映画音楽急性増悪 第47回

虹釜太郎さんの「映画音楽急性増悪」第47回は、『新空位時代の政治哲学 クロニクル2015-2023』(廣瀬純)と映画/映像たちについてです。

第47回 空位

 
 
文=虹釜太郎
 
 
 
『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ/2017年)
という映画を何度も観ているのだけど、この映画は観る度に違和感がさまざまに飛び出してくる。この映画のことはわたしは応援しているし、リメイクも無理そうだけど作ってほしいと思っている。
この映画はさまざまに絶賛されているのだけれど。
逐次的認識様式と同時的認識様式について。
同時的認識様式は事象を同時に経験してその根源に潜む目的を知覚する認識様式とのことだけれど、中国人の大佐の行動も含めて観返す度に違和感が。もちろん子供を持つことについて、本作が他の映画にはできない描き方をしたことはわかる(実際に出産しないとわからないかもだけれど)。それでもやはり本作は人間というものをかなり過大視しているような違和感が随所に。
そもそも世界はチャンが考えるよりかなり破滅的、刹那的、残虐極まった人たちで溢れきりまくってるから…という違和感も。異物排除の抑圧的共同体だらけの地球で、人類の一気の変革をルイーズ単体だけでもたらすのではなく、それだけ抑圧的共同体たちの方でも宇宙人の訪問が圧倒的であり続けるというその持続の描写が無さ過ぎる点とか。ルイーズが出すベストセラー本の描写についての強い違和感や宇宙人の造形やその出す音たちへの違和感やそれ以上に映画音楽への違和感も。
ルイーズの発表によりルイーズ以外の多数が
同時的認識様式を獲得した際に、自分の子供が連続殺人犯などだった場合にどうするかなどがまったくない違和感や人類の大多数が同時的認識様式を獲得した際にいったいどんなネガティブなことが多数生じるかについて…などきりがない。 
『メッセージ』はなにとあわせて観るかによっても違和感は異なり。『コングレス未来学会議』(アリ・フォルマン/2013年)と『メッセージ』、『もう終わりにしよう』(チャーリー・カウフマン/2020年)と『メッセージ』、これらをあわせて観ることで違和感はさらに変わっていくが…
「<ヘプタポッドB>によって同時的認識様式に導かれたことで、わたしは<ヘプタポッドA>の文法の基底にある原理が理解できるようになっていた。不必要なまでに複雑きわまるものとわたしの逐次的心性が知覚していたものを、いまのわたしは、逐次的発話という制約の枠内で柔軟性を与えようとする試みであることを明確に認知できる。結果として、わたしは<ヘプタポッドA>を、それを<ヘプタポッドBの貧弱な代用物であることに変わりはないものの、以前より容易に使いこなせるようになっていた」や「いまから何年もがたったとき、わたしのそばにあなたのおとうさんはいなくて、あなたもいなくなっている。このひとときから最後までわたしに残されるものは、ヘプタポッドの言語しかない。だから、わたしは強く注意をはらって、あらゆる詳細を心に刻んでいる」という原作(「あなたの人生の物語」)の描写を映画の中のルイーズはうまく演技できていないのではという違和感ももちろんあるのだけど。可能性に溢れているとされてきた『メッセージ』という映画の"狭さ"がよりはっきりとしてきたり。どうでもいい映画ならここまで違和感は感じない。
 
 
『週刊金曜日』八年の連載を単行本化した『新空位時代の政治哲学』(発行:共和国)という本が2023年夏に刊行された(著者は廣瀬純)が、この本を読むとさまざまに映画がいま達成していないことたちがぶわわわんと浮かび上がってきたりするけれど、それと同時に『メッセージ』のような映画についての違和感もまた異なってくる。もちろん映画たちを観るのに本書はあまりに関係ないのではと思う方がほとんどだろうけれど。いままでに観て、"済んで"きた映画がそうでない震えを意外なところではじめてしまう…
わたしは本書のよい読者ではないけれど、リチウム新世界での世界各地の病的現象診断なだけでなく、『新空位時代の政治哲学』とは違う別の新題を読者各自がつけなければならないような切迫性がどの頁にも。
本書は少なくともわたしには、世に充溢しているさまざまな映画評論/批評よりも、より映画を観直すことについても考えさせてくれるものだった。映画を観ることというよりは観直すことについて。と同時に映画にしかできないことは何なのか、ドキュメンタリー映画の作り方はこのままでいいわけがない、ということについても何度も考えさせられたり。
資本と詩作との蜜月の終焉は映画では…
もちろん本書を読むことで現実世界のさまざまな状況の矛盾に次々に触れていくことにまずはなるのだけど。映画など関係ないわと本書を読み終える人が大多数だろう。本書ではストローブ゠ユイエの『早すぎる、遅すぎる』『労働者たち、農民たち』『放蕩息子の帰還/辱められた人々』という映画が紹介されてはいるけれど。 いままでの映画評論/批評があまりに映画についてしか語らな過ぎてきたことへの違和感。それは仕方ないことだけれど、映画を巡る媒体以外のところで映画はもっと語られるべきで、その話が映画から毎回いくら離れても構わないが、それで困る人とは誰なのか。
廣瀬純本人はいままでさまざまに貴重な映画批評を語ってきたのは皆が知るところだけれど、本書はそれとはまったく別の。
 
 
本書の各パート、そのごく一部について、
「「迫害」とは何だったのか──「ベルリンの壁」から「エヴロスの壁」へ」では、「敵」が領土も人口も持たない「テロリスト」(「国家」ではなく「犯罪者」)となった今日では、人々がそこから逃れるべき「迫害」はもはや存在しない(「犯罪者」は「迫害」しない)。移民や難民の諸権利を蔑ろにすることをEUおよびその加盟諸国が自らに許す法的根拠はここにあることについて。
 
「「レント資本主義」とは何か──ネット企業とその「小作人」」では、「レント資本主義」とは資本家の収入と労働者のそれとがいずれも地代の性質を帯びること、収入の三元構造が崩壊し地代に一元化される傾向、ネット企業にとっての「小作人」は二つに大別される、ひとつはネット企業の開墾した土地において広告活動を行なう者のような小作人、もうひとつはクラウドファンディング(CF)やシェアリング・エコノミー(SE)に見られるもの、利潤のレント化に資本の断末魔を聴き取らねばならないことについて。
 
「国民投票とクーデタ──トロイカとギリシャ、安倍政権と沖縄」では、今日の権力は国民投票をクーデタと見做す権力であるということ、緊縮強化をひたすら求めるトロイカが体現する今日的な権力形態を安倍政権も共有するということ、議会がその法的権能を超えて新国家創設を決定する「議会クーデタ」について、ツィプラス政権が脅し(流動性枯渇措置)に屈してしまってなお人民に残ったものは国民主権でもそれに基づく民主主義でもなく各人の自由、決死の覚悟でのその実践、それらが世界中の人々に与える触発効果であるということについて。
 
「民主主義は脱出とともに実践される──15M運動/シンダグマ運動」では、ギリシャとスペインに見られる共通点、2011年はギリシャおよびスペインでも占拠運動の年、その始まりにあっても過程にあっても指導的あるいは代表的な組織や人物をいっさい登場させない運動について、広場の物理的な平面性(水平性)がそこでのありとあらゆる立体性(垂直性)の出現を妨げたということ、アクター/オーディエンスへと人々を分割してしまうおそれのある要素をできる限り排除することについて、スペインで「15M運動」、ギリシャで「シンダグマ運動」と呼ばれているものは広場占拠それ自体だけでなく、占拠以後に広場から派生した多様な「潮流」からなる運動、「運動状態にある社会」(ラウル・シベチ)を含意するものであるということ、システムの外、国家の外に「民主主義」の実現の場を見いだすことらについて。本稿とはまったく関係ないが「その始まりにあっても過程にあっても指導的あるいは代表的な組織や人物をいっさい登場させない運動」とはかつてアンビエントもまたそのようなものとしてあったはずで。いまはその痕跡すらないほどに、人前でなにかをやること、それらを鑑賞することがあまりに大好きな人間たちによってそれらが存在したことさえなかったことに。
シンダグマ広場は『ベケット』(フェルディナンド・シト・フィロマリーノ/2021年)にもカラスの集会の場所として出てくる。『ベケット』にはEUの緊縮政策を阻止すべく協力体制を築いているカラスの話が出てくる。『ベケット』の主人公が本人がまったく意図しないのに巻きこまれる緊急性、いままさに死のうかという境での緊急性、それは非常に多くの「途中下車」に満ちている。
 
「「お前たちの戦争、我々の死者たち」──パリ11・13/マドリード3・11/NY9・11」では、フランス一一・一三(2015年11月13日パリとその近郊で130名の死者を出す大量殺戮事件)に何らかの敵対関係が見出されるとしてもそれは断じて西洋人/東洋人のそれではなく、フランス国/イスラーム国のそれですらなく、この事件に見出されるべき敵対関係は、一方にフランス国とイスラーム国とがあり、他方にフランス住民とシリア住民とがあるという敵対関係、すなわち戦争しあう国家とその犠牲になる民衆という敵対関係であるということ、第二の敵対関係を考えるためには事件実行者たちのことを想起しなければならない、第二の敵対関係は社会と「私たち」とのあいだのそれでもあるというべきことについて。第二の敵対関係をより考えるためにはいま存在している映画だけでは足りない。
 
「怒りはいかに政治的変革に転じられ得るか──スペイン総選挙、ポデーモス、市民連立」では、ポデーモスは15M運動の「内部」からではなく「外部」から登場した、この「外部」とは端的に言ってマスメディア、とりわけテレビ、ポデーモスを創設し、その指導部を形成することになる人々はマドリードのローカルテレビ局で討論番組La Tuerka を始め、この番組で司会を務め人々に知られることになったイグレシアスは地上波全国放送のさまざまな討論番組に招かれるようになり「街頭の声」を代表する論者に、その後のポデーモスの失墜について、ポデーモス指導部はラクラウ=ムフ主義をいかに実践しようとしたかについて、ポデーモスが支持率を急落させたのも人々が自分たちの「本質」とはかけ離れた「我々」にまさに「空虚」を聴き取ったから、求められるのはむしろ「本質論」にとどまり「労働者」とは異なる形象が主体性の新たなパラダイムをなすに至ったと考えることではないだろうかということについて。
スペインの「テルトゥリア」(tertulia)と総称される討論番組の伝統。YouTubeにはLa Tuerka@LaTuerka ¡Descubre aquí todas las temporadas de La Tuerka!のチャンネルがある。2023年のTuerka@LaTuerkaでもパブロ・イグレシアスは連続出演している。
 
「アンダークラスと「階級構成」──六八年、オペライズモ、ポストマルクス主義」では、ラクラウ=ムフ、バディウ、ランシエールらの議論(ポストマルクス主義)の問題は労働者を大衆労働者の形象においてしか認識できていない点、大衆労働者の終焉を労働者階級それ自体の終焉ととり違え、資本主義の一局面に過ぎないフォーディズムの終焉を「歴史の終焉」にまで押し上げてしまう点、労働者階級の構成を考えるとその不断の自己変容において捉える視座が欠けている点、今日の階級構成がなお社会労働者を主軸としたそれであり続けているならば、来るべき闘争はこの階級構成においてアンダークラスをなしている者たちによる階級闘争として生起するはずだということについて。
 
「ユートピアと土地、領土化とその実験──イスラーム国、ストローブ゠ユイエ、レピュブリック広場」では、アル・カイーダは領土を持たないことで得られる幽霊的遍在性に賭けていて、イスラーム国はシリアやイラクの土地を領土とすることで出現した、ユートピアはいかにしてこの大地に具体的にその領土を持ち得るかはダニエル・ユイエとジャン=マリ・ストローブが1960年代の最初期の作品から一貫して立ててきた問いであった、彼らの作品『早すぎる、遅すぎる』、「遅すぎる」は過去に二度なされたコミュニズムの領土化に対して、「早すぎる」は、それがどんなかたちでなされるのかまだ誰にも見当すらつかないコミュニズムの未来の再領土化をそれでもなお必ず実現されるものとして肯定すること、現代という時間を「早すぎる」ものとして生きるとはそうした肯定そのものなのだということについて。『労働者たち、農民たち』『放蕩息子の帰還/辱められた人々』では第二次大戦直後の北イタリア山間部での原始的コミュニズム共同体の試みとその挫折が描かれたが、彼らが来るべきコミュニズムのその領土化の実験をテーマに映画を撮っていたのとほぼ同時期にボリビア、アルゼンチン、メキシコといったラテンアメリカ諸国でも人々が都市郊外や山間部で実際に同じような実験を試みはじめていたということ、2010年からのタハリール広場(カイロ)、プエルタ・デル・ソル(マドリード)、シンダグマ広場(アテネ)、ズコッティ公園(ニューヨーク)、ゲジ公園(イスタンブール)といった都市中心部でのそうした占拠運動もラテンアメリカでのそうした実験の延長線上で出現した。
 「諸闘争の合流(Convergence des luttes)」による「三月三十一日はデモの後も家には帰らないぞ!」という呼びかけ、デモやストが持続性と領土性を欠いているという点、必ずや具体的な領土を以てこの大地に再び実現されるはずのコミュニズムのその実験、実験の物質性を通じたその肯定について。
敵が今日、何に恐怖を抱いているかについて。
 
「マネジメント戦争機械小史──「科学的管理法」から「マネジメント装置」へ」では、廣瀬が所属する経営学部で前提とされている、現場とマネジメントとの職能上の分離、「計画と執行との[職能上の]分離」がまず振り返られる。
今日、現場(ライン)とマネジメント機能(スタッフ)との隔たりは地理的にも人間関係的にも拡大の一途を辿っているということ、社会学者マリ=アンヌ・デュジャリエが2015年に発表した『具体性から切り離されるマネジメント─新たな労働管理に関する調査』(未邦訳)は現場の具体的現実と無関係に構想され実践される今日のマネジメントとその従事者たちの実存とを論じたということ、真の対立は計画立案者(スタッフ)と現場執行者(ライン)とのあいだにあるのではなく、雇用主を含むすべての人の生の具体性と、彼らの生を装置の抽象性(「科学」「合理性」)のうちに捕獲しようとする資本とのあいだにこそあるということについて。本パートを読み終えた直後になぜかわたしの頭の中には『マッドモンク/魔界ドラゴンファイター』(ジョニー・トー/1993年)の「神々」たちのしまらな過ぎる議論シーンが次々に。わたしの頭の中はやはり腐っているのだろう。人間にいかなる悪の要素があろうとそれを発現させないような方法をどう作れるのか。『マッドモンク/魔界ドラゴンファイター』における雇用主を含むすべての人の生の具体性と、彼らの生を装置の抽象性のうちに捕獲しようとする資本とは何かについて。
「マネジメント戦争機械小史」とは関係がなくなってしまったが。
 
「「社会」はいかに誕生したか──個人の「過失」から社会的「リスク」へ」では、歴史家フランスワ・エドワルドの『福祉国家』(1986年刊行)について。新自由主義こそは、国家に対して個人を重きに置くという以上に、国家と個人の双方に対して社会を優位に置き、すべてを社会の自己調整能力に委ねようとする体制にほかならないことについて。
 
「民衆蜂起とポピュリズム──「反システム」の二つの体制」では、世界中で同時蜂起的民衆運動が起こった2019年について。
1970年代末にフーコーが規定した「民衆蜂起」の三つの要素──第一に「絶対的に集団的な意志」、第二に「死を賭し」て闘う各人の勇気、第三にいっさいの統治を拒絶する「絶対的不服従」。問題になるのは「システムの外に出る」ことではなく「システムに入らない」状態の継続で、その実践自体で肯定されるのは、この世界には「システム」の外がつねに存在するという真理について。
 
「ウィルスとしてのフェミニズム──ベローニカ・ガーゴへのインタヴュー」では、アルゼンチンでNiUnaMenos運動へ至る系譜の三つの重要な道標、その一はピケット運動によって路上で提起され練り上げられた「労働の終焉」を巡る議論、その二は「五月広場の母たち」、その三はLGBTQ+の運動であること、NiUnaMenos運動の非リベラル的性格について。
 
 「「イメージ」を解体する「事実」──新自由主義時代のナショナリズム」では、鵜飼哲『まつろわぬ者たちの祭り』(「東日本大震災からの復興」を告げるイヴェントとしての東京五輪のその開催準備を主軸に据えるという仕方で安倍政権下において組織されてきた日本のナショナリズムを「イメージ」という観点から分析する書)について、今日各国で形成されつつある「他者蔑視のナショナリズム」、鵜飼による提案(詳しくは本書を読んでほしい)について。
 
「「経営者マインド」のパンデミック──PCR検査としての東京都知事選挙」では、資本がウィルスであり、それ自体で「メッセージ」であるなら、宿主内に生じる「経営者マインド」はその感染症だと言えること、多くは非正規労働者やフリーターである「貧困層の若者」にもひどく蔓延する「経営者マインド」と都知事選、資本という唯一の「主人」からのすべての「奴隷」を解放しない限り、左派はいつまでも「経営者マインド」という欲望に惨敗し続けるほかないことについて。
 
「創造的破壊としてのCovid-19 危機──緊縮からグリーン・ニューディールへ」では、現行の先進国経済はゾンビ企業あるいは「ゾンビ産業」を軸に構成されており、Covid-19危機に先進国資本主義が見出しているのはそうしたゾンビ危機から脱し、真に「資本主義」の名に値するものとして復活するチャンスだということ、欧州復興計画がドイツ中心に構想されただけでなく、ドイツの「転向」はCovid-19危機以前からすでに始まっていたということについて、ドイツの復興計画はCovid-19危機が「創造的破壊」の契機と見做されていることについて。脱酸素化産業とディジタル産業という新たな軸。Covid-19危機以前から狙われていたチャンスについて。
 
 「「脱家父長制なしに脱植民地はない」──ボリビア先住民女性たちの反採掘主義闘争」では、2020年11月20日にボリビアで「文化・脱植民地・脱家父長制省」が新設されたこと、フェミニストグループMujeres Creandoはチャチャ=ワルミは幻想に過ぎないとしたこと、脱家父長制なしに脱植民地はないとは、土地と身体とをどちらも「テリトリー」と見做す一貫した論理の下で、「フェミニン化=植民地化」から両者を同時に解放する闘いの謂い、ということについて。
 
「同性愛者解放運動と革命──ギー・オッカンゲム『ホモセクシュアルな欲望』」では、『ホモセクシュアルな欲望』で言われる器官どうしの自由接続について、器官どうしの自由接続としての同性愛は「人類」の名の下に非道徳化され病理化され犯罪化されてきたが、その「人類」を我々に語るのは資本主義にほかならないというオッカンゲムの喝破について。
 
「ナチズムとマネジメント──運動する生命体、「民族」から「企業」へ」では、ナチス思想における「責任委譲」システムについて、現場で実際に事に当たる者の自発性の尊重、「社会主義」を掲げたナチズムは資本主義の実現モデルのひとつに過ぎなかったかということについて。
 
「Covid-19を概括する──世界経済再編成と新たな国際主義」では、Covid-19危機とは19世紀末から続いた「米国=石油」体制を終わらせ、新たに「中国=リチウム」体制へと移行することに存する「創造的破壊」、資本蓄積体制の大転換のことであるということ、支援金給付の差別的あり方について、新採掘主義的「国内植民地化」に対する闘争(その最前線に立っているのは多くの場合、女性)をするマイノリティと共闘を開始する新たな「国際主義」の可能性について、マイノリティを虐殺するために都市部の力を資本が自分の軍隊として動員するのを許してはならないことと資本が無際限の金融緩和によってさらなる「経済の金融化」へと向かうのも許してはならないこと(金融化は生活必需品も含むすべての事物の投機対象化を導き、貧困化した大衆の生活をさらにいっそう不安定化させる)について。
 
 「「パレスチナはフェミニズムの課題だ」──女性解放なしに祖国解放はない」では、パレスチナを巡ってフェミニズムの観点から取り組むべき幾つもの問題の中での四つの主要な問題、その一はパレスチナ人社会においてイスラエルの植民地主義に抗する民族解放闘争が他のどんな闘いよりも優先されなければならないとされてきたこと、その二はイスラエルの植民地主義がパレスチナ人社会の家父長制を前提にしているということ、その三はパレスチナ人社会の家父長制をより強固にしてきたのもイスラエルの植民地主義であるということ、その四は「ピンクウォッシング」の問題、植民地主義の「洗浄」には、「ジェンダー平等」や「女性のエンパワーメント」を掲げる体制派フェミニズムも加担しているということについて。
 
「資本主義社会は「競争社会」ではない──アマゾン社における反トラスト法の逆説」では、アマゾン社が略奪的価格設定と垂直統合を主軸戦略として電子商取引市場の独占を進めてきたこと、その解消方法の二つの提示、資本主義社会を特徴づける最大の「格差」は短期的サイクルの地獄に囚われた者と長期的サイクルの希望を独占する者とのあいだにこそあるということについて。
 
「新自由主義はチリで始まり、チリで終わる──民衆蜂起から新憲法制定へ」では、チリでは国民総生産の半分が上位10%の富者に集中し、労働者の半数が月額五万円未満の低所得を強いられていること、教育、年金、身体、水、文化、土地への集団的権利を回復するための闘争は、そのいずれもが新自由主義と八〇年憲法に対する闘いであること、新憲法への集団的意思は民衆蜂起以前から展開されていた諸運動の結束点として民衆蜂起のただなかで見出されたものということ、諸運動とは2006年の高校生たちの「ペンギン革命」、2011年の二十万人の大学生たちが路上に出ての「学生叛乱」、2013年の民営化されている年金制度に反対するCoordinadora No+AFP(「年金基金管理会社はもういらない」連携組織)、2018年のデモを契機に創設されたCoordinadora feminista 8M(三月八日フェミニスト連携組織)、2013年に結成された連携組織「水と領土のための運動(MAT)」他について。
 
「「本当の労働組合」とは何か──木下武男『労働組合とは何か』」では、日本的雇用慣行はすでに破棄されているということ、この事実は二重の意味を持つ、すなわち日本の半熟練労働者を「従業員」化して産業別組合の創出を阻止してきた装置が消滅したということ、産業別組合不在のために資本の側で破棄された「慣行」に代えて全雇用契約に課すべき共通規則を労働者が有していないということ、ここに木下は今日の日本における「本当の労働組合」創出の契機を見いだすことについて。
 
 「「第三次産業革命」は起こらなかった──経済のディジタル化は「略奪」革命である」では、ワード、エクセル、パワーポイントといったソフトウェア群を中心に編成されたマイクロソフト社のエコシステム(環境体系)に現代人を縛り付けているのは何かと問うてみるとテクノ封建制の問題として直ちに捉え直せるということ、テクノ領主が大地を「独占」するとき、テクノ農奴の退出費用は無限大になるということ、グーグルやアマゾンにも同じことが言えるということ、領地からの退出を我々に許さないことがレント徴収すなわち略奪の条件である以上、ディジタル企業が全世界規模での独占形成に向かったのは必然だったことについて。
 
「長崎浩とは誰か──党から解放された革命としての「叛乱」」では、『叛乱論』『叛乱の六〇年代』『叛乱を解放する』『政治の現象学あるいはアジテーターの遍歴史』の長崎浩のいう「叛乱」「学生」「大衆」「大衆叛乱」「市民」「党」について。
 
「「中央銀行ディジタル通貨」とは何か──「通貨発行益」を巡る新旧金融領主間の攻防」では、フェイスブックはLibra計画には「金融包摂」(法廷通貨建て決済手段の利用が困難な層への決済手段の提供)という「社会的意義」があると主張していたこと、ステーブルコイン発行者が中央銀行を代替することになるかもしれないこと、一般利用型CBDCはこの「脅威」に対する防衛手段であるということについて。
 
「「労働力商品」から「生身の存在」へ──労働者の権利は労働運動が創出する」では、今野晴貴『賃労働の系譜学』について、今野が確認する「労働者たちによる意識的な労働運動」、労働法の背景をなす「正当性」について労働者が「生身の存在」であるという現実から「発生する」とされる点について、「発生する」ものである以上「正当性」は複数あり得るということ、正当性が社会に根付くことがいかに大切かについて、権利を創出するのは立法でも司法でも行政でもないということについて。ビッグモーターはどうなるか。三カ月もたてばすぐに日本人は忘れるではなく。「生身の存在」があまりにも無視され…
 
 「ベル・フックスとは誰か──革命闘争としてのフェミニズム」では、ベル・フックスというペンネームで活動してきたグロリア・ジーン・ワトキンズ(米国の「ブラック・フェミニズム」を代表する理論家のひとり)の『私は女性ではないのか─黒人女性とフェミニズム』『フェミニズムの理論─周縁から中心へ』(「交差性(インターセクショナリティ)」論の先駆的仕事のひとつ)について、性差別的抑圧と資本主義は同時にしか終わらないことについて、「女性はみな犠牲者である」と想定する「共通の抑圧」論に対するベル・フックスの批判について。
 
「「日本型反差別」はなぜ無力なのか──「被害者の声」を社会的力にするために」では、入管法を軸とする社会的力である「差別アクセル」に対して、差別禁止法を軸とする社会的力である「反差別ブレーキ」を創出しなければならないことについて。
 
「「祖国防衛」とは何か──「帝国主義戦争」としてのウクライナ戦争」では、かなり言いにくいことが記されている。ウクライナ、欧米、日本で「祖国防衛」の名の下に、ロシアによる侵略またはその可能性から防衛されようとしているのは具体的にはいったい何なのかを問うべきことについて、それは資本主義の防衛、それに伴う搾取と抑圧、貧困と悲惨の防衛ではないのか、について。
 
「インターネットは物質からできている──ディジタル技術と環境汚染」では、「柳毛」「麻山」「鶏西」という地名(グラファイト鉱山)、天然グラファイトの生産が中国のみならず、ブラジル、モザンビーク、ロシア、マダガスカルなどで加速されること、「中心」でのエコカーの普及は「周縁」に環境汚染を押し付けることでしかないことについて。
 
「対ロシア経済制裁の逆説──米国一極集中から多極分散へ」では、米国一極体制防衛を目的とした対露制裁もまた今日の米国の圧倒的な化石燃料生産能力に立脚したものだという事実、真の対立は、米国一極集中体制防衛か多極分散体制構築かという点を巡るものだということについて(前者は後者に乗り越えられつつあるか)。
 
「資本主義を動揺させる「大辞職」──ロックダウン下での知覚の転換」では、2021年五月にその到来として指摘された「大辞職」、米国では2021年一年間に延べ3800万人が辞職、それらの者のうち四割は転職先を決めていない、「大辞職」の基部をなすのは、転職や起業といった「キャリアプラン」を一切持たずに辞職する者たち、「大辞職」はストライキである以上に「労働の拒否」であることについて。「耐え難いもの」として知覚された「シット」には、劣悪な労働条件、意味や意義の欠如のほかに、温暖化や環境破壊への加担という第三の「シット」があるということについて。
 
「三つの「民主主義」──ディエゴ・ストゥルバルクへのインタヴュー」では、今日のアルゼンチンでは「民主主義」は三つの異なる意味で語られている、そのうちの三つめは新採掘主義的な蓄積や金融の支配を問いに付す人々の力、私有財産制や家父長制やレイシズムに基づいて支配層の展開する横暴を退ける方法を模索する民衆の力、それも現在では「民主主義」と呼ばれていることについて。
 
 「「市民社会」の叛乱とその敗北──オスカル・アリエル・カベーサスへのインタヴュー」では、チリでは2019年10月18日に民衆叛乱が起きた、しかし2022年9月4日に新憲法草案の承認を問う国民投票があり「棄却」が勝利した、憲法会議発足の日にロンコンはマプーチェ語で演説した、国家による激しい迫害と侮蔑の対象となってきた民族のひとつに属する者が母語で話す姿がテレビで初めて放送されたことについて。
 
「「ジン、ジャン、アザディー」──再開されるイラン革命」では、2022年9月半ばから体制への不服従を表明する民衆運動がイラン全土で展開されているということ、今日のイランでは人口の八〇%が貧困線以下に陥っているとされていること、イラン民衆にとっての真の敵は革命防衛隊にほかならないということ、「ジン、ジャン、アザディー」(「女性、生命、自由」)というイラン民衆の叫びに聞き取るべきは女性解放とクルド民族解放なしにはイラン社会の解放はないという認識だということについて。日本にもクルド料理店メソポタミアがあるけれど、店内に一部記されている文章は他の料理店にはないもの。世界に散らばるクルド料理店の店内はどんな様子なのか。
 
「「老人ファシズム」の時代──フランコ・ビフォ・ベラルディへのインタヴュー」では、イタリア新首相ジョルジャ・メローニの率いる政党「イタリアの兄弟」をフランコ・ビフォ・ベラルディは「老人ファシズム」(geronto-fascismo)と。廣瀬はビフォに「ハンガリーやオーストリア、スウェーデン、イタリアの「極右」政権は、マスメディアでよく言われるのとは異なり、「例外」なのではなく、むしろ反対に、EUそれ自体の「老人ファシズム」路線を明確に体現する勢力なのではないでしょうか」と問いかける。それに対するビフォの答えについては実際に本書を手にとって読んでみてほしい。
 
「バルセローナのミュニシパリズム──フェラーン・デ・バルガスへのインタヴュー」では、15MやPAH(住宅ローン被害者の会)といった社会動員の大波がもたらしたアダ・クラウ市長が矛盾に直面したこと、ポデーモスは「七八年体制」批判をやめ「最小悪」論を唱えるようになったこと、カタルーニャでは反七八年体制精神が維持されたが、それは前例のない規模での独立運動という形態をとってのことであること、バルセローナ・アン・ムクーは独立を宣言させる効力の無いたんなる「運動」としてのみ住民投票の正当性を認めるという消極的な姿勢をとったということらについて。要参照『資本の専制、奴隷の叛逆』。
 
 「戦争か、革命か──新たな帝国主義戦争時代の到来」では、マウリツィオ・ラッザラート『戦争か革命かなぜなら平和は選択肢にないからだ』(2022年刊行)について、資本主義が自己に内因する障壁(Schranken)を乗り越えるために用いる「手段」とは何か、それは「戦争」にほかならないというのがラッザラートの答え、どんなに小さい利潤量増大にも戦争が要請されるということ、資本主義は「資本」単体ではなく「国家=資本複合体」の観点から捉え直さなければならないこと、ジェンダーや人種に基づいて個人間で発動される「暴力」(フェミニサイドやヘイトスピーチなど)についてもあくまでも国家によって組織された戦争であり、その個人化された形態にほかならないこと、「国家廃絶」の議論は今もなお有効だとラッザラートは主張することについて、ロシア住民とウクライナ住民との共闘を契機として形成されるトランスナショナル(諸国民横断的)な人民戦線が国家によって組織されるすべての戦争を国家に対する内戦へと転じ、国家制度それ自体を打倒するときにこそ資本主義は終わるということについて。
 
 「「中国の世紀」とはいかなる時代か──ジョヴァンニ・アリーギの「市場経済」論」では、経済学者ジョヴァンニ・アリーギは15世紀からの資本主義の発展を、ジェノヴァ、オランダ、英国、米国をそれぞれ支配的中心とする四つの「資本蓄積システム」の継起として論じたこと、中国がおのれの統治およびビジネスの形態を世界秩序として普遍化させる地位に就くことで資本主義が終焉する可能性について、アリーギは「中国の世紀」を資本への国家の従属が反転される時代として展望したことについて。二〇二〇年以来中国国家がしてきたこと、GAFAMに匹敵する事業規模に成長した中国民間ディジタル企業に対する極めて高額な罰金やディジタル、不動産開発、学者支援の三つの産業部門への国家介入他について。
 
「ペルーで今、何が起きているのか──全国規模の反「採掘主義」民衆闘争」では、2022年12月からペルーで全国的に展開されている民衆闘争について、その叛乱者たちは「我々は強奪にあっている」と怒っているがこれは四つの意味で理解可能なことについて、先住諸民族の闘争はクリオージョ国家の発展過程としてあるペルーの「近代」をその外部から攻撃する「山から下りてきたインディアンの横暴」と見做されていることについて。 
 
「労働者階級の復活──フランスの年金改革反対運動」では、2023年1月からフランスでは年金改革に反対する運動が全国的に展開されていること、フランスの労働運動は指導者や中心組織を持たずに統治者に直接対峙する黄色いベスト運動の闘争形態を我がものとすることで復活、新自由主義によって粉砕されたはずだった労働者階級の再登場について、今日のフランスの財政赤字拡大の主たる原因は寿命伸長による年金支出増大にあるのでなく企業(特に巨大グループ)に対する税額控除、助成金支給、社会保障負担低減措置などにこそあるということ、階級闘争の今日の再始動が革命に転じるのは少なくとも今日ではアンダークラスの求める「もう一努力」を労働者階級が引き受けるときなのではないかということについて。
 
「チュニジアにおける黒人差別──「革命」に還元された民衆蜂起」では、2023年2月のチュニジアのカイス・サイード大統領の声明、翌日に国家憲兵は「滞在資格のない移民に住居や職を提供しているチュニジア人に対する取り締まり」の実施を告知したこと、サハラ以南出身者を同定するレイシズムがなぜ今日、政治の道具として用いられることになったのかについて、「大置換」論(非白人住民によって白人住民が取って代わられつつあるとする説)を着想源とするこの声明は「尊厳」の回復という真の問題をアラブ=ムスリム共同体としてのチュニジアの存続という偽の問題にすり替えたうえで大衆層に彼らの「敵」は「エリート」と黒人移民だと呼びかけるもので、それによって「尊厳」を不問に付したままで失われる一途にある大衆からの支持を取り戻そうとするものだということ、現実から遊離した次元で「敵」を仮構する言説によって人心を掌握する政治手法が「ポピュリズム」であるとすれば、サイード大統領が体現して見せているのはポピュリズムとレイシズムとの深い親和性だと言えるということについて。
 
改めて本書で指摘されたことについては、たとえば「「迫害」とは何だったのか──「ベルリンの壁」から「エヴロスの壁」へ」では、『不法移民として生きる』『移民国家は語る』という連続ドキュメンタリーや『AFTER THE RAID』(ロドリゴ・レイエス/2019年)の他に、『眠りに生きる子供たち』(ジョン・ハプタス、クリスチャン・サムエルソン/2019年)が思い出されるが、スウェーデンに避難した難民の子が次々にかかる長い長い眠り=あきらめ症候群、子らが次々にかかるあきらめ症候群だが、難民認定されると治るという眠りとは…
 
「Covid-19を概括する──世界経済再編成と新たな国際主義」と「「パレスチナはフェミニズムの課題だ」──女性解放なしに祖国解放はない」では、「ジェンダー平等」や「ジェンダー公平」ではなく「ジェンダー」そのものの解体が、それを起点としていっさいのハイアラーキー的配分が機能不全に陥るとき、植民地主義が終わり資本主義が終わることについてと「ジェンダー」そのものの解体の映画祭の候補作品は何かについて。たとえば『Laokoon & Söhne』(タベア・ブルーメンシャイン、ウルリケ・オッティンガー/1975年)であるとか。ウルリケ・オッティンガーは2023年夏に日本で「ベルリン三部作」の『アル中女の肖像』(1979年)、『フリーク・オルランド』(1981年)、『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』(1984年)が公開された。
 
「インターネットは物質からできている──ディジタル技術と環境汚染」では、『ハンドメイドムーブメントseason1 大体の事柄は布に覆われてしまっている』(時里充)の作品が思い出されたり。
 
「現場での対決なしに社会変革はない「経済成長」という「幻想」と訣別するために」と「アンダークラスと「階級構成」──六八年、オペライズモ、ポストマルクス主義」では、ブラジルは関係ないけれど『プリジョネイロ』(原題『7 Prisioneiros』/アレクサンドル・モラット/2021)を思い出したり。本作ではサンパウロで仕事をするマテウスは騙されて田舎から廃品回収工場に連れて来られるのだが、そこでは給与はもらえず(最初の交通費、劣悪な居住環境の家賃他多数で長期間差し引きでその間は給与ゼロ)、鍵をかけられ現場から逃げ出せないまま奴隷のような労働環境に。途中から雇い主ルカに連れられ、さまざまな人身売買、悪質過ぎる労働環境を知ることになる。そこから抜け出すためにマテウスがすることとは…
 『プリジョネイロ』ではアンダークラスをなしている者たちによる階級闘争以前の問題が描かれるが、マテウスのようないちばん状況を、階層社会の構造的問題について具体的な変更をもたらすことができそうな人間が陥る問題、またマテウス以外の六人であればどう何を変えれたかも考える必要がある。マテウスを含む七人がどういう階級で構成されるかについてのバリエーションについて。
 
 「ナチズムとマネジメント──運動する生命体、「民族」から「企業」へ」は、特に「責任委譲」システム、1951年に法制化された「共同決定」において、あらゆるナチス映画を再度観直すことを要請し、また今後作られることが不可能なナチス映画たちとは何かについて考えさせる。
 
 また「資本主義を動揺させる「大辞職」──ロックダウン下での知覚の転換」では、謎の数多くの自殺願望者の急増を止められない映画や、いくつものゾンビ映画の誕生の背景にある何ものかについて、いままでの映画について書かれてきたものとは別の気づきを。
たとえば「大辞職」がストライキである以上に「労働の拒否」であることについては、これはあまりにも大きな問題で、『メッセージ』での同時的認識様式の獲得以上にインパクトのある「獲得」… 「耐え難いもの」として知覚された「シット」は、劣悪な労働条件、意味や意義の欠如であるということ以外に、温暖化や環境破壊への加担という第三の「シット」があるということについてだけでなく、第四以降の「シット」について映画は何を描くのかについて。
 
本書には、フェラーン・デ・バルガス、フランコ・ビフォ・ベラルディ、ディエゴ・ストゥルバルク他へのインタビューが収録されている。これらのインタビューは文字だけれど、映像であったらどうだったか。かつて『哲学への権利』(西山雄二/2011年)という「映画」に廣瀬純が出演した時に廣瀬はやたらにウンコという言葉を連発し、しかしそれは有効だった。映画入門やリッダ闘争フォーラム等の動画は挙げられているが、動画としては公開されていない「映画以内、映画以後、映画辺境」等での話し方は時にかなり激しく速過ぎたり、2023年から毎月一回音声配信される「PARAKEET CINEMA CLASS」では、鍵和田啓介と話し合いをするせいか、廣瀬はよりリラックスしているがさらに早口で。この番組は"真の映画批評に触れられるこの世でただ1つ"のポッドキャスト番組と紹介されている。第四回では『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(デヴィッド・クローネンバーグ/2023年)を取りあげている。廣瀬の話し方/とどまり方には特徴があり、それは直接または映像でしか伝わらないかもしれない。
 
本書は映画とは関係ない。『早すぎる、遅すぎる』(ストローブ゠ユイエ)という映画が紹介される回はあるけれど。それはわかったうえで。具体的諸事例の分析からのみ引き出されることのあまりの多さ。詳しい説明は省くがかなりの貧困者であるわたしは本書でさまざまに取り上げられている世界中の貧困者たちと彼らにとっての希望と彼らにとっての地獄がどのようにあるのかについて彼らと共に(?)本書を読むことができたのではないかと微かにだが思うことができた。その感覚はなんで生まれたのか。本書が他の類書と違うところは何なのか。本書にはさまざまな貧困者が出てくる。貧困者の多いチリでの新憲法否決が気になるが… 貧困過ぎて変えられないようなことが世界中でさまざまにいま在る。正直なところわたしはあとどのくらいこの世界に生存できるかまったくわからない。さらにさまざまな社会運動他でなされている反貧困では到底解決できない貧困というものが実際にはあり。それは本書でも書かれてはいないけれど。世界でのさまざまな挫折と貧困について数多く書かれているが、それは知るほどにまだごく一部なのだと。それだったら調べればいい、という最初の動きが生まれ。貧乏過ぎて世界を変えられないとぐだぐたに疲れて感じる時に毎回思い出す映画があり、それは『セシル・B/ザ・シネマ・ウォーズ』(ジョン・ウォーターズ/1983年)と『Brick and Mirror』(エブラヒム・ゴレスタン/1964年)。なぜそれなのかと問われても困るが、絶望のなかでの「実生活」があまりに無理くりに描写されているから、そして彼らは叫ぶから… (ゴレスタンとゴダールの途切れ途切れの話と靴下『See You Friday, Robinson』(ミトラ・ファラファニ/2022年)では古いフィルムがいくつも登場する)。
『Brick and Mirror』の赤ん坊漬け瓶や完全暗闇の中の光る看板や街の窓などはSF映画のようだけれど赤ん坊はいつでも泣く。赤ん坊はあまりに無理やり現れたのだ。いかにして資本主義に絶対的限界を付きつけるかについての映画とは…
本書でいくつか指摘される「解決」はさまざまで。挫折のなかで生まれるかもしれないいくつもの逃避たちや笑いの限界についても書かれてはいない(繰り返すが映画の本ではないから)。けれど映画をさまざまな方法で観直す過程で本書が予想外の効力を発揮することは間違いない。そしてこれから映画を造ることにおいても。さらには映画にさまざまに挫折している最中の者らにとっても。仮に著者がそれを否定したとしても。
世界各地での革命過程の再開のなかで本書の意味とは。貧困ということを越えていままさに死のうかという境にいるものたち(人間以外も)のことを強くいままさに想像してみて、そんな彼らに届くものとは何なのかと。その境にいるものの閉鎖の持続たちについても。