- 2023年08月01日
- 日記
妄想映画日記 その158
樋口泰人による「妄想映画日記」は前回に続いての入院日記です。衝撃的にまずい病院食も液体から固形物へと変わり、リハビリをしつつ、映画を観れるようにもなったようです。
昼になってようやく鼻からのチューブが抜けた。抜けたとたんに世界が変わるかと思うくらい辛かったが世界は変わらなかった。チューブが強烈だったためか、抜けた後もその存在感だけを身体が感じ取り、まだゼイゼイ言っている。これからゆっくりとそれがただの幻影であることを体に覚えさせていく作業が始まる。簡単ではない。そして今後を生きるエネルギーをすべて奪い取られてしまったということだけははっきりと実感する。ではどうやって生きていくか。
その後、ベッドに寝たきりでシャンプーをしてもらう。ベッド上でシャンプーができるセットがあるのだそうだ。水を使わないのではなく、美容室と同じようにお湯でのシャンプーとリンス。妙に慣れているので驚くが、なんと看護師学校ではこういったことも授業のプログラムに入っているのだそうだ。助かるが、ホッとしていると同時に熱いタオルで全身を拭く作業も始まり、わたしはもう手も足も出ない。ここが病院のベッドでなかったら単なる変態である。
7月17日(月)
ようやく水を飲む許可が出た。点滴のみの3日間で胃腸の具合はわけわからないくらい悪い。水を飲んでもすでに胃が受け付けない。点滴で水分は補給できているから、今日からいろんなものが胃の中に入っていきますよという、胃に対する挨拶みたいなものなのだが。いったいいつになったら胃腸は納得してくれるのだろうか。この胃の調子も、どこかぼんやりと世界がかすんでいるのも痛み止めを点滴されているせいかもしれないと思い、もはや痛いところはほとんどないので、いったん痛み止めを止めてもらう。しばらくすると頭ははっきり、世界の解像度が上がり、テンションも上がってしまった。その流れで入院が延びそうだという報告もかねていくつかツイートを。何だろう。時間にして数時間だが、世界が変わった感触もした。もちろんと疲労とともにそれらは消え去るのだが。
7月18日(火)
病院食は限りなくまずい。この世の終わりくらいまずい。重湯とスープだけなのにどうしてこんなにまずくできるのだろうかと思う。しかしよく考えると、わたしの味覚がまったく戻ってないのではという疑惑。確かにどこかおかしい。それに胃が受け付けてくれないものだから余計にまずく感じるのだろう。
エクスネ・ケディの東京ライヴである。VOGの今年最大のイヴェントのひとつなのだが、もはや行くこともオンラインで見ることもできず。夜中にネット上にアップされた参加者たちの画像や動画で何となく雰囲気を感じるのみ。80年代のラテンが混じっていないか? 次のアルバムは80年代あたりをコンセプトにしようとしている話は聞いているが、こんな形で表れてくるとは。果たして次のアルバムを作ることのできる予算を、わたしはどうやって確保したらいいのか。いろんな思いが頭をめぐる。だがそれ以上に、胃腸の調子は悪いし、寝たきりで体中がだるく痛い。入院半年とか何年とかという方たちはいったいどうやって暮らしているのだろう。入院前は、「生きてるだけでいい」と思って覚悟を決めたのだが、こうやって入院してみると「健康で生きていたい」と切に思う。「ただ生きてるだけ」は辛すぎる。しかし寝たきりの方、長期入院の方は世界中に山ほどいるわけだ。皆さんこの辛さとどのようにして折り合いをつけているのだろう。
7月19日(水)
腹にモノが入り始めると、体に芯ができ始める。体を縦にするのが少し楽になってきた。だが胃腸の調子は相変わらず。病院食はまだ衝撃的にまずい。午後は別場所でシャンプーをしたり、人工肛門の付け替え練習などを行った。


7月20日(木)
胃腸の調子は相変わらず悪いが、とりあえず病院のプログラム通り、リハビリも始まった。と言っても1日目はゆっくりと歩いたり、椅子に座っての足の運動を。無理なく。
夜は調子に乗ってアマゾンプライムで映画を観た。篠崎から絶対に見るようにと言われていた『ハロウィン』の最新版。ショッキングな惨殺シーンではなく、アメリカの小さな田舎町で暮らす人々の、その閉ざされた空間の中での出来事や感情の動きを繊細に追う。こういった作業を徹底的に突き詰めたのがチミノの『逃亡者』ではなかったかと思うのだが、あの登場人物それぞれの視線のやり取りは、観るたびにハラハラしてその上で、この閉ざされた空間が宇宙の果てまで広がっていく感覚を受ける。彼らの過ごした時間、それぞれの人間関係、そこで起こったいくつもの出来事……。それらが彼らの目配せと視線の方向だけで語られる。脚本からは絶対に見えてこない世界の広がり。まさに映画監督とはこういったことを行う人だと思えるような映画だった。この『ハロウィン』はさすがにそこまでは到達していないが、それでもそんな監督としての作業にチャレンジする心意気は十分に感じた。


7月21日(金)
病院食が少し固形化してきた。主菜のネタが何であるかの表記もついてくる。だからといって胃が受け入れてくれるわけではない。
夜は『ブラック・パンサー2』。現代社会の混迷と混乱が寓話的に描かれるわけだが、そのことよりもここに登場するメキシコの洞窟が気になった。これは小田香さんの『セノーテ』ではないか! はっきりと固有名が示されているわけではないが、メキシコにはいくつもそのような洞窟があるのだろう。いずれにしても生と死が交錯しそれによって新たな何かをはぐくむ場所であることは確かである。この映画と『セノーテ』の2本だてはどうだろうか。絶対嵌まると思うのだが。
とか考えているうちに何やら具合が悪くなり、ほとんど眠れず耐えられない状況になる。
7月22日(土)
医師の判断により、食事を中止して再び点滴に戻ることに。いったん治まった炎症が、復活し始めている。その理由はあるので、それを修正していく処置。抗生剤の点滴治療が再度始まる。終日、なかなかつらい。映画もしばらく観られない。ほぼ寝たきり。眠いが眠れず。
7月23日(日)
点滴は続く。土曜日よりはましだがまだまだ気分は悪い。担当医師が休日出勤して、状態を診てくれる。朝の血液検査の結果は昨日より良くなっているから、このまま抗生剤治療を進めていけば大丈夫とのこと。いわゆる敗血症のようなところまでは至らずにすんだのか、そうなりかけのところで踏ん張っているのか。とにかくギリギリである。夕方以降、少しずつ体が楽になってきたことを実感する。胃腸も動き始めた。とはいえほぼ寝たきり。
7月24日(月)
だいぶ復活。起き上がる気力は出た。なるべく体を縦にしている時間を増やさないとということで、パソコンに向かい、仕事関係を。リハビリも始まっている。あとは腹が普通に減ってきて、ネット上のグルメサイトばかり見ていた。
7月25日(火)
少し元気になってくると、体の細部が気になり始める。これまではもっと大変な部分があったために隠れていた痛みとか痒みとか重苦しさとかしびれとか。本日はそれらが気になり気分はさっぱりしない。しかもそろそろ月末である。社長仕事も気になり、朝からもろもろの経費計算などをしていくわけだが、そんなものがストレスにならないわけがない。これも赤字あれも赤字、いったいどうしたらいいのか。まともに食事もできないベッドの上で数字だけを見るのはきつい。しかもエクスネのライヴにも行けてないし『PLASTIC』のパンフさえまだ手に取っていない。お楽しみはなく数字だけ。昼過ぎで、本日の社長仕事は放りだす。
午後はリハビリと昼寝。病院食は相変わらず少し固形化してきたものの壮絶にまずく、しかし文句は言えないのでひたすら我慢。ということで夜はさすがに少し気晴らしがしたくて映画をと思ったのだが、いったい何を観ていいのかわからない。どうでもいい軽い映画というお望みではあるがこれが難しい。具体的には『ギャラクシー・クエスト』みたいな映画、ということなのであるがそう簡単にあんな映画が見つかるはずもない。ならば迷わず『ギャラクシー・クエスト』を観ればいいじゃないかという話なのだが、毎回それじゃ芸がなさすぎる。ということでこういう気分になった時はいつも迷った挙句失敗して残念でしたとなるのだが、今回は何となくレベッカ・ファーガソンを拝みたくなりでも『ミッション:インポッシブル』はもう観たしどうしたものかと思っていたら『MIB』に出演している、『メン・イン・ブラック インターナショナル』。
観ていくと途中から妙な既視感に襲われるが、最初に出た限りでまったく出てこなかったファーガソンは後半になってようやく登場。笑っちゃうような役どころでこれはこれでありがたいが、強そうであまり強くないのはなぜか。『ミッション:インポッシブル』の生身の人間の方がよほど強い。途中、3本目の腕が突然出てくるところは笑った。というくらいであまり見どころもないままクライマックスになったところで、これはやはり以前同じような思いのときに観ていた、ということを突然思い出す。ああ。すっかり忘れていた。監督のF・ゲイリー・グレイは『ストレイト・アウタ・コンプトン』もいいが、やはり『friday』みたいな小さな映画が好きだ。『ワイルド・スピード ICE BREAK』とか、目を瞑って手癖だけで撮ってるような映画だったし。『交渉人』だったかの、若者たちが家の屋根に上りぼんやりと無駄話をする時間の停滞が好きだったんだけど。
7月26日(水)
点滴のおかげでなかなか夜眠れない。食事が始まったとはいえ、主な栄養と水分は点滴から補給されているのだが、つまり水分は常に補給中。ということで大体2時間おきくらいに尿意を催すのである。夜中も同様。したがって、1時間30分寝て目覚めてトイレに行き、また1時間30分寝て目覚めてトイレに行き、大体そこで眠れなくなる。あとはぐだぐださっぱりしない。というわけで、ぼんやりしながら1日が終わる。食事はだいぶ人間らしくなった。それだけが救いである。
7月27日(木)
食事が徐々に人間らしくなってきた。もちろん病院食なのでうまいまずいはもう気にしないとして、とりあえず固形物が食えるようになったことに感謝しながら食すわけだが、いやそれでももうちょっと何とかならないか。もちろんこれはこちらの体調の問題もあるわけだし、多くの病人を抱える病院でひとりひとりの病状に合わせしかも味にまで気を遣うことは無理な話なのだが。それでもこのままでは食べること自体がストレスになり、退院した際には食欲自体が失せているのではないかとちょっと心配になる。点滴もほぼ取れた。これまでは24時間ずっと、多い時には3本同時にしていたのだが、本日から1日4回の抗生剤の点滴のみ。ついにライン接続からフリーになった。あとは左わき腹に刺さっている、患部に通じる管が抜ければ一時的な人工肛門以外は元通りとなるわけだ。体の方はまだいろんなことに追いついていかない。固形物の摂取にも戸惑っているのか、胃腸の痛みが復活した。点滴が取れてもまだ何かと接続している感触が残り、動きは微妙に慎重になったままだ。無意識に動けるようになるまでにあとどれくらいかかるだろう。
夜は見逃していた『NOPE』を観た。面白く観たのだが、主人公たちの職業が馬の調教師という設定がただただあの場所を周囲の世界から切り離された場所にするためだけにしか活かされていないのがどうにも気になった。つまり彼らの労働のシーンが全然ないのである。マーベルなどのコミックスが次々に映画化されるようになって以降、ハリウッドメジャーはもう、人々の暮らしを描くようなことをしなくなってしまった。彼らの暮らし、歴史、風土がまずそこにあり、そこに異物がやってくる。そんな物語ではまったくなかった。ただもちろんそれは意図的なものだろう。冒頭でまず父親が死ぬ。それがすべてを現している。彼らが抱えてきた歴史の死。その後の物語として作られていることは確かなのだが。終盤、異物が暴れだしてからの主人公たちとの戦いはハラハラはするがちょっとしょぼかった。あらかじめ決められた解決の仕方しかしてないというか。異物的なルール破りも、あるいは主人公たちが異物になってのルール破りも、どちらもなかった。
7月28日(金)
手術後、排尿の具合がどうも思わしくなく担当医に相談して泌尿器科の診断を受ける。しかし数値的にもレントゲンの画像からもまったく問題なし。手術の影響で器官が過敏になっているのだろうというような診断で、このところのいくつかの個所の具合の悪さも大体そんな感じ。メニエルもそうなのだが、自分の感じる具合の悪さと実際の医学的な数値の落差が大きく何とも居心地が悪い。東洋医学的な体全体のバランスや気や血流の流れなどで健康を管理していくしかないのだろうか。リハビリでは階段の上り下り。術後はずっとベッドの上か同じフロアでの移動だったから、階段は2週間ぶり。2階分を上り下りするだけで息が切れた。夜、結局またもや観てしまった『フライト』の前半にも病院の階段シーンがあって、主人公がタバコを吸いに扉の向こうの裏階段(?)にこっそりと行くのだが、そこにはすでに同様なダメ人間がいてタバコを吸っている。そこにもうひとり、階下からタバコを吸いにやってきた人間も加わって会話が進む。この狭い空間、小さな人間関係、それぞれの年齢や立場の違い、そして人物の絶妙な配置が、一方でこの映画のすべてを現しているようにも見え泣けてきた。誰もがそんな場所を抱えている。それを「裏」として隠し通すのか、あるいはそれとともに生きようとするのか。その狭い階段のシーンのような風景を、映画の中で見ることはなかなかできなくなった。日本映画でも十分やれるはずなのだが。


7月29日(土)
本来ならYCAMの台湾特集で侯孝賢についてトークをしている日。6月の時点でキャンセルの連絡を入れていたのだが、それでもその時点では、少なくとも今頃は退院している予定だった。オンラインだとできるかなあとか思いつつ、とはいえ無理は禁物ということで断りを入れたのだが、まさか未だに病院のベッドの上とは。手術前がそれなりに辛かったこともあり、手術さえすればとりあえずは楽になると、楽観的に考えていたのが間違いだった。同年齢やさらに高齢者の方たちはいったいこういった術後の辛さをどうやって乗り切っているのだろうか。たまたま私の術後の経過が良くなかったということもあるが、それでもやはり大変である。佐野史郎さんのインタビューを読んだら、佐野さんも術後に敗血症になって大変だったと話していた。わたしのはその一歩手前でこの状態だから、本気で敗血症になってしまった佐野さんは本当に大変だったと思う。この状況になってみてようやく具体的な辛さがわかる。
そんなこともあり、術後にもろもろやり取りした仕事関係の作業が、どれも上の空だったということが判明、ショックを受ける。全然ちゃんとしてなかった。今となっては別人が確認、チェックしていたのではないかと思われる、そんな具合。仕事はやっちゃいけなかったと、今更反省。術後はゆっくり生きるとか口では言いつつ、しっかり焦っていた。
夜は『アルマゲドン・タイム』。タイトルから想像つかなかったのがなんとも悔しいが、クラッシュの同名曲がこんなふうに使われるとは! 80年代前半、サッチャーとレーガンの時代。世界は未来のない未来へと突入し、その荒廃と混乱の中でそれまで抑えられていた多様性が花開き、しかし一方でそれを仕切る「父親の強さ」が求められてもいた。そんな時代の物語。祖父母がウクライナからの移民であるユダヤ人一家が舞台となるのだが、その小さな家庭の中の出来事だけで、アメリカの歴史とその時代の混乱に視界が広がる。その広がりはまさにこの映画を観ている今ここにもやってきて、それを観ている自分がその映画に観られているような、つまり、今ここでもその時代の混乱と荒廃と「強さ」への希求は終わっておらず、それに対してわれわれはいまどのように向き合っているか、「行動、戦い」という主人公の祖父の言葉とクラッシュの歌の内容とが呼応する。そしてその歌詞の攻撃性とそれを包むクラッシュの演奏の多様性と豊かさが、現在における戦い方の方向を指し示してくれているようにも思えた。
7月30日(日)
午前中にシャワーを浴びたり、人工肛門のパウチ交換の練習をしたりと退院後に向けての準備が始まった。来週中の退院というのが確定したようで、病院からも妻のところに連絡が行った。想定外に長引いたがようやく。で、具体的に退院が見えてくると、帰宅後いったい何が食えるのか食えないのか気になっていろいろ調べたところ、いわゆる腸活のための繊維質を多く含んだ食材はすべてNG。それに加え刺激物、甲殻類、油など。完全にダメということではなく、退院後1、2か月は控えめに、ということらしいのだが、それでもまだしばらくはカレーは食えないなとか、なぜかやたらと食いたくなっていたとんかつやアジフライもお預けだなとか、ちょっとしょんぼりしていたところに、病気先輩から、退院してすぐに焼き肉食いに行ったというメールが来て笑う。まあ、体調と気分次第なのか。
とはいえいったい何を食ったらいいのかということで、kindleの読み放題プランで大腸がんの退院後の食事レシピ本のいくつかを読んだ。要するに野菜の煮込みものを中心に(根野菜は避ける)、魚や肉を適当に組み合わせ、乳製品はお好きにどうぞ、ということのようだ。一般的には腸のために良くないと言われている「白い」穀類が、退院後しばらくの主役である。うなぎに関しては何も書いてないので、多分問題ないだろう。果物は柑橘類とパイナップルなどがNG。桃の季節は終わりかけだがぎりぎり間に合いそうである。というような具体的な(?)妄想で1日が終わる。朝食のときにさっと飲むことができるレトルトの無添加スープあれこれをお試し注文してみた。
夜は、『プライベート・ベンジャミン』。『アルマゲドン・タイム』を観た方はお分かりのように、主人公一家がみんなで観に行く映画である。ゴールディ・ホーンがめちゃくちゃかわいいのだが、この時すでに30代半ば。当時20代前半のわたしから見たら十分におばちゃんで、そこまで夢中にはなれなかった。今観たほうが俄然いい。しかし一家でこの映画をよく観に行ったなと思うような何でもありの映画だが、『アルマゲドン・タイム』の内容を考えると、まさにそのベースに流れているのがこれであることがわかる。甘やかされわがままに育った現場知らずの口先だけとも言える弱い人間が、軍隊や、そしてそれよりもさらにひどく主人公を抑圧してくる世間のシステムの中でそこに飲み込まれることなくなんとか自分で考え、自分の道を見つけ出していく。ダグラス・サークの映画にも似たそんなテーマを、主人公がバカみたいな大騒ぎを繰り広げながら賑やかに語る。ウェス・アンダーソンにもそんな血脈が流れているだろうか。まさかジェイムズ・グレイがこんな形でこのテーマを展開するとはと、背筋が伸びる。思い起こせば当時イギリスではスリッツやレインコーツがそれまでのポピュラーミュージックの慣習にとらわれない彼女たちなりのやり方で彼女たちの音楽を堂々と奏でていた。アメリカの音楽批評家デーヴ・マーシュが「これまでの女性ヴォーカルにあった母性や男たちが考える女性性から離れたまさに彼女そのものを堂々と前面に出した」(要約)と称したマドンナがデビューするのはその少し後のことである。10代前半のジェイムズ・グレイはまさにそんな空気をたっぷりと吸い込んで血肉に変えたのだろう。
7月31日(月)
朝から血液検査とCT撮影があり、未だに体内に残っていた検査用の管が抜かれた。これで体外とつながっているすべての付属物(人工肛門は除く)が取り除かれ、晴れて自由の身となったわけだ。水曜日に退院というスケジュールも出た。いやはやようやく、ということでうれしい限りなのだが、いざ退院が具体的になってくると、その後の生活が気になる。空調が管理された病棟内とは違う酷暑のことや、さまざまな食事制限(ほかの病気と比べてだいぶ緩いが)や再発防止対策などを考えると、もう元通りの暮らしや仕事はできないことだけが見えてくる。今抱えているイヴェント関係もすべてあっさり放り出したいくらいだ。何かもっと、自分と向き合って暮らしたいというか他人との関係の中であたふたするのはもうたくさん。しかしどうやって稼いだらいいのだ。心身ともに元気な状態でちょっとひと休みとはまったく違う状況なので、boidの運営自体を根底から変えないと生き残れない。
夜は『エンパイア・オブ・ライト』。なんとこれも『アルマゲドン・タイム』と同じ1980年から81年にかけての物語だった。1960年代後半生まれの監督たちが、自身の10代の記憶をさまざまな形で語り始めた、ということなのだろうか。あるいは、あのころから始まった何かが40年を経てもなお世界に影響を与え続け、その結果としての現在から出発点を振り返ることで今ここを変えようとしているのだろうか。しかしあの頃に始まった何かとは何か?
こちらはイギリスのロンドンから近いビーチリゾート地マーゲイトが舞台。映画館で働く人々が主人公になるのだが、現在のシネコンのようなシステマティックに整理された運営ではなく、限りなく家族経営に近い運営で、極端に言えば疑似家族のホームドラマとも言えるような構成。そこに当時のイギリスのさまざまな社会的な動きが流れ込んでくる。移民と人種差別、新しい音楽、新しい映画、サッチャーによるマッチョな社会の再建……。映画館はその後、シネコンによる中央管理システムによる運営に変わっていく。上映形態もフィルムからデジタルに変わり、こちらもまた、権利元による中央管理が進む。規律や訓練から逃れた場所で新たに生まれたパンク/ニューウェイヴのムーヴメントは、それ故にそれらを統御、排除するための新たな「規律・訓練」を生み出しわれわれはその一見ソフトな「規律・訓練」の社会の中にいる。たとえばこの映画の主人公のヒラリーはそんな「規律・訓練」社会の圧倒的な被害者であり、『プライベート・ベンジャミン』の主人公のような抜け道を見つけることができずまともにそれを受け止められさせてしまってきたわけだが、ラストシーンでようやくその閉じ込められた自分を解放する。この時彼女が、ベンジャミンと同じスタートラインに立ったのかどうか。まだ十分に弱すぎる気がしてならない。



