映画音楽急性増悪 第35回

監督特集が続く虹釜太郎さんの連載「映画音楽急性増悪」。今回はアラン・ルドルフ監督の未公開作を含む6作品の音響・音楽についてです。

第三十五回 模型




文=虹釜太郎



『Remember My Name』(アラン・ルドルフ/1978年)
遠くから鳴るサイレンの音にかぶさって、以前に別れたはずの夫にひたすらつきまとう、というよりは執拗にストーカーする女(ジェラルディン・チャップリン)が室内に入り、そこで流れはじめる音楽。
そっけなく街を出る女のラストがよくて繰り返し観たくなる。
アンソニー・パーキンス登場シーン直前のヘリコプターの音。 
アンソニーがテレビを見れば、飛行機の通過音がする。
絶望のようでいて無私の朝を迎えるジェラルドのシーンの真っ暗闇からぼやけた朝日までの映像が、繰り返し観た時にはひどく印象に残る。
アラン・ルドルフの耳。ジェラルドとアンソニーのかけあいだけでなく、ジェラルドの関わる人間たちとの全てのリズムが意思がすっかりすこっと抜けた小悪魔のそれで、ジェラルドがアンソニー宅の玄関前の花をがっさがさに引きちぎるシーンにも飛行機の通過音が鳴る。
ジェラルドからアンソニーのシーンに切り替わる際にも通過音がさくっと鳴る。
 
 
『ENDANGERED SPECIES』(アラン・ルドルフ/1982年)
キャトルミューティレーション題材。いちいち暗転する映像と細かくはさまれるシュンシュンはじける音響。
ラスト間際の警察車両の無数羅列のなかに投下される牛の死体も虚しい…が28分過ぎにかかる1982年当時のエレクトロが効果的ではないが強い印象を残して、その音は57分には複数のシーンを貫く電子音からのエレクトロに繋がっていくが、その曲の音楽アルバムなどではとうてい聞かれない地味な低地徘徊っぷりがよいのだがそれらは61分過ぎに新たな展開をみせながらも…
バッファローバーに向かう女性保安官の姿にかかる音楽からの不穏な音響からの牛の群れのかぶさりのような度重なる人の群れからの牛の群れへのリズムの反復。
 
 
『チューズ・ミー』(アラン・ルドルフ/1984年)
『トラブル・イン・マインド』ではワンダズカフェのマダムを演じたジュヌヴィエーヴ・ビジョルドがラジオ番組「愛の相談室」カウンセラーのナンシーを。バー「イヴ」のイヴをレスリー・アン・ウォーレンが。バーの入り口前に常に女たちが溢れるようにいる。
複数の女性にキスをし結婚してくれと迫るミッキーとパトリック・ボーショ演じるザックとの殴りあいと撃ち合いと巡りあいがあまりにしつこく、しかし単純強欲なザックと違いミッキー演じるキース・キャラダインの異常なまでの結婚への執着は、ラストのベガス行きの「ハネムーン」でのイヴの最後の二度の正気に戻る目の演技を経ても、変わり果てたナンシーの姿を見せられた後でもその異常さが映画が終わっても強く残る。
最後のイヴの「正気に戻る」演技だが、そもそも正気に戻った先の現実の描かれ方がどれもひどく、しかしその現実の中でバー「イヴ」の現実がふわふわしていながら貴重な亜空間だったと。番組「愛の相談室」の控え室の現実のあまりのつまらなさだけが最初から最後まで変わらない。そしてミッキーの異常な結婚への執着自体そのものがわからないが、そもそもベテランの愛のカウンセラーが愛のことなどちっとも知らないところから映画ははじまっていた。
 
 
『トラブル・イン・マインド』(アラン・ルドルフ/1985年)
架空都市レインシティ。
旦那クープに妻ジョージアが別れを告げるシーンを上からしっとりと見つめるワンダズカフェのワンダ。この映画の舞台であるワンダズカフェとその周りの建物の模型が映画では何度も何度も何度も登場する。エレベータ内での不自然な日本語は別として、ジョージアを見つめるワンダの姿勢の不自然さ、最後に車で疾走する元警官と幻のジョージアの不自然さ、クープが乱闘シーンのボス宅から完全逃走するシーンの不自然さ、そもそものクープのヘアスタイルの不自然さ、ボス自体の不自然さ、ボス宅の乱闘の不自然さなどすべての不自然さはこの何度も登場する建物模型の前で蒸発。レインシティの模型。フィクションというよりは模型。
映画が終わっても架空都市レインシティの模型は壊れず異常な永遠さを獲得している映画というか模型。
本作と同時上映されるべきは『ブレードランナー』ではなくベロッキオの『夜よ、こんにちは』か。
 
 
『モダーンズ』(アラン・ルドルフ/1988年) 
絵に接するとどういうことが起きるかもしれないか。
セックス、マネー、パブリシティ。
セザンヌ、マチス、モディリア二。
贋作、決闘、窓の外の絵。
画廊で贋作を前にストーンとニコラス・ハートが遭う。
ナタリー役はイザベラ・ロッセリーニ、ストーンはミック・ジャガーだったかもしれなかった。 
絵を前にしてのニコラスとストーン婦人の目線。
窓の外の絵やカラーから白黒への移行などがうまくいっているわけではなく、絵のフェイクさとジョン・ローンのフェイクさが引き立つわけでもなく、架空の1920年代が絵を燃やしたり引き裂いたりする一抹で一瞬現れる。
効果音は袋が圧縮されるような音が効果的。
絵が燃やされてからの音設計の後、全体のリズムが大きく変わる。本作をもし中途で観るのをやめてしまった人がいるならぜひ再度観てほしい。絵画への傷付けの映像から現れる1920年代はレイチェルを車で追うストーンのやりとりからはじまる真っ黒な映像たちの中で映画にしかできないやり方で息衝きはじめる。最後の汽車での出発は何重にも開放的で、その後は終わった歴史の現実に戻る時間が優しく余計に描かれ、もう白黒映像は出てこない。
 
 
『ミセス・パーカージャズエイジの華』
(アラン・ルドルフ/1994年)
ドロシーの声質。
1920年代アルゴンキン・ホテル・ニューヨーク。四角いテーブルに九人が、十二人が、それ以上が集って議論するには、いやだらだらするにはあまりに狭過ぎた。
泣いてばかりのドロシーが主人公。ドロシー・パーカーは脚本家志望。演劇記者と恋に落ちるが、記者は他にも恋仲がいる。気怠いドロシーの気が散って、ねっとりとした空気がひたすらに。繰り返されるドロシーの告白の映像は白黒だが、そこでの独白もねっとりと気怠い。その気怠さと狭過ぎるからと用意されたでかい丸いテーブル、十五人は座れるアルゴンキン・ラウンド・テーブルの活気がマッチしない。ドロシーを演じるジェニファー・ジェイソン・リーの虚ろさは彼女の声質も大きく。
アルゴンキン・ラウンド・テーブル、アルゴルキンの円卓の騎士たちのバカらしさ。人気を博すロバート・ベンチリーの漫談は『フォールアウト3』のゾンビの漫談を思い出させるが虚しく、その漫談を巡る会話をまばらに拾い続ける映像。
ドロシーとベンチリーの共闘は繰り返される独白し続けるジェニファー・ジェイソン・リーの虚ろな目を通して。ドロシーの過ごす夜からホテルのアルゴルキンの円卓の騎士たちの会話までを通してずっと流れる音楽は虚しい。その虚しさと独白する白黒のドロシーの声質のシンクロ。自殺の試み後からさらにドロシーの声質の濁りと悲しさと黒さとだるさと赤黒さがさらに増していく。