妄想映画日記 その77

boid社長・樋口泰人による妄想映画日記、今回は7月の1ヶ月分の日記です。3月から続く爆音映画祭ツアーでは昭島、広島、多摩へ、そして試写では『きみの鳥はうたえる』(監督:三宅唱)、『寝ても覚めても』(監督:濱口竜介)、『クワイエット・プレイス』(監督:ジョン・クラシンスキー)などを。唯一のレコードを聴く時間となってしまった「アナログばか一代」ではボブ・ディラン特集を堪能。

文・写真=樋口泰人

暑さと豪雨ですべての記憶が飛んでいる。東京の焼けるような暑さから始まり、靴までズボズボの豪雨の広島、そして熱風温風に身体の水分を搾り取られる東京へ。仕事はしているが捗らない。倒れてはいないが、倒れてはいない程度の体調。最低である。3月から7月前半まで続いた爆音ツアーでさすがに疲れていたというだけではない疲労感が全身を支配した。身体を支える心のエネルギーが残っていなかった。映画を観て何かを考える時間の余裕が欲しかった。7月後半は無理やり試写に通った。その他の仕事や連絡は、できる限り無視した。それでもやらざるを得ないことが山ほどあった。

7月1日(日)

記憶なし。多分、原稿を書いていた。猫に見つめられた写真が残っている。

7月2日(月)

週明けは常に事務所の社長仕事。それから、配給作品関係の発送など。だいたいこれで1日が終わる。打ち合わせもあった。テレビの企画。猫たちのぐったり写真が残っているので、私もぐったりしていたのだろう。

7月3日(火)

山積みの事務仕事を終えて『オーシャンズ8』試写。8人の女優たちの競演ということもあってか、女優のアップばかりを観ていた気がする。もちろん気のせいでもあるのだが、あらゆる細部が彼女たちが抱えている人間的な問題ではなく、いかにダイヤを手に入れるかというゲームの問題に奉仕するので、そうなると観るべきものは彼女たちの表情しかないと、わたしの無意識が思ってしまったのだろう。しかし何が起こっても、どんな事態に陥っても後ろ向きにならず、常に前を向いて男たちに攻撃を仕掛け煙に巻いて笑う彼女たちの爽やかな足取りは清々しかった。

7月4日(水)

山口へ。5日からの広島爆音の前にYCAMに寄って8月のYCAM爆音の打ち合わせである。羽田に向かうための、大荷物を持っての通勤電車はいつもなかなかドキドキするのだが、多分まだ本気のラッシュには出会っていない。山口は涼しかった。雨が続いた一瞬の晴れ間ということだったが、通常の7月初めってだいたいこれくらいじゃなかったか。

YCAMのエントランスには苔色の古墳らしきものができていた。まだ製作途中。「メディアアートの輪廻転生」と題されたイヴェントのアイコンのようなものだという。8月15日のピン・バンドのライヴもこれを中心にして行われる。打ち合わせでは、どのように演奏を展開するか、PAをどうするかなど具体的な話になり、通常こういう場合は決まって、あれができないここが難しいという話になって、結局はおとなし目の方向に落ち着くのだが、つまり15日のライヴでは、古墳の周りをミュージシャンが周回し、楽器の音はワイヤレスで飛ばしてYCAM側で用意したPAで出力、ということになるのだが、YCAMの場合はせっかくだから彼らがタイで使っているPAセットを作りましょうか、という話になる。できる限りやる、という方向である。そうすれば古墳の周りだけではなく、外にも出られる。大人の会社とはまったく逆の方向で話が進んだ、という次第。まあでも現実的にどこまでできるか。あとはやるだけである。

7月5日(木)~8日(日)

109シネマズ広島での爆音映画祭。雨だった。街の中にいると単にひどい雨が延々と降っているという印象しかないのだが、テレビでは広島各地の災害の模様が放映され、それを観て事態の深刻さを知るという具合でもあった。3日目には市内もJRが止まり、夜には市電も止まるという事態となり、シネコンが入っている施設も夕方には店じまい。映画館だけが稼働していて、『ゾンビ』のスーパーマーケットを思い起こさせる状況にもなったが、すぐそばでは大災害が起きている。その落差に頭がくらくらした。

7月9日(月)

終日事務仕事。夜は8月12日に招聘するタイのバンドのヴィザの承認がおりたとのことで、弁護士に逢い、最終的な提出書類を作成。

7月10日(火)

予定の試写に行けず、終日事務仕事。

7月11日(水)

『遊星からの物体X』の宣伝他のための打ち合わせ。その他いくつか打ち合わせ。

7月12日(木)

boidマガジンの新規オープンのための打ち合わせ。ようやくここまで来た。まだもう少し細部を修正、機能を付け加えて完成なのだが、とりあえず7月中にオープン、完成は9月くらいを予定か。

7月13日(金)~16日(月)

MOVIX昭島での爆音映画祭。場所が変わると音が変わる。久々にはっきりとそれを実感した。その違いをどうするか。工夫をするのは楽しい。しかし外はすごい暑さだった。調整のない時はひたすら休んでいた。15日には帰宅途中で久々にピワンに寄った。気が付くと今年初めてのピワンだった。あり得ないくらい忙しかったということだ。

7月17日(火)

昼は打ち合わせひとつ。夜はboid関係のwebのほとんどをやってくれている岸野君が父親になったお祝いを、某配給会社の人たちとした。

その帰り、代官山から渋谷へと向かって歩いたのだが、渋谷川沿いにある副都心線の入り口が何だか思わぬことになっていた。

7月18日(水)

三宅唱『きみの鳥はうたえる』。タイトルの漢字とひらがなの使い分けが難しい。いや憶えればいいだけのことなのだが。冒頭で「季節は変わらない」というようなことが宣言されていたと思う。ひたすら時間が澱む。いや、積み重なって暑くなっていくと言ったらいいか。彼らの歩みはどこからどこへと進むものではなく、ただただそこにいくつもの時間があるという、物理的な時間の存在感を示すだけのものだと言ってもいい。時間の織物が織られていく。直線状に流れていくしかない映画の時間がそのたびに折りたたまれ、目の前に積み上げられたかと思うと、ある時はその折りたたまれた時間の上から下までをカメラの視線が貫き通す。ひとりの人間を見つめていたはずのその視線が、彼の母親の時間を示し、あるいは彼女が付き合った別の男の時間を示す。その積み重なった時間の束の中で窒息しそうになっていた男がようやく最後に息を吹き返し、ようやく初めてそこに季節が生まれるのだが、たぶんそれは、ほかのだれででもあったはずの男がようやくひとりの男になった瞬間でもある。この映画を観る誰もが、ただひとつのかけがえのない「わたし」の時間を観ることになる。いくつもの「わたし」が重なり合ってその共振の中で、それぞれの「わたし」が生まれる。わたしが「わたし」として生まれなおした瞬間をそれぞれの「わたし」が体験する。「あなた(たち)」がいなければ「わたし(たち)」は生まれなかったと「わたし」は言うだろう。計り知れない多数のわたしとあなたが集まってひとりの「わたし」が生まれ、それとともにそれを観る多数のわたしが「わたし」や「あなた」を生み出すだろう。その中で、柄本佑演じる男の父親なのか、ひとりの老人がミシンに向かって何かを縫っているショットがさしはさまれる。物語の流れにはほとんど関係ないショットだったと思う。いったいこれは何だったのか。個人的にはヴェンダースの『さすらい』の印刷所のお父さんや、無声映画の話をする老人たちを思い出した。しかし冷静に石橋静河の演じた女の役割を考えると、予告編にあるような「ひとりの女とふたりの男」の青春映画からははるか彼方であり得ない時間を紡ぎ出している映画であった。いろんな意味で、これも『無言日記』の変奏でもあるだろう。

きみの鳥はうたえる

2018年 / 日本 / 106分 / 監督・脚本:三宅唱 / 原作:佐藤泰志(「きみの鳥はうたえる」河出書房新社/クレイン刊) / 音楽:Hi'Spec / 撮影:四宮秀俊 / 出演:柄本佑、石橋静河、染谷将太、足立智充、山本亜依、ほか

©HAKODATE CINEMA IRIS

2018年9月1日(土)より新宿武蔵野館、渋谷ユーロスペースほかロードショー!以降全国順次公開!(8月25日(土)より函館シネマアイリス先行公開)

公式サイト

その後、松田広子、瀬田なつきとともに久々にバウスの本田社長に会う。

7月19日(木)

延々と事務作業。終わらない。仕方ないので、夜は事務所から1分のうなぎの名店にてうなぎを食う。関西風の焼き方にしてもらった。うなぎはこれに限る。

7月20日(金)

終日事務仕事。

7月21日(土)

わが家の姫にボーナスが出たらしく、昼飯をおごってもらった。いろんなことが起こる。

7月22日(日)

記憶なし。原稿を書いていたと思う。

7月23日(月)

濱口竜介『寝ても覚めても』。最初から戸惑わされた。俳優たちの声と身体が乖離している。単に不自然ということでもなく、役柄に合っていないということでもなく、何か奇妙な違和感が登場人物たちの周りに貼りついている。おそらく「麦(ばく)」と呼ばれる男が消えてから、それぞれがそれぞれの身体に合った声を取り戻したのではないかと思うのだが、気が付くとその違和感は消えていた。いずれにしても主人公の女のほぼまったく理由が示されない「決断」の姿勢に圧倒される。これは態度や心の問題でもあり、それ以上に物理的な「姿勢」の問題でもある。通常はゆるっとした輪郭のぼんやりとした風景の中にある彼女が、ある時だけ俄然背筋が伸びる。まるでそのときだけ誰かが彼女の中に入り込み背筋を伸ばし、その伸びた背筋の思考によって何かが決断されたかのようでもある。ある時ふと身体が思考し声を上げる。そのきっかけが物語として全編にちりばめられていた。バイクの事故や東北への旅によって、死者たちが彼女の中に入ってきたのだとも言えるだろう。ひとりやふたりではない。数えきれないくらいの、たったひとりでは収めきれるはずもない圧倒的な死者の群れが、彼女の背筋を伸ばしたのかもしれない。そしてそこでは「生きている者」と生きるか「死んだ者」と生きるかの選択が供用されていたようにも思う。タイトルに絡めて言うなら「覚めている時間」を生きるか「寝ている時間」を生きるか。しかし最終的に彼女は「寝ても覚めても」と決断する。誰かに延ばされたのではない気が付いたら延びていた背筋が思考して「両方」を選んだのではないか。そして「両方」を選ぶにはそれなりの痛みが伴うことも示される。誰も彼女についていけないがこれでいいのだ。現実を生きる彼女の身体には、「なみのおと」がいつまでもなり続けているだろう。

気になって原作も買った。その冒頭辺りにこんな一説があった。

「母親は回る娘の手を握って、というよりは引っ張られて、自分の意思を離れて動いている手をほったらかしにしたまま、会話を続けた。」

寝ても覚めても

2018年 / 日本 / 119分 / カラー / 日本=フランス / 5.1ch / ヨーロピアンビスタ

監督:濱口竜介 / 原作:「寝ても覚めても」柴崎友香(河出書房新社刊) / 脚本:田中幸子、濱口竜介 / 音楽:tofubeats / 出演:東出昌大、唐田えりか、瀬戸康史、山下リオ、伊藤沙莉、ほか

©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会/ COMME DES CINÉMAS

9月1日(土)よりテアトル新宿、ヒューマントラストシネマ有楽町、 渋谷シネクイントほか全国公開!

公式サイト

7月24日(火)

ジョン・クラシンスキー『クワイエット・プレイス』。「音をたてたら即死」というコピーにあるように、音に反応する未確認物体の物語である。爆音でやったらどうか、という興味のもとに行ったのだが、もう、この音量で十分だった。宇宙からの生物の立てる音は『メッセージ』辺りでデータが共有されたのだろうか、とにかく全盛期の宇宙生物映画にはなかった刺激的な音がちりばめられるだけでなく、いきなり出てくる音がとんでもなくて、わたしはひたすらドキドキしていた。

7月25日(水)

終日事務仕事。猫たちが風呂に入った。

7月26日(木)

ギリギリまで事務仕事、夜は「アナログばか一代」。ボブ・ディラン特集であった。爆音をやって地方に出ていると全然レコードが聴けない。わたしにとってはこれが唯一のお楽しみ企画と言ってもいい。たっぷり堪能。ついにモービル盤で「北国の少女」も聞けたし言うことなしの夜だった。あと何回でもボブ・ディラン特集はできるのではないか。とはいえ次回はニール・ヤング特集ということになった。なんと、もはや不可能だと思っていた自伝の第2集が翻訳出版されるのである。ニールさんにインタビューをしに行ったときに発売されたばかりで、当然買ってきたのだが、日本での出版はあきらめていた。どうやらこの出版のために会社を作ったということらしい。みんなそれぞれがやれることをやる。ただそれだけで何かが始まる

7月27日(金)28日(土)

パルテノン多摩での爆音上映。『恋する惑星』と『スワロウテイル』。久しくシネコンでのラインアレイの音になじんでいたので、そうではないスピーカーの音の耳触り、肌触りに最初戸惑った。さまざまな手探り。予想外に時間がかかった。『スワロウテイル』は音声が2チャンネルなので、音量を上げれば上げるほどセリフの調整が難しくなる。「爆音」状態より少し音量を下げた設定で。これならこの音でずっと聴き続けていたい、そんなことを思うような音になった。

2本とも90年代半ばの作品。そこに描かれる世界の中の多国籍感がよく似ていて、日本の現状と比べると、この20年の間に起こったことの取り返しのつかなさに愕然とする。もうこんな映画は2度と作られることはないだろう。ベルリンの壁が壊れ、911が起こるまでの約10年間、われわれにはもっと別の道を歩むチャンスが山ほどあったはずなのだ。機会があったらまたこの2本立てをやりたい。

しかし土曜日は台風のために無茶苦茶な雨だった。帰りがけ京王多摩センターの駅を見回すと、そこかしこがサンリオだった。今更気づいた。

7月29日(日)

マーク・リボーが来日していたのに行けなかった。元気も時間もなかった。ニューアルバムだけは手に入れた。穏やかさと激しさとが同居する子供とともに生きる大人のアルバムになっていた。ここにも、どちらかを選ぶのではない、どちらもともに選ぶ人間がいて、そのことの痛みと楽しさがそこに充満していた。

7月30日(月)

YCAM爆音の告知のひとつの試みとして、上映全作品を解説して収録、それをネット配信するという企画。ひとりでは寂しいのと面白みがないということで、今年のYCAM爆音のゲストである黒沢さんにお相手をお願いした。観ている映画も観ていない映画も観たが忘れてしまった映画も、とにかく1本3分から5分くらいでその観どころ聴きどころを話す。どんなことになったかは、順次YCAM爆音のページに掲載されるので確認していただけたら。黒沢さんの「瀬田なつきは自主製作映画界のジョン・カーペンターである」発言に爆笑した。

アレックス・チルトン『FEUDALIST TARTS』。黒沢さんによるジョン・カーペンター評で常に口にされるのは「これくらいでいい感じ」である。まさにその絶妙な塩梅がそこにあった。というか、おそらくこちらが思う「これくらいでいい感じ」以上に、本人は切実である。果てしなく切実と言ってもいい。切実さの果てにふと立ち現れたホッとする一瞬、止まった時間がここに収められていると言ったらいいか。ああこの人がここで今こうやって生きている、それだけでいいと思える音。

7月31日(火)

カウボーイ・ジャンキーズ『ALL THAT RECKONING』。カウボーイ・ジャンキーズを聴くのはおそらく20年ぶりくらい。初来日のライヴを観に行ったくらいには充分好きなバンドだったのだが、ある時から聴かなくなってしまった。きっかけがあったわけではない。したがって理由もない。気が付いたら聴かなくなっていて、そうなるとそれっきり。たまたま新譜を見つけたのでこれまた何となく買ってみた。当たり前だが昔の音とは違っていた。もう教会では録音していない。曲全体を覆っていた教会の深いエコーはない代わりに、増幅されたベースの低音が何十年にもわたるバンドの歴史と世界の歴史のうねりを伝える。ボーカルは乾いて、その歴史を生き抜いてきた者の声のようでもあるし、はるか未来に発見された21世紀の遺物が歌い始めるその歌声のようでもあった。歌詞が知りたい。

7月は欝な日が続いた。そんなときは世界のすべてを呪いたくもなるのだが、まあ仕方がない。すべてがうまく行くわけではない。

樋口泰人

映画批評家、boid主宰、爆音映画祭プロデューサー。98年に「boid」設立。04年から吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画・上映。08年より始まった「爆音映画祭」は全国的に展開中。著書に『映画は爆音でささやく』(boid)、『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社)、編書に『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド)、『恐怖の映画史』(黒沢清、篠崎誠著/青土社)など。