映画音楽急性増悪 第1回

1993年からのパリペキンレコーズ、1996年からの360records(音楽レーベル)、録音について考えるイベント、スパイス食イベント、ハーブについて考えるワークショップ、食史『カレー野獣館』、出張薬草酒バーテンなどで活動されてきた虹釜太郎さん。堀禎一監督作品他で映画音楽・音響・環境音も担当されています。新連載「映画音楽急性増悪」は昨年に急逝された堀監督との映画音楽制作以前から書き留めた映画「音ノート」や連日の議論が元となるものです。第1回は堀作品とのいままでの関わりと60項目の「きき方」(「聞く」と「聴く」に限定しない)について書いてくれています。

第一回 娘たち

文=虹釜太郎

その職業があるからそれは存在するのか。

その職業があるからそれは存在し続けるのか。

その職業があるからそれは存在するべきなのか。

この三つの疑問はそれに何らかのかたちで関わるものは答えなければならないはずのものだが、三つめの疑問にそうでないとあまりにも簡単に答えるなら、三つめをそうであるべきだとする全く揺るがない存在について、もっとも残酷で人間ひとりの命などなんともとらえもしないその存在の「そうであるべき」に予想外の時でも対処できなければならない。やつらはただ残酷に、いやそうとすら自認せず命は存在するべきだなどと言うようなやつらである。

映画を急性増悪するもの、映画にいまだまとわりついたまま、もはやなんでまとわりついてるか自身もわからないままの「きっと」と「たぶん」、それらはいまだぴんぴんし消え去る気配なく、映画における「そうかもね」はいまだ沈んだり沈まなかったりしなんとか死なずにいて、「きっと」も「たぶん」も己の役割とされているものに疲弊しつくしているのすらわからないまま、いまだ「きっと」も「たぶん」も今日もあらゆる場所でドーピングされ続け死ぬことは許されない。そして「きっと」のただ中から、「きっと」を育て続けてきた作り手が折り込み済みのはずだった「そうじゃない」はしかし時に作り手の予想以上の強さで「そうじゃない」と運命を拒否しはじめ、しかしすぐさまそれを作り手はあらゆる手段で疲れさせすぐ力を弱めようとし、その無力化の成果であるところの疲れに浸りきることの快楽を「きっと」と談合させる。そして「きっと」のただ中にあるものが「そうじゃない」と強く否定する前から「そうかもね」は常に存在し、しかしそれは執拗に過酷な経験をかせられ、時にそれは孤児であり、その孤児の出力は「きっと」ばかりで世界を埋め尽くす作り手の監視をある時はかいくぐり、「そうじゃない」と逃走することもあれば、だらだらといちゃつくこともあるが、「そうかもね」と言うか言い終わらないうちに監視するものに消されたり、監視するものに気に入られようとする無数の一味によって下降気流に流されたり、無惨に支柱の下に生き埋めにされたりしてしまう。無力化され飛ばされる「そうかもね」に「疲れた…」と一見「そうじゃない」の味方のように現れる数々の遅延させる存在たち、やれやれやれやれと浸ることに馴致されきった存在が、その多層の遅延や辺境の延長の覚醒しないつけ足される約束たちのなかで今日も泣けるわぎこちないわ泣けたっと体液を撒き散らすだけならまだしも「そうかもね」にそっと寄り添ってくる。善意に生成の内側でとつけ足される約束たちがいまこの瞬間も「そうかもね」の無力化に忙しい。

この「きっと」と「たぶん」と「そうじゃない」と「そうかもね」はたまたま映画『夏の娘たち ひめごと』(2017年/堀禎一)で人間たちが口にした言葉に過ぎないが、それらはすべて映画の「音」の取り扱いについてあまりに古くからある方法のうちの代表的なものだ。その詳細と変遷については連載のなかで部分的にあきらかにしていければと思う。

遺作となった『夏の娘たち ひめごと』に至るまでの堀禎一の作品は、『宙ぶらりん』(2003年)、『草叢』(2005年)、『笑い虫』(2007年)、『妄想少女オタク系』(2007年)、『東京のバスガール』(2008年)、『憐 Ren』(2008年)、『魔法少女を忘れない』(2011年)、『Making of Spinning BOX 34DAYS』(2012年)、『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』(2014年)、『天竜区旧水窪町 祇園の日、大沢釜下ノ滝』(2014年)、『天竜区奥領家大沢 夏』(2014年)、『天竜区奥領家大沢 冬』(2015年)、『天竜区旧水窪町 山道商店前』(2017年)らがあり、『妄想少女オタク系』の後に再び仕事した『憐 Ren』(2008年)において半ば堀と喧嘩別れのようになっていた自分はもう堀と仕事するつもりはなく(だからこそポレポレ東中野「堀禎一特集」での堀とのトークは、もっとも公開処刑となる『憐 Ren』の上映後を指定したのだし、その日までのゲストとのトークであまりにもはぐらかしばかりの堀に、全作品の音監修について実際どうなのかを堀得意のはぐらかしを禁じ詰問するつもりでいた、いままでさんざん堀は自分に詰問してきたので)、またさまざまな理由でパッケージされた録音を延々と聴くことにもさらに懐疑的になっていて、音楽と音を膨大に聴いてるはずの同業者たちにも激しい違和感を感じていた自分は、以下の「きき方」について極私的に整理していた。

それは…

  • 音を加工したくないという欲望と加工された音をより聴きたくないということ
  • フィールドレコーディングされた場所自体への関心と無関心への予測しない警告
  • フィールドレコーディングされた場所が過去どうだったか未来においてどうなるかの関心と忘却への時限爆弾の設置
  • なぞり書きする欲望(音のなぞり)(なぞり書きとなぞり映しとなぞり鳴らし)
  • 聴き直す時間の限界
  • フィールドレコーディングで治癒される何かの各段階/そしてその逆とはどういう事態か
  • 録音物に依存したくないということと録音物で強度を操作されるということへの無知
  • 世界が内破する音についての予期せぬ対話の設定(世界の再生速度を変えたい/変えることについての思いがけない対話/変わる契機を設定する)
  • アーカイヴ「ヒューマン」(ばかばかし過ぎる響き)
  • フィールドレコーディング音源を通しての環世界間の行き来のおままごと
  • 録音するという痛み(強)
  • 録音するという痛み(弱)
  • 録音することであぶりだされる”かゆみ”(痛み<中>、潜在)
  • 特殊マイクで更新される世界で発見されることを聴きたい/知りたいということとそこでの退屈さの理由
  • 架空の世界で鳴る音をなんらかのかたちで聴くことを強いられた際にそこで除去されていること、除去されることを推奨されているものを聴いてしまうということ(違和感を持って聴き続ける時間の先)
  • 自分がそこで鳴る音をよく知っている(はずの)場所の音を聴いて、(いま)録音できないことがわかっていることが確認できながらもその録音世界を一気に聴きたいという事態
  • フィールドレコーディングにおける人間の限界と委ね先の決定についての議論
  • 人間における感情の残骸たちにさまざまな距離をとっていくことを聴きなおすことで体感し直す(距離をとり直す)こと(それらを後にある種の逸話的音楽/叙述的音楽に組み換えたり、組み立てたりするのは、この聴き方からもはじまる)
  • 音自身の立場になる、鳴らされたくない当の音自身の立場にもなる(映画『AA』(2006年/青山真治)の灰野発言参照必須、この灰野発言を受けての聞き手の大里発言のオリジナルがカットされているなら、また灰野発言に対しての『AA』以外の大里の文章があるなら、新版刊行が既に準備されている『マイナー音楽のために』に該当箇所を聞き書きでもいいのでぜひ収録してもらいたい)(大里俊春『マイナー音楽のために』で宙吊りになってる箇所をみなで討議するイベント「『マイナー音楽のために』を巡って」は2018年4月に京都「外」で開催された)
  • 音を捨てたい欲望、ある種の音を聴くことで音が捨てさられる世界に侵入したい
  • 受け身では決して学習できない、録音する行為を通じてあきらかになる世界、その想像の段階、期待の段階ではあらかじめ把握できない日常のメモとそこでの変化
  • 事故への欲望
  • 録音=リハビリのグラデーションとその逆
  • 録音するという行為でしかとりもどせない感覚
  • 音を隔離したい/孤立化させたい(死後も)
  • 偶然の色彩家を録音家に翻訳したときのポテンシャル
  • 録音できない領域を知りたい/それをみきわめるために録音する
  • 音を(いままでと違う方法でもっと)視覚化したい
  • 音を(いままでと違う方法でもっと)分割したい
  • 音に(いままでと違う方法でもっと)触れたい
  • 音にまつわる記憶を隔離したい/しがちな/したくない場所とは(音と建築、音とシェルター)
  • 直接触れられないものの領域を知りたいことについて、音を聴くなかでそこに抵触すること(宿命強迫と音)
  • 音をランダムに扱うことで可能になるものと(もっと)つきあう
  • ランダムがもたらす限定的な開放感をさまざまな日常触れるものに次々とリンクさせていくなかで変化するきき方
  • モーターサイクルと一体化して聴くこと、または(自身も)鳴ること、または改造されてしまうこと
  • 負傷しながら録音すること、「負傷」のさまざまな程度について体験しながら記録していくこと (負傷している/してしまった/していく/していないがそのイメージだけがある/負傷によるさまざまな強度獲得について)
  • 残響の領域で浮かんでくるもの、その時に感じるものの変化、そして自分自身の変化を聴く/聞いてしまう
  • 残響とされるもののなかのひとつにフォーカスして聴き、ある音の持続する長さを一時期のヘレン・フランケンサーラーのように、重力を可変にする聴き方である一点または複数の点でいったんとどまる(そこから先は聴かずにとどまる)
  • 機械がもつ感覚に近づくための録音リスト、その実践
  • 希少音発生地または希少音発生体の保全・研究で発見されること/聞いてしまうこと/そもそも希少音とは
  • 録音機械に人がひそひそ声を話すときの録音について人間中心の設定でない方法でいくつか録音してもらい、後の機械との対話のなかでそれらを設定しなおしていくこと
  • 録音機のもつ事故遭遇誘発性の蓄積と表現とポテンシャルとその批判
  • 録音機のもつ突き刺すような感覚の細分化をめぐる対話がある程度即録音機にフィードバックされる設計/テストと聴くことの変化と聞いてしまいがちな場所の発生の記録と排除
  • 録音することのリモートの問題と、聴くことのリモートの問題と、聞いてしまうことのリモートの難度
  • 「全部入り」から少しずつレイヤーを剥がす過程での聞いてしまうことの変化(音の復興と復活のいままで気づかなかった層)
  • 人主体のデザインだけでないバイオロギングからのフィードバック(パイオニア社、ラーゴ社、フィクションの会社他)
  • ナノリスニングの起こす問題、問題を起こすためのプログラミング
  • 自然環境復元への疑問としてのリスニング
  • 無人機からのフィードバック
  • こどもたちによる音響感覚からの発見(肯定的なものに限定しない)(録音機がなかった世代のこどもたちの音響感と録音機がポータブルになった以降と、それが違う玩具/疎外具となっている世代のこどもたちの音響感の違い)
  • 共同(作業)者を人間に限りたくないことからはじまる録音(作業がどう○○に変化していくか、その○○を増やす方法)
  • 点景の常態化、ある乱暴な一定時間経過ごとの録音を聴き直すことで生じるリスニングから生まれる省略と選別の習慣とそこからこぼれるものの規則性
  • 音と音楽の境界線、図と地の境界というリスニングでなく、音の過保護と音の過干渉のエフェクトとエゴとその薄くなるところを聞く(聴くのではなく)、対話していくなかで変化する過保護と過干渉、音における「介入」の諸像
  • 感覚を生物固有のものとして考えないところから生まれる「きくこと」への疑問を非人間と一緒に時間を過ごしながらきいていく/ききなおしていく/時にききたどりなおしていく
  • 感覚を生物固有のものとして考えないところから生まれる「きくこと」への疑問を非人間と一緒に時間を過ごしながらきいていくが、そこで先に死ぬ人間たちを看取った(看取らなくてぜんぜんいいが)後に彼らがきくだろうもの
  • 「クラップの最後のテープ」におけるきくこと、鳴ること
  • 何かが消失する瞬間を「聴いている」「仲間」への信頼、今後聴かれる複数の過去を日常的に想定すること、それらを今後きくかどうかの決定の瞬間は非人間ではどうなっていくか
  • すべて想い出の地位に昇進する音の記憶についてある距離をとるきき方の細かすぎるグラデーション(聴くことの自動症から離れること、聴くことの水平運動にかまけていることから離れること、そこから戻るきっかけについての細部)
  • 録音するということ自体が弱さをみつけることのできる「存在」への「信頼」であるということ(最適化された「強過ぎる」存在(パフォーマンス)ばかりが弱さを偽装し続けている世界で発見しにくいことたち)
  • 録音するということがものとものとの関係を取り戻すということ(人と人との関係を取り戻し過ぎる音楽や非音楽たちがあまりにも多過ぎる世界で…)

これらの「きき方」は映画の音楽や音響デザインとはなんの関係もない。ここで「きき方」はなぜひらがなの「きき」に「方」で「きき方」なのかは最低限触れておく必要がある。一般的に「聞く」と「聴く」は、その行為の主体の意識の違いによって使い分けられているとされている。「なにかのモノオトを聞く」「誰かの話し声が聞こえる」のように、音や声が自然に耳に入ってくることが「聞く」で、「聴く」はもっと能動的な行為で「ある音楽を聴く」「○○先生の講義を聴く」というのが具体例とされているが、既に日本語の「聞く」と「聴く」だけでもその実態の詳細はそれらの言葉を定義している者の想定や想像を大きく超えて、お互いに染みだしあったり侵入しあったりしているがそれだけではない。そもそも「○○先生の講義を聴く」よりは「○○先生の講義を聞く」者たちが大半のようだし、「なにかのモノオトを聴く」のも一般的だし、「誰かの話し声が聞こえる」は「誰かの話し声が聞こえてくる」がよりしっくりくるとして、「話し声」が誰かわからない時は「話し声を聴く」だろうし、聴きたい声質の持ち主の話し声は「聞こ」えてきたとしてもすぐに「聴く」ことになりがちだ。そしてあまりにその声の主が好き過ぎてつらすぎるのなら、人はそれが全く同じ声であろうとそれを「聴く」から「聞く」に戻したり、「聞く」より強めにマイナスする。そして「聞かない」「聞こえない」にもすぐに到達する。これは映画においてどう意図的に処理されているか。「聞き惚れる」といい、なぜ「聴き惚れる」ではないのか。「聴き惚れる」とは一般的に言わない。しかし言語学者や辞書をつくる者がいくら否定しようと認めずとも無視し続けても、実態としては「聴き惚れる」段階は不安定だがある。「聞き惚れる」がなぜ「聞き」なのかを乱暴に言えば…それは飽きないためである。そして「聴き惚れる」はそれに耳を傾ける(また違う「きく」を使ってしまった!)のが好きでなくなる前の段階の「揺らぎ」に位置している場合を含む。好きでなくなる前には、あまりに聴くことに耽溺している状態が当然ある。この揺らぎについては映画製作において現場ではもっともっと試行錯誤されるべきである。「聞き耳を立てる」はあり、「聴き耳を立てる」がないように感じられる地点においてはしかし「聞く」ことの原始性と「聴く」ことのまだ人間においては比較的新しい事態だということの再考の必要が促される。このことの促しが新たな映画を生むことも当然ある。そしてフィクションや映画における「聴き耳を立てる」は、その聴きとるべき音を獲得できないだろう脆弱さや聴くことが完遂できない事故の予兆をはらむようにも感じないだろうか。また「音を聞いていると何を聞いているかわからなくなる」と「音を聴いていると何を聴いているかわからなくなる」の違いは何か。「音を聞いていると何を聞いているかわからなくなる」のは自分がどこにいるかわからなくなることに近く、「音を聴いていると何を聴いているかわからなくなる」は自分が何者かわからなくなることを強く呼び寄せるだろうか。これを「聞く」と「聴く」の往還には、自分の消滅をはらむとか自分の行く先の不明化を誘発すると早急に言ったところでどうにもならない。上記で「きく」「きき方」と書いている箇所は、「聞く」と「聴く」や、「聞く」と「聴く」のそれぞれの複合語の意味する/予兆をはらむことや、それ以外の第Xの「きく」に限定しない暫定的なものとしての「きく」であり「きき方」である。この「きく」や「きき方」と、フィリップ・ブロフィがかつてとりあげた音響映画やそれらに強く関連する「録音された”音の本性”」「音響効果の過剰な適応」「空気感、雰囲気、環境の”人工性”」「オーケストラ的なものの解体と内包」「電気的/電子的なものへの偏愛」「”紡ぎ上げる糸”としての歌」「声のもつ”耳触り”の加工」(…それにしてもブロフィの音響映画をめぐる思考はざっくりしている…まるで映画『プレデター』(1987年/ジョン・マクティアナン)の監督自身によるオーディオコメンタリーのように…)の関係について映画批評家や映画教育者は自身の感じかたの他者との違い(と教育の不可能性)を考え抜いていなければならないはずだが、では映画製作の現場にいる者はどういう答えを日々出しているか。映画『BLUE ブルー』(1993年/デレク・ジャーマン)をあなたは「鑑賞した」「聞いた」「聴いた」「ながら聞き」した「ながら聴き」したのいずれか。あなたは『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013年/リティー・パニュ)と『アクト・オブ・キリング』(2012年/ジョシュア・オッペンハイマー)を「ながら聴き」していたらいつしか「ながら聞き」してしまっていたか。あなたは「ながら聴き」が続けられない段階で「理解できないままに耳を傾けた」のか「耳を塞いだ」のかそれとも「寝た」のか、そしてそれ以外の状態にいたならそれは何か。もう話を戻すが上記の60の「きき方」は映画の音楽や音響デザインとはなんの関係もない。全く映画とは関係ない話だ。

しかし例えば21の資質があまりにない映画監督はあきらかに無能である。そういう監督は映画を「きっと」と「たぶん」で埋め尽くすだけで終わる。そしてすべてのタイミングはジャストだ。いったい映画の何を観察してきたのだろう。ここで言う「きっと」と「たぶん」をわかりやすくするなら、それは例えばデイヴィッド・ゾンネンシャインが言うところの「コンティニュイティ」「ストーリーに関するヒント」「統一感」「感情表現」「非共感的音楽」「プログラマティックミュージック」のうち「たぶん」が「感情表現」、「きっと」が「ストーリーに関するヒント」に近似するが、そもそもがゾンネンシャインの考える映画を響かせる「音」の作り方が「きっと」と「たぶん」をあまりに志向し過ぎている。しかしこの志向の精度をあげることこそがプロフェッショナルと考えている関係者は多数いる。そういうプロたちにより今日も作品は量産される。22はどの映画監督もインタビューでは決して答えることはないにせよそれは監督たちの多くが常に必要とするものかもしれないが、それをすんなり諦めたものはその代償として「きっと」と「たぶん」のプロフェッショナルらとのより強固な共闘による圧倒的なわかりやすさのなかで安全な支持を常に獲得するのかもしれないが他ならぬそのことに耐えられなくなる事態がまともな監督なら起きるはずで、でどうするか、倫理を問題とするものとどう対するか、ごまかすか、説得するか、対峙からは予想外の点にジャンプするか。60とその周辺から起草される無残な映画や映像作品、人間を非人間に解放していく「新たな」表現や人間として生きていながら非人間として扱われてきたものに人間性を回復する「新たな」表現での45の杜撰な取り組みは今後あまりにも多数ありうる(45の問題はアーカイヴの範囲と倫理の問題、デジタルリマスタリングの際の複数バージョンの存在とそこでのチャレンジしない監督どもの洗いだしにも関係する)。批評家には18の基礎訓練もできていないままのゆうた(キャンプ寄生)もいる。18をなんら疑うことすらないので泣ける!と平気で連呼し続けられるが、どうしても泣ける!と本気で書きたいのならば少なくともいままで泣けたものが泣けなくなった!(それでも?だが本人にとっては深刻極まりないはずだ)事態について書けばよいはずだが…そんなことよりも自分が泣けた泣けるより例えばどうして『ファントム・スレッド』(2017年/ポール・トーマス・アンダーソン)において主演俳優が製作期間中に激しい悲しみに襲われ、そこからどうしても逃れられず俳優の引退を決意したかをライターの総力をあげてその逃れられなさの原因について書いたほうが、それがいくら失敗してようが見当外れだろうがそのほうがよいのではないだろうか。36での戦場映画論と戦場映画コメンタリー論と実況論とメイキング論。38はいくつかのヴァンパイア映画と恋愛映画の狭間に現れては消えるものかもしれないが、ヴァンパイア映画ではない塩田明彦監督の8ミリ映画での処女作がそうであったかどうか定かでない。たまには映画批評家たちは34をより彼らなりの賢いやり方でとあるゴルファー映画に回転寿司論をでっちあげ骨法十箇条のそのいち「コロガリ」を新たに組み直してほしいとなんの必要もないのに全く痒くもないのに穴をほじりたくなる。『エリ・エリ・レマ・サバク・タニ』(2005年/青山真治)は、4の「なぞり書き~なぞり映し~なぞり鳴らし」を強く観る者に傷つける稀有な映画だが、映画批評家には『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』と吉増剛造映画(貝チップハンガー千円)はともかく、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』とあらゆる口笛映画を論じてほしい。『狩人の夜』(1955年/チャールズ・ロートン)で口笛をふくニセ牧師の口笛は、鳴らされている。しかし『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』でのミズイはなぞり鳴らしている。鳴らされているのとなぞり鳴らしてるのではあまりに違い過ぎる。そもそも口笛を吹くというが、口笛はあまりにも吹かされている、鳴らされている。しかし口笛を吹くより鳴らされているほうが常態なのではないか。映画批評家たちに他の者たちとは違う能力があるなら何も新しいことは書けはしないといまだお墨付きに開き直り続けるのでなく、例えばここでは呼気でなく吸気と映画について大部で論じてほしい。そもそも「口笛を吹く」という日本語に違和感がある。口笛には吸気で鳴る音もある。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』と『狩人の夜』は対となる映画であり、『狩人の夜』のニセ牧師は鳴らされているが、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』のミズイは鳴らされているのでなく自らなぞり鳴らしている。鳴らせないミヤギは委ねるのみであり、委ね続けるだけでは死者は増えるばかりで、『狩人の夜』のニセ牧師は委ねた結果として鳴らされているように映る。しかし軽快に鳴らされている当の本人は自ら吹いているつもりだ。『狩人の夜』の幾人もの映画作家たちへの強迫的伝染の原因はこの鳴らされの不気味な強度かもしれず、映画『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』はその伝染の源までたどって映画の違う時間線を紡いだことに挑んだようにも映る。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』爆音上映はまた違ったことを発見してきたはずだが、その成果も改めてまとめてほしい。また例えば呼気でなく吸気で吹いている、ではおかしいので吸気で鳴っている口笛について、鳴らされているのか鳴らしているのかを複数の映画で考えたりできるのが映画批評家の仕事のひとつだとも思っていたが、どうやらこの世界での映画批評というのはそういうのを考える習慣とは違う潔癖さや整然さのなかにあるようである。しかし時に彼らの誠実さ理路整然と現場の運動神経がかなりずれていると感じる時も多い。吸気で音を鳴らすのはわかりやすく呪いの第一段階かもしれないが、それが鳴らされているのか鳴らしているのかを論じるのは、ホラー映画の演技の数々を延々と失笑し続けたりトホホるよりはよほど重要なことに思えるがみな今日もトホホり笑顔でなにやらコレクトにいそしみ健康極まりない。しかし吸気映画論をやるならば当然『ルシア』(1968年/ウンベルト・ソラス)は参照されるべきだ。

改めて繰り返すが上記の60の「きき方」は映画とは基本的になんの関係もない。

堀は『憐 Ren』での自分との喧嘩別れなど全くなかったかのようにある日『天竜区奥領家大沢別所製茶工場』と『天竜区旧水窪町 祇園の日、大沢釜下ノ滝』を送ってきた。それに対して自分はいくつかのフィールドレコーディング作品(自分の録音ではない複数のアルバム)(以下フィーレコ)を送ると、堀はまた『天竜区奥領家大沢 夏』を送ってきたので、今度は通常フィーレコではタブーとされる録音者の足音もあわせて録音されているフィーレコ作品を送ると堀はあれおもしろいねと連絡してきて『天竜区奥領家大沢 冬』を送ってきた。天竜区を撮りはじめた時期に堀は『遊動論 柳田国男と山人』(柄谷行人著)を読み込んでいたらしいが、堀自身の言葉によれば「『別所製茶工場』はそれまで自分が撮ってきた映画を全否定した上で撮り始めたものです。もちろん今ではそこまでの自己否定感は薄らぎましたが、デビュー作である『宙ぶらりん』より必死に撮っていたのではないかと思います。終わってしばらくすれば、結局、いつもどおりだなと思いましたし、それまでの自作に対する見方も大きく変わりましたけど…」とのことだが、『憐 Ren』の(失敗と)教訓をもとに作られたはずの『魔法少女を忘れない』で堀はあきらかに一区切りをつけた。『魔法少女を忘れない』での音楽、音響のサウンド全体の堀の監修は見事だった。これを普通に提示したうえで先に行きたかったのはあきらかだった。しかし『魔法少女を忘れない』でのサウンド全体の監修には裏話があり、堀はダビング日程が終わっても到底満足できず、関係スタッフに無理を言ってスタジオのわずかな空いてる時間にしつこくしつこくダビングの延長作業を延々していた。この延々と延長する経験と『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』『天竜区旧水窪町 祇園の日、大沢釜下ノ滝』『天竜区奥領家大沢 夏』『天竜区奥領家大沢 冬』の運動神経と、『魔法少女を忘れない』製作終盤での気づき、そもそも『魔法少女を忘れない』の「忘れない」の主体が何なのかに気づいてのガクブルが、『夏の娘たち』での再出発にはっきりつながっている。『夏の娘たち』のダビング現場(約一ヶ月と一週間)で起きた数々についてはここではその詳細について何も言うつもりはないが、作業の冒頭においてはまだ堀は「映画音楽」を要求していた。しかし自分は映画「音楽」をつけるつもりは全くなかった。絶対につけたくない音楽をしかし複数用意し作業初日に複数箇所聞かせると堀は「これは直美の映画なんだよッ」と声を荒げた。「この映画のタイトルだって『直美の場合』でぜんぜんいいんだ」とも言ったので(実際に映画のタイトルは一ヶ月以上にわたるダビング期間の最終日前日まで決まらなかった)スタートは最悪だったが自分は音楽は今回一つも入れるつもりはなかったし、堀の毎度のいらつきも慣れていたので「タイトル、『乃梨子の場合』じゃないんだから、それないでしょ」と言うことで、映画音楽ではない「音」の作業はその先一ヶ月はじまることになった。この日々はスタジオに入ってないからこそ可能になったものだが、スタジオのベテランたちを軽視しているわけではもちろんない。その一ヶ月では必要な「声」がないからダビング作業は中断し、二人で録音しに出かけたりという日が何日もあった。だんだん堀がフィーレコ行為にはまっていく過程が得難い経験だった。堀はいちいちどうしてこの音なのかの理屈を当の本人の欲求以上に問い質すのを堀自身に課していたので(時たま俺理屈を君に求め過ぎだよねでもそれは勘弁してと何度か繰り返すので、もうそんなこと今後は言わなくていいと伝えた、堀は自分のアイデアをいちいち気違い扱いせず一晩二晩考えて答えてくれるほとんど唯一の人間だったので堀のあまりにもしつこい質しの連続はお互いさまだった)、自分もその理屈を堀の執拗過ぎる質問を跳ね返せるよう作り延々試していたが、このような作業工程というより議論工程は通常のスタジオでのダビング作業ではあり得ないものだった。と同時にでは理想的なプロのダビング作業はそもそも何なんだよについても作業後の飯や朝飯前に話しあった。

結局映画音楽はエンドクレジットとオープニングだけに限定されて入り、すべては環境音の作業だったが、この時に堀に問い質され続けるなかで作った方法はわたしのその後の映画の観方を変えてしまった(正確には観方というのはなくなり体験の仕方だけに)。その時に改めてつけ直した映画の音ノートが本連載の元になるものだが、そのノートはM数メモももちろん毎作品あるが、基本的には引き延ばされ過ぎたあのダビング合宿の膨張とありうるはずない収束として伸び縮みするXとして何かの難病のように消えない。堀はいなくなり自分にはこの毎日の習慣(ダビング合宿の延長、ひとり質問に自分で答えること)が残った。答えが出る日は稀だが、堀がいなくても対話する習慣は今も続いている。

ちなみに『夏の娘たち』のエンドクレジットにはほんとはナンカロウのピアノを使いたかった。しかしそれはあらゆる理由でかなうはずもなかった。コンロン・ナンカロウがもし何者か知らない人がいたら調べてほしい。

映画音楽の増悪とは何か。少なくとも映画のサウンドデザインの教科書の「音楽の認知」に付されるのが「音楽は混沌から秩序を作り出す。リズムが不一致を課し、メロディーが断片に連続を課し、ハーモニーが不調和に調和を課すからである」というメニューインの言葉だけである現状はいくらなんでもおかしいだろう。映画のサウンドデザインでこの言葉の引用では現状追認の未来しかない。それにあまりにも人間を高く見積り過ぎている。

映画のサウンドデザインの教科書の「音楽の認知」には以下の定義も付してもらいたい。しかしこれは定義でなく難題だが。

「1: 音楽は音のパターンによって限定される作業領域の一形態で、人間の言葉や書かれた記号という視覚に基づくメタファーに類似した思考方法である。音楽はいくつかの伝達方法を保存するための一種の戦略であって、その伝達方法は他の生命形態がコミュニケーションを行うやり方により近く、人間の言語構造にはわずかに関係があるに過ぎない。したがって、音楽は人間以外の生命系統と構造的に関わるための伝統的な手段であるかもしれない。」

「2: 音楽の作者や伝達意図、感情表現、音楽の天才という諸価値について私たちが当然と思っていることは、進化の過程から見ると、短期間の逸脱であるかもしれない。この当然だとされていることは私たちに美や娯楽上の価値をもたらしてくれはするが、それらは音楽にとってより深い意味から外れるものであるかもしれない。環境という点から見ると、音楽は自然と社会の関係を含むより大きな精神のシステムに人間が構造的に関わるための手段であった。」

「3: 音楽の意味は、記号の指示対象としての音符の構造の中にはない。伝達の意図と需要は、単純に点対点の対応関係にはない。

音楽は意味作用を分散するネットワークであって、そこではおびただしい関係と使用の無限の組み合わせから意味が生まれてくる。残念なことに、音楽に関して私たちが当然だと思っていることは、自己表現、感情内容、意図、作者という理念にたいする、文化的に尊重された信念によって規定されている。私たちはまた、私たちの経験とこの同じ信念を同一視することによって、音楽に文化的価値を与えている。このように当然と考えられていることがないところでは、音楽には何が残されているか」

(デヴィッド・ダン「サイレント・ダイアローグ──見えないコミュニケーション」より)

映画のサウンドデザインの教科書の「音楽の認知」冒頭引用には上記のダン(特殊マイク群の発明者でもある)の論題とは別にハンス・プリンツホルンのリズムと規則についての抜粋も付してほしい。メニューインにダンとプリンツホルンが併記されるだけでもだいぶ健全になるはずだ。

音楽の難題と再定義。映画のサウンドデザインとはなんの関係もないが。無駄なカットはひとつもないはずなのにひどくぎこちなく人工的な夏の娘たちの映画は、映画自らが手近な「きっと」と「たぶん」と「そうじゃない」を何度でも復習し続けこの映画は運命じゃないと思う地たちを巡るひどくシンプルな旅に突然出立する。そこに気を散らす虫たちも鳥たちもいない。次の四次ロケで蝉が大敵だなどということが未来永劫行われる一方で。映画音楽が急性増悪するとかいう以前に、音楽が映画に必ず必要ではないというのは、ある映像には「どの音もうまくいく」実験のあまりにもなどうでもよさと呑気さとは全く関係がない。観賞すれば「きっと」生かされる無数の映画には音楽は必ず必要だが。そもそも音楽が必要か否かという問いが間違っているし、映画のサウンドデザインという言い方自体が間違っている。二つの感覚が連動しずれていき苦しみ疲れまた動き出しまた止むのに音楽も音も関係はないが、またしてもそこで気を散らす虫たちも鳥たちもいない。先回りし続ける賢いものたちに彼らは常に鳴っていない。しかし鈍重な彼らにも響くそれは。休眠状態のものがいくつも転がっている。