映画川 『SILENT SOUND』

不定期で掲載している映画レビューのコーナー「映画川」。今回は原智広さんが写真家・映像作家の小松浩子さんの作品『SILENT SOUND』について書いてくれました。同作は2021年にエキシビションで上映され、現在は映像のDVDに写真とブックレットがついたマルチプル・エディションとして発売されています。3つのライヴ空間を8mmフィルムで撮影、ライブ演奏の記録にもかかわらず無声映画として作られた映像から、原さんは何を見出したのでしょうか。
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名づけ得ぬもの震えたまえよ――小松浩子『SILENT SOUND』


 
文=原 智広

 
静謐の頂上に達した現し世では、眼の錯覚と残像を現実として捉えるのではなく、外の世界で発覚する。その眩さはシャーマン的とも言える、感受性の感じとる像のことだ、そして耳が聞こえぬが聞こえる残響のことだ。小松浩子は色々な像を捕まえ、極めて強力な眼差し、そしてモノクロの生贄、すべて意志というものに抗うもの、Xと地上との関係においてあるものは、ここから始まるのだ。この奇怪なパラノイア的気質はことごとく眼前にあるものをかき乱してしまう。すべては過ぎ去る。錯覚? 機能障害? 叛乱者? さて、その根源に私の見るものがあり、部分的な共鳴効果としかじかの瞬間に、しかじかの状況において投げ出されかき消されかといって残存され知覚されるある部分、瞬間による照明と明滅。物象とそこで起きる現象との一致に対して現在とそして続いていくものがあるわけで、それらは必ずや不和である。それでも人は意味と無意味を一生懸命繋ぎ合わせ一致させようと理解し想定し補完して追い求めようとする。だが、この映画を捕まえることは不可能だ。
構成のための構成は置き去りにされる、そして、暗がり、ある魅力(極めて独特なる)対象が実現しようと実在しまいとお構いなく、むしろしなければしないほど、それだけ実在するとさえいえる。私、夢を見た、不可解なもの、不確かなもの、しかしプリミティブに貫かれた槍のような静かな焔、見せようとするのではなく、見せられまいとしながら、ただ傍観し静かにときめいて、我目覚めてのち、さまざまな思い出が蘇るのだから。この受動装置たるもの、小松浩子の写真と映像はほぼ同じ主題に基づいて撮られているように、私は思うが、それはきっと他の世界のことで、視るものが視れば、のぞむかぎりの本質的な世界の欠落と、暗黙と光明の過失、工場、瓦礫、建造物の欠陥の愛おしさ、私はこれを体感すると私自身のほうへ落ちていく、それはある意味では心地よさでもあり、この世にたいするどうしようもなさという怒りでもあり、世界という枠からはみ出た眼差しの被造物に対する憑依であり、私の重みは私の最高所のほうへと落ちていくのだから。
みんなが美しいと思うような対象に執着するようなことは凡俗の極みであると小松浩子は訴えかけ、まるで『SILENT SOUND』は実在してないかのようにして、それを知らぬままに、生きていくことができるようなもの、そういうものはすべて神的であり、シャーマニズムでもあり、実存の像の光の波を内奥で永遠に反芻する、だが、別な観点から言えば、ひとたび『SILENT SOUND』に魅了されてしまうと、それなしでは生きることのできぬもの、そういうもの、眼に見えぬ映像から喚起される人間に至るまで、不確かなあれが形であるべきか考えることは覚束ない、つまり無暗に深淵に無意識に入り込まないように人間は造られている。そう、夜明け前の一瞬のこと、すべての音が鳴りやんでからびて寂しく目に映るあれやこれや、未知なるものの発覚に至るまで、何たること! どうか、亡霊は亡霊のままでいてください。
対象の存するイマージュ(「何者か」がわれわれの内で感じているのを感じること)、小松浩子が沈黙してしまえば(その態度は正しい)私には何らかの因果としての対象(或いは事物との比較と無時間と垂直に比例する対称性)しか見えなくなるが、その対象は氾濫を起こし強度と静けさ、私はただの一介の傍観者として、この映像のサイクルを何巡かし終えたところだ。1羽の鳥が木の穂先で意味もなく鳴くように、「言葉にならぬもの」、「筆舌しがたいもの」、「説明出来ないもの」と困惑しながら喚きつつも、映像の反射感応、つまり感受性の独立性のことを私は思う。そこで無限のこの『SILENT SOUND』が名乗りをあげる(この考えが長引くと気を狂わせ、e(分母)0(分子)、e=excitation(外乱)0、分母たる外乱に適合した回答responseを分母として無限に0に近づかせる試みとなるのだけれど)。表現と意味の排除を往来し、眼の錯覚、破城槌の打撃、促拍、欠如ゆえの、この世に対する適応の不在ゆえの、幾つかの不可能性が臨界をなしているゆえの、中断、停止、そして、問いから始まる。夜明けはいつ訪れるのであろうか。『SILENT SOUND』のモノクロームのフィルムのもう一つの世界の揺らめきは確固たる眼差しによって開かれ、焦点が開いたり閉じたりし、もうひとつの存在と分身を想像力という名のもとに、無防備に晒されながらも、偶然により始まり、自然に従って映される、強い光と闇に達しうるように見えるこの放射は、連想の偶発性に伴い傍観者を炸裂させる。もうひとつの世界は始まってしまっているのだから、そしてそれは終わらないのだから、目を貫き、魅せることで、直接的であろうが、間接的であろうが、時間は不規則に、この映画はまばらに散りばめられ純粋にこの世に降り立つのだ、心を動かされるということは、侵略されることでもある。小松浩子は混合の中から結晶を取り出すほかに例のない類まれな才能がある。そして被写体に干渉するわけでもなく、反響しないことが、極めて貴重なことであるのだ。作為的でもなく、自らが秘密の侵略者のように何者か(それは生命なのか? そうではないように思う。かといって、有機物、無機物と言うのも違う)を取り込もうとする何かがある。作品を構成しようとすればするほど貴重なものを失ってしまうのが普通だが、偶発性、冷徹なる眼差し、冷却状態、名もなきもののままで、生み出される特異なる性質のものであるというのは確かだ。そう、やるべきことは、本来あるべき姿、形、風景であるものを見出すのだ。導きそして去り、蜃気楼の中で、このヴィジョンを信ずるに値する情念、天がいささか重くなりますれば、いつしかこの世も消えようと、擬群 (quasi-group) 義形、a (この世ならざるもの)× x(照明) = c(真なること、象徴、別儀に耐えることなき非存在者であることの非在の世界の直立性の名を背負った作品) であるような cが一義的に決まるマグマ、どうかこのフィルムがまた還ってきますように、どうか時を経て再び還ってきますように、私はそして視る、発覚する、体感する、写真と映像、そのすべてが纏わりつくように愛おしくかといって干渉するわけでもなく、影たちがそっと伝言を遺した。分子の残像と銀塩の残像、組み合わさりetc. その組み合わせは統合を形成せずめちゃくちゃに歪み合ったイマージュそのものである。実体? フィルターを通すこと? つまり自然などはない。逃走せよある空間に、もうひとつの波動に巻き込まれ、この体験はシニックなのか、懐疑的なのか、ストイックなのか。魂の中にある効果を極度に深いものとして生み出し、現前をかき乱し、真実のように思われる写真と映画のヴィジュアルを体感するときに私は驚き、意気消沈、映写機の光、破壊そして再生の感覚、我々が目覚めたときにまた、さまざまな変動は起きるのではなかろうか? そういう予感を小松浩子に私は感じるのだ。いずれにせよ、ある感覚が増大し、なす術もないままに提示され、適切な回答が得られないときに、いわば内部的な心象的無限、つまり像の広がり、涙、気絶、神経発作、罵詈雑言、暴力、この過度の空虚、この映像を体感して、相手を殺すことを感じ、また自分も死ぬことに同意する。敢えてイメージで語るならば、この静かな衝撃が場面連続を通って、深夜のスクランブル交差点で立ち尽くしながら、意気を祖喪されるようなものを私は知らない。ある種の拘禁状態、痺れたままで、つまり組織不可能な感受性に導かれるままに、『SILENT SOUND』は存在している。共鳴力かつ超感度かつ、チャージかつ、ポテンシャルかつ、もろもろの事象に憑依され、つまりこれは悲しみの源泉だ。私の悲しみ、他の世界、うようよと蠢いている奴らに悪夢を投げかけ、可哀そうな奴らだ、何も感じることが出来ないなんて! その中でも救いのある想い出のような旋律、その上での映像の振動現象、達観せよ、束縛から逃れるために、呪詛から逃れるために、感覚を失った精神錯乱者がいたとして、この映画をどう視るのだろうか、効果や結果が廃棄されつつも、彼、彼女の中での気質は揺さぶられ、あるものを発覚するのだ!(私がそうであったように、もっとも私は狂ってなどはいない)ああ、自分が何も感じないというのは実に酷い状態だ。幻影のあとにまでこの映画が生き続け、そして小松浩子は新たな段階に進化しようとしているように私には思える、完全に識り終えたことも、この直線的な本質をなす荒廃はいずれ小松浩子が言うところの「Another World」で、あのデレク・ジャーマンのガーデンのような形なのか、私には分からないが、小松浩子自身の楽園は彼女のヴィジョンの中で燃え上がり息づいている。
 
「この映像に身を委ねながら、夢遊病者のように歩行せよ、目的地は定めず憑依されたし」
 
ああ、名づけ得ぬもの震えたまえよ。


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SILENT SOUND
2020 / 日本 / 15分19秒 / 監督:小松浩子


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小松浩子 Silent Sound
小松浩子による映像と写真、そしてテキスト冊子を箱に収めたマルチプル・エディション。3つのライヴ演奏の現場を8mmカメラで撮影した映像作品のDVDに加え、ライヴ空間を撮影した写真(オフセット印刷)、小松浩子のステートメント文+梅津元によるテキスト「Another World – ANYWAY, WE DEPARTED」を収録したブックレットを収録。(出版:MEM)
通常版:5,500円 / 特装版:49,500円(ともに税込)

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原智広

1985年生まれ。中卒。作家、翻訳家、脚本家、映画制作。訳著に『戦時の手紙、ジャック・ヴァシェ大全』(河出書房新社)、論文に「光学的革命論」、「仮象実体的社会と電子的スペクタクル性、その全貌への憎悪」 。映画『イリュミナシオン』『デュアル・シティ』(共に長谷川億名監督)の原作、プロデュース、脚本。「ル・ポン・ド・ソワ」などの媒体で映画批評、フランス文学について連載中 。
仏・米・露の翻訳文学から物故作家に纏わる創作、死や光をめぐるエッセイ、写真・ドローイングまで、「死者たち」や「光」をテーマに編んだ全作初公開のアンソロジー「イリュミナシオン」が発売中。

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