- 2023年07月15日
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江藤淳/江頭淳夫の闘争 第9回
風元正さんによる不定期連載「江藤淳/江頭淳夫の闘争」第9回目更新です。発売中のKindle版江藤淳全集 第8巻『自由と禁忌』論です 。文学作品への違和感から出発して占領期検閲研究を進めた江藤淳は、三島由紀夫、大江健三郎、丸谷才一、中上健次、小島信夫を通じて、日本は「閉された言語空間」の中にあると喝破しました。その思考過程を解き明かします。
「閉された言語空間」で「生き埋め」にされる
文・写真=風元正
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三島由紀夫の死後、舟橋聖一、永井龍男、中里恒子の三氏の短篇に触発され、江藤淳は日本の小説について、あまりに率直な感慨をもらしている。
「いったい〝語り口〟と、描写と、抒情とのほかに、小説になにができるのだろう、という思いにとらわれざるを得ない。もちろん〝思想〟とか〝現代〟とかいうものがある、という説のあることは承知している。しかし〝思想〟もまた、少なくとも日本人にとっては抒情の一種であり、〝現代〟もうまく描写され、語られなければ、只の石鹸箱の意匠のようなものにとどまるのではないか。
私は、だから小説というものは下らない、といっているのではない。〝語り口〟と描写と抒情で決まってしまう日本の小説というものの重味を、もう少し真正面から受けとめてみたらどうだろうか、というだけである。この限界は容易に超えられない。」(「文芸時評」1971・11)
世界文学の理想を日本でも共有しようとした「奴隷の思想を排す」からの後退なのか、前進なのか。江藤にとって重要だったのは、むしろ、文芸雑誌が「〝語り口〟と描写と抒情」を描く技術を鍛える余裕を失ったことである。日比谷高校の同級生だった柏原兵三が「ベルリン漂白」でようやく開花したことを喜んですぐ、「平均二百三十という高血圧をおして、月産二百六十枚という純文学作家としては異例に多い枚数を書き続けて」(「文芸時評」1972・3)亡くなる悲劇が、江藤の世代にとっての「戦後」だった。
「一中の体育館の屋根は直撃弾を受けて凹んだまま雨水を溜めていたし、教室の壁は焼けただれていた。講堂の壁はケロイド状に変質し、緑はこのあたりにきわめて稀(まれ)であった」という風景を共有する柏原は、「なんにもないから、私たちはものの手ざわりをたしかめることができなかった。少なくもその手段を一瞬のうちに奪われていた。ものがなければのこるのは精神だけであり、私たちは慣性の法則によって精神的になることはいと易いことと感じていた。ただ戦時中とこのときとのちがいは、私たちが変わらなければならないと教えられ、かついくらでも変わり得ると信じようとしたことである。魔はこのときにとり憑(つ)いた。そして柏原の心に巣喰い、私の心の底のどこかにも巣喰っている」(同前)という「魔」により死に向かう。柏原と自分を「かくも貧しい者ども」という絶望を抱えた江藤が、文学より国家と政治の近代化に向かう強い衝動を持つのも必然である。
「戦後」という呼称はあまりに長く続きすぎた。私は仮に、昭和天皇・皇后両陛下が訪米した1975年をもって「戦後」は終わり、「戦間期」のような別の時期区分を使うべきだと考えている。改憲は現実的ではなくなり、日米安保体制は前提であり、日中は国交正常化して沖縄が返還され、勝者である連合軍側との「戦後処理」は終結し、枠組みとして固定された。アメリカのディズニーランドで昭和天皇と香淳皇后がミッキーマウスと写真を撮った瞬間が、象徴的な終わりではないか。
江藤は72年6月の日米関係民間会議に出席し、「終わり」の前兆を敏感に捉え、時評にも記している。
「この会議が〝日米関係〟屋の〝サロン〟だったからでは決してない。三年前には、同じような舞台装置の上で、似たようなメンバーによって、いくつもの忘れがたい応酬がかわされた。多分われわれは、もうお互いに、口角泡をとばして論じ合うほど親しくはないのである。そして、そのことを、どの参加者も本能的に察知していたということのほうが、はるかに重要なのである。
たとえば、それは、別れることに決めた夫婦が、お互いに優しくなりあって、口数少なくテレビを眺めている、というような状態なのかも知れない。」(文芸時評1972・7)
「別れることに決めた夫婦」という形容は江藤らしいが、敗戦直後のごとく、もう日米間で「ひとつの夢」を持つことはないことが自明となる節目を経て75年に至る。
昭和天皇は75年10月31日の記者会見で戦争責任について問われ、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、良くわかりませんから、そういう問題についてはお答ができかねます」と答えている。天皇の「文学」についての認識が戦後の日本文学を奇妙な形で規定していることは見逃せない。戦争について、国家に具体的な責任を追及できる世代は、書き手として精神的に安定している。とりわけ「第三の新人」は、国家に対する戦争責任追及はほどほどに行使しつつ新憲法体制の繁栄を享受するという、生き延びた者の多数派の代表としてふるまう。
江藤の方は、安岡に「全日本帝国海軍を彼の双肩にしょっているがごとき」「幻影」を抱いていると指摘される通り、現実としては徴兵のような形で戦争と主体的に向き合うことを強いられてはおらず、だた「少国民教育」と「戦後民主主義教育」の両方を受けた過渡期の世代である。それゆえ、「自分探し」が必須となるその次の世代の不安定さも先取りしていた。
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1977年8月の文芸時評を、江藤は東南アジアの旅の記憶から書き始めている。その10年前、マニラ空港に寄稿し、「南十字星という星を見て、異様な戦慄を覚えた」のち、次のような体験をする。
「同じ旅の帰途には、飛行機が珊瑚海の上空を飛んだ。よく晴れた日で、私は飛行機の窓に顔を押しつけて美しい紺青の海を眺めていた。すると、突然その海の底から、無数の泡のようなものが湧き上がって、私のほうに立ちのぼってくるような幻覚にとらわれた。それはもちろん、このあたりの海で死んだ日本人たちの魂にちがいなかった。」
江藤は東南アジアを「いつも死者たちが現存している場所」と呼び、「〝父母未生以前〟に対するちかしさ」を感じるという。「戦争の記憶すら公認の記憶と記憶してはいけない記憶があり、記憶の総体を回復する作業はまだどんな文学者にとっても着手されているとは思われない」と「死んだ日本人たちの魂」の導きによる認識を根拠にする点で、いわゆる「保守論客」とは一線を画している。しかし、強い現実の否認が伴うゆえに、少数派に甘んじるしかない。
三島由紀夫は死の直前に「英霊の声」を書いているが、むしろ同時期の短篇「荒野より」の方に素の心象風景が表れている。「梅雨時(つゆどき)の或る朝」、家族の制止にもかかわらず、戸を「芝居で、開門! 開門!と門扉を叩くときとそつくりな音で、ふり上げた拳の激越さが目に見えるやう」に叩いて面会を乞う男が訪れる。
「私はまつすぐに書斎に入らうとした。しかし戸口のところで立止つた。
分厚いカーテンに閉ざされた書斎の薄闇に、私の机のむこうの一角に、泛んでゐる人の顔を見たのである。
私は木刀のあり場所がわかつてゐたので、その顔を注視したまま、手さぐりで木刀を執つて、身構へた。すると心持が落着いた。
立つてゐるのは、痩せぎすの、薄色のジャンパーを着た、かなり背の高い青年である。灰色の光りのなかでこちらを見てゐるその青年の顔ほど、すさまじく蒼褪めた顔を私は見たことがない。」
この男は、「本当のことを話して下さい」と繰り返して「私」に詰め寄り、「三島さあん! 三島さあん!」と絶叫して警官に取り押さえられる。そして、「人のゐるべきではない私の書斎の、その梅雨時の薄い闇に、慄へながら立つてゐる一人の青年の、極度に蒼ざめた顔を見たときに、私は自分の影がそこに立つてゐるやうな気がしたのである」と感じ、「彼の狂気を育んだ彼の孤独を、私がそれと知らずに支えてゐることは多分疑いがない」という感慨に至る。
現実にあった事件かどうかは分からない。しかし、「本当のこと」とはいったい何なのだろうか? この青年が「幽霊」に見えるのは私だけではないだろう。書き手の「私」は「私の心の都会を取り囲んでいる広大な荒野」から来たと合理化しているものの、「狂人であつたことはない」という三島は最晩年、この世ならぬ存在と直面していた痕跡である。その何かは「憂国」や『豊饒の海』四部作にも影を落としている。
大江健三郎もまた、言語化できないもの、ジュリア・クリステヴァのいう〝アブジェクシオン〟に直面し続けている作家である。
「それから僕は自分が火葬に立ちあった友人を観照した。この夏の終わりに僕の友人は朱色の塗料で頭と顔にぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜(きゅうり)をさしこみ、縊死(いし)したのである。深夜までつづいたパーティから、病気の兎(うさぎ)のような衰弱ぶりで戻ってきたかれの妻が、夫の不思議な縊死体を発見した。なぜ、友人は妻と共にパーティに行かなかった? かれは妻をひとりだけパーティに行かせて書斎に残り、翻訳(それは僕と協同の翻訳の仕事である)をしているといった状態を、誰もあやしまないような型の人間であった。」(『万延元年のフットボール』)
処女作「死者の奢り」以来、大江は強迫観念のように作中に「死体」を繰り返し登場させており、その中でももっともおぞましい描写である。イメージの源が戦時中に起こった父の謎の死であることは暗黙の了解であるが、大江の場合は「死体」という形のあるものとして表現されている点で江藤、三島と異なる。そして、『万延元年のフットボール』で友人の「死体」は「サルダヒコ」という神話の登場人物と重なっていって、象徴化されたものの方にズレてゆく。
「戦後民主主義者」という立場を固守したり、「鷹四」や「蜜三郎」のような奇妙な名前を登場人物につけることよる相対化(=神話化)の手法を用いることによって、大江はギリギリのところで死の誘惑の行使に近づく危険域から逃れ続けていた。江藤はその手法を歴史の固有性を損なうとして批判し続けたわけで、お互い相容れないのは当然である。
一方、「本当のことを話して下さい」という「影(=幽霊)」の声に答えるしかないところまで追い詰められた三島は、『天人五衰』の結びの「何もない場所」まで到達して自裁に至る。三島の死をなんとか見て見ぬふりをしながら、江藤は戦死者の「遺言執行人」の立場を堅持しつつとして政治に関与し、国家へ意見する。江藤、三島、大江のような幻視者は、戦後に出発した文学者の中にはほかに見当たらない。
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さて、ここから私が江藤の最高傑作と信じる『自由と禁忌』(1984)を論じるつもりである。この本は基本、腫れ物に触るような扱いしかされていない。同時代文学をほぼ全否定している上、前提となっているのが「江藤淳隠し」(中上健次)の原因となった悪名高い占領期研究であるから、文壇的には自然な反応である。しかし、40年近く前に読んだ時から、『自由と禁忌』における江藤の議論の感触が、ずっとある真実味を持って私の胸中に残り続けてきた。
本稿はつまり、江藤がなぜ、顔見知りで高く評価したこともある作家まで激烈に批判したのか、その理由を考えるために書き始めた。そして、「文芸時評」を読むことにより、全否定への衝動は70年代初頭から蟠っており、その激情を社会的名士として行動、知識人として国家に意見することで抑制していた経緯が見えてきた。
『自由と禁忌』を論じる前に、まず、私が初読した頃の雰囲気を思い出しておきたい。
「蓮實(重彦) 江藤淳が素晴らしいと思うのは、彼がその時自分が読んではいけないような人の本ばかり選んで読むという才能があることです(笑)。エリクソンにしてもバフチンにしてもそうだし、いま読んではおかしいはずの言語学を読んでソシュールまでいく、そして中上健次にまでソシュールを適用するというようなことになるでしょう。江藤さんによれば中村光夫もよく間違えるんだそうだけれども、江藤氏自身も驚くべき間違える人なわけですね。その間違え方がぼくは決して嫌いじゃあない。ほとんど病理的な間違いをするんだから(中略)同世代の大江健三郎を擁護しようする意図そのものが間違いのような気がする。つまり、どこかにもっと好きな対象があるし、それにふさわしい語りかたの方を好んでいるはずだといったことを感じさせるところが、ぼくは好きなんです。彼の文体論が当時の文壇にある程度受け入れられたというのはそうした一連の間違いによっているのです。つまり新しかったけれども安心できたわけですよ」。
「季刊思潮」1990.NO7の蓮實重彦・三浦雅士・浅田彰・柄谷行人の座談会「昭和批評の諸問題1945―1965」の発言である。古証文いちいち引用してあげつらうつもりはまったくなく、ただ、座談会では蓮實に追随する浅田彰と三浦雅士の、近代批評の歴史を自分たちが総決算しているという自信に満ちた発言には驚かされる。もちろん、江藤の占領期研究については話題にも上らない。
次号のNO8での、竹田青嗣・笠井潔・絓秀実・島弘之の座談会「ロマン主義批判の帰趨」の、新左翼からの転向者である笠井の発言はホンネが出ていて面白い。
「笠井 ……去年からスタンスに重大な変化が生じてきた気もする。ぼくは長いことマルクス主義と刺し違えるのが、つまるところ自分の人生なんだろうと、他の面白そうなことすべてを断念していたところがある。観念批判と、言ってもいい。不毛な人生だと思うけど、そこにつき合いきるのが自分の倫理みたいに思っていた。でも、とにもかくにもマルクス主義の真理国家=収容所国家という人類史上最悪の災厄は、どうやら消えてなくなりつつある(略)荒正人じゃないけど、「第二の青春」だよ、まったく。」
もちろん、当時の笠井潔を決して嗤うことはできない。私も含め、つまるところわれわれは「冷戦構造の崩壊」をコジェーヴ/フランシス・フクヤマ的な「歴史の終焉」と捉えた上でEU的な「理性の勝利」を歓迎し、日本の繁栄も永遠に続くと無邪気に信じていた。座談会で絓の「今日は江藤淳の話が出なかった」という発言に対して一番若い島は「このあいだ『全文芸時評』を一行残らず読んだ。あれは、あの人の一番いい本じゃないかと思った。明らかに優れている。あれだけは材料がないとできません。もう空前絶後」と発言しており、冷静な判断が目立った。しかし、『〈感想〉というジャンル』という小林秀雄論で世に出た島は、すぐに批評の筆を折り早逝する。
いわゆる「批評の時代」のピークから30年以上経って、世界の混迷は予測を大きく裏切り、もはや「自由」や「民主主義」そのものが危機に瀕している。ひとり時代に背を向けて占領史研究に向かった江藤の行動は「間違い」だったのだろうか。
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江藤は78年で20年間続けた文芸時評を止めた。しかし、そもそも先に引用した77年8月を境に、同時代文学への関心はほとんど失っている。そして、時評の最後の年に本多秋五氏との「無条件降伏論争」が起こった。敗戦による降伏が無条件(本多)だったか有条件(江藤)だったかという論争を契機に、敗戦直後の新聞のコピイを読み込んで占領期研究に本格的に着手し、79年4月〜10月まで「諸君!」誌上に「忘れたことと忘れさせられた」ことを連載して、ウィルソン研究所のかねてからの招きに応じて渡米した。
「間もなく現れたパーネル氏は、私のカードを一瞥すると、ある一枚を取り上げてボールペンでマークし、
「この辺からはじめたらいいんじゃないかな」
といった。
見ると、それはRG(Record Group)番号三三一、〝ボックス〟番号八五六八という〝ボックス〟であった。どうしてこの辺からはじめるのがいいのか、もとより私はその理由がわかろうはずもない。とにかくここは文書係の言葉を信じるよりほかないと観念して、私はパーネル氏に、
「それではこの〝ボックス〟八五六八を持って来ていただけますか?」
とうかがいを立てた」。
1979年10月から80年6月までの9カ月間の江藤の占領期検閲研究を集大成した「閉された言語空間」の一節である。ドキュメンタリー風に「私」の行動が描写されている部分がハードボイルド小説に登場する私立探偵のようで、読むたびに可笑しくなる。実際、メリーランド大学附属マッケルディン図書館にある、日本占領中に米軍検閲支隊(CCD)の検閲を受けた、7万点近くの未整理資料が収められたゴードン・W・プランゲ(元GHQ戦史室勤務)文庫で、目的の資料を探し当てるためには「文書係」の力を借りるしかない。あくまで「私」の眼による認識として記すため、ノンフィクションとも学術論文ともつかない不可思議な文体が採用されている。
「〝ボックス〟八五六八」(「閉された言語空間」)の雑多な文書の中には、「マッカーサーの参謀第二部長チャールズ・A・ウイロビー少将が、参謀長エドワード・M・アーモンド少将に宛てた長文の覚書の草案」(同前)、いわゆる「ウィロビー覚書」などがあり、検閲がワシントンの統合参謀本部の命令に基づいて実施され、「合衆国検閲局」という政府機関の存在を知る。江藤は「昭和五十四年(一九七九)十月二十四日、私の検閲研究にとって、一転機を劃した日」(同前)というが、彼の地で誰も顧みることのない文書を読み込む批評家の姿は、さぞかし異様だったはずだ。
今、私たちは賀茂道子『GHQは日本人の戦争観を変えたか――「ウォー・ギルト」をめぐる攻防』などの新しい研究により、江藤がGHQ民間情報局(CIE)の「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)」(注/江藤表記)が実施されなかった段階をもって評価していた上で、その計画が本格的に実行に移されなかったことを知っている。にもかかわらず、「保守論壇」では「W・G・I・P」による日本人「洗脳」説が語られ続けてきた。
しかし、『終戦史録』『占領史録』などを含む膨大な資料に裏付けられた江藤の研究には「歴史修正主義」に結びつく要素はない。徐々に公開が進められていた新資料に裏打ちされた、日米関係の歴史をより正しい姿に近づけるための再検証だった。ポツダム宣言に立脚して、敗戦国でありながら国際法に則り主権を守りつつ、粘り強く交渉を続けてゆく日本側と、米大統領ルーズヴェルトが南北戦争の前例を踏まえて考案した、一切の交渉抜きで一方的に日本の管理を行おうとする「無条件降伏」方式を、「検閲」により主体を秘匿しつつ交渉を進める強権的なGHQ側のせめぎ合いには胸が熱くなる。
日米安保条約とセットの憲法第9条により交戦権を奪われたものの、軽武装・重経済の「吉田ドクトリン」で逆手に取った時期を、江藤は「三島由紀夫の自裁にはじまり、〝繁栄〟のなかに文学が荒廃して行った九年間」(「閉された言語空間」)とみる。そして、「私は、自分たちがそのなかで呼吸しているはずの言語空間が、奇妙に閉ざされ、かつ奇妙に拘束されているというもどかしさを、感じないわけにはいかなかった。」(同前)という直感に従ってアメリカまで乗り込んだのは、江藤が吉本隆明との対談で語った通り、あくまで「文学の問題」だった。それにしても、日米のどちら側からも歓迎されない上、厖大な労力と時間を必要とする研究に没頭するなど、普通では考えられない。
加藤典洋は江藤が論争の前に「無条件論争」という言葉を使っていたと指摘する。しかし、月々の文学作品を読むうちに「言語空間」の変質に気づいてゆき、その理由を探るうちに占領期の問題に辿り着いたのだから、むしろ、認識が変わっている方が自然である。私も文芸時評の評価に従って諸作品を読むうちに、作家が自己を確立した時期により、文体や発想に画然とした差があり、さきほど挙げた江藤・三島・大江のような過渡期的な書き手はいても、「戦前」と「戦後」の間には大きな溝が横たわっているのは疑えないと確信した。単純にいって、志賀直哉の世代のみならず、その弟子筋の尾崎一雄のような「声」を備えた文章を書ける作家は、戦後にはほぼ出現していない。
「作家たちは、虚構のなかでもう一つの虚構を作ることに専念していた。そう感じるたびに、私は自分たちを閉じ込め、拘束しているこの虚構の正体を、知りたいと思った」(同前)という〝江藤探偵〟が発見した「犯人」は、《日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した》という「一九四六年憲法の前文に描き出されている世界像は、CCD当局がつくり出したこの世界像と完全に一致」(「一九四六年憲法――その拘束」)していること。しかも、大日本帝国憲法と「一九四六年憲法」がありもしない「八月革命」によりシームレスに接続され、欺瞞に充ちた制定過程が明らかになっても、憲法前文の「虚構」が「不磨の大典」として君臨し続けていることであろう。
柄谷行人は、敗戦後の「検閲」が自明のことと受け入れられ、江藤が提起した問題にみなが無関心であることに「不審」を抱いている。そして、柳田国男の『氏神と氏子』への占領軍当局の検閲が川村二郎のいう通り「無知かつ愚鈍」だと同感した上で、「当の検閲官が自らのやっていることの意味を知らないというところにあり、この「無知」は「知的能力」とは関係がない」(「検閲と近代・日本・文学」)という。「戦後日本の「言語空間が閉ざされているとしても、その「外」に立っている者もやはり「内」へ閉ざされているのである」(同前)という柄谷の指摘は見逃せない。
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『自由と禁忌』は文芸時評を辞めて4年後、季刊雑誌「文藝」に連載が開始された。江藤は「日本に戻ってみると、緑の多い町から帰ってきたせいか、都心のマンション住いが急に嫌になり」(以下断りのない引用は『自由と禁忌』)、「借金して鎌倉西御門の、旧里見弴邸の裏手」に家を建てて引っ越した私事から書き起こした。江藤48歳。大久保、鎌倉、王子、練馬、吉祥寺、下目黒、麻布、アメリカ留学、仮住まいを経て市谷という転居を経て終の棲家に至ったわけだが、東京生まれの子のいない夫婦にしては目まぐるし過ぎる。私は江藤が「遺言執行人」を自任していると書いてきたが、内面にエネルギーを保ちながら持続できていたのかどうか、「生き埋め」前後の時期については疑わしい。無意識のうちに、子供の頃、結核の転地療養が成功した土地の力を借りようとしたのか。
連載は時評の形をとり、最初の章では取り上げたのは『裏声で歌へ君が代』(傍点江藤)だった。江藤の議論は、82年8月25日の発行日から1月弱で「朝日新聞」「読売新聞」「毎日新聞」「東京新聞」「日本経済新聞」「サンケイ新聞」で各紙に「好意的挨拶が掲載された新作小説」は、「ほとんど類例を思い起こすことができない」出来事から語られる。
9月19日付「朝日新聞」朝刊「第一面」(傍点江藤)に掲載された百目鬼恭三郎編集員の論説は「《作家丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』(新潮社)が、発行日一ヵ月足らずで十二万部出ているという。人気作家が十年かけて書き下ろした長篇小説のことだから、これくらい売れるのは何の不思議もないけれど、いまの文学状況にこれを置いてみると、思いのほか大きな意味をもっているようだ。……云々》」であり、タイトルは「小説の文化」だからまさに横光/平野理論の「純文学にして大衆小説」の具現でもあった。
『自由と禁忌』の論旨を辿りながら、2023年の出版業界の「模範」は、丸谷才一が『裏声で歌へ君が代』で実現した地点であることを迂闊にも再確認する。もちろん、読者を選ばぬリーダブルさと題材の広がりが求められるわけだが、12年の死後1年で刊行された全集の「とにかく面白く、知的冒険に満ちた小説。通説を排して尖鋭、古今東西縦横無尽の評論。常に日本の現代文学をリードし続けた丸谷才一氏の仕事」というコピーは実践されてはいた。
江藤の丸谷批判は、この一節に尽きる。
「『裏声で歌へ君が代』の世界を支えている言語空間が、今なお占領軍民間検閲支隊(Civil Censorship Detachment, CCD)が規定した三十項目の検閲指針の枠内に、ほとんどそっくりその儘収っている、という事実である(略)「今の日本」は、「偶然」に「何となくかうなつてしまつ」て、「ただ存在」しているのではない。一面からいえば、アメリカを代表する占領軍当局によってこのように「存在させられている」のであり、他の面からいえばだからすでに「存在していない」ともいえるのである」。
「閉された言語空間」の中での与えられた「自由」を露ほども疑わず、その優等生として作品を生み出す丸谷は、読者の抵抗を惹起する「他者」をひたすら排除し、常に代替可能の世界を演出してゆく。しかし、読者も「閉された言語空間」の住人であるならば、自分の使う言葉と同質という安心感を持つだろう。江藤にとってそれは「文学」でないとしても。
続いて論じられる小島信夫は、江藤が『抱擁家族』を絶賛した作家であり、野間賞を受賞した大作『別れる理由』はその続編にあたる。江藤は、《他人のは盗ってもさ、自分のは盗られたらいやだというのはエゴイズムだけどさ》という2篇を通した切実なモチーフが、「アメリカ」を象徴する間男の「ボッブの顔」が作中でいつの間にか忘れられて、「叙事詩の原型(アーケタイプ)を間断なく個人的な言葉(パロール)に変えるという奇妙な作業に耽読している」うちに、「この小説の読者が、文壇の内外を通じて、ほとんど一人もいなくなっていた、という事実」に逢着する過程を分析してゆく。
小島ほどの作家だから、稀に「宇宙の根源が人倫の大本につながる世界、作者と永造の言葉を取り巻いている社会的諸制度(アンステイテユーシオン・ソシアール)の底にひそむ渾沌から生じた、一つの限りない「悲しさ」」が出現する瞬間が何度か訪れる。しかし、「閉された言語空間」の制約を受け入れながら「他者」を描き「小説」を成立させようとする小島の努力は、空転せざるを得ない経過が執拗に明かされている。
大庭みな子の『寂兮寥兮(かたちもなく)』は、題名を『老子』の言葉から引用した小説である。江藤は大庭が「小説は、少なくとも分節化され、「名」をあたえられているところから出発しなければならないが、『老子』の世界ははじめからそれを拒否している」にもかかわらず、「登場人物に単なる「名」、つまり固有名詞をあたえるかわりに、『老子』的な「名」をあたえることができるという錯覚から出発」したと指摘する。
江藤は谷崎潤一郎の『鍵』が「時間と空間に制約された世界を描くところからはじめて」、「私の背後から、人倫の世界のパラダイムに政策されていたときにはついぞ見えなかった「我れ」の新の相貌を」を、「おびただしいエネルギー」を費やしながら描き留めたという。谷崎が「禁忌」を超えたのにたいして、大庭が「「道」の世界が、人倫の世界に垣間見るべきものとしてではなく、なによりもまず作品を拵え上げるための観念的鋳型として、用いられている」ため、「不可思議なエネルギーの欠如を脱却」することができない。
占領期研究だけでは浮かび上がってこない、同時代文学における「閉された言語空間」の実在を立証しようとする江藤の手さばきは見事で、ぜひ『自由と禁忌』を読んで頂きたい。あえて簡略化したが、議論をつなげるならば、丸谷は別として、作中でギリシア神話や『老子』の力を借りた小島や大庭は、山口昌男の文化人類学に接近した大江健三郎の手法と近接している。しかし、ノーベル賞受賞後の「後期の仕事(レイトワーク)」で初期の不穏さを取り戻した大江は「外部」との接点を常に裡に秘めている。作中で「神話」を構築することを試みた末、最終的に自分自身をその登場人物とした三島由紀夫と大江の生き方とは、大きな隔たりが生まれている。
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『千年の愉楽』は、『自由と禁忌』で唯一、高く評価されている小説である。
「裏山の雑木の繁みを風が渡り戸板に当って音を立てているのを耳にするとオリュウノオバはいつもこの狭い井戸のようにぬかるんだ路地に冬が来たと知り、路地に子を置いて新天地に出ていった者らの住みついたブェノスアイレスにも冬が来て路地と同じだというゲットウでも、風が葉を吹き散らし舞い上げ、一瞬の幻の黄金の鳥のように日に輝き眩ゆくきらめく葉を嬲るように飛ばしているのだろうと思うのだった。オリュウノオバは眼を閉じ、風の音に耳を傾けてさながら自分の耳が舞い上った葉のように風にのって遠くどこまでも果てしなく浮いたまま飛んでいくのだと思った。見るもの聴くもの、すべてがうれしかった。雑木の繁みの脇についた道をたどり木もれ陽の射す繁みを抜け切ると路地の山の端に出て、さらにそこをふわふわと霊魂のようになって木の幹がつややかに光ればなんだろうと触れ、草の葉がしなりかさかさと音が立てば廻り込んでみる。それはバッタがぴょんととび乗ったせいだと分かって、霊魂になっても悪戯者のオリュウノオバはひょいと手をのばしてバッタの触角をつかんでやる」。(「天人五衰」)
「「路地のただ一人の産婆」であり、この「路地」に生まれてくる子供たちを、一人のこらず取り上げている」オリュウノオバの語りによって成立した小説は、文字ではなく声によって記憶された物語である。「路地」は「道徳の彼岸の容認する声を含む場所」であり、「濃厚に宗教的な空間」であり、なおかつ「文字で書き記された歴史を否定しつづける、共時的なパラダイスの上に構成された空間」である。
本居宣長は、「「言伝え」、つまり声による分節化によって伝えられる日本の物語論とは、まず「ココロ」、あるいは「真心」によって語られるものでなければならない。いや、「語」られるというよりは、むしろ「謡」われるものではなければならない」といい、江藤は『千年の愉楽』が宣長のいう「言伝へ」の要件を充たしていることを指摘し、「根柢的な近代の否定、そして戦後の否定」と評価する。
読者ならば『千年の愉楽』は中上の諸作品の中でも、「閉された言語空間」の外側にある例外であることは衆知であろう。私が注目したいのは、むしろ中上論の部分の結びである。
「中上健次氏は、ロードのいわゆるcomposition during oral performanceを、オリュウノオバの沈黙の声を聴きつつ文字によっておこなった。それはいわば音楽の採譜に似ていると、私はいったが、この妙なる音楽が採譜され、楽譜に定着された瞬間に死ななければならぬ運命にあることもまた、指摘して置かなければならない。
「路地」の物語は、作者によって記録されることによって、死んだ。それは、現代小説が決して獲得することのできない言語空間を切り開いたが、文字に記録された口承文学は決して再び生き返ることはない。そして、それとともに、「路地」もまた消え去ったのである」。
この認識がいかに正確だったか、私は後に知ることになる。
「松根久雄 ……禮静(れいじょ)さんは、久松爺という、僕の祖父の弟なんや。松根禮吉言うて五男なんですわ。小説では礼如だが、路地では禮静、レイジョさんで通っていた。得度するまで、靴職人しとったんですけど、久松爺が禮静さんを使って靴を作らしていたんですが、若いときに。
禮静さんは、いわゆる毛坊主、お寺をもたない坊さんだった。路地を回って参ったわけね。月参り、たまには説教語りもした。レイジョさん、レイジョさん、言うて。しかし、几帳面な人で、緻密に日記書いたり、写真も得意でね。その頃の写真というでも、ほとんど誰もやっていなかった。健次は、禮静さんの日記どうしても手にいれたいと、必死になっとったが、見つからなかった。麗静さんは、子供に仏の道を教えるんでも、クラブでもって歌を作って、リズムをつけて歌で教える。子供に歌唄いながら教えた。おとなしい人でね、オリュウノオバというのは、はしかいというか、頭の良いね、路地の人の祥月命日など全部覚えていた(中略)健次と、オリュウノオバに話聴きにいった日、そのときに、帰りに石段があってね、降りながら、「オジよ、こりゃ、オリュウノオバのこと聴きやったらね、柳田国男もふっとぶぞ」って。「ふっとぶ」ということば言うたね。学問も何もないのに頭が凄く冴えとるし、いわゆる産婆をしたというのはフィクションですね」。
94年2月に発行された「熊野誌」第39号の松根久雄への聞き書き「中上健次との体験」(聞き手・構成 辻本雄一)の一節である。松根氏は新宮で靴屋を営む俳人であり、句会で中上と知り合って、『紀州――木の国・根の国物語』の取材にも同行し、78年に部落青年文化会が組織されて連続公開講義が始まり、その途中で当時85歳だったオリュウノオバも紹介した。松根氏が「絶対に語らないと言っていたその固い口を開いた」(辻本)唯一の記録である。
「聞き書き」を引き写しながら、松根氏の語りの口調そのものが中上健次の文体と重なってきた。つまり、中上の作品はガルシア・マルケスなどと同じく「話」の聞き書きを文学化したものであり、その手法を江藤はほぼ言い当てていた。ウィリアム・フォークナーを参照しつつ、「路地」を生きた「オリュウノオバ」の「声」を文学化できるのは、その消滅を目前にした中上健次の世代にのみ可能だった。もちろん、当時でも失われていたクレオールを蘇らせる仕事は苦痛と困難に充ちたものだったはずだが。
「日本が「路地」とともに消え去ったとき、再び作者(中上)の前には「仮の名」に充たされ、「真心を失」った現代の、とりわけ戦後日本の荒涼とした風景が広がったのであった」という江藤は、「路地の消滅」以後の中上の困惑も見通している。『紀州木の国根の国物語』や『熊野集』で「路地」を取材していると明かしているとはいえ、恐るべき文学的洞察力である。
『自由と禁忌』は、吉行淳之介が人工的な「禁忌」を〝甘美〟なものと錯覚することにより〝戦後民主主義者〟に伴う「制度」の中心に位置する人となり、安岡章太郎の『流離譚』が同じ幕末から明治維新にかけての時代を扱う島崎藤村の『夜明け前』と違って、「地理のない歴史」であることを指摘して結ばれる。吉行も安岡も、小説の語り手は自分自身と重なるけれども、江藤のいう写生文的なリアリズムからは遁走している。江藤にとって「第三の新人」は時代を読むリトマス試験紙のような作家だった。
そして、中上すら「日本」を失ったという虚無を前にして、同時代人が江藤の批評を黙殺し「生き埋め」にするのも当然の反応だろう。
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江藤の議論に従うならば、「閉された言語空間」が成立したのはすべてアメリカの占領政策が原因ということになる。GHQが事前検閲から事後検閲に変えたことによる「検閲の内面化」は、日本側も継続して似た情報統制を行うという形で引き継がれて、大きな影響を及ぼしている。しかし、賀茂も指摘する通り、戦中も「大本営発表」のような形での情報統制が行われていたのだから、むしろ、「検閲」は常態化していると考えた方がいい。
「閉された言語空間」は、江藤が70年代の始め頃からずっと感じていた文学作品への違和感の集大成である。そして、「制度化」してゆく文学に耐えられなくなって時評を止めて、アメリカでの資料の読み込みにより「占領政策」という元凶を見出した。もちろん、江藤のいう通り、「占領政策」が日本に大きな影響を及ぼしたのは間違いない。いわゆる「押し付け憲法」問題にしても、「八月革命」説の隠蔽・忘却や、はてしない解釈改憲などにより起源が錯綜し手がつけられないままで、改憲へのハードルは高くなるばかりである。「有事」になった際、いちいち現場指揮官が法律をクリアしながら対応しなければならない、という警察予備隊由来の厄介さは変わらず、安全保障は憲法の外にある「日米安保条約」頼みという状況は深刻さを増している。しかし、江藤が指摘する多く問題が、ほんとうにアメリカの占領だけによって引き起こされたのだろうか。いっそのこと、蓮實流に「素晴らしい」「間違い」と受け取っておいた方が生産的かもしれない。
「すでにfreeという語で見てきたように、異端の意味をかつて担っていた語が便宜上残された事例もないではないが、それはその語から望ましくない意味がきれいに排除された場合に限られる。Freeの他にも、「名誉honour」「正義justice」「道徳morality」「国際協調主義internationalism」「民主主義democracy」「学問science」「宗教religion」などといった語が数え切れないほどあっさり姿を消した。それらの代わりに少数の包括的な語が使われ、そのように使われることによって、そうした語を消し去ったのである。例えば、自由と平等といった概念を中心にしてそのまわりに位置していた語はすべて、「犯罪思考」というただ一語に包摂され、また、客観性や合理主義という概念を取り巻いていた語はすべて、「旧思考」という一語に包摂された。精密さの度が増すのは危険だったのである。」
(ジョージ・オーウェル『一九八四年』高橋和久訳)
1949年、オーウェルの最後の著作『一九八四年』の「附録 ニュースピークの諸原理」からの一節である。第3次世界大戦の後、独裁者「ビック・ブラザー」に支配された1984年の「オセアニア」公用語が「ニュースピーク」であり、その特徴は「閉された言語空間」で使われる言葉とぴったり重なる。オーウェルが『一九八四年』を書いた意図は、必ずしも「反共のプロパガンダ」ではない。
トマス・ピンチョンは解説で「オーウェルは自分が〝反体制左派〟の一員であると考えていた。これは基本的に英国労働党を意味する〝公式の左派〟とは一線を劃(かく)す立場である、彼は第二次世界大戦の始まるずっと以前から、労働党員の大部分が、すでにとは言わぬまでの潜在的には、ファシストであると看做(みな)すようになっていた。労働党とスターリン政権下の共産党との間に類似性が見出せることを多少とも意識していたのである」といっている。総力戦体制はファシスト的であり、各国とも戦時体制が残ったまま戦後へ移行した。イデオロギーの左右を問わず、総力戦体制を維持したまま、権力の維持を目的とすれば必然的に全体主義国家と似てしまう。
オーウェルは「〝二重思考〟(ダブルシンク)」を救いとした。しかし、「ヒューマニズムを基礎とした議論をほとんど無効にしてしまったのは、もちろんテクノロジーの進歩である」とピンチョンがいうとおり、〈ビックブラザー〉はAIに姿を変えてすでに世界を掌握しつつある。
ヒトラーやスターリンのような独裁者なしで、自由主義国家であっても、ソフトなファシズムは形成される。アウシュビッツやスターリン時代の収容所がなければ、倫理的に避難されることはない。三島由紀夫が死の直前に書いたよく引用される一文「このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」(「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」)という絶望と、文学が「声」を失って「「言葉」も「ふるさと」も、占領中夥しい外圧によって変質させられ」、「「やすらかに長( ケ)高く、のびらかなるすがた」(「自由と禁忌」)を示し得なくなっているという認識は、深い地点で響き合っていた。