか。健常者には謎音楽リストと映ってしまった、ただの自由な音楽基礎目録として一定期間世界で機能していたナースリスト[NWWリスト]とそれらリストに載っている音たちには、Aを目指したのにXになってしまった事故の博物館然と感じられるアルバムも多いかもしれない。しかしそれは、音楽はこうあるべきと無意識に決めつけているリスナーたちのこんなの音楽じゃないねという無知がただそう感じさせているだけでしかない。

『暗黒街の顔役』のようなものを目指したのに『不思議の国のアリス』のようになった映画を謎映画と呼ぶ可哀想事例集やエラーの博物館を無駄にもてはやす行為(もてはやしわいわいしてるだけですっきりした気になり勝手に間違いを楽しむ教養と共におっ死ぬ者ども)よりは、結果として『不思議の国のアリス』のようになってしまった謎映画をもう一度、その見込み違いや混合の圧縮の背景などを誰もが私的に感じ直すこと。その過程で声を含む音響全般が映画にとっていかに不思議にもなりど陳腐になるかがほんの一部は明らかになるかもしれない。『暗黒街の顔役』のようなものを目指したのに『不思議の国のアリス』のようになったような映画たちと作り手の「事故への欲望」の関係。映画の作り手たちに「事故への欲望」をききだすのは不可能に近い。本当のことを話せば、次から映画が撮れなくなるかもしれないのだから。可能であるならそれは映画監督でない映像作家たちであるかもしれないし、もはや映画をつくることを断念した、または放棄した者の場合であるかもしれない。映画における「事故への欲望」と「即興」については、映画分析者たちの内部からよりも、監督以外の映画に関わるあらゆる者たちの聞き取りが必要になる。映画批評の専門家がくだらない、または重要でないと考える、またはいつまでもそれを準備中と言い訳をするに決まっているこれら聞き取りの中であきらかにされることはしかし映画製作の現場では語彙は違えど対話されていることでもある。映画批評家たちはこれからも監督ベースで語り続ける。Aを目指したのに、まったくAならざる異様なものになる過程で作り手が発見した様である不発弾の海溝。

謎映画でなく謎音楽については「謎音楽の夕べ」というイベントをやった時に以下のかりそめの定義がとりあげた。実にばかばかしいものばかりだが、改めてここにあげておくと…

  • とにかくわかりやすくない(誰にとって?/どの場において?)
  • どこに向かってるか不安になる
  • 音を作ってる人の技術が著しく低い、もしくは皆無
  • 音を作ってすらいないで、しかし人前で音を出してるが、人前でパフォーマンスしたいわけではない(音を作ってすらいないで音をひたすら出していて人前ですごくパフォーマンスしたがるやつは腐るほどいる)
  • 録音方法が謎
  • 録音している人が謎
  • 録音している施設が謎
  • 録音している場所が謎
  • 放浪芸に無知なため放浪芸の音が謎音楽に聞こえてしまう
  • 疲労が蓄積しない音
  • 洗練を決してさせない強い意思に貫かれた音楽
  • 謎音楽に「即興」はない?
  • アウトサイダーになれないものたちの余興…にはおさまらないもの
  • 「地下音楽」のホットさはない
  • 少なくともグッドミュージックではない
  • 少なくとも聴いて心地いい音楽ではないが不快でもない
  • ノープランだが即興でもない
  • 健常者によるものか非健常者によるものか謎(セルフトート問題全般として考察が必要)
  • 人が作ってるか否か謎
  • AI絵画の気持ち悪さほどには気持ち悪くないAI音楽とイコライジングに特化した気持ち悪いランダムイコライジング音楽
  • 生きているものとだけ演奏しているわけではない
  • 製作期間が半世紀を越える
  • 製作期間があまりにも長過ぎて当初の意図と効果からはかなり離れている
  • 動物たちが演奏に参加し過ぎている(わけがない)
  • 動物だけが演奏している
  • ある製造機を仮構したら、その「製造機をやりきる」
  • うまくいってない音楽(誰にとって?)
  • ある事件をかき消すための音楽
  • 健常者があえてやるアウトサイダーミュージック的なものでは少なくともない
  • 製作途中で作り手が発狂してしまうが、その録音が第三者の手により発表されてしまう
  • 人前で演奏することにまったく意味を感じていない音楽(以前とあるカフェでの音楽講座的イベントでの「アウトサイダーミュージック再考」回で、そもそも音楽家をどう思うか的なことを訊かれて「人前でパフォーマンスしている時点でダメだと思います」と答えたら場が凍りついた…客席には「人前で」パフォーマンスすることに多大な意味と喜びを感じてる暗黙の了解の人たちが異常者を見る目付きでわたしを見ていた)
  • 狂った仮説による博物館
  • 狂った伝承による博物館
  • 回転数制御不能
  • ググっても有意なものなど何も出てこない音楽
  • まだ名付けられていない音楽
  • あえて名付けたくない音楽
  • 楽器たちの失われた幼年時代にあまりに想像力がありすぎる音楽
  • 楽器たちのはるかなる老後と老衰に想像力がありすぎる音楽
  • 花瓶に花でなく別のものが入っていることの常態化
  • その時間と場所にまったくふさわしくない音楽(強制的にしか止められない)
  • 謎音楽に謎ジャケなし
  • 重大な意味が隠されている(はずの)音楽
  • 残酷さと偽善のあいだを高速移動してるようでその実遅い
  • 精神のスクリュウ
  • 職業的反復とは別の反復の極み
  • なにかが過剰でなにかが過疎すぎるという存在が出す音
  • 個人的で日常的なすべての事柄をえんえんと出力することが音楽の構造そのものになっている
  • 作り手の症状そのものが音色になっている不定形音色群
  • 生きているものと死んでいるものを区別しなさ過ぎて混乱過多だったり混乱の極みのように聞こえるが、音を出してる本人には一貫している
  • 当の本人にとっては交信でしかない
  • 日付があまりにも挿入される音楽
  • 狂った世界ですてばちであることすら麻痺で忘れ、常に忘れたい衝動への誘いがありすぎで、はじまりのままであり続けてしまう音楽
  • 世界との妥協を怒りでない方法で顕そうとしたが結局怒っている
  • カエルの屁より価値がない社会に対しての返答であり続ける執拗な行動がたまたま音を使っている
  • 記憶喪失になりやすい音
  • 忘却の彼方に置かれることへの無意識の希求がある
  • 地質学的な姿勢が過剰すぎる音楽
  • 儀式のようだが特定の宗教のための音楽ではないようである
  • 内観しすぎていて音が出ていない
  • 宗教的なものを題材としているが聞き手が文脈をまったく把握できないことからくる謎
  • 子供時代の思い出を詩にしても誰にも共感されないような音
  • 本人の頭の中で鳴っているかもしれない声との齟齬をずっと確かめている(結果として音がずっと出ている)
  • 声のなぞり書きばかりする
  • 映画の中のあらゆる鼻歌
  • 聴くと人々に見捨てられた場所が高い確率で浮かび上がる音
  • バタくささと醤油っぽさを行き来だけしている
  • 不幸を餌とする音楽
  • 音が鳴っていません…
  • 本人だけの儀式の歴史
  • ただの降り待ち
  • 創作工程の再発明がうまくいってもいかなくても音を出す、修理する、また出す
  • すごく嫌いなものが好きになってしまった結果作られた奇妙なバランスが残っている音楽 ○否定している対象に心情的な愛着を示し続けた結果として生まれた、必要以上に特定の音楽を顕彰した結果のアンバランス
  • あらゆる差別から急いで自由になるためにとった行動に音が付随していたものの記録
  • そもそも音楽をあまりに聴いてないことによる未熟さが必要以上に評価されている事態にのっかったセルフトートを擬装した音楽
  • 覆面バンドが謎音楽をやっているかといえば全然そんなことはない
  • なかったことにされている歴史、できごとの復讐そのものである音楽
  • 頭の中で鳴るラジオに答えているだけの声

さまざまな謎音楽の定義が世に埋もれつつ忘れさられながらもしかし確実に馬鹿馬鹿しくあるなか、それらに共通するものがもしあるとするなら、それは最小限のコストで最大のコントラストを発揮するという行為たちでまわる発想や経済やあらゆる催事やその蓄積をもとに出来上がった歴史らとはとことん無縁というところだろう。わかりやす過ぎる現代の強者たちである、最小限のコストで最大のコントラストを発揮するパフォーマンスを次々と完璧に機能する企画書と共に遂行し続ける者たちによる表現に心酔する人々があまりにも多い現在、謎音楽をとらえなおす機会はさらに少なくなっていく。

しかしそれでも謎音楽を擬態する事態は、様々な場でみられることで、それは例えばアウトサイダーミュージアムに自らの「アウトサイダーアート」を売り込む「セルフトート」の自称アーティストの所業らを参照すればわかりやすい。「アウトサイダーアート」とは別に、「アウトサイダーアートにみせかけたセルフトートアート」の受け皿となる分類も一部美術界にあるが、ビジネスさえまわればいい世界ではそれらが批判されたり糾弾されたりすることもなく、その哀しいモチベーションを悼む場所もない。同じことが映画の世界でどのくらい起きているかの警鐘を鳴らす書き手は今後どのくらい現れるだろう。

上記の謎音楽についてのかりそめの定義以前のものに、たとえば十六世紀のルネサンス期無伴奏音楽マドリガルを現代に蘇らせた集団によるポストロマン派に三百年は先行した音楽や学習障害者とそうでない?音楽家たちによるパンクロックノイズインプロヴァイズドプロジェクトや神の啓示を受け七十歳で音活動をはじめ七十五の言語で無数の楽曲を作る歌い手や医者と患者のデュオ(医者といっても外科医…外科医だからいいだろうというわけか)が入ってくるかどうかは、音楽関係者よりは美術の世界の人間たちのほうが関心があるかもしれない。

これら謎音楽の問題点が多々ある一方で、謎映画には今回冒頭にあげた二点以外にどんな問題があるのか。それについてはここでは謎映画クラシックである『危険な戯れ』(アラン・ロブ=グリエ/1975年)『永遠のガビー』(マックス・オフュルス/1934年)『ゼロシティ』(カレン・シャフナザーロフ/1990年)『血まみれ農夫の侵略』(エド・アドラム/1971年)『去年マリエンバードで』(アラン・レネ/1960年)『ホームカミング』(飯島敏宏/2010年)『インフェルノ』(ダリオ・アルジェント/1980年)『エクソシスト3』(ウィリアム・ピーター・ブラッティ/1990年)『森の男』(ヘンリー・ハサウェイ/1933年)らではなく(狂った仮説による博物館、狂った伝承による博物館という謎への短絡回路が露骨すぎる『ゼロシティ』のような謎映画はすっかりなくなってしまったのか)、『アンジェリカの微笑み』(マノエル・ド・オリヴェイラ/2010年)『ラルジャン』(ロベール・ブレッソン/ 1983年)『話の話』(ユーリー・ノルシュテイン/1979年)『ポンティプール』(ブルース・マクドナルド/2008年)『ネイヴィッドソン記録』『ウラーッ!』(チョン・ジェフン/2011年)の六本の「謎映画」がなぜ謎映画として一部で問題になっているのか(そして無視されているのか)を少しだけ考えてみたい。

もはや映画であることを止めようとゆっくりゆっくりゆっくりいまも駆動し続けているかにもみえる『アンジェリカの微笑み』。ポルタシュ館令嬢アンジェリカが死去していることが青年イザクに伝えられる前から青年の部屋でずっと鳴っている音はコンピレーション『musique en marge』に収録された、異界の音を収集する音楽家=交信家のソロの音そのものである。それはただのラジオだが。『アンジェリカの微笑み』では、死んできたものと生きているものが対等なだけでなく、写真と現実の区別が消失していく世界が単に在るが、しかしこの映画が謎になってしまっているのはそのあまりの製作期間の長さに由来する。脚本は既に1952年にできていたが、映画が完成するまでに五十年が過ぎている。リティ・パニュの『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013年)が完成するまでにもし五十年たっていたら映画はどのようなものに変質していただろう。未来のホロコースト映画祭においてこの二本の映画はどのような取り扱いを受けるだろうか。

『ラルジャン』。ラストにおいて群衆が見つめている先が謎だというのが、この映画が謎映画だと言われている理由だが、群衆は空虚そのものを見つめているように見えても、彼らは空虚など見つめてはいない。空虚そのものを見つめているならどんなにいいかだが、彼らはただただその場かぎりなだけだ。奇跡を待っているわけでもなく、何らかの現実の事件を注視しているなかでいくつかのやりきれなさがついに凝集し、それゆえに空虚を見すえはじめた…というわけではなく。ただただその場かぎり。『ラルジャン』が謎映画としてあり続けているというのは、空虚を見つめるのが希望になるという、その場かぎりを冷徹に直視するのから離れる限りにおいてである。群衆は空虚をみつめているのでなく、群衆が寄ってたかってその時その場かぎりなのが空虚なだけだ。

『話の話』において灰色オオカミが見つめているものは何か。トルコの詩人ヒクメットの同名の詩からそのタイトルをいただいている『話の話』はことさらに謎だ謎だと言われ尽くしてきたアニメーションだが、『話の話』が謎映画とされる一因は、ねんねんころり はしっこには寝ないでね 灰色オオカミやって来るから…という子守唄への無知、灰色オオカミが狼でなくダマヴォイ(日本語では座敷わらし)であることへの無知、そしてテーブルクロスのエピソードのルーツであるネルーダの詩への無知から来るのは明らかである…と言いたいところだが、ことはもちろんそう単純ではない。『話の話』は当たり前だがノルシュテインだけでなく、ヤールブソワの貢献があまりに大きい。灰色オオカミが超自然的光の世界と現実を行き来出来る存在であり、しかし他のノルシュテインのソロ作のように単調にならず、灰色オオカミが環世界移動しているように映るのはヤールブソワが描いてるからこそであり、不透明色の薄塗りが不透明色の薄塗りなだけでなくなるのはヤールブソワの力による。

『話の話』であまり言及されない謎は、一つは灰色オオカミが見つめる様々な先の中でも、特に最後に木の上で林檎を頬張る少年とその木の下の林檎のあまりの巨大さ、もう一つは「永遠」「真昼」と呼ばれる反復されるエピソードの中の光の世界からそのまぶしく輝く入り口を通して少女が向かう先とその後である。この二つの謎はそれを謎だねェ~などと反復し続けても仕方がない。『ラルジャン』のラストで群衆が殺人犯の青年の連行でなく、その青年が出てきた扉の先を右往左往してわらわらと見つめているのは「希望」ではないが、木の上で林檎を頬張る少年を灰色オオカミが見つめるのは希望(まだ実現していない)であり、その木の下の林檎のあまりの巨大さは戦争にまみれまくっている現実(とその膨張)である。木の上で林檎を頬張る少年のいる世界には戦争がないというわけではないが、少年とカラスには区別がない場をヤールブソワが描く灰色オオカミの眼が強く見つめている。巨大な林檎ではなく。そして「永遠」「真昼」から少女が光の扉の先を通って出る世界とは?もうひとつ『話の話』専門家であるキッソンたちが指摘しない『話の話』の謎は、『狩人』(テオ・アンゲロプロス/1977年)との酷似だ。映画『狩人』における84分の車のシーンや103分前後の失速やダンスの相手の喪失などの細部はあまりに『話の話』の細部と似すぎている。『話の話』は1979年で、『狩人』は1977年だが、『話の話』と『狩人』を交互に観続けることによる遠目で両者を群生の何かとしてとらえる体験はなかなか得難いものになる。

『ポンティプール』は、原題『pontypool』邦題『ON AIR オンエア 脳・内・感・染』。このゾンビ映画では、人は噛まれてゾンビになるのではなく、血液感染でゾンビになるのではなく、言葉でゾンビになってしまうのが謎だが、フランス語ではゾンビにならないとはいったいどういうわけだ。まったく納得できない。ゾンビというよりカンバセーショナリストという設定。

『ネイヴィッドソン記録』という映画はドキュメンタリー映画だが、これは映画ではない。盲目の老人が残したこの映画は、ある家族が移り住んだ家で起きる様々に不気味な現象を写しとったドキュメンタリー映画で、それは『紙葉の家』(マーク・Z・ダニエレブスキー/2000年)という小説に出てくる映画である。

『ウラーッ!』は、山形国際ドキュメンタリー映画祭2017の「アジア千波万波」部門で上映された。監督はチョン・ジェフン、音楽はパク・タハム。『ウラーッ!』は、山形国際ドキュメンタリー映画祭2017において『祝福〜オラとニコデムの家〜』(アンナ・ザメツカ/2016年)『人間機械』(ラーフル・ジャイン/2016年)『ニンホアの家』(フィリップ・ヴィトマン/2016年)『孤独な存在』(シャー・チン/2016年)『あまねき調べ』(アヌシュカ・ミーナークシ、イーシュワル・シュリクマール/2017年)『乱世備死 ― 僕らの雨傘運動』(チャン・ジーウン/2016年)『カラブリア』『エクス・リブリス― ニューヨーク公共図書館』(フレデリック・ワイズマン/2016年)『自我との奇妙な恋』(エスター・グールド/2015年)『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』(堀禎一/2014年)『また一年』(ジュー・ションゾー/2016年)『航跡(スービック海軍基地)』(ジョン・ジャンヴィト/2015年)が盛り上がった中で、まったく話題にはならなかったが、自分が六日間の滞在で観た二十二作品の中でもっとも楽しい作品だった。監督は上映後のトークで本作は「SFホラードキュメンタリーです」と断言したが、会場の反応は「はぁ?」。ガソリンスタンドで黙々と働く男はやけに腹が鳴る。頻繁に夜空を観る。叫ぶ。狼男映画ではなくSFホラードキュメンタリー…監督へのおみやげにはかつての日本で定期的に開催されていた録音コンテスト(フェイクドキュメンタリーっぽい投稿録音多数)の記録音源を渡したが、いまだに本作は謎。監督によれば「名もなく、アイデンティティもない不思議な力を映画に入れ込もうと努力した。そのため、登場人物の表情に表れる社会的関係、感情の変化、象徴性、性別などが表面化しないよう、作品から削ぎ落とそうとした」。その結果としてのお腹グウグウ。

謎音楽は明日の移動先で、たまたま訪れた店で偶然かかったらああいい曲だ…などというものではない。謎音楽に遭遇した一部の人たちはそれを早急に繰り返し繰り返し聴く事態に陥ってしまう。そして謎映画もまた繰り返し繰り返しそれを観ることを強制する。『危険な戯れ』の監督は「鑑賞者に何度も観返してもらうために、私は映画を作ります」と語る。しかしその映画を繰り返し繰り返し観ているとそれは映画というよりは変装と窃視症にまみれた舞台のピンボール台のようなものとして身体に刻まれ体内で反復していく。  しかし繰り返し聴き、繰り返し繰り返し観たところで…