宝ヶ池の沈まぬ亀 第31回

青山真治さんによる連載「宝ヶ池の沈まぬ亀」第31回は、心身ともに浮き沈みが続いた年末年始の日記。その最中で観た『ビッグ・リーガー』(ロバート・アルドリッチ監督)や『恐怖の報酬』(ウィリアム・フリードキン監督)、『その男を逃すな』(ジョン・ベリー監督)、キャスリン・ビグロー監督の『デトロイト』と『ニア・ダーク・サーティ』をめぐる思索、訃報が届いたジョナス・メカス監督への思いなどが綴られています。

文・写真=青山真治

31、年末年始とは崩壊と再生の季節なのか

年末年始の描写となる予定の今回だが、昨年(2017年)の暮れどうしていたかまるで思い出せないので日記を繙いてみるがまるで憶えがない。何と柄にもなくベストテンなど公表している。今年やる気がないのはARGをはじめとする旧作と『バルバラ』以外に心底共感できる映画を見なかったせい。特に己のアメリカ映画離れに心寒い。DVDでの『ペンタゴン・ペーパーズ』は確かに良かったが。それはそれとして、朝からBS1から離れられない現象も年末ならでは。戦争孤児、ラトビア、武豊、カラーで見るアメリカ20年代、とほぼ六時間釘付けであった。脚本直しを命じられているにもかかわらず。考えがまとまらないので致し方なし。朝餉のモロッコ風フムス鍋が超美味であったことが救い。ひよこ豆ペーストがベースで香辛料など表記なしにもかかわらず、モロッコでも憶えのない味。

某日、一昼夜試行錯誤の末、何とかリライトに着手。しかし半分まで直したところでまた行き詰る。こういうときは何か見た方がいい、ということで落穂拾いに『トランボ』を。奥さん役のダイアン・レインと成長した長女役のエル・ファニングが大変良い。いや、むしろ成長する前の子役が印象に残る。トランボが半身浴しながら本書きする様がトレイラーでも使われたが、よく見るとカードやメモがあちこちに出て来る。そういう仕事ぶり、つまり執筆ではなく編集作業が脚本作りの基本である。つい頭から通しで書きがちだが、書き殴った思いつきをつなぎ合わせた結果であること、これが真実であり理想的展開だ。トランボは基本一人で書くが他人の直しに際しては会話を辞さない。同宿しながら互いに背を向け沈黙のうちに書くなどという神話的な様相はない。どちらが正しいということももちろんない。そしてトランボがただ金=生活=家族のために書き続けた結果名誉も回復したという流れは実に嘘くさいけれど同時に胸が透く気もした。ガンで死んでいく友が自分は大作家と友達だし賞を受けたしキミもそうだろう、と名誉を重んじるのを、そんなん云うてる場合ちゃう、とたしなめつつ、友人の死後その友人の分までエドワード・G・ロビンソンに借りた金を叩き返しに行く、その姿も、密告者=犠牲者ロビンソンの姿も、哀切なまでに痛ましい。結果、逃避半分で見る映画ではなかった。まるで似てないデュークが瞬間似るのには笑ったが、ここで考えたくなるのはプレミンジャーのことで、カーク・ダグラスが『スパルタカス』をトランボに持ち込んだのはまだ分る気がするが、イスラエル建国になど興味ないはずの男に『栄光への脱出』を書かせようとするのはたんに技術を買ってというだけなのかどうか。上島春彦氏が『レッドパージ・ハリウッド』にどう書かれているか繙いてみたい。いずれ近いうちに。

某日、寝起きから一気に直し、午前中で済ませる。朝餉は鯖。そしてやっと『ヨーロッパ横断特急』。製作順に見たかったが、結局第二作が最後。しかしまあ予想はしていた。というのはこれまた予想通りの作品だったから。現代作家の第二作というのはどうも、そのパブリックイメージを決定付ける(と後からひとが考える)ようなものになることが多く、これも例外ではなかった。少なくとも私の想像していたARGはこういう作家だった。そのせいではないにしても、というのは脚本直しで疲れていたからだが、これは若干うとうとしてしまった。もちろん面白くなかったわけではないし、マリー=フランス・ピジェはとびきり美しかった。あと、ここ最近自分の抱えるテーマ群にもあれこれ被っていて勉強にもなった。そのせいも含めて開巻数分でラストカットまで読めてしまいもしたが。ARGの最良の点は彼が笑い好きであることで、しょうもないギャグだがそれでも十分楽しませてくれる。あれらのギャグを再見するためだけでも盤が出たら全作買うだろう。しかし出るかな? 出るといいなあ。そんなわけでARGお気に入り順。『エデン、その後』『快楽の漸進的横滑り』『嘘をつく男』『不滅の女』『ヨーロッパ横断特急』。一位と二位は出来としては逆だろうが、ヒロインが後半チュニジアで着ていた白Tシャツの切込みが好きすぎて。それも含め全作衣装の素晴らしさに痺れた。夜更けに最近の邦画をテレビで。主題上も造形上もひたすら退行の一方に思われ、我が身をあらためて引き締める。

某日、これから毎年暮れは『日本暗殺秘録』と『大日本帝国』の二本立てというのもありかもしれない。とか考えるほどの暮れも暮れ、夜、純がARGを語るのを聞きに行く。そこからは何もしなかった。ひとつ個人的な問題が起ったが、時が解決することであって、あっというまに紅白だの爆笑ヒットパレードだの、さらにはあの長く陰惨きわまる戦闘シーンを有する『二百三高地』で年は終わり明けて行ったある晩、それまでも痛かった胃が遂に爆発、それまで食したものを一気に嘔吐した。まさかどこかに牡蠣でも入っていたのかといぶかるほど。完全に体力払底、ひたすら倒れるが眠れず、延々と幻覚幻聴に悩まされる。何も恐ろしい怪物など現れない、妖しい声がするわけでもない。むしろ小さなものがふわふわと浮いているだけであるが、それらの得体が知れず、眼を開いても閉じても似たようなそれらが暗がりの宙に浮き床に広がっている。屋根を歩く足音、遠い話し声、現実とも幻聴ともわからぬそれらが皆怖い。とうとうウツ病かとぼんやり。

ぱるるとぼくの謹賀新年

某日、悪夢と幻聴に悩まされ、ようやく起き上った日、それでもまだ『日本海大海戦 海ゆかば』を見る気のせぬ状態で『昭和の劇』当該部分を読み直すと、笠原・舛田・天尾・岡田は無論のこと、親の親があってそこから生れて生きたことそのものが堪え難いほどの重さでのしかかってきて思わず本を閉じ、闇雲に髭を剃り、髪を剃り、風呂で禊せずにいられなくなった。平成の終わりの年始では遅すぎたかもしれないし、現在の精神状態が悪すぎたかもしれないが、とにかく体調含めて著しい不調に陥っているからいまはこうするしかない。とりあえず寝床に這入ってもさらに悪夢。年始のご挨拶に伺うつもりであったシネマヴェーラでの先生のトークにも、とてもではないが出かけられず。家じゅうからありとある向精神薬を見つけて持病用の薬と共に明け方からほおばる、これで胃痛が治まる訳もないがとにかく身を強張らせるしかない不安から解放されなくては読み進めも出来ず見ることもできない。それでも年末に見逃したNHKのユージン・スミスの太平洋戦争の番組は見る。ただ辛い。部分日食があった由。夜、新大河『いだてん』を見た後、キャスリン・ビグロー『デトロイト』をWOWOWで。どちらもある歴史的事実を描いているのだが、そのアプローチの仕方は真逆と云っていい。前者は当然作者たちの生まれる前の話であり、後者は子供の頃にそうした事件のあったことを(たぶん)感じていただろうから、その距離は自ずと違っている。云ってみれば、前者が作者自身の持つ手管に歴史をぐっと近づけることで滔々と語るのに対して、後者はたとえば冒頭の絵本にも似た個人的記憶から開始しつつ終幕に向けて匿名的な何者かに語りも歴史も譲り渡していくような感覚と云ったらいいか。これまでビグローに反感に近い嫌悪を持ち続けていたが、同様の感覚で作られたデビュー作『ラブレス』がモンティ・モンゴメリーという共作者を持っていたことを遥かに思い出す。うまく言えないがそれはいわば善悪の彼岸に達しかけること(決して達しはしない)でもあり、その白眉はキャメロンとのコンビ作『ハートブルー』で、ビグローにまともに相対したのはこの三本だけかも。共通するのは爽快感とはほど遠い、ぐずついたもどかしさなのだが、このもどかしさは夢の属性のようなものでそれを嫌ってもむだだ。『ストレンジ・デイズ』もそうだった気がするが一度きり見て忘れてしまった。『ニア・ダーク』はむしろリアルで爽快で、実は例外だろう。元歌手の、脂汗を滲ませる猛暑から一転、酷寒の中電気も止められただろう昼も暗い部屋でなけなしのスープとタバコで暖を取り、雪にまみれながら教会へ出かけて行く、いまにも潰れそうに孤立無援なもどかしさはなかなか忘れられぬものになりそうだ。

某日、寝不足気味。家じゅうの窓にビニールが張り巡らされ、窒息しそう。午前は台本書き、午後は女優の買い出しにつきあい、とりあえず五時夢初め。夜半、自宅にてステーキで夕餉ののち、『昭和の劇』の続き(『大日本帝国』の章・後半)を耽読、再び疲労困憊。やはり優れた映画作家は晩年に至って達成に向かうにつれ孤立も深まっていくのはフォードからトニスコまで周知だが、映画作家・笠原和夫も例外ではない、と確信に至った。業界も社会ももはや後期笠原についていくことはできなかった。これは思想の問題であると同時にイメージの問題でもあり、これが笠原を映画作家と呼ぶ根拠である。何よりも「見ること」を重視する者こそがイメージを産み出しうるとしたら、笠原こそはあれらの真の作家だと、少なくとも発言から読み取れる。だが誰も見てはいないのだ。そんなことを考えつつ自分が次回作へ匍匐する塹壕の中で震える現在の地面の冷たさを思い知る。深夜、NHK『アナザーストーリーズ』でM資金詐欺。この番組もまた風説よりも「見ること」を根拠としていた。詐欺師の顔写真や紙資料が何より生々しい。これもまた戦後だ。そしていまなお続くこの風説は空々しくも隠然たる恐怖でこの民族の首を度し難く掴んでいる。

某日、まさか前夜に女優に勧められた漢方薬「加味逍遙散」が早くも効いたわけではなかろうが、朝から頗る調子よく、勢いで外出を決行。本年一本目としてヴェーラ初詣、そしてこれが初見となる『ビッグ・リーガー』。冒頭のバックネット上の俯瞰から、アルドリッチ!と叫ばずにいられない怒涛の展開。ドラマが始まるや、合宿所でEGRがホール中央の短い階段の途中に上って話を始め、若い選手団越しのロングに『ふるえて眠れ』のごとく姪が現れるので若者たちを十戒の如く分けてEGRが近づく、など事細かにアルドリッチの刻印を見つけることになる。娯楽室でスピーカの寄りこそなかったが、いつ映っても不思議ではない。グラウンドに出れば『ロンゲスト・ヤード』『ワイルド・アパッチ』はもちろん、これは『攻撃』あれは『特攻大作戦』、EGRが廊下を歩くほんの短いショットも『クワイヤボーイズ』、海に行けば『枯葉』と、その後のアルドリッチ的演出がここにほぼ出揃っている。果ては幻の『キンダーシュピール』まで。まるで自分の全人生を高い所から見渡す天使のような奇蹟のデビュー作。ここで独特なのは移民が主題化している点か。またジョーとクリスティの恋愛描写の奇妙さ。シャツに刺繍とか弟の手紙とか原始的物々交換。別れかけのバスの描写はさすがに苦笑。そして何しろリチャード・ジャッケルに尽きる。いわば、何か起こるたびわが内なるエディ・シスコに睨まれて涙腺の決壊を阻もうとするのだが、最後の最後、走塁する子供のパンツを別の子供が下そうとしたあたりでついに降参、首を振って満場の群衆と共にカウントスリーしてしまう内なるジャッケルがいた感じだ。年始からこんなに幸福でいいのだろうかと呆然として席を立てず、しかしとにかく冷静にならなければ、といったん外で煙草を吸って二本目の『天使の顔』にかかる。法廷に機械が持ち込まれるあたりの某拙作との類似に何とも照れくさい気もするがやはり悪くなく、ハーバート・マーシャルの出番が終わってややテンションが下がるものの、二度の車両破壊などなかなかのものだった。とはいえ見終えてしまえば即バックネット裏。この多幸感は帰宅後一人の夕餉まで続いたが、ふと現実に引き戻されるとどろりとウツに巻かれてしまうので、慌てて『アルドリッチ大全』を繙いてバランスを保つ。

夜、朝届いたDVD『ゼロ・ダーク・サーティ』を。若手脚本家マーク・ボールとの二作目になるが、結局心底嫌いなのは『ハート・ロッカー』だけということになるか、先日『デトロイト』について書いた「ぐずついたもどかしさ」はここにも横溢しており、飛び立つ二機のステルス型ブラックホークを見上げるヒロインにはやや感銘を受けるほど。総じてこのヒロインの造形が本作のキーであり、その陰影は『デトロイト』の歌手へと正確に継承される。ただ、正面のラストショットは評価の割れる所だろうが、これは失敗。引きのまま終わるべきだった。あとQTもどきの章分けもさすがにイラつく。 夜じゅう、ぱるるが調子悪そうで心配で仕方なかったが、女優が帰宅するや元気に吠え、ひと安心。

某日、本来プロデューサーとして立ち会わねばならない試写があったが、別件ありパス。決してひどい状態ではないが良くもない。何処にも行かず年内いっぱい寝ていたいというのが本音。まあたいていの人はそうだろうが。しかしそういうわけにもいかず朝から体を動かし続けた。夕刻、新宿で『恐怖の報酬』。子供の頃テレビで見たクルーゾー版を親から傑作としてすりこまれ、やや成長してから現れたフリードキン版は世間的にNGとまたすりこまれ、どちらを見ても「ふーん」としか思えず、このたびフリードキン完全版が出たというのでまずは昨年DVDでクルーゾー版を見直してダメだったので今回も期待せずにいた。で、見たがやはり、残念ながら。ただ少し考えるとこれが、たとえばフランケンハイマー『殺し屋ハリー 華麗なる挑戦』などと同時代的な一個の作風というか風潮としての試みでもあり、ある世代の作家たちが意識的に粗野、と云って悪ければ超大作ブームに抗してレトロな方法を採ったと考えるとたんにダメという話でもなく、まったく異なる文脈だが『ベートーヴェン通りの死んだ鳩』なども含めた70年代中盤のアメリカ映画の多様性の一環ではなかったか。そこでは当然アルドリッチもペキンパーも、あるいはフライシャーもべつの潮流として一画を担うだろう。フリードキンが一筋縄でいかないのはこの時代のさなかにジョン・ボックスとタンジェリン・ドリームを出会わせてしまう、いわば「オン・ザ・コーナー」の嗅覚である。『アギーレ/神の怒り』と『フィッツカラルド』に挟まれるようにして在る本作は、ヘルツォークとポポル・ヴーのコラボを意識したかどうか、近しい世界を拡げている(それも『エクソシスト』が先行して醸造した世界かもしれない)が、もしそれらに対して優位(俳優シャイダーの狂気と反骨もキンスキーといい勝負のはずだ)を誇るとしたらデヴィッド・リーン組の大ヴェテランデザイナー、ジョン・ボックスの力量によるところ大なのではないか。ワロン・グリーンがどこまで構想したか、トラックの構造、吊り橋、倒木爆破など、人間どもの醜悪な生活との対比も含め、自然界の圧倒的な美と猛威の共存はボックスの手腕に他ならない。これで冒頭の四つのプロローグとエンディングが時流に組せず完璧なら傑作だったかもしれないが……残念ながら。『L.A.大捜査線』のシャープさは本作の反動だったか、本作をロビー・ミュラーが撮っていたらどうだったか、などと考えても、もちろん歴史に「たられば」はない。昨年の『ロスト・シティZ』の登場は偶然かどうか。なお、秀逸な音響設計によって、どれが音楽でどれが状況音か不明なることしばしば。これもタンジェリン・ドリームの賜物に違いない。

アジアカップトルクメニスタン戦。3-2。兼高かおる、逝去の報。享年90歳。

某日、それが今回のテーマですから、と終映後NOBODY結城は断じたが、戦後アメリカがいかに愚かであったか、はその男を、またはその男「たち」を逃してしまったことに大いに関係している。男「たち」の一人は赤狩りによる亡命で、一人はその自死に近い死によって。ジョン・ベリーとジョン・ガーフィールドによる『その男を逃すな』上映時間79分、今回のヴェーラにおけるハリウッド50年代特集の平均的尺数かもしれない。撮影ジェイムズ・ウォン・ハウとガーフィールドはすでにロッセン『ボディ・アンド・ソウル』でこの時代の最高の仕事を見せたが、本作でも冒頭から鏡を効果的に用いた画面で狭い自室に幽閉された主人公と壊れた母親との関係を見事に描いてみせる。そして酒場、強盗、逃げ込むプール、シェリー・ウィンターズとの出会い、さらにウィンターズの家へと流れるような展開。ウィンターズの家族、再び軟禁の描写。常に俯せにならないと休めないガーフィールド。ウィンターズのパン屋の作業、夜のドレス姿。帽子から始まる父親の造形。帆船の模型。母親のミシン。弟のグローブ。七面鳥。酒。ラストに至るまですべてが悪夢のように連鎖し続ける。それはほとんど間違いではないか、という気がするのだが、その間違いはゴダールがそうであるような「間違い」である。もし本作が今回の特集の白眉であるとしたら、これを『狩人の夜』と並べる結城の云う通りそれはこの「間違い」こそ今回のテーマそのものであり、本作がそれを重層的に体現しているからである。アメリカは二つの貴重な才能を愚かにも失ったが、この才能の最も恐るべき点は「間違い」を描写しえたこと。この「間違い」は結局全く同じシチュエーションで展開するワイラー『必死の逃亡者』を正統とした場合の「間違い」であり、そのときそのリメイクであったはずのチミノ『逃亡者』は見事に『その男を逃すな』の側、「間違い」の側に寝返るのだ。なぜならもちろん、チミノ自身すでにアメリカの「間違い」として存在したから。本作をめぐる様々な映画史的事件が事件としてさえ扱われない不毛さの中に生きていることにも気づかされ、大いなる興奮の一夜。50年代研究には終わりがない。

京都のスリーショット

某日、三日間京都にいた。やはりここにい続ける可能性もないではなかった、と妄想するほど良き時を過ごさせてもらった。月曜にのんびり帰京してゆっくり休んだのだが、火曜にひどい疲労を覚える。二日間朝から晩まで講評(脚本、評論含む)すればやはり体力が追いつかなかった。女優の発案で紅茶を飲み続け、いまのところインフルエンザには罹らずに済んでいるが、今後どうなるかわからない。ぱるるに会えて尋常ならざる幸福を与えられ、やはりぱるると離れて暮らすことは考えられないが、そのぱるるがお腹を壊していて大変気の毒である。パンダ病院は火曜定休。明日は連れて行く。 で、打合せに渋谷に出て、道玄坂のリンガーで長ちゃん(たぶんチェーンだとこれだけが好み)を食い、センター街の居酒屋で時間を潰してからQuattroニール・ヤング映画。その間に疲労が倍加して到着するなりインフルかも、と騒ぐ。みんな引く。なぜか甫木元がいて驚く。『ジャーニー・スルー・ザ・パスト』(『ニール・ヤング/ここにある旅』という邦題を提案する)はスコリモフスキに比肩する詩的力作なので、今後「家路」ファンはやるたびにこぞって見に行ったほうが良い。考えてみればゴダールに対するスコリモはディランに対するニーヤンなのだから、そうであってもちっとも不思議ではないだろう。二本目はそんなわけで辞去し、某編集者Aと「匠」にて密会。果々しい結論を得るなり疲労は飛び、インフル疑惑も消える。さて、次に『マディ・トラック』に会えるのはいつのことだろうか。

某日、日曜のジュリー武道館を挟んで数日間、またしても精神的に崩壊し、生きる気力をなくしていた。しかしやるべきことはやらねばならず、立ち上がって人に握手しにいく。まあとにかく、ジュリーは素晴らしかったが、私は酒と薬でぐだぐだである。ジョナス・メカスの訃報。ずっと映画にとっての詩とはメカスだけでいいと考えて来たから、これで私にとっての詩=映画は存在しなくなる。それを悪いことだとは思わない。メカスは映画の恩人であり、メカスだけいてくれたらそれでよかったと思う。亡くなった江角英明さんが『EUREKA』の初号の後で云って下さった「詩ですね」という言葉を聞いて、私はメカスのことを考え心から嬉しい気持ちになったが、反面もうそんなおこがましいことになるような真似はしまいと心に誓った。女優と二人で行った江角さんのお通夜の雨上がり夕焼け空も詩だった。だからもうあれでおしまいでいいし、他人が詩を映画と重ねて考えることに興味を持つことはないだろう。

武道館北二階

某日、甲府でバンド練習。週末には新曲を録音しなければならない。女優がインフルを発症。疲れて動けない私も遅かれ早かれ。ともあれ何しろ不安定な一月だった。

(つづく)

青山真治

映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)など。
近況:2月9日(土)に中野plan-Bにて『はるねこ』上映と甫木元空バンドのライヴ。2月中盤は何年ぶりかのパリ行き。