宝ヶ池の沈まぬ亀 第64回

4月から進めていたシナリオ執筆がいよいよ大詰めを迎え、ドキュメンタリー映画『スライ・ストーン』(ウィルム・アルケマ監督)を見て今後はスライ主義でいく宣言も飛び出した青山真治さんの2021年9月下旬から10月にかけての日記です。チェスタトン『木曜の男』(吉田健一訳)を読み、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』にも挑戦。S・クレイグ・ザラー監督作品や『女の復讐』(ジャック・ドワイヨン監督)、ジョン・コルトレーンとオーネット・コールマンを1965年以前/以後で考えながら聴く試みについても記されています。


64、曲った首とVサインのスライ主義でいく来年はフリー(フライング中)

 

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文=青山真治

 
某日、またうまく眠れず、朝の仕事もあまり記憶にないまま済ませた。当日記前回分をまとめて送り、のろのろ準備していると女優が帰宅、ふわりと高輪口まで送ってもらうことになる。膝にぱるるを乗せて。
天気はこの上なくいいが、精神状態は最悪で、落ち着くべく梅崎を読み耽る。電車隣席のくだらない話にとにかく耳を貸さないこと。赤の他人の話し声が聞こえる環境も久しぶりのせいで世の中は本格的に狂ってるんじゃないかと勘違い。しかし梅崎の方が狂っている。実際そのはずである。直木賞受賞前後の何作かだが、当然のようにそういう華やかさとは無縁の、投げやりで場違いな激怒が白々と空間に消えて行く。痛ましく生き急いでいる。「寒い日のこと」は見事な傑作だ。
家にたどり着けど、ここに来たかったわけではない気がして仕方なく、そうなるともう行き場などない。だが傍目には普段と変わりなく粛々と準備して温泉へ行く。湯の中だけは白紙になる。出れば再び、頭ではそれからのことを千々に乱れながら考え込み、果てはこのまま行方をくらまそうかとさえ。駅前のスーパーに二度入っては何も買わず、結局いつものスーパーで大量購入、徒歩で帰って行く。いつもの通り。
冷凍うどんを食してから、まずキャバレー・ヴォルテール『ザ・ボイス・オブ・アメリカ』でリチャード・H・カーク追悼。続いてザ・バンド『カフーツ』。アナログはこれほど軽い音だったかと驚愕。ひたすらガースに聴き入る。さらに『スプリングタイム・イン・ニューヨーク〜ブートレッグ・シリーズ第16集』ディスク3。何は無くとも「ジョーカーマン」「ブラインド・ウィリー・マクテル」。他の『インフィデル』オミット曲群も宝の山。解説には当時のディランは迷走していたとある。当時の時点で完璧な演奏に金がかかりすぎて、そのことにうんざりしたのではないか。四十代。五十代後半『タイム・アウト・オブ・マインド』。その後には『ラヴ・アンド・セフト』が来る。トンネル抜けて。やれやれ。
何箇所か蚊に刺され、線香の匂いに巻かれて、ようやくここにいることに慣れる。今日はこれを落ち着かせて、明日仕事をしよう。枝を落とした夜空に月。
疲れて横になり、見た夢は、なぜかこの国の広告代理店の悪夢のような話だった。
 
某日、やりたいことをしてそれが必要なことだったとしても無理であれば間違う、間違いは取り返しがつかないか。しかし、少なくとも部外者に口を挟む余地はない。間違いを繰り返してはならないことを教訓として、それ以外は当人たちのみの問題ではないのか。全て自前の物差し。今度は立誠シネマである。最小で余裕なく、ギリギリでやって来たところばかりだ。大事な仕事だと思って応援して来た。だが間違っていた。私自身、それと別の場所で数えきれない間違いをしてきたはずだ。その意味で間違わなかった人がいるとはあまり考えられない。間違わなかった人はどうやっていたのだろう。それをレクチャーしてもらえればこれからの間違いを減らせるのではないか。
朝餉を真面目に作り、摂り、持参したアナログを一枚一枚丁寧に聴く。ポップス・ステイプルズ、リー・ペリー二枚、ザ・バンド三枚。『ステージ・フライト』のみ五十周年につき、評判の悪いボブ・クリアマウンテン新ミックス。だからCDと変わらず。
同時にシナリオ作業。やっと後半の骨格をなして来た。エンドマークが見えつつある。
終日の青空。しかし鳥の声が聞こえない。枝落としの功罪。
PFFで東盛あいかがグランプリ。工藤に続いて京都から。彼女とはオープンキャンパスで出会った。私の最も苦手とするオープンキャンパスで。
夕方、なぜか『山猫』を見始め、学生時代以来何度か見直そうとして来たが結局触手が伸びなかったのだが、それがなぜかわかった。これ、大失敗作だ。明らかにヴィスコンティがおかしくなっている。イン前にドロンに振られたということなのだろうか。それだけでなく、やはり活劇がまるで撮れない人だというのが、前半の戦闘シーンでよくわかる。そうしちゃダメということばかりやっている。ロトゥンノもダメ、ニーノ・ロータまでまずいのだからどうにもならない。再見には及ばずと無意識に承知していながら、チミノが愛好するからと見直すつもりでいた。やはり自分の勘は信じたほうがいい。カルディナーレ登場の60分あたりで中断。続きはいずれ。
 
某日、しかしそれでは眠れないからと割に遅くなって気晴らしに見た『メイキング・オブ・モータウン』が別の意味でまずかった。ベリー・ゴーディという人は、今までよくわかってなかったが、なるほどこういう人だったかと。ムカつくんだけど感動的でもある。特にスモーキー・ロビンソンと収録中に賭けをして勝ち、スモーキーから百ドルせしめるくだりは素晴らしい。齢八十とか九十とかの人のすることではないとは言わない。そしてこの人のやり方は全く間違っていないと思う。こういう仕事をしていれば我々も間違わずに済んだかもしれない。これをできなかった我々の負けだ。負けというかそこから間違っていた。それがムカつく。ムカつきつつ感動、情緒は変わらず不安定。
起きて朝餉の支度しながら、そして食しながらリアルタイムでウィークエンドサンシャイン。ニューポートフェス主催者ジョージ・ウィーンの特集。ディラン六五年「マギーズ・ファーム」、ブルームフィールドのテレキャスターの音はやはり凄まじい。
午前中は昨夜の続きで当日記最新版の直し。思案のしどころはやはり外国名の日本語表記である。Hiatus Kaiyote。映像における女性ヴォーカリストの発音を私の耳が聞いたそのまま書くなら「ヒアトゥス・カイヨテ」である。アマゾンでは「ハイエイタス・カイヨーテ」となっているのでそちらに従うが、釈然とはしない。べつに私は買い物情報を提供しているわけではない。もちろん、当方の校閲を暗に批判しているわけではもっとない。
昨日よりはずっと慎重に、シナリオをまた書き進めた。逸ると仕損じる気がして、再三立ち止まりながらジリジリと。
伊豆にいると作業の休息に置いてある本を読み散らかすが、笙野頼子『会いに行って』など迂闊に開くものでないものもあり、簡単には棚に戻せなくなる。腹が減ったので夕餉にしてようやく離脱。本日はフォークナーとグールドとブレッソンの誕生日だが、なぜか吉田訳のチェスタトン『木曜の男』を開くと意外に集中力が残っていて頭に入り、頭に入ると吉田の日本語はやはりえも言われぬ快楽である。「この街がまじめだろうか。あの支那風の提灯がまじめだろうか。この世界全体がまじめだろうか。ここにきてああだこうだとしゃべくって、たまにはほんとうのことをいうのもいいが、こういうおしゃべりのほかに、何かもっとまじめなもの、それは宗教でも、酒でもかまわない、何かそういうものを自分の奥底に持っていない人間は、僕は軽蔑するんだ」そして二人は辻馬車できたない居酒屋へ行き、うまいえびを食うのだが……実にいい。唯一無二である。今日という日にふさわしい。
 

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某日、固まらなかった考えが寝ている間にまとまり、起き抜けから書く。結局、生きてる間は仕事中。朝餉を済ませ、松本憲人誕生記念に『ベスト・オブ・ザ・チーフタンズ』ディスク2。まっちゃん生きてれば五十二歳。でもチーフタンズのキャリアは何しろ俺の人生より長い。
さらにシナリオ。ふと気づくと雨が降りかけている。慌てて買い足しに。近隣も先を読んだか、日曜の昼のスーパーは超満員。長蛇の列の最後尾、大量購入の前の方が譲って下さり、一つ前で会計できた。ありがたし。出るとすでに降り始めていた。
先から気になるのは、『浮草』について小津が「ドラマが嫌いだ」と言ったその「ドラマ」とは何を指しているのか、だが、親子のことなどはサイレントから『東京暮色』まで様々あるので、恋愛模様のことだろうか。ここでいう京マチ子と中村鴈治郎のことか。杉村/中村/川口の方が「ドラマ」と言いたくなるが、小津にとってはあの凄い雨の喧嘩も駅や列車の粋なやりとりも「嫌い」な「ドラマ」なのか。でもその何が「嫌い」なのか。役者間で演じられる恋愛の綾に垣間見える“嘘”が「嫌い」なのだろうか。言われてみればなるほど、ムズムズしないでもない。が、それならルビッチなんてみんなムズムズだ。アメリカ人はいいのか。日本人には向かないか。ならば若尾と川口のキスもか。実に見事と思われるが。
Twitterでヴァン・ダイクがアッシジの聖フランチェスコも9月25日誕生日と書いていたが、どうも信憑性がなくて、よくめでたいから一月一日を誕生日にするが、そういうことがあるのかなという気もした。昨日書いた三人の誰がそうだというわけではないけど。
日曜はいつも通りサンソン、バラカンビート。『ダウン・バイ・ロー』でトム・ウェイツがDJ、と言った瞬間アール・キング「トリック・バッグ」とわかる八〇年代っ子は私だよ。
毎日夜になると身体中があちこち痛み、嫌になる。集中できず、あらゆることが中途半端になる。殊に伊豆の夜のこの寒さでは身動きさえしづらい。そんなわけでシナリオを終わらせることはできない。弱る。ところがこういうときなぜか吉田健一の文章、というか翻訳文に集中できる不思議。続けて読む気は無かったのだがこれは一気に読んでしまいそう。それくらい『木曜の男』は面白いのだが。
 
某日、そんなわけで『木曜の男』を読み続ける。つい我を忘れて電車を逃し、サフィールに乗る羽目になった。吉田訳は本当にいい。スウィングしてるのだ。「これからは、このことばは彼にとって何かみだらな地口の感じがしないわけにはいかないのだった」何かへんだとは思うけどねえ、いいよねえ。シナリオに手、付かず。
家に戻ってTwitterを開くと大友柳太朗の命日で、あれやこれや考えた。『阿波の踊子』の原作が山上伊太郎だと知って驚いた。もちろん『浪人街』の作者。
 
某日、起き抜けの東の空が想像を絶するデザインの朝焼けで写真を撮るのが勿体無いから撮らなかった。撮って失望するのが目に見えている。こういうときいいカメラといいレンズが欲しくなる。腕がないから同じだけど。
病院では「まれなケース」ということで、対処に困られている。治癒しているが完全寛解とは言い難い状況。切りたくはないが、放置もできず。しばし様子見。
帰り、モノレールで新橋に寄り道。吉田と石川邂逅の地、出雲橋を見学。銀座など田舎だとつくづく。駐在さんに口をきく気もしない。
帰宅して仙頭Pと電話、あれこれ。高知であれとあれが合流という話が端緒。呵呵。我々の失敗は英語だと断定される。周囲が懸命に勉強するので嫌になったというへそ曲がりが本音だった。まあ仕方ない。
日暮れから体調が不穏になり、休む。夕餉中、頬肉が垂れ下がってきたと女優の指摘。マスク下で弛緩した表情でいるうちにそうなると。しばらく前から気になってはいた。
 
某日、起き抜けから肩の筋肉、腕の血管、脇など全身あちこちに痛みが走る。それでもしっかりと支度して朝餉をいただき、満足。午前はエレクトリックマイルスを含めたコルトレーン/オーネットの三竦み六〇〜九〇年代を先鋒・後出し・唯我独走と考察。音が聴きたくてうずうずするが、なぜかアソシエイションが届く。昨日柄谷さんを読んでいて、ふと注文したのだった。だが聴くこともできず、どんどんひどくなっていく痛みと付き合いながらあれこれ用を足し、何とか『木曜の男』を読む。そうこうするうち仕事から帰った女優が風呂を入れてくれ、温まれば治るというので入ってみると、家族のいうことは聞いてみるものでいくらか楽になり、どさりと倒れてこの精神状態ならば、もしやと『時間』を開くとこれが面白いように頭に入ってくるのでここに他でもない吉田を読むための時間がやってきたのではないかという想像が頭を巡るのだが、さすがにそれを信じて長い時間をかけて建築した計画を捨て『時間』に没頭するのは本末転倒というものだろう。ただ痛みは体内にエコー成分だけを残して退いてくれた様子。
そして前後して届いたスライの5枚組を未聴のファーストから聴き始めるのだが、そういえばと思い出し、どこかにDVDがあるはずだがどこへやったか。これから地下で浚渫するには疲弊しすぎているので、明日。
Twitterの話が過多で恐縮だが、平井玄氏が竹中労の言葉として「歌が理に落ちる」ということを書いている。竹中が書いたのはひばりについてだったが、これは歌にあるように映画にももちろんある。というよりほとんどの映画は「理に落ちている」と感じる。作る間しばしば頭に浮かぶ。理に落ちるとはどういうことかと。理は分かりやすい。いい、と言いやすい。それが怖い。何の変哲も無い、それがいいと人は言う。それ、理に落ちていると感じる。小津に始まり小津に終わるとしたら、小津は理に落ちることを恐れ、恥じらい、嫌悪したせいでいっそ全てを理で固め、理以外のものがなければ恐ろしさからも恥ずかしさからも解放される、と考えたかどうか、理だけで突き進む映画を作ったからではないか。ブレッソン然り。ヒッチコック然り。ラング然り。でなければ愚鈍さ野蛮さに徹する、それもますます茨の道だが、泣くのが嫌ならさあ歩け、単純さだけで救われるわけがない。擬態のみで紛れるわけもない。繰り返すが、フォードは何にも似ていない。唯一、ルノワールだけが、理から自由という意味で互いに似る。理に落ちないとは理から逃げ切ることか。脚力。
 
某日、平井氏は「理が情に落ちる」とも書いた。私の場合、それが酒の力だったと思う。酔っていれば情に流され理の梯子が外れる。いまやそれもない。バカをバカと斬って棄てるだけで、人生は勝手に終局に向かう。密室の間違いの煙が今度は新文芸坐から上がる。ミニシアターの吹きかけた風が静かに凪いで船はもうどこへも行かない。『キラー・エリート』の軍艦の墓場のように厳粛だ。だが誰もこれを理に落ちるとは呼ばない、たぶん。
昨夜からのうねるような気配に押されて、盤を持っているはずがどうやら伊豆に置き去りのようなので、アマプラにて『スライ・ストーン』。ほとんど半分以上メソメソしていたがそれは、いいことも悪いこともあった時間があって、しかしブライアンより長く黙ってきた天才がもう一人いたなあと気づかされたからだった。疲れるからずっと寝てるか、キーボードかラップトップに向き合って延々とした日々のうちに、スライの首は前に曲がってしまったが、それはかつてステージで見せたVサインと同じくらい美しい。改めて今後の活動をスライ主義としてやっていく心積りが自分の核に出来た。
書き続け考え続け、夕餉の後も眠り半分、いくつか時空交錯の流れをそれぞれの声とともに追いながら構築しつつ、眠りの中にそれを流失せぬように紙面で食い止めながら、今夜も終わろうとしている。台風の迫る闇夜。
 
某日、朝Twitterからメリル・ストリープの卵だの、近衛十四郎の腕切断だの、コッポラのドラキュラの眼だのと「映像と即物性」がやたらと連想されたが、それらは『空に住む』の準備中に言い募り、しかし結局伝わったんだか伝わらなかったんだかわからず(しかも、誰に?)流してしまった試みだった気がする。今後も懲りずに毎回言い募るが。
読書リストをさらに緻密に簡便に仕上げる。これでやる気をなくすことはないだろう。ただ当然だが気まぐれの起きることを相変わらず想定していない。
で、常に仕事に戻るが、終わり近くなるとここで決定しておかねばならない細部が多くそれを思い切るというかアイデアを絞り切ることも含めて時間がどんどんかかって行く。これ以上説明しない、これでやめる、ということを決断する、ならば結局第一稿=決定稿じゃないか、小津&野田じゃあるまいし、しかしそうならざるを得ないのでまるで風呂に入ったり出たりしている感じ、しかも飯などで集中が途切れるとそれでおしまい。だからそのせいで一日に可能な仕事時間がどんどん短くなって行く。
朝Twitterで考えたことが再び。今度は社長による虹釜さんの連載紹介の「(サッカーという世界に広がる)果てしない細部が作り出すきわめてマテリアルな運動」というフレーズである。わかりにくいが、しかし繰り返すがこれを『空に住む』でもやろうとしていたのだ。現在の映画がその段階にあることは明らかなのでそうなってしかるべきなのだが、これが一般性を帯びるまで私たちは生きてはいない気がする。
 
某日、眠りが浅かったのか、異常に眠い午前中を過ごした。昼過ぎにようやく頭がはっきりしたのでさらにはっきりさせるために薬局まで買出し、戻って作業。まるで自動筆記のように浮かんだ台詞を画用紙にメモしていく。思いつかない部分も膨らませて書いた。結局この方法が自分には合っている。清書するときに整っていくはず。
夕方近くまで作業を続け、ハーブ塩がなくなっていることを思い出して、さらに買出し。二十年住んで初めて乗るバス路線を試して白金台まで直行。ここのスーパーが一番近くでハーブ塩(詰め替え用小袋)を売っている。
夕餉を済ませた途端にゲリラ雷雨。この激しさは久しぶりではあるまいか。
 
某日、お嬢に叩き起こされたのは午前四時、しかし意外にも昨日ほど障害は起こらず、午前中は淡々と作業に従事。BGMはアソシエイション、カン、スライ、ヘッズ。
終日作業。疲れ切って夕方、前日のウィークエンドサンシャインはリー・ペリー追悼。夜はバラカンビート。スペシャルズの新譜がよくて購う。
 
某日、再び午前四時にお嬢の呼び出し。二日連続は堪らず、午前中をほとんど廃人と化して過ごす。作業は昼から集中。夕方、サンソン。二十九周年とのこと。夕餉は出前きしめん。とにかく暗くなると体が痛くてたまらない。スペシャルズ新盤届く。全体に大人になるとはこういうことかとしみじみ思う。昔から家族経営的なところがあったが、ジェリー・ダマーズが抜けても基本は変わらず。カヴァーの選曲さすがという他ないセンス。
 

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某日、昨夜来ネットが安定しないが今朝になってもFacebookは落ちたまま。朝餉も食えないので起き抜けから作業を始めて数時間経つ十時過ぎ、ふと気づくと全篇シーンが繋がっている! いや、あちこちバラバラに書いてきて繋げてなかったのだが、この辺で、と繋ぎ始めたら、あ、ここを埋めたら、なんてことをして気づけば繋がっていた! いや、正直不完全版ではあるのだが、というのも音楽のヒントも中途半端だし、演劇やバンドの演し物も現場まで保留にしてあるからだが、それでもここまででやれることはやりおおせた感じなのでとりあえずの脱稿としてよいだろう。四月の初めからほぼ半年、原作ありとはいえ久方ぶりの単独執筆、もちろん入院生活もあり集中できたのはその半分ほどでしかないが、ともあれ終わった。終わるとなんだか爽やかな気分になるもので、病院もさして苦ではなくなり、帰りに渋谷の会社に寄って作業、東急本店で伊豆用の眼鏡を作り、バスでペットショップへ買出し、とフルコースを難なくこなしたのだった。
そんなわけで本日はもう何もしないでいようと思う。世間は007に賛否両論だが、あんなロシアの殺し屋みたいなボンド、一度も見たいと思ったことがない。それより何を血迷ったか、四度目になるのか、『カラマゾフ』に挑戦してみようかと。というのも偶然、亀山訳を購ってあるのを浚渫したからだ。さすがに一度も読み通さずに人生終わるのは忍びない。
いつの間にか寝ていて深夜目覚める。眠る前に来年の前哨戦としてオーネット・コールマン『タウンホール1962』をYouTubeで聴いた。ジャズを真面目に聴くのは、あれは『AA』編集中だったか、エレクトリックマイルスを掘り下げた頃以来、言うまでもないがやはり奥が深い。もういい、とかわかったとか、一旦思ってもその時どきで考えることは変わるし角度も変わる。グールドが『ゴルドベルク変奏曲』について「終わりも始まりもない」というようなことを言っているのをTwitterで読んで、ああそれで何度聴いても飽きないのかと合点が行った。起源を問わないことの気持良さ。逆に、ずっと以前からそうだったのに今始まったように言うことが多くてうんざりするが、それは情報弱性というより記憶への意志が弱すぎるのではないか。先述の007とか品川駅の『ゼイリブ』問題とかも、そんなの百万年前からそうじゃないか、と呆れる。自民党には期待ができないって今更言うことではない。一方、京都のミニシアター問題も段階が進んだようで、口を挟む余地はないがただただ胸が痛む。これが真に解決することはあるのだろうか。全ての人が傷ついて誰もいなくなり、管理体制の行き届いたシネコンだけが残る、私たちはそんな未来を望んできたのだろうか。被害者のコメントもあったが、些少とはいえギャラを受け取った上に当事者以外の嘴にさえ常識を疑う的物言いでカサにかかり、これまた同情の余地がない。関係ないなあとそっぽを向きたくなる。寒々しい。
 
某日、そういえば昨日乗ったタクシーは二台とも外国人運転手だった。行きはたぶんイギリス人男性、帰りは韓国人女性。割合日本語は達者。道はそれほど詳しくはない。
本日も病院。痛みの原因については不明、ただ鎮痛剤を飲めとのみ。経過については、これはもう一気呵成に解決してしまおうという検査を再来週行うことになる。ここまで引っ張る理由はそれなりにあったのだろうか。
映画に行くつもりだったが、眼鏡を忘れ、断念。どうせ明日には新しい眼鏡でもって見ることができる。帰宅して身辺整理して読書。チェスタトンは一九〇八年発表の『木曜の男』ですでに映画を比喩に用いている。初めて小説に文章表現として映画を使ったのは誰だったのだろう。まあ一九六〇年の翻訳が読ませる華麗なるアクションシーンの、堂々たる活劇っぷりを前にすればそんな瑣末な事実などどうでもいいことだが。
キネ旬を七ページの対談を読むためだけに取り寄せ、「愛」の一語と、これはどこ?と目をみはるお二人の歓談写真に、思わず笑う。二十二年一日の如し。しかし河野真理江氏の予期せぬ訃報。文字通り悲報である。
そしてこれは悲報とはおよそ無関係の、またそれらの豊潤な時間の流れとも無関係の、お粗末かつ滑稽の極みの京都ミニシアター問題の顛末。あまりに幼稚な結末に金輪際耳を傾ける気も失くした。あんな物欲しげで暢気な連中と同業者と見られるのさえ心外だ。おまけにその会社で新作を作った監督は映画祭上映を無邪気に喜ぶポーズ。どれも信じ難いので今後は無視することにする。夕餉の後、鎮痛剤を服用したら見事に眠り、深夜には見事に痛みは治まった。鎮痛剤を服用して良き読書良き映画鑑賞良き音楽鑑賞をして誰に読ませるでもないものを書いていればそれで満足な余生を送りたいと思う。
 
某日、朝から不快な出来事だらけでうんざりする他ない。唯一、東盛あいかの新聞コラムだけは心を洗われた。「ウサギ兵隊」はたぶんダウン症だったのではないか。
うんざりしながら渋谷へ眼鏡を取りに行き、ギター屋とCD屋を覗いて『アナザーラウンド』。大筋はわかっていて娘がインの数日後に事故死した裏話も知っていたので、そういうつもりでしか見ることはないが、この人はなるほどいまだに「ドグマ系」と呼んで差し支えない作風を保持した数少ない作家というべきなのか、そう言えばハーモニー・コリンもかつてそちらの流れで作ったことがあったはずで、作法は変われどその二人がアディクトを題材に新作を作ったというわけになる。当方、すでに数年前、これについてはフィクションではなくドキュメンタリーでなければなるまいと判断、そういう作品を大学の軒を借りて作ったが、あれのおかげで死なずに済んで今日がある気もするので決して他人事ではないのだった。ニューオリンズの酒で壊れるのはいいが、そこでかかる楽曲があまりにダイレクトすぎてもう一つ乗れなかった。あと、船で旅立つのは結構だが犬を道連れにするのはさすがにいただけない。猛省を促したい。
夕餉は敗戦処理にしては悪くない炒め物。夜更け、寝かかっていたところで地震・震度5強は十年前と同じとか。震源は千葉。特に被害なし。
 
某日、忘れていたが前夜にコルトレーンの六五年八月一日ブリュッセルのライヴというのをまたもYouTubeで聴いた。マッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズ、ジミー・ギャリソン。モダンとフリーのはざまがこれか、という印象。一曲目がやたらよかった。
昨夜の地震は各地に影響を及ぼしているが、私にはとりあえず何事もなく。午後、武蔵小山にふらりと。珈琲豆と茶葉が目的で、焼鳥と餃子を土産に。前回も出くわしたが、アーケードをぼんやり歩いているとすれ違いざまに「真ん中を歩くな!」と怒鳴るおじさんがおり、おじさんといって私とどれくらい違うのか、顔も見ないので不明だが、とにかくそういう人がいる。駅前の東急ストアはうちの最寄りよりも若干品揃えが良い。
途中で思い出し、帰宅してから健康保険証を探す。役所に電話して確認、届いたはずだが入院中につき散逸していた。結局勉強部屋から発掘された。
ともあれのんびりした温かな一日。
夜、ホキモトと電話。ジャズの話。もはやジャズではないとか、もはやリズムではないとかそのような話を中心に。最終的に「もういい」ということにしかならない、など。
 
某日、非常に心の余裕を持って朝の支度ができたのが嬉しい。味噌汁も魚も旨かった。ずっとウィークエンドサンシャインを聴きながら作り、食べたせいだろうか。
スペシャルズ『アンコール』恐ろしくいい。これに気づかなかったのは不覚だった。先日のカヴァー集同様、名盤である。一昨年に出たようだが、新作や韓国行などで世間的な情報にまるで疎かった気がする。それに比べれば今年はよく勉強している。
勉強ついでに「復習するは我にあり」シリーズ。半藤一利『昭和史』を復習する。『カラマゾフ』読破と「並行」してこれ。シベリア出兵からノモンハンまでをもう一度頭に入れたくなった。で、読み直すのだが、始めるなり「ああそうそう」と思い出すことだらけで、つまりそれらが今もなお繰り返され過ぎているので、これまで何を勉強したか忘れそうになっていたのだった。そして昭和へ向かう道筋の端緒に大久保と「日本」の攻防を再発見するが、それを語る現代史にまだ出会っていない。
夕餉にレトルトカレーを食してのち、いつも通り全身に痛み。鎮痛を施せば催眠。
 
某日、午後までこれといったこともなく好日。Facebookで四年前にこりんがうちに貰われて来た日だと知る。あいつの本名は「青山体育の日」にしよう。
午前に仕事場へ出かけた女優とぱるる、こちらが買出しの間に割合早めの帰宅。どうやら「労使」間の問題が起きているようで、しかも「使」のみならず「労」にも問題ありと発覚、など最近よく聞く傾向の話。スタッフ参加したぱるるも心中穏やかでなし。
とうとう生で見る機会を逸したまま小三治師匠が逝った。無念。
半藤(まず反動と変換される)『昭和史』は同年齢のスイス人の試みと同様に講義形式で進行するが、あれと違うのはどこか言い切れずに残す旧世代ならではの蟠り。やはりシベリア出兵についての言及はない。もう一人の同年齢だった人はその死の一年前、息子に向かって、近現代の肝はそこにある、と言い残したが。
バラカンビートではポール・サイモンが非常によかった。20枚ぐらいあるのか、ソロ作をこれから聴く余裕が自分に残されているかどうか。
 

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某日、なにやら急に、あとどれくらいの時間が自分に残されているのか気になる。当然六十五までは八年を切り、その辺で二〇二〇年代も終わり、世間がどうなっているか知らないが、それまでにいま懐に隠してある企画が皆成立すればいいが。読書はかなり進んでいるのではないか。今日はいい日和だが体調がひどく、指先まで痛みが走り、痺れる。薬を飲めば和らぐだろうが、いつか効かなくなるのを恐れてなるべく頼らぬよう我慢する。それでも痛いので何もできない。本当は自転車で新しくできたペットショップに行って在庫の確認をしようと思っていたのだが。
最近知った五十年前のアシッドフォークを。エリカ・ポメランスとリンダ・パーハクス。そういえばここしばらくアニマル・コレクティヴとかディヴェンドラ・バンハートとかの名前を聞かない。代わりにHiatus Kaiyoteが現れたと考えると、Bialystocksの立ち位置も何か見えるような気もするが。
そうして数日サボったが『木曜の男』読了。この大活劇は映画化不可能だろうがその事情は「日曜」をオーソン・ウエルズ以外の人間に演じるのは不可能というのと変わるところがない。エンディングの美しさ(ライラック)は今度こそ記憶に刻印された。
陽光が夕焼の色に染まり始めた頃、キリキリと刺すような痛みがピークに達し、気絶するのではないかというほどで、ほとんど記憶を失うくらい痛かった。父が帯状疱疹のとき悲鳴をあげていたが、あれはこういうことだったのではないか。ロキソニンを飲んで夕餉前にどうにか治める。暫し呆然。夜更けにまたネズミ。茶々丸が咥えて何処かへ連れて行った。
あちこちで読める追悼文に触れるにつけ、小三治師匠もスライ主義者であったと知る。抽象的な意味でだが。
 
某日、起き抜けからそんな気がしていたが、家族での伊豆行は延期、改装工事があるがそれには私一人立会いとなる。たんに女優は働き過ぎであって、とてもではなく体力的に無理という顔色。夜更けのネズミ騒ぎでぱるるが寝付けず、何度か起こされた経緯もあった。小雨もよいのドン曇り、世辞にもドライヴ日和とは言い難い。
身内周囲で映画『ONODA』肯定論が喧しい。未見の身で口を挟む余地はないが、触手が伸びないのは変わらない。擁護するならこちらを動かしてみよと言いたくなる。「戦争なき戦争映画」なる言辞が見えたが、実際の小野田の行動は戦争そのもの、戦争のはらわたというに等しいのではないか。そういう者を描く映画が良いというなら上手く説得されたい。
伊豆はようやく伐採の騒々しさを忘れたか、鳥も栗鼠も戻ってきてくれている。小綬鶏が大きな声で歓迎してくれた。一番手前の幹を地面ギリギリまで降りてきた栗鼠は相方を頭上で待たせて何をするつもりなのか。じっと観察しているうち陽が翳り、雨が降り始めた。そして徐々に体調が落ちていく。どうにか収まりを突いて買出しへ。大量に買いすぎて重みで悲鳴を上げそうになるが、小糠雨の落ちる草々が街灯を照り返して輝くのがまるで自ら輝く洞窟の財宝のようで、目を奪われ、夢見心地で帰宅できた。
広島でまたジャン=フランソワ・ステヴナンの特集があるのだが、さすがに三泊する余裕はなく、TIFF直前なのでそこでうっかりウイルスなど頂戴しても、というわけで断念。縁があればいつかは会えるだろう。
先々週には届いていたザ・バンドのセカンド、開けて吃驚、二枚組45回転だった。とにかくリヴォンの音がスコーンと抜けてくる。しかし「オールド・ディキシー・ダウン」以降はベースがずっと地鳴りを起こし、リチャード・マニュエルのファルセットに、これまで低いダミ声をメインに考えてきた自分史上初めてそれを全面的に受け入れた気がする。全てが美しい。
何かとても気分が良いので夕餉にちゃんぽんを食した後、カルネ『北ホテル』。初見。特に何というわけでもない話だが、それもまたよし。場末の安ホテルに行き交う人情の機微を描いてみたいと凡庸に願う。運河のセット、北駅のセットなど美術の秀逸さは今更断るまでもない。ポーレット・デュボストがやっぱり可愛いのだが、『ゲームの規則』の方が後だとは思えないほどぽっちゃりしている。この手の市井の芝居は日本だと定番の小ネタなど出てきて見慣れた感じがしてしまうのだが、戦前のパリの場合妙に新鮮に感じる。ルノワールもそうだった。やはり先に『どん底』など見返すべきだったか。
だが今ここにはルノワールはなく、しかしもやもやと考えているうちに『ブレイブ ワン』というジョディ・フォスターの復讐もの。ニール・ジョーダンが決定的にダメになった作品として記憶してきたが今見ておきたかったのは、イザベル・ユペールについて考えるときに同時代のアメリカ俳優は、と考えてジョディが浮かんだのだった。もちろん年齢は私と黒沢さんほど違うが、俳優としてのスタンス、作品選びの自由度など近い気がする。で、この作品、初見時見限ったのはこうした復讐に対する過剰な拒絶が自分にあった記憶がある。その上でアクション描写に乗れなかったのだが、今回見てもその印象はさほど変わらない。ただ、拒絶反応は退いて、より冷静に考えることができ、やはりジョーダンの演出は良くないしシナリオも甘いところが多数見られるが、犬が戻ってくる救いがなにがしかであると感じた。人間同士の寄り添いをもはや信じることはできないが、動物なら単純に画になるということだ。『北ホテル』の自殺願望からの脱却と『ブレイブ ワン』(というタイトルが何しろひどい。ついでに音楽も、撮影=フィリップ・ルースロも趣味ではない)の絶望的な行き場のなさとを、別の形にはなるだろうが、こうした情動の帰結はやりそびれた部分と自戒するところ。
チーフタンズのリーダー、八十三歳で逝去。ダブリン出身ジョーダン作品を見たことは何かしら縁があったかもしれない。
 
某日、一時間ほど寝坊したので大工さんたちの到着に食事が間に合わなかった。電気工事を速やかに終わらせつつ、朝餉。工事、順調に始まる。
数日前からモノクロ撮影のことを気にして、ライカのスチルキャメラのモノクロセンサーのものを検索するが新品でほぼ百万。中古で三〇万前後。欲しいが手が出ない。悔しいのでメカスの『ウォールデン』を久方ぶりに、と思いデッキに載せるが結局DVDだとスタンダードが正確にかからないので諦める。やはりこのデッキはダメである。ボレックスやスクーピックの荒い画調が見たい。
工事の邪魔になるから音楽は終わるまで聴かないが、ウエイラーズ『キャッチ・ア・ファイア』のオリジナルを初めて聴くので「コンクリート・ジャングル」だけかけてみて、ああそうだったのか、と。直前にHiatus Kaiyoteをかけて、東京で聴くのとそう変わりなかったのに、なぜかウエイラーズは違った。気分的な問題か、しかし音の抜け方が違うとしか思えない。歴史的な音像の構築方法の違いか、それともたんにリー・ペリーの天才か。
昼まで雨の勢いとともに気温が下がり、陽が差した午後は少し温かい。だんだん体調は重くなって行き『カラマゾフ』原卓也訳のまま中巻途中から読み進めて我慢。五時に作業終了、同時に私も終了、ウエイラーズを本格的に聴く。CDだと音、良すぎるのではないか。
夕餉はベンガリーマトンカレーをようやく。美味である。肉とジャガイモがしっかり入っているのも嬉しい。そしてカルネ第二弾『霧の波止場』。大学に入って初めて見たカルネがこれだったような、しばらくミシェル・モルガンのファンだったような、遠い淡い記憶。犬のことはすぐに思い出した。アキ・カウリスマキとこの犬についてひとくさり話した記憶。そして日活アクションとはほとんどこれだったとかねがね考えてきたが、やはりそうだと反芻。ミシェル・シモンが金子信雄に見えて仕方がない。これ以外だとほぼ伊藤雄之助だとはよく言うが、これはズバリ、ネコさん。ラスト、犬が逃げ出せて何しろホッとした。『アナザーラウンド』もどうにか逃げ出すショットを撮るべきだった。この猛スピードで。
続いて、話題のクレイグ・ザラー『デンジャラス・プリズン』。物凄くゆっくり、しつこく動くドン・シーゲル、ってゆっくりでしつこいとそりゃシーゲルじゃないだろというツッコミはごもっともだが、近い冷淡さを持って殺傷能力としての暴力への愛とセンスを発揮しており、その点は非常に評価したい。速度がそうなのでもう一度見たいとは思わない、というか見る必要はない(シーゲルはあまりに急なのでもう一回見ないとわからないという側面もある、がショット自体はゆっくりだったりする)のだけど。ウド・キアーが彼自身のために用意された特別席で注文相撲をとってくれるのが良い。主人公が南部の人間だから、というキャラ設定も悪くない。脇の役者たちもからかってんのかと言いたくなるくらい立ち居振舞いが面白く、選択眼が冴えている。主題歌的にオージェイズも気が利いている。低予算の手を尽くし、殺風景でも余計な装飾不要。次の作品も楽しみ。
 

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某日、定刻起床・朝の仕事を終えて大工さんをお迎えし、ものの一時間ほどで残り作業は終了、美麗な客間が出来上がった。東京からネズミの続報、台所の一角に巣を作りかけたようだが、女優が無事撤去。そのままいなくなってくれることを祈る。
一方こちらではDENONのCDプレイヤーが僅か一年未満にしてイジェクトが故障。だいたいこのドライヴからダメになる。安物だからとかそういうわけでもなく、東京にあるBOSEだって高い金出して購ってもダメになる。ともあれここではあくまでもアナログがメインなので、修理せず抛擲の可能性大。
昨日は終日雨で今朝まで残っていたが、昼前に上がり青空が広がる。と、いつしかノラがやってきて日なたぼっこしており、こちらに気づいて空腹アピール。カリカリを供す。
『カラマゾフ』、そもそも冒頭から感じてはいたが、一人称の話者が中途半端に語りに介入する話法がとても苦手だ。ウディ・アレンのキャメラ目線での一人語りを思い出す。これが嫌いでこの大作を何度も抛擲してきた。今回はそれも我慢して読み続ける。
ダイソーとスーパーへ買出し。
思いつきだが、そろそろフォークナー『村』の翻訳を再開しようと思う。それには伊豆がいいのかもしれない。何しろ巨大な辞書が必要なので、身軽にあっちでもこっちでも、というわけにはいかない。心が疲れると不思議に翻訳をやりたくなる。
夕餉に宅独焼肉を食したのち、ドワイヨン『女の復讐』。このイザベルは本当に凄い。誰もついていけない領域にいたようにしか見えない。表情に一点の妥協もない。ここまで厳しくなるとこれは、監督含めということだが、追うのがやっとということになり、結果イザベルこそが幽霊ではないかという印象に陥る。だから、では最後にベアトリスが死んでいる場所とはどういう次元か、というかなり複雑な問題と向き合うことにもなる。公開時たしか二度三度劇場に足を運んだが、はっきり掴めていないし今もよくわかっていない。台詞を書き写した方が早い気もする。そしてビスタで収録されているが、これシネスコではなかったか。カイエ・ジャポン創刊号の表紙を飾った作品だった気がするが、その意味でも自分の原点の一つで、見直してもここへ回帰していく部分がかなりはっきり触知できる。いずれこれと向き合う必要があり、この段階で見直しておいてよかった。このあと『トマホーク』を見るつもりだったが、心深くまさぐられたのでやめておく。
 

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某日、久しぶりに二度寝してゆっくり起床、ぼんやりと過ごす。親友の還暦祝いにつきFBにメッセージを書いた。朝餉を食して買出しに出る。おやつを少々。昼寝をしつつ『カラマゾフ』の続き。夕刻になったので『トマホーク』。いやはや、デビュー作でこれをやられてはたまらない。カート・ラッセルのおかげなどと言っている場合ではない、大変なやつが現れたと大騒ぎしても不思議ではないはずだ。あくまでも静謐に、あくまでも慎み深く、しかしやることはやるという大胆かつ繊細な作家、S・クレイグ・ザラーを祝福したい。きっとこれは当たらなかったのだろうが、ほとんど『ワイルド・アパッチ』の足元に及んでしまった人に欠点などない。殊に音のセンスは(音楽含めて)抜群である。そしてキャストのセンスはやはり気が利いており、それぞれの芝居の簡潔さに惚れ惚れとする。妙な副題を付けるより原題Bone Tomahawkのままでよかったんじゃないか。何しろそれそのものが出てくるのだから、とこの作品をなんとか改めて世に問いたくなる。
ふと暗くなった窓外を見ると、ノラがあらぬ方向に警戒した視線を送っている。もうそれだけで変な声が聞こえてきそうで怖い。こんな気分にさせられるのは久しぶりである。あの喉に埋め込んである笛みたいなのは凄いアイデアだが、ああいうのを埋め込む部族とか実際あるんだろうか。
……夕餉にピワンのレトルトキーマカレー(美味!)を食しつつ、しかしあの穴居人の住居(斜面)など考えるに『ワイルド・アパッチ』より『アパッチ』に近かったな、その意味ではよりデビュー作的だよな、と考え直すこと頻り。本当はもう一本見たかったのだが、連日心深くまさぐられ、中止。そしたら外で遠くから何やらへんな鳴き声が本当に聞こえてきた。いやあ、勘弁しておくれ。
 

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某日、起き抜けから何やら理由もなく鬱がやってきて天候も下り坂、今日は早い段階から速やかに動いて家にこもってしまおうと決める。しかし頭がぼんやりしている状態での料理は禁物で、一年ぶりにスライサーで右中指の先をざっくりやってしまった。と同時に雨も降りだす。朝からちょっとした踏んだり蹴ったりである。
ほとんどヤケクソになって冷蔵庫の食材を全部鍋にぶち込んでうどんを食した。洗濯と掃除もして、雨中タクシーを呼び、家を出たのは昼をとうに過ぎていた。電車には間に合わず一時間を待合室の読書で潰す。電車内ではひたすら転寝。
帰宅するなり玄関に携帯電話が置き去りにしてある。そうしてキッチンはNZ騒動(カタカナだとどうも居心地が悪いので)からそれほど進展していない様子だが、ぱるるも猫たちも平気そうなので適当に片付けておいた。
朝の聴き逃しでウィークエンドサンシャイン。夕方だからいいけれど、朝からビリー・ホリディやらモンクやら坂本『MINAMATA』は週末とはいえしんどそう。私はいいけど。
菅田将暉を初めとする三十人近い俳優陣が選挙キャンペーンをYouTubeで行い、それは当然TwitterでもFacebookでも見ることができる。遅いとかもっと早くできなかったのかとか意見はあるだろうが、今やれることをやっているのは誰もが同じなのだからたんに受け入れるだけだ。中には日本でもようやくなどと余計なことをいう奴もいるが、それはMansplainingというものだろうに。


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某日、昨日からどうも眠気がひどくて、朝も起きれず、食後も気づくと転寝しているような状態。今まで伊豆に行って疲れを引きずったことはないけれど、今回はあまり労働してないのになぜか疲れを感じ、そこから眠りが誘発されている感じ。よく寝ているせいか、傷の治りが早い気もするが。
外は嵐と言いたいほどよく降っている。眠気は低気圧のせいかもしれない。
キッチンを自分なりに整理して、終日『カラマゾフ』。ミーチャがなだれ込む隣村のモークロエはどうやら実在するようで、その場所を地図上で調べたり、『ハムレット』の引用箇所を確認したり。午後は雨上がりに買出し。伊豆を探してもなかった『チリの闘い』のDVDがうず高く積み上がった底にあるのを浚渫した。そうこうするうちに陽が暮れ、夕餉を摂りつつバラカンビート。本日最大の発見はシャロン・ジョーンズのバンド、ザ・ダップ・キングスはエイミー・ワインハウスもやっていたという話。驚いた。しかし正にそのような音を感じていた。「ティアーズ・ドライ・オン・ゼア・オウン」がかかってエイミーの歌声が半笑いでお経の真似をしているように聞こえて、ちょっと泣いた。シャロン・ジョーンズの映画があることも知らなかった。
陽は沈み人生は続く。涙は勝手にかわくのよ。
バンクシー展にも行きたいし、ヴェーラのにっかつ特集も通いたい。要はいろいろとサボりたいだけなのだろうけど。サボり続けて生きて死んでいくのだ。
 
某日、朝の仕事を済ませてかかりつけで薬を貰い、非常に落ち着きのない気分で一日を始めることは不本意だが、そのような状況にじっと耐える。午後、打合せのため渋谷へ。山手通り中目黒界隈は歩道の工事が始まるので渋滞が起こり、タクシーは川沿いの道を選んだ。打合せは順調に進んだ。仙頭氏とステーキを食したのち、セルリアンでカフェ。新幹線が人身事故で滞っている。うまく帰れただろうか。
 
某日、日々落ち着かないが、取りも直さず病院へ。合間にだいたい『カラマゾフ』を読んでいたが途中から『ノモンハンの夏』がオーバーラップした。ほんのさわりだが。夜半、またも雨がきつい。
 
某日、朝になるとからりと晴れたが、こちらは検査のため昨夜から絶食。仕方なしに、というわけでもないが、コルトレーンとオーネット、それにエレクトリックマイルスという関係について考え込む。これは同じことをすでに何度も考えてあとは来年になって実際の音を聴いてさらに追求するが、スタジオ録音だけで考えようとしていたのを六二年タウンホールの例もあってライヴも検証材料とすることを決めた。
夕方にはTwitterにコルトレーンのTVドキュメンタリーが上がっていたのでチラリと見たが、エルヴィン・ジョーンズの語る「霊的」という話と最後の数年にアルバム20枚分の演奏を残したというその成果が彼について今持っている興味のすべてで、それが「最も尊敬する」というオーネットとどう絡み合うかを確認したい。言うのは簡単だが、それをわかったと断言する文献はたぶんない。間章はわからなかったと思うし阿部薫や高柳昌行はわかったところで死んだのだ、きっと。近藤さんはわからなかったふりをし続けた気がする。自分のやりたいこと、やろうとすることがそうではなかったから。もっと近藤さん自身の人生に近かったのではないか。だからもっと長生きすべきだったのだ。して欲しかった。
病院で検査。十一月中の手術が決定した。
阿蘇が噴火したり、新橋のビルが解体されるニュースがあったり、いろいろ。しかしどうもジャズのことが頭から離れない。ジャズのことというか、六五年以後コルトレーンとオーネットが出した音のこと。わかるということは体から立ち上る湯気のようなものだ。音の過ぎ去った後の余韻の中にしかない。うまくそれをやることとはなんの関係もない。マイルスはバカで、そうなろうにもそれが何かわからない。だが彼はやってしまった。やった後もわかったかどうかわからないが、どこでもないどこかに出ることができてしまった。しかし天才とはそういうものだ。
Bialystocks、ドコモCMに使われる。まあ断らなくてよろしい。
 
某日、朝から昨夜の続きで、この際フリー以前、というとこの場合コルトレーンに限定されるようだがそうではなく、あくまで六五年夏に線を引き、そこまでで聴いていないもの、聴くつもりのものを予習しようと考える。そして即注文。明日からジャズだ。しかも不意に水谷孝の逝去が二〇一九年という報が流れ、もう裸のラリーズを見ることは今世では不可能ということになった日に一区切りというのもある。そして文豪の死で当日の新聞記事を記憶している、川端とともに数少ない例である志賀直哉の命日でもある。
ともあれ本日は休みで天気もいいので午後に自転車の車検に武蔵小山へ行き、そこからバスで学芸大、街のオーディオショップを覗きたくて行ったが、まあよくあることだが定休日、そこから歩いて碑文谷に新しくできたペットショップ、場所が場所だけにオシャレっぽいがうちの半野良軍団の舌に合うものは稀少、ともあれ適当に購い、帰宅して再び徒歩で武蔵小山、時間までコメダ珈琲でシロノワールピスタチオがけミニサイズをいただきつつ読書、車検終わりで店へ。ランプが電池切れ、コンビニで補充し、また帰宅。
というわけでフリー直前の白樺派コルトレーンの3枚『至上の愛』『トランジション』『リヴィング・スペース』と同時期のオーネット『クロイドン・コンサート』が届き、早速順番に。その前を聴いたのは記憶にないくらいの過去なので、始まってすぐ「まだそんなことやってんの?」が率直な感想であった。そしてやってる当人も「もういい加減やめようね、こんなこと」と訴えているような気がしてくる。もちろんその後を想起できるが故にそんなことを思うのだが。最晩年のジミヘンにも同じことを感じたことがある。これは偶然だがどこにも「マイ・フェイヴァリット・シングス」はないのでホッとする。コルトレーンといえばあれが鳴る感覚が信じられない。鬱陶しくてしょうがない。ライヴの『リヴィング・スペース』一曲目、誰もついてくるなと全員ついて来いと誰もついて行けないが渾然一体となった稀有な演奏が、ソプラノのオーバーダブと相俟って異様に突出する。ここでもうコルトレーンは一人次に進んでおり、かろうじてジミー・ギャリソンが真後ろについていて、これは笑う。二人が志賀と里見弴に思えるのだ。マッコイ・タイナーとエルヴィン・ジョーンズはあくまで自分たちの芸を追求しているのでそれはとやかくいうことではない。しかしジリジリとその時は近づいているのだった、という感じは濃厚だ。
 
某日、朝になって『クロイドン・コンサート』を続ける。イントロに管の五重アンサンブルがあって、それからトリオ。めちゃいい出だし。分けて考えられていたようだがヘンリー・カウとか子供の頃から普通に聴いてた身としてはたんにひとつながり。要はトリオならば、はい俺のソロ、次は君のソロ、みたいになることがなくて、全員一気の「寄らば斬るぞ」的テンションでかかる。これぞフリーの極意。システムではない。トリッキーでもない。芸人ではある。コルトレーンに足りないユーモア。端的にいうなら、コルトレーン昨日の三枚は何か思い出して聴くこともあるかもしれないが、これは多分これからも何回も聴くだろう。先日『タウンホール』を聴いたときからああそうかと感じてはいたが、ようやくそれ以前を嫌ってきたオーネットと和解した感じだ。
と言いつつ聴き直したのは『至上の愛』で、つまりこれが最もポップなのだった。一曲目のへんなシュプレヒコール(コーラスとは言わない)を除いて。いや、あれもポップか。
買出しへ行き『カラマゾフ』中巻読み終えた時点で本日の体力が払底、夕餉を作る元気もなく朝の残りで済ませる。元気の出る内容でもないし。ただし、フョードルが本作を構想したのは現在の私と同年齢と改めて気づく。わからないではない。もう一つ、いわゆる「第二の小説」はアリョーシャが革命家となる話だったとか。さもありなん。そっちを先に書けば死ななかったかもしれない。
 

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某日、起き抜けから勉強部屋を整理、フォークナー翻訳モードに。寒くなってはきたがまだカーペットを敷くには早い。で、再開数行で早速困難な箇所に当たって音を上げそうになり思わず翻訳本を検索するが、現在三万円、とても手が出ずすごすごと原文に戻る。書き言葉はまだしも、話し言葉はお手上げである。だが面白い。私にとってどんなゲームより翻訳は面白い。夜半、一気に訳そうとせず短く切りながら繋いでいくとまがりなりにも意味の通る文章になったがたぶん間違っているだろう。もし合っていたらこれはえらく神秘的な小説ということになる。へんな言い方だが、それも案外フォークナーらしい文章。らしいも何も『村』の文に触れるのは初めてなのだけれど。
その前に昼、インタビューのために自転車で五反田へ行った。月永理絵がインタビュアーで黒岩幹子が編集として、大橋咲歩が弁護側の証人(笑)として付き合ってくれた。大変有意義な対話になって有り難かった。大橋にも来てもらって助かった。大橋の顔を見て話しかけながらでなければ思い出せないことばかりだった。書いてみれば、両親を亡くしてそこから恢復するまでの八、九年ということになり、すっぽりと311以後のディケイドに収まる話なのだった。私個人にとっては泥濘のような歳月としても、こういう作業を経てやっと次へ歩を進められる、とも痛感した。その意味でもこの試みに感謝しかない。
用意しておいた肉を焼いて夕餉を済ませ、翻訳にも疲れて、本棚の上のスペースを片付けてそこをCD置き場にする。ここ数日CDラックを購うかどうか迷った挙句。とりあえず収まり、まだ余裕あり。来年前半にはジャズだらけになる予定。
 
某日、日がな『村』と向き合っていた。だらだらと進めてほんの一ページできたかどうか、しかし一行ごとに発見があり、なんの得にもならないのに嬉しいものだ。以前に手に入れた『フォークナー事典』をついに紐解く日が訪れた。これまた嬉しいかぎり。どんなに時間がかかってもこれだけは最後まで訳そうと思う。
午前中は昨日のウィークエンドサンシャイン。エミルー・ハリスやベラ・フレック、コマンダー・コーディなどカントリーロックというか。『コンボイ』公開当時を思い出す。
夕餉とともにバラカンビート。ゲスト濱口祐自、個人的に訛りで大変盛り上がる。
しかし疲れて寝ていると全身あちこちに針の筵的痛みが走る。痛み止めを飲む。さらにクタクタ。ホンジュラスの部族の歌でどうにか慰められる。物凄い拍取りで、二度見的に驚愕。何度も戻して聴く。こんな時にあまり吃驚させないでくれ。
深夜、半ば気絶状態からふと目覚めると痛みは消え、快適で頭が冴え、気を取り直してオーネットを探り、六五年六六年の欧州ライヴをGCならびにコルトレーン『アセンション』とともに注文。ここでも思うがやはりフリーはどこかで見捨てられている。ジャズ好きなおっさんたちは演歌を聞くようにロマンを求める。だがいうまでもなくフリーにロマンは、心はない。というより心をなくすための音楽である。実は濱口祐自のブルーズもそうではないかと内心考えている。その意味ではそれらは究極の音楽だ。そして心をなくすことを心を持って文に書けるのは女性だけと思われるが、ジャズ批評は心ないおっさんの寝言に牛耳られている。ここでいう「心ない」は言うまでもなく前者と意味を違えている。いわばフリーとは脱性化の試みであり、無性の疑似体験である。リアルではないリアル。仮死というリアル。例えば五所純子さんの文章を読みながら、まさにそれこそフリー批評と感じられた。
今こそ女性たちの手でフリーは書き直されるべきだ。
 

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(つづく)
 


青山真治

映画監督。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、『空に住む』(20)など。

近況: 来年出版予定の書物、絶賛編集作業中! 配信予定の作品もあるし、批評関係も予定しています。いろいろ乞うご期待!