江藤淳/江頭淳夫の闘争 第4回

風元正さんによる不定期連載「江藤淳/江頭淳夫の闘争」は現在Kindleにて発売中の江藤淳全集第9巻『日附のある文章』などの引用から、批評家としての江藤淳について、そして江藤淳から見た小林秀雄について書かれています。
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「批評の批評」という活路 



文=風元正


 
 
「生きている廃墟」に棲む「奴隷」たちの解放闘争を「若い日本の会」の精鋭たちとともに展開し、その軍師となる。当代の諸葛孔明を目指す壮図は、客観的に見れば第一歩を踏み出したくらいの地点で頓挫した。しかし、批評家「江藤淳」の躓きがどこまで深刻なものだったのか。「60年安保」闘争の列に加わった江頭敦夫は、いくつかの貴重な「学び」を得たようだった。
その痕跡は、とりわけ、当時の注文原稿を集めた『日附のある文章』の中に定着されている。「若手」として世に出ようともがく只中、素材になりそうなエピソードはどんどん公にしてしまったのだろうか。文壇で確乎たる地位を占めた後には明かすことの稀な、精神の深部にある「生地」が無防備に書かれていた。
ひとつ特徴的なのは、「恐しい」という表現が印象的に用いられていることだ。「巨大になりすぎた軍備をかかえた軍人ほど恐しいものはいない」(「”声なきもの”も起ちあがる」はまだ普通の警句風の使い方であるが、「自己の内部の独立を守ることは恐しいことである。だが、それをすてて「国民」や「大衆」や「天皇」についた知識人は、すでに自らの思想によって生きる人々ではない」(「虚像の復活について」)の「恐しい」になると、かなり恐怖の範囲が拡張されている。
高校時代、「フランス語初級教科書」に「子供が手をつないで、輪になって踊れば、世界中が踊りの輪でとりまかれる」というポール・フォールの詩が載っていて、世界中で「数かぎりもない子供たちがまわって踊っているような幻覚」にとりつかれて「恐しい」と戦慄するエピソードも出て来る。イメージを考えだした詩人を「いまいましい」と難癖までつけていて、江頭淳夫は豊かな想像力を駆使する「恐がり」であることが判明する。こんな過敏な性格では、革命家として街頭デモを繰り返す蛮行はまず無理だろう。
「恐しい」の感覚が全開されているのが、59年7月に東京新聞に寄稿された「スリラー時代」というエッセイである。当時問題になっていた「山岸会」について、講習会に出たまま帰って来ない人間のニュースに接し、「日本国中から、くしの歯をひくように農民たちが姿を消して行き、自発的に、喜々として、ある集団のなかにとけこんで行く。彼らは人間のかたちをしているが、実は鶏であって、この疫病のような徴候はやがて都会に及び、知識人の間にも蔓延し、銀座にも新宿にも人っ子一人いなくなる。(中略)もしこのとき、私がなお人間であろうとし、帰って来ない人々の後姿をいたずらに見送って踏み止っているとしたら、どれほど恐しいであろうか」というホラー映画のような幻想を抱いてしまう。
放恣な想像力を働かせた記述のすぐ後に、幼少時の精神的外傷が生々しく登場する。「あるとき、私は、突然なんの理由もなく、勤めに出ていった父が帰って来ないのではないかという強迫観念にとりつかれたことがあった。(中略)彼の後姿は、一切の人間関係を拒むものの唆厳な悪意にみたされてはいなかったか。その彼が、何の名においてふたたび帰って来るというのか。私は私の不安を共有しようとはしない家族たちに対して、心の中で憤激し、ひとりで焦立っていた」。家族の不意の崩壊に慄く少年。柔らかい肌を剥き出しにしたような「強迫観念」の中に、江頭淳夫という「存在」の根底にある「怯え」が鮮やかに描写されている。
江藤の盟友と呼ぶべき吉本隆明は、江頭淳夫をつき動かしているような実存的不安について、独自の考え方を示している。1996年の静岡の海岸での水難事故の後に刊行された『僕ならこう考える――こころを癒す5つのヒント』という人生相談本では、「一歳未満まで母親あるいは母親の代理の人がおっぱいをくれる期間に第一次的な性格はきまると思ってます。そこがうまくいってたら絶対にグレないというか、おかしくなるようなことはない」という談話筆記ならではのシンプルさで大胆な持論を披露している。
不幸な実例として、生後一週間で乳母に預けられた太宰治や、生まれて一週間で祖母に抱え込まれた三島由紀夫の「無意識が荒れている」作家を挙げて、「絶対生きていけない」と分析している。この理論は吉本自身の「どうもほかの兄弟とは違う」という自覚から出発していて、「乳胎児期のルーツが荒れていると了解できたときは自分では諦めることになるでしょう」という結論を出す。原因がわかれば「もうそれで直ったと同じ」というのは、吉本の実体験に基づく解決策ではないか。
吉本の理論を読みながら、嫁姑が強い緊張関係にある旧家に生まれ、4歳半で母と生き別れ、祖母に溺愛された江頭惇夫の生育歴をも思い起こしてしまう。江頭惇夫もまた、吉本と同じく「無意識が荒れている」というタイプではないか。最後に書いた「幼年時代」が、幼少時の強い精神的外傷を振り返る文章だったことが何よりの裏付けになる。
江藤淳は最強の論争家であるゆえ、しばしば好戦的な性格と捉えられがちである。しかしその心理が、外界の「他者」によって触発される「恐しさ」からの自己防衛だったとするならば、読み手の受け取りようもずいぶん変わる。江頭淳夫にとって、「60年安保」は理論的な限界を試すプロセスだっただけでなく、デモの群衆という「無定形な、物理的な運動法則以外規制するものを持たぬかたまり」に対する無力を思い知る時間でもあった。江頭淳夫はもう二度と、ペルソナである江藤淳を街頭に赴かせることはない。

 
もうひとつ、奇妙な熱をこめて書かれたエッセイ「日本は女性の論理が支配する」から推測できる性癖がある。この文章では、夏目漱石を引用しながら男女の関係の困難さを嘆いており、漱石の描写もリアルであるが、ここは江藤本人の文章を引いておこう。
「男と女はもともとわかりあえないようにできているからである。そしてわかりあえないことを苦にやむのはつねに男の側であり、わかりあえなくてもいっこう平然として落着きはらっているのは女の側である。漱石はここのところのかねあいを「恐れる男」と「恐れない女」といった。(中略)自分を理解させたさの一心で、千万語をついやしてカンカンガクガクの論陣をはったあげくのはてに、気がついてみると相手は話をはじめたときとすこしもかわらぬ姿勢でニヤニヤしている。要するに、相撲をとっていたつもりのところがひとりでトンボ返りに大汗をかいていたようなものである。この敗北感。この徒労感。この不条理! なんといってもいいが、その苦々しさはすべての男性が身にしみて痛感している。そしてそれはおそらくすべての女性に多少とも無縁の感覚である。」。
この辺の心理は、男性既婚者ならば頷く者も多かろう。そして、「不条理」に耐えるための小道具として「新聞」という「仮構」の「文明の利器」を持ち出し、「食卓をはさんでむかいあった新聞に読みふける夫とそれをさも口惜しげに見守る妻、という構図」を展開する。そして江藤によれば、「凄惨な夫婦のせめぎあいを書いた」漱石は、「新聞というかくれみの」を使わない「自分の論理が相手方に通用しないということをどうしてもみとめようとしない男」だという。
 しかし、「「愛」という神話の実在を信じていた」漱石の論理は当然のごとく日々挫折を重ね、「孤独」でしかないことを発見すると「かんしゃく、または肉体的暴力という非常手段にうったえる」以外にない心理にまで追いやられる。『行人』の主人公の「封建的な暴君」ぶりを引用しつつ、江藤は「「規範崇拝」と「現実密着」(=「論理の拒否」)という女性の論理の特徴は、そのままつとに丸山真男教授が指摘している「理論信仰」と「実感信仰」という日本人の精神構造の定式に対応する」と考え、日本は男性も「女性的論理」によって行動していると結ばれる。
このエッセイから、後年『成熟と喪失』がフェミニスト上野千鶴子によって発見される可能性を見出すことができる。と同時に、漱石の読みの迫真力からしても、実は江頭淳夫自身がすでに「新聞」という緩衝材だけでは足りず、「かんしゃく、または肉体的暴力という非常手段」に訴えていた疑いが濃くなる。江藤によれば、漱石は決して論理で女性を説得することを諦めず、教養を身に着けることによりいつかは解決する「女権の伸張の精神」を備えた作家だという。しかし、その評価規準が年月を経ても動かないものかどうか、かなり怪しい。
「スリラー時代」において現代は、「有機的な人間関係が崩れ、自他の間に何のルールもないといった今日のごとき乱世になると、お化けはむしろ無葛藤の幻影をあたえることによって人間たちに復讐しようとしている」と捉えられている。そして、山岸会の唱える「零位」が「「妣(はは)の国」という無葛藤の「原点」を夢見ている谷川雁氏やその賛美者橋川文三氏」と似ていると指摘し「葛藤」の価値を称揚している。しかし、江頭淳夫の思考の出発点は、「悪妻」に悩まされた漱石と同じく、若い夫婦が日常的に繰り返す諍いなのかもしれない
平野謙のような気分になってきたのでこの辺りで止めておく。しかし、江頭敦夫にとって、『作家は行動する』で展開された文体論からはじまる啓蒙的な活動の限界がはっきりしつつあった。金銭面も負担が多かったし、60年の夏には結核も再発していた。折れそうになる心を支えたのは、大岡昇平の勧めによる『小林秀雄』論の執筆であった。
 
 
大岡は59年2月、『夏目漱石』と『作家は行動する』を読んで感想の手紙を書き原稿依頼をしたのだが、その時点での江藤は次のような小林秀雄についての考えを公にしていた。
「奴隷の思想を排す」では「中村光夫氏が指摘するように、日本に十九世紀後半に於けるアリストテレス的文学観を紹介したのは坪内逍遥であつた。そしてこの文学観は以後半世紀の間、いささかの疑惑もさしはさまれることなく、といつてよいほど圧倒的に、日本の文学思想を支配して来たのである。それが最大の危機にさらされたのは、昭和初期のブロレタリア文学運動のおこつた時であろう。しかし、この時に新しく輸入された芸術至上主義観によつて、わが国の文学者は文学の自律性に対する確信をゆるがせずに済んだ。当時の功労者はいうまでもなく小林秀雄氏である」。この評論では「アリストテレス的文学観」の尖鋭な批判を展開し、小林を否定する論理になるわけだが、この部分を読む限りでは、むしろ評価しているようにも読める。
『作家は行動する』では、「私は小林秀雄氏の『Xへの手紙』をひいて、それが非行動派の論理であり、そこにあるのが不可知論者の姿勢だといった。2+2=4以外のいっさいの思想は文体の問題にすぎない。なぜ「すぎない」のか。おそらくそれは彼をとりかこんでいるもろもろの「ことば」のうちに「すぎない」からであろう。そして「ことば」に「すぎない」ことになれば、それは真偽の検証にたえず、まったく恣意的、かつ主観的な「実体」であり、美的な対象に「すぎない」ということになる。こういったときのもろもろの思想と小林氏との関係は凹型の、すりばち型の関係である。小林氏は「ありじごく」のようにすりばちの底にいて、沈黙がちに思想を喰い殺している。逆にいえば、この場合は彼は彼が「すぎない」と喝破した思想の過程――文体に参加することを峻列に拒否している。彼と思想――すべての思想とは言わない――との関係はスタティックであり、彼は自分のまわりの停滞した現実以外のものを信じない。」
「行動しない」小林秀雄の「負の文体」の構造を解き明かした部分である。『作家は行動する』は、作家は書くことによって行動し、それを支える「散文」を鍛え上げなければならない、という主張ゆえに小林は断罪されるのだが、ベースとなる江藤の小林理解の正確さには舌を巻く。精妙なレトリックと逆説によって構成される難解な小林秀雄の批評を簡潔に整理していて、その上で批判しているのだから、単純な否定ではない。
もともと、山川方夫が漱石論の方を選ばなければ、処女作は小林秀雄論となる可能性が高かった。そして、敗戦を期に知識人や民衆が新しい日本を求めた「60年安保」に同伴し、この国の変わらなさを骨の髄まで知った江藤にとって、モチーフとして再浮上した小林秀雄はかつてより以上に手強くて頼もしい存在に見えただろう。
文学傾向の類似から、江藤が57年の状況を33年の「集団転向」後の「文芸復興期」との相似を指摘したのは前述の通りである。全集の解説で中村光夫は、「明治三年の日本はまだ封建制度の行われている国であり、太陰暦を採用し、蒸気といえば船のことでした。それが五年になると、中央集権の、太陽暦を使い、汽車を実用化した国に、形の上では生れかわります」という近代日本の変転の激しさを前提にした上で、小林が登場した1929年を「特別な年」と規定した。
「様々なる意匠」の分類に従えば、当時全盛だった「マルクス主義文学」、「芸術派」(象徴主義)、「写実主義」(自然主義文学)、「新感覚派」、「大衆文藝」などの諸派が鼎立して覇を競っていた。明治維新の勝ち組から負け組まで、作家のたちの階級、世代も多岐にわたり、出身地ごとに言葉や文化、生活習慣がまるで違っていて、女性作家も多かった。小林秀雄は今でもよく読まれているが、翻訳については、江藤の弟子のポール・アンドラの英訳のほかは刊行されていないのは、多様性の坩堝だった当時の日本の状況を熟知しない限り、文章の意味を理解するのは至難の業だからではないか。
その中で、中村のいうように小林は「文壇の一流派のための「意匠」ではなく、それらの根底にある存在形態の探究」を目指したわけだが、これだけ種々雑多な文芸思潮がデパートの陳列棚のように展開される状況は世界史的にも稀だった。そして、新聞・雑誌・出版の発展とともに市場も拡大している上に、古典文学・国学・和歌・俳句・漢文・歌舞伎・能などの伝統文化の層も分厚く、まさに「様々なる意匠」が生きた人間の姿をして闊歩していたのである。都市には「故郷を失った」無産階級の群衆が溢れていた。
江藤が批評家の看板を掲げた時期も、敗戦を経た後でも、小林が直面した多様性の坩堝を担う書き手たちのかなりの部分は温存されており、その上で同世代を含めた戦後派が続々登場していた。たとえ「60年安保闘争」が不首尾に終わっても、まだ「様々なる意匠」が引き続き再演されてゆくと見込んだのも無理はない。

後世から歴史を振り返る議論として、小林秀雄が文壇のヘゲモニーを確立した時期と同時並行して成立した「総動員体制」がそのまま戦後システムに移行している、という近年の有力な史観は、「停滞」という江藤の文学的直感による帰結の広がりを示している。岡崎哲二・岡野正寛の研究グループによれば、経済においては「限られた資源を戦争のために総動員しようとする「総動員体制」のために、企画院が作った「物資動員計画」などによる計画的な資源配分を、企業を実行機関として統制的に実現するために人為的に作られたシステムこそが、現代日本の経済システムの原型である」(『現代日本経済システムの源流』「まえがき」岡崎哲二・奥野[藤原]正寛)だという。また、元大蔵官僚の野口悠紀雄は、官僚だった経験から各省庁が戦時中と同じ人事構成のまま存続してきたことを明かし、「戦時経済システム」からの脱却を訴え続けている。
山之内靖は、「総力戦体制は、社会的紛争や社会的排除(=近代身分制)の諸モーメントを除去し、社会に内在する紛争や葛藤を強く意識しつつ、こうして対立・排除の諸モーメントを社会制度内に積極的に組み入れること、そうした改革によってこれらのモーメントを社会的統合的に貢献する機能の担い手へと位置づけなおすこと、このことを総力戦体制は必須要件としたのである(中略)第二次大戦後の諸国民社会は、総力戦体制が促した社会の機能主義的な再編成という新たな軌道についてはそれを採択し続けたのであり、この軌道の上で生活世界を復元したのである」(「方法的序論」山之内靖『総力戦と現代化』所収)と指摘している。
江藤は、満州国国務院で辣腕をふるった岸信介や戦中の主税局長・池田勇人などが推進する日本政治の体制に、戦前からの連続を察知していたのだろうか。当時の江藤がさかんに危惧していたファシズムの到来も、「総力戦体制」は常にカール・シュミット的「例外状況」に転じる可能性を孕むと考えれば予測として正確である。実際、日本では95年の地下鉄サリン事件から、世界は2001年の同時多発テロから、すでに「例外状況」に入っている。

 *

『小林秀雄』にはいくつかの目覚ましい論点がある。そのひとつは、青年期の修羅から読み抜いた小林の青い「主調音」である「自殺の論理」の発見である。富永太郎との交流と、中原中也・長谷川泰子との「奇怪な三角関係」は、かつての文学青年ならば必ず胸をときめかせた物語だ。江藤探偵の推理は鋭利であり、いったんは恋の勝利者となった小林が、泰子の「神経衰弱」に手を焼いて転居を繰り返す心理を分析してゆく。
江藤は、対話の成立しない泰子と暮らすうちに、小林の「愛」は実生活を保とうとする「意志」に変質して、他者が消え失せたという。そして、小林は「人間は陶酔を、如何なる形式の陶酔をも、一転して自殺の論理と変ずる事が出来るのだ。人の為に働くか、或いは自殺するか」という地点にまで追い込まれてしまう。「人の為に働く」のは「白樺派」であり、「小林が裏返された「白樺派」であることは明らか」という読みに至る。
そして、小林は奈良に転居し、1927年夏、小笠原諸島で自殺を試みる。
「僕はあさって南崎の絶壁から海に飛び込むことに決つてゐる。決つてゐるのだ。僕にはあさつてまでの事件が一つ一つ明瞭に目に浮かぶ。太平洋の紺碧の海水が脳髄に滲透していつたら如何なに気持はいいだらう。

僕はまだ死なないでゐる。何故かといふと死ぬと決つた日には曇つてゐたのだ。僕は晴れた美しい空を目に浮べてゐた。処が目をさますと曇つてゐたのだ。それで何もかもがめちやめちやになつた。又僕はやり直す事にする。
ではさよなら。永久にさよならだ。」(『小林秀雄』)
大岡昇平から提供された資料の一節である。これらの小笠原で書かれた遺書体の断片群を読むたび、月並みだが、ジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』の、ランボーの詩を引用したラストシーンを思い出す。ちなみにゴダールは江藤の2つ上、ほぼ同世代である。 そして、小林は自殺することなく帰還し、その過程を経て内面に「死」を所有して「批評家」として立つ。江藤の読みをずいぶん単純化してしまったが、微に入り細を穿つような洞察から、どうしても江藤自身の死に方や、平山周吉氏が明かした高校時代の自殺未遂が重なる。
そして、「小林秀雄の個性」が自己検証の果てに「神」ではなく「自然」のイメイジを発見したということは、「おそらく彼一個の問題を越えて、日本の近代全体に関係している」という江藤の読解は、深い洞察を含んでいる。さきほど私は、江藤と吉本隆明を「無意識が荒れている」という点で共通していると述べた。この類別法に従えば、小林秀雄は「無意識が荒れていない」資質なのである。
小林は、象徴主義的「自意識」の不快、シェストフ的不安、ニーチェからシュペングラー『西欧の没落』に至る反近代主義、ドストエフスキーの「神」と懐疑、マルクス主義、心理主義などなど、19世紀末から20世紀初頭の「病」を、ワクチンを打つようにして罹患してみて、なおかつ「自殺」寸前まで追い込まれたとしても、「自然」(=「母」)へ還ることができる健康な精神を備えていた。それゆえ、「様々なる意匠」をすべて文章の上で再演することができた。「自殺の論理」がその再演を可能にしたのは江藤の指摘する通りだが、小林自身は常に自殺衝動に駆られているわけではない。
吉本隆明が清岡卓行との対談で、小林の批評について「入り口があってずうっと歩んでて、ある里程を歩み切って、さてここで出てきたと、そういう感じってのは、ぼくはしないわけです。つまり、四十枚書いたって五十枚書いたって、千枚書いたってこのスタイルおんなじだよ」(「小林秀雄の現在」)と評した。でも、「このスタイル」で押し通せるエゴイズムこそが小林の個性である。「無意識が荒れている」江藤と吉本は、歪んだ生育環境による「病」から否応なく「自殺の論理」を所有し、そこから他者の「病」を読む解くスタイルしかとれず、感受性の触覚はいつも繊細に震えている。
ただし、「無意識が荒れている」側から気づくことは、「健康」側からは見えない場合が多い。青春時代、前者側の代表である富永太郎と中原中也と深い関係を結んだのは、心健やかな小林にとっては不可解な詩人たちの「病者の光学」がどういう仕組みから生じるのかとことん突き詰めよう、という好奇心も働いていたはずだ。身体を悪くしていた富永はともかく、小林はなぜ中原がわざわざ自壊しようとするのか、その衝動が容易に呑み込めなかったはずだ。そして、長谷川泰子と同居しその狂気と正対した後に遁走するプロセスを経て、ようやく小林の「自殺の論理」は完成する。
小林にない江藤の美質といえば、たとえば20年以上、玉石混交の同時代文学を厳しく読みこむ「文芸時評」を続けるだけの執拗さを備えていたことであり、これは「情況からの発言」を書き続けた吉本の姿勢と重なる。早々に同時代文学への関心をほぼ失ってしまった小林と正反対の行き方は、病者が常に自分の健康状態を点検しているような細心さと重なる。私は、糖尿病なのに家人に隠れてカロリーの高い食事をしてしまう吉本の姿に共感してしまう。ちなみに、私もまた「無意識が荒れている」側に属する。

 
「自殺の論理」という胸底に秘めていた出発点を共有した後、江藤の議論は「批評家」小林秀雄の徹底的な擁護に向かう。違う資質であることを知悉した上で、小林ならば決して書かない「弁明」を本人になりかわって懇切丁寧に展開することにより、自ら陥った窮地を一気に逆転しようとしている。快刀乱麻を断つ議論の鋭さは他に追随を許さない。
平野謙の、『私小説論』は中村光夫のプロレタリア文学史論と「強力な相互浸透」の関係にあるという推論や、本田秋五が「文学界」同人の活動を「人民戦線」の可能性と見る議論を、「文壇の勢力交替といったような政治的見地から眺められすぎている」と斥けて、小林は「政治が「良心」(conscience)の問題であってそれ以外ではない」と見ていたという。徳永直のような両親定な転向文学者もまた、ただ「プロレタリアート解放」という「よりよい未来」を待ち望んでいるだけの「破戒僧」と断じ、マルクス主義もまた「自意識」の問題というラインを実証的に引き直す。
「文学界」同人への勧誘を断られた上、『閏二月二十九日』という小林の本質的な矛盾を突いた批判をおこなった中野重治については、「夜明け前のさよなら」という詩の「僕は君らにさよならをいふ/花を咲かせるために」という二行が、「四畳半」の「コードに吊るされたおしめ」「煤けた裸の電球」「セルロイドのおもちや」「貸布団」「蚤」のような日常から訣別し、革命という未来の「花」に向かう実践を小林と同じく「死への情熱」で支えていると看破し、似た資質の「親玉」同士2人が同じグループの中では相容れないことを暗示する。
小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』とE・H・カアの『ドストエフスキイ』の類似を指摘する評者(主に「近代文学」派)に対して、カアの評伝を原語で参照してぐうの音も出ないほどやっつける。私自身、たとえ史料は借りているとしても、両者の描くドストエフスキイ像があまりに違うのに戸惑った記憶があるが、江藤は両者を読み抜いた上で「小林秀雄はドストエフスキイを私小説風に読み過ぎているなどという批難は、些末なことになるであろう」という力強い断定に至る。
正宗白鳥との「思想と実生活」論争に関連する解釈は、後に小林とともに、白鳥先生の奥深さに若輩者は気づきませんでした、と反省することになる。しかし、小林が菊池寛に見た「夢」は、「実生活」について「白樺派」派的なものを発展させたもの、という見解は、すでに丸山眞男的な近代主義を逸脱している。マルクス主義を含めた近代的な理念・理想ではなく処世の達人を重視する小林に寄りそうという視点からも、江藤は初期の立ち位置から完全に移動しており、のちに勝海舟を評価する論点まで用意されている。
もっとも厄介な戦時中については、まず小林が中国戦線へ旅をし、ただ「光る眼」で「物」を見て、しかるのちに「旅行記に飽きた」ことを看取し、当時の時評の論旨を圧縮する。
「彼(=小林)にはただ、「歴史」が奇怪な「物の動き」であり、眼前におおいかぶさって「精神の網の目」を破る巨浪であることが見えていた。「拙劣な技術」によって遂行される厳重な「統制」はこの巨浪の飛沫である。「現在」に立ったとき、「戦争」はこのようなものでしかあり得なかった。「未来」は――彼の肩越しに感じられる「未来」は闇であって、すでに「歴史の隠密な緩慢な普段の変化から、努めてその糧を得」る余裕などはのこされていなかった。だが、果たして小林の目だけに「歴史」はこう見えるのだろうか。われわれの眼も、もしそれが「光って」いさえすれば、あらゆる「現在」においてこのような光景を見るのではないか。
疑いのないことは、このように「未来」を感じ、このような「現在」に立った人間が生きるのは、信念によって以外にはないということである。」(同前)
引用が長くなったが、小林の凝った名文を鑑賞するよりは江藤の文章を辿った方が数等倍わかりやすい。「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。(中略)僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」という「コメディリテレール」でのあまりに有名なタンカが、「自殺の論理」から一貫した思考である、と論証した模範解答だろう。
江藤は60年前後に「戦争責任論」を声高に叫ぶ「戦後派」に対して、「「内面」を持たぬ人間に、「内面」を――「良心」を対立させることはできない。しかし、そのことはやはり私に「責任」がないということを意味しはしない。なぜなら自らの内面の持続のなかにしか思想というものはなく、このことは当然自分の内面への誠実さを要求するから。このようなとき、そのことを自覚してしまった者に、だまってその辛さに耐えるほかのなにができるだろう」(「一九五九・一二――戦後精神」)というラディカルな批判を浴びせた。同じ論考の中で橋川文三の「戦中体験」だけを普遍化しようとする姿勢に呆れて、かつての高い評価を手のひら返ししている。ここで「「責任」を自覚するという辛さに耐える少数の者」」(同前)という時に思い浮かべている人間は、小林秀雄しかあり得ない。

 
戦中・戦後の行動において、小林秀雄がもっとも歴史の審判に耐えうる態度だったのか、つい他の文学者と比較してしまう。『細雪』をひそかに書き継いだ谷崎純一郎や『断腸亭日乗』という作品を支えにした永井荷風の乗り切り方は見逃せないとして、正宗白鳥の自然体には心服した。白鳥は昭和初期から「二七会」という吉野作蔵を中心にした、中央公論社長の嶋中雄作が世話人を務める政治経済の評論家の会に出席している(白鳥がメンバーになったのは吉野死後)。
「「また空論を戦わすか」と、せめてもの空論の妙味を味わうつもりで、その会に出ていたことを私は人生の一事実として回顧するのである。清沢冽がそのころ私に向かっていったことがあった。「あなたなど小説を書く人は、不断通りに書いていられるでしょう」と、それをうらやましそうにいった。彼ら政治評論家は言論の拘束を受けているのであった。「そうです」と、私は答えた。私は多年書いて来た自分の作品で、風俗壊乱の意味でも、危険思想の意味ででも発売禁止にされたことはなかった。特別に注意して筆をとっていたのではないが、私の筆には読者を惑わし世を乱すほどの力はなかったのであろう。それでも、戦争の末期には私の作品でさえ、検閲係は気に入らないらしいと聞いたので、私は直ちに筆を止めた。止めたことを遺憾とは思っていない。」(『文壇五十年』)
白鳥は清沢について、「「けさ開戦の知らせを聞いた時に、僕は自分達の責任を感じた。こういう事にならぬように僕達が努力しなかったのが悪かった」と、感慨をもらした。しかし、清沢の手のひらで、時代の激流を止める事は出来ないだろうと、私は滑稽味を感じたことを記憶している」(同前)というのだから、筋金入りの自由主義者もカタなしとなる。
1942年、文学報告会が組織されて、徳田秋声の死後は「年齢順」で小説部長になり、「文学者が戦争に協力しないことはつまりは許されなかったにちがいない」と振り返る白鳥は44年、爆撃を避けて軽井沢に疎開する。戦中に考えていたのは、宗教の問題であった。
「宗教家というと、私は内村鑑三先生を思い出す癖があるのである。先生がもし生きていたら、いかなる態度をとられたか。日清戦争当時はそれを正義の戦いとして盛んに提灯持した先生も後日それを悔悟し、日露戦争のころから、徹底的に戦争排斥、軍備廃止を主張したのだが、太平洋戦争においても敢然とそれを主張したであろうか。私はそれを疑っている。知識人は甘んじて殉教者になり得られるか。」(同前)
このリアリズムには頭を垂れるしかない。白鳥のいう「殉教者」は、小林にとってのプロレタリア文学者であり、江藤にとっての「60年安保」の活動家にあたる。弾圧による犠牲者は出るとしても、自ら進んで「殉教者」になる人間は、現実にはいない。白鳥先生は、小林も江藤も終生関心を持ち続けた怖い存在だった。もちろん、小林は自分より動じぬエゴイストがいることは熟知しており、白鳥だけでなく、敗戦直後、いきなり「フランス語国語論」を唱えるなど、「空気」を読む素振りもない志賀直哉にも畏敬の念を抱いている。一方、小林が食指を動かさなかった漱石を生涯書き続けた江藤は、志賀については「生きている廃墟」の首領(ドン)と見做すだけで、冷淡な態度をとっていた。このような資質の違いについて、どちらが上か下かなど、判定はつけられない。
もっとも、小林と江藤の個性を考える際、どうしても頭から離れないことがある。81年、江藤は西御門に転居した。現地で検証すると小林邸の近くで、年始や盆暮れの挨拶などを口実にして先生と会うという意図を感じる。子供の頃、結核療養のために転地し、「足の早い人」として見掛けていた鎌倉への引っ越しには心の弱りの気配が漂う。ところが、転居した時はもう小林の病気が進んでおり、鎌倉では一度も会えぬまま逝去した。江藤の生涯にはこの種のすれ違いがつきまとう。母に始まり、山川方夫、慶子夫人との死別も、「喪失」の一言だけでは片づけられない。吉本の水難事故も江藤のすれ違いと同種の事件と感じられ、小林の健康さと比べると、どうにもいたたまれない心地になる。

 
柄谷行人はかつて、自身を批判する評論を公にした上で、その回答を求める若手批評家に対して、web上で次のように応じた。「この連中には文学的能力がない。もともと「批評の批評」しかやったことがないから、小説が読めない」(「仔犬たちへの返答」)。かつて小林秀雄は「批評とは竟(つい)に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と断じたが、この箴言は「夢」という言葉が肝であり、そもそも「批評」は書く対象に何らかの価値を付け加えない限り、書く意味はない。だから「夢」と形容した。となると、メタテキストのテキスト、三次的な作品となる「批評の批評」を書く意味はあるのか、疑いが生じるのは必然だろう。
もちろん、江藤にとって「批評の批評」の限界は自明であり、小林の文章に屋上屋を重ねる愚は犯さない。『小林秀雄』は、ひとりの批評家の半生を物語化し、その実存を裸にするところまで追いつめる画期的な評論だった。ただ、『夏目漱石』は、まさに漱石はこういう人間、と納得できる評論であるが、『小林秀雄』の読後感は微妙に違う。柄谷が福田和也との対談で「小林秀雄のことを書いていない」(「生存の論理・死の原理」)と評する通り、『小林秀雄』の隠されたテーマは、江藤自身の「批評」なのではないか。とはいえ、資質の大きな違いがあるゆえに、作品として見事に成立している。
批評家同士、論争的な言及はあって当然である。しかし、批評家を正面から論じることを活路として選んだのは江藤淳が嚆矢だった。結果として目覚ましい「文壇」的な成功を果たしたことにより、先輩批評家の言説との関係を自ら位置づけることが通過儀礼のような選択肢になる。ただし、江藤の試みは、まず自分自身の陥った隘路から抜け出すことが第一であり、その「行動」が結果として「戦争責任」の追及により苦境にあった小林秀雄に対する有効な援護射撃ともなった。自他を両方救うという形で、「批評の批評」という奇計を正道と成し得たのは江藤淳だけである。
ちなみに、「批評の批評」という言葉の主である柄谷行人は、「戦後で小説を読める批評家は、平野と江藤と俺」といい、「小説を読むのに右も左もない。良し悪しの基準は同じで当たり前」と言い切る。実際に、文芸時評も器用にこなし、選考委員として数々の新人を発掘しつつ、「60年安保」の時代からマルクスのテキストを読み込み「可能性の中心」を追求する理論的な仕事も一貫して続けてきた。柄谷も「批評の批評」などやらない。『力と交換様式』で注目しているマルクスのいう「貨幣や資本という「幽霊」」は、小林が『本居宣長』で論じた「迦微(カミ)」と存外、似ている。
58年から連載をはじめ、小林が公刊を禁じた『感想』は、終戦の翌年の母の死後、「門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた」という文章や、飯田橋の駅のホームから酔って転落して死にかかった時、「母親が助けてくれた事がはっきりした」と書く異様さで知られている。しかし、この「童話」は柄谷の「幽霊」と同じくオカルトではない。小林が真に「責任」を感じたのは、文学者風情など成すすべのなかった大東亜戦争の敗戦と、横光利一、島木健作、菊池寛をはじめとするおびただしい「蛍」(=死者たち)だけである。小林は、江藤淳という俊敏な後進が出現して安心したのだろうか、自ら信じる「責任」だけに向き合う態勢に入ってゆく。
 
ところで、大岡昇平が江藤に自ら保管していた貴重な資料を提供してまで書かせた『小林秀雄』は、その期待に沿っていたのだろうか。第一部は59年冬から大岡が編集同人の「聲」から始まり、第二部は61年4月から「文学界」という連載媒体の移行は、「聲」廃刊ゆえやむを得ないとしても、小林への牽制を狙ったと思しい大岡の目論見は大きく外れたのではないか。すでに一家を成しつつあった若き批評家が簡単に意向を呑むものではないとしても、意地悪な大岡が強かな江藤についてどう考えたか、想像するのはちょっと愉快である。
江藤は敬愛を込めて、先輩・河森好蔵の「知的無産階級」という言葉をエッセイで引用している。「知的無産階級」の本格的な抬頭は、正宗白鳥から志賀直哉の世代が出た後の、都市化の加速につれての現象であり、そのチャンピオンは小林秀雄だった。自筆年譜の記述や自選集の「著者のノート」を見ると、小林秀雄評価の「転向」により矛盾を抱えた「江藤淳」は「60年安保」の前後、人間関係でも右往左往していたことが伺える。しかし、同世代とともに闘う役目から自ら降りると決めた「江頭惇夫」は、「知的無産階級」のチャンピオンの麾下に従うことに、もう迷いはなかった。

風元正

1961年川西市生まれ。早稲田大学文学部日本史学科卒。週刊、月刊、単行本など、 活字仕事全般の周辺に携わり現在に至る。ありがちな中央線沿線居住者。吉本隆明の流儀に従い、家ではTVつけっぱなし生活を30年間続けている。土日はグリーンチャンネル視聴。