宝ヶ池の沈まぬ亀 第62回

読書と映画に加え、伊豆の別荘の草刈りと民族音楽オリンピックに明け暮れた青山真治さんの2021年7月下旬から8月にかけての日記。読書は『燃えあがる緑の木』(大江健三郎)を読了し、志賀直哉・藤枝静男・梅崎春生の諸作を並行して読み進めていきます。映画においてはケリー・ライカート監督作品から「ナイター」について考察し、さらにウェス・アンダーソン監督の新作『フレンチ・ディスパッチ』、ベネット・ミラー監督の『マネーボール』『フォックスキャッチャー』、黒澤明監督『どですかでん』などについて記されています。


62、志賀・藤枝・梅崎を渡り歩くノンアル一年目の夏



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『ウェンディ&ルーシー』
シアター・イメージフォーラムほか全国順次開催中の特集「ケリー・ライカートの映画たち 漂流のアメリカ」で上映



文=青山真治


某日、四日間をケリー・ライカート作品とともに過ごす。以下はその収穫のまとめ。


私たちは「ナイター」を知っている。それが和製英語であることを知っているし、最初は昭和のプロ野球、次いで映画製作の分野において使われてきたことも知っている。なぜプロ野球から映画に移植されたかは推して知るべしである。一九五〇年代、花形であったプロ野球を映画スタッフならずとも憧れ、真似るのは全く不思議のない話であり、モノクロ時代はもちろんカラーに移行してさらに魅惑の宵を描写するに時間と金をかけるのも、映画産業にとってごく必然的な話であり、それは現在も当然のように続いている。
どちらの産業にとっても「夜」は人を呼ぶ中心的な要素だった。もちろん「夜」は無料ではない。それが観客の耳目を惹きつけるには何より光がなくてはならない。昼のように明るい球場の照明塔は言うに及ばず、カラーだろうとモノクロだろうと夜の空間、夜の人々をフィルムに撮影するために数多くの照明が必要だった。フィルム感度が良好でなかった時代は特に強いライトが必要で、夜間それを浴び続けた当時の俳優には目を痛め、引退を余儀なくされた者さえいた。若き日のケリー・ライカートが心惹かれたと談話で語ったというライナー・ヴェルナー・ファスビンダー晩年の傑作『ヴェロニカ・フォスのあこがれ』でも重要なモチーフとしてその話題は扱われた。
繰り返すようだが、私たちは「ナイター」を知っている。そして「ナイター」には金がかかり、過酷な側面がある。それを承知で私たちは夜間撮影を行う。
しかしプロ野球にせよ、映画の夜間撮影にせよ、それを好む大半はどうも男性のような気がする。もちろん女性にも野球ファン、ノワール好きはいるだろうが。それともそんなことを気にしても仕方がないだろうか。
ちょっと「ナイター」を離れてここ三十年ほどのアメリカ映画についてざっと考えてみる。九〇年代、現在活躍中の作家主義的に注目される、という区分が正しいかどうか知らないが、ある種の映画監督たちが、規模の大小はあれどその第一作を完成させている。タランティーノ、ライカート、ジェイムズ・グレイ、デヴィッド・ラッセル、ノア・バームバック、ウェス・アンダーソン、ポール・トーマス・アンダーソン、ハーモニー・コリン。そのしんがりにソフィア・コッポラ。約十年間にこれほど多くの作家が登場して三十年後の現在も活躍を続けているのは、四〇年代末からの十年を例外として、いささか珍しい事態かもしれない。実際これ以降の二十年にもこれほど集中して作家が登場した例はない。この中の多くはその後も精力的に活動を続け、一方このうち二人ないし三人はその後しばらく沈黙する。
ライカートの十年の沈黙は殊に長い。思いつきで調べたが、ロメールが『獅子座』の後の短編・中編はあるにしても第二作の長編『コレクションする女』まで空白を置いた期間よりさらに長い。その間に次々と新人が現れ、同時期にデビューした連中は二作目、三作目を作っていく、その気分はどんなものだったか、尋常ならざる「追い越され」の焦燥感だったかどうか。ロメールなら何か言ってくれただろうか。
そしてその十年間ライカートにおいて何が変わったか。『リバー・オブ・グラス』と『オールド・ジョイ』の違いは何か。まず舞台が変わった。今年の『ビーチ・バム』人気も何かの縁か、故郷マイアミで撮影した第一作の十年後、キャメラはオレゴンの山岳地帯に居を移し盤石の構え。次に人物たち。第一作は子持ちの主婦と風采の上がらないダメ男のひょんな道連れ、そこに拳銃を忘れる刑事として主婦の父親、その同僚たちなどそれなりに癖のある顔ぶれが画面を右往左往する。『オールド・ジョイ』でも妊娠中の女性は冒頭に画面を横切るが、すぐに男二人の夜間ピクニックへとスライド。そこに一匹の聡明な犬が参加する。名前はルーシー。違いがあるとしたら何よりこのルーシーの参加が映画話法にもたらした異変、これに尽きると思う。どちらかといえば、人間より犬のことを基準に置いた映画作り、それがもし可能ならと考えたとき、例えば「ナイター」がどのように変化するか。ルーシーに膨大なナイター設備は必要ない。それより映るか映らないかギリギリのところを攻める方がルーシーらしい。焚火の炎など燈体が画面の何パーセントを占めるとゴーストを含めて見えたり見えなかったりする対象が発生するか、こう言ってよければプリミティヴな光学装置=機械の事情が与える作品へのそのような影響、それを意識させないのがそれまでの商業映画だったとすればその枠組みを超えてしまうとどうなるか、など考えることがルーシー的な映画作りである。第一作の夜のプールサイド(約十年前のジェイムズ・フォーリー『俺たちの明日』のそれとも比較可能)と第二作の夜営、さらに第三作『ウェンディ&ルーシー』の焚火を比較すると、ルーシーの映画話法のABCが見て取れるだろう。ルーシーの「ナイター」は基本的にノー・ライトである。この世代の映画を目指した人の誰もが試みるように、ほとんどジョナス・メカス的というべき照明の感覚。ルーシーは、というのもいい加減白々しいのでライカートは、と言い直す(それをライカート自身の発案と決めつけるのに若干の抵抗があるから)が、殊に繊細にこのことを試みる。第三作の野宿場面など、ほとんどそのために作られた勇猛果敢なシーンで、見ている間じゅう緊張感で手に汗握る暗黒のクローズアップ切り返し。直後にトイレに駆け込んだウェンディの反応は観客としての私自身のものでもある。
ところで、その結果、何が起きたか。「ナイター」を二分する、ひいてはアメリカ映画全体を二分する天下分け目の戦い、かもしれない。
何があったのか、それはわからないが、2012年に撮影監督ハリス・サヴィデスが逝去し、担当していたソフィア・コッポラ『ブリングリング』のキャメラは助手だったクリストファー・ブローヴェルトに委ねられた。サヴィデスはもちろん21世紀以降のガス・ヴァン・サントの映像を一手に引き受け、当時の画面的期待を一身に担った撮影監督だが、ブローヴェルトは2010年のライカート第四作『ミークス・カットオフ』でキャメラマンデビューし、二作目『ナイト・スリーパーズ』はヴェネチア映画祭に出品された新人、『ブリングリング』と前後して製作されたこれはライカート第五作でもある。これらの共通点は「ナイター」のライティングの着想であり、それは先述した『オールド・ジョイ』にその淵源を持つ。
その時点ではまだよかった。しかしそれ以後はそれではすまなかった。ごく当然のように公開される作品群の隙間に現れたそれらがどのような影響を与えあったか、それともこの現象自体が同時発生的だったのか、以下に羅列する作品群たちが近しく持っている「ナイター」の感覚を想起してみてもらいたい。『ウィンターズ・ボーン』『セインツ』『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』『アメリカン・ドリーマー』『ライフ・ゴーズ・オン』『メッセージ』『ロスト・シティZ』『さらば愛しのアウトロー』『ドント・ウォリー』『オン・ザ・ロック』。
中にはデヴィッド・ロウリー、J・C・チャンダーといった、先述した九〇年代デビュー組のその十年後に第一作を撮る若手の名前も混ざっている。ごく曖昧な印象に過ぎないが、これらの多くに二人のキャメラマンの名前、クリストファー・ブローヴェルトとブラッドフォード・ヤング、さらにはハリス・サヴィデスとガス・ヴァン・サントに関係する名前を見つけることも可能だ。間も無く日本でも公開される『ファースト・カウ』のためにもこれらのタイトルが喚起する画面の感触を、それらが他の多くの、これまでどおりの「ナイター」を撮影し続けるアメリカ映画とどう異なるか、記憶の片隅で翻らせておいて損はないと思う。ここに不勉強にして未見だが『17歳の瞳に映る世界』(まるで見る気の起きないタイトルばかりの最近の若手邦画とは比較にならない「ありえなくたまにときどきいつも」という抜群のセンスの原題だが)や『プロミシング・ヤング・ウーマン』を加えるべきとの声も聞く。
ここで何かが起こっているようだ。


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『ミークス・カットオフ』
シアター・イメージフォーラムほか全国順次開催中の特集「ケリー・ライカートの映画たち 漂流のアメリカ」で上映


 
某日、午後にホキモトと会う。バンドの現況、第五福竜丸の話、室戸の話、密林に隠棲した小野田の「悪行」の話、など。
区役所で書類申請。帰路、中目黒ライフで買出し、薬局でうがい薬。
西アフリカ。ニジェール、マリ、ブルキナ・ファソ、ガーナ。どれも最低限の素材で最大限のリズムを生み出す。単純にシンプルなどと言ってくれるな。76年録音。南インドは六〇年代後半、録音場所は不明。即興というのは信じがたい。めっちゃ練習してる感じしかしない。タンブーラがヴァイオリンとムリダンガムとヴォイスの壮絶の奥に引っ込むのだけどずっとドローンを奏でていることに感動。これがインドの瞑想である。
夜半、咳こんで苦しくて半ば気絶するように眠る。深夜起きると雨。台風である。
 
某日、朝から二日遅れでサンソン、「サマー・イン・ザ・シティ」の音の良さの秘密が語られ納得、ジェイムスタウン・マサカ「サマー・サン」良し、レターメンの「夏の日の恋」はかつてからヴォーカル版あるはずだと訝っていたのがこれ、と色々と発見あって充実。ノンサッチはバルカン半島。まさに文化のるつぼであり、東西南北あちらこちらから流れ込んではミックスされ昇華される。録音された68年にはこれほどハッピーだったかと微笑ましいが、クストリッツァの戦闘シーンに同じ曲がかかれば陰惨はいや増す。
本日台風につき安息日と決め、家から一歩も出ず。
『ナイト・スリーパーズ』最初の30分だけ見る。ジェシー・アイゼンバーグとダコタ・ファニング。どちらも大スターのような旬を過ぎたような、微妙な立ち位置にも感じられるのだが、そのせいかズバリ当人たちの感じがなく、非常に匿名的な新鮮さを感じる。アイゼンバーグの神経質な無表情は『捜索者』のジェフリー・ハンターのものだ。
調子が悪くて夕餉をぼそぼそ食った後、特に何もせず眠り込んでしまった。深夜に目覚めてあれやこれや。他人のSNSを見てイタリア映画やら小栗上野介やらが気になっていくつかを贖う。前回の当日記のゲラ、毎回いくつかの写真は集めてもらうのだが、今回も秀逸なものが揃う。直しを確認したところで近況欄を「特になし」としたが、実は8月4日に『空に住む』のソフトが発売になることに気づき、これを加える。
 
某日、仕事に出る女優を不眠のまま見送り、悪天候ゆえ延期した伊豆行きを再検討。明日から数日間の晴天に希望を託す。庭の雑草が背の高さほどにぼうぼうだと思うとどうにも行かずにいられない。
『ナイト・スリーパーズ』の続き。やはり手つきが自分と似通っていることは否めない。せっかく濡れた靴を大写しにしても一切伏線として機能しない徹底ぶり。相変わらず「何もない」画面外に朦朧と視線を馳せ、相変わらず気の利いた接写のシュールリアリスムで人は死ぬ。面白い!と太鼓判を押すような作風でないことはよくわかっているのでむしろその独自性の妙味を味わうのだが、過不足ないのに決して人を和ませないゆったり感はやろうとしてもなかなか真似できることではない。アンチスペクタクル、アンチクライマックスを徹底しつつも周到に冗長さを回避する洗練こそ監督の力量というものである。面白さに背を向けることが矜持の人、なのに面白いのでは仕方ない。強いて言えばアメリカ版ブレッソンということになるか。いや、やはり誰とも似ていない。それにしてもジェフリー・ハンターみたいなジェシー・アイゼンバーグとリリアン・ギッシュが言い過ぎならエディット・スコブのようなダコタ・ファニングは、そう何度も実現するようなコンビではないだろうがぜひまたライカート作品で見たいものだ。今度はぜひ西部劇で。
元参議院議員江田五月逝去。中途半端な、またはひ弱いリベラルはこの人あたりから始まったという意味ではいまと変わらない、というかいまの原型みたいな人だった。それともそれでもいまよりはマシだろうか。
午後、ぱるると遊んだ後バス停にして三停留所ほど先のペットショップへ徒歩で買出し。
本日の都内陽性3177人。一刻も早くここを出たい。ゴミを捨て、荷物をまとめる。
 
某日、朝の天候と体調次第と思ったら女優の具合が優れない。しかし病人が独りでいたがるのは皆同じと判断し、こちらもむしろ都合よく出かけることになる。
いざ出かけるとあっという間。
いつも通り12時8分の特急二時間、今朝のぱるるは午前3時から活動していたのでうたた寝は仕方なく、しかし寝過ごしもせず、これは二ヶ月弱ぶりの雑木林である。
パッドの電源は完全に切れていたので、のんびりと充電。エアコンも一つ一つ試運転。
買出しからチベット第三弾。やはり伊豆で聴く格別感あり。象でもいるんじゃないかと思われるような爆音。そりゃあヒマラヤ越えて詣でるよ、象も。そういえば西伊豆でツキノワグマが百年ぶりに発見されたとか。
本日の都内陽性3865人。このまま5000人とか行くのか。それでもやめないのか。
日暮れてカナカナが鳴き始めるのと同時にブルガリアンヴォイス。無機質な音響どうしが呼応し合う。誠に面白し。虫に間違いはなく人間はちらりと間違う。それもまた良し。こんな面白いものがあるのだからまだまだこの世も捨てたものではない。
夕餉に冷凍のソーキそばを食した後、アナログでエクスネ・ケディ。お見事。ロック的自分史のかなり古層を鑿岩して覗き見る按配。数々のバンド名が浮かぶが、おいそれと尻尾を掴ませないところがまた小憎らしくも痛快である。いっそのこと映画に出してしまうべきではなかろうかと某所に相談を持ち込んでみた。
あとはDVDをあれこれ部分的に。『空に住む』『グランド・ブダペスト・ホテル』など。
 
某日、夜は実に快適な室温で涼しい風も通りエアコンなしで眠れる。少し遅くまで作業して朝は6時半まで眠った。スープと粥と魚でいつも通りの朝餉。のんびりしているうちに何も焦ることはないだろうと草刈りを延期する。背の高さほど伸びた草叢というのは妄想で前回とそう変わりなかったため。本日はゆっくり読書して過ごすこととする。
夕方陽が緩んだところで三十分ほど玄関周りを草刈り。前回は松本勝が使用した電動器具を用いての予行練習。腰が痛いと泣言を繰り返し聞いた気がするが、割合あっさり済むようなものだった。まああの時は二日連続、半日ずつやったわけだが。
 

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昨夜もやってきたのであり合わせを出してやった野良氏だが、もはや入り浸り、と言うほどではないにせよ、掃き出し開けてたら入ってくるのでは、というほど急接近。夕方、もてなしの品が払底し困っていたが、一つ古いのが見つかり、それを渡した。だが、満足するかと思えばまだ居座っている。俺は帰るよ、そのうち。
 

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こちらも夕餉の後しばらく休んでトニー・ジョー・ホワイト『Smoke from the chimney』。残念なことに一曲め冒頭だけ針飛びしてしまうのだが、相変わらずギターの音が途轍もなくよろしい。本人はそれほど弾いていないけど。だが楽曲も全てTJWそのものだ。しかし2021年作品が解せない。録音年クレジットがない。最晩年のものということだろうか。
エレン・マキルウェイン『ホンキー・トンク・エンジェル』。ここにもまた名人が。強烈にカッコいい。そうだ、今回のメインミッションはアナログだった。ということで引き続いてヴァン・ダイク・パークス+ヴェロニカ・ヴァレリオ『オンリー・イン・アメリカ』。やはり途轍もない。とんでもないところから音が飛んでくる。
勿体無いので今日はこのくらいにしておこう。
本日の都内陽性3300人。
深夜『燃えあがる緑の木』読了。この日本の(しかも大江の)小説らしからぬ淡泊な印象は最終行まで続き、一見ザッパクではないかとさえ思わせたが、その実ほんの小事件(幼児が人工湖で溺れかけるとか)を何ら伏線に交えず置くような現実の処理のあり方を全く嫌いになれない(むしろ『懐かしい年』のどこまでも濡れそぼる感じはいま思えば苦手)のだった。これもひとえにサッチャンという語り手の個を徹底させた勝利と思われる。映画好きなら冒頭のオーバーの死から『ウエディング』を想起し、主要人物総勢百人前後という本作の器を予測しもするだろうが、アルトマンにも性転換の語り手はこれまでなかったのではないか。終幕は『砂漠の流れ者』を思わせた。その上に長い作品で、実際読み終えるまでの時間も長くかかった(中断も入れて五ヶ月!)が、このサッチャンという人物にすぐに寄り添えたおかげで無駄な重さを感じたりはしなかった。いきなり「この項つづく」と中野重治が放り込まれるのも文学的アクションとして好ましい限りだった。
 

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某日、朝餉前に草刈りを三十分ほど。長めの雑草がいちいち回転軸に絡むのが難点。
朝餉中から人類史上最強のポピュラーミュージックの一つ、アリーサ・フランクリン『アメイジング・グレイス』を聴き続ける。一呼吸一呼吸が美しい。「ちゃんとやんないとあの人がどっかいっちゃったら大変」という危機感は、たぶん然るべき時代の黒人女性歌手にのみ備わったソウルであり、これによってアリーサは人類史上最強と化す。「あの人」とは一家の柱である父親であり、財布の中身を引換に自分を満たしてくれる恋人であり、そして神である。何れにせよ男だ。もちろん旧弊で間違ったソウルであり、そんな事情で何人もの優れた女性ソウルシンガーが若くして亡くなったが、しかしそうした悪、間違っていることを音楽は拒絶しないどころか、むしろそれこそが豊穣を生む肥やしとなってしまう。悪を全否定すればソウルは痩せ細る。この神の前の悪の吐露、懺悔にこそ最も可憐な花が咲く。そこにシンガーたち独特のリックがある。アリーサのリックはもちろんアリーサにしかないものであり、このライヴアルバムはそれが最大限に爆発した作品である。
午後、駅の海側の別荘地を散歩したら、すでに何度も行っている界隈だった。ひどく通俗化しており面白くないので盲滅法に歩いてみる。とはいえ大した距離でもないのでもちろんやがて見知ったあたりに出る。カインズ、ミロ、スーパーで買出しして帰宅。えらく混んでいるので不思議だったが、本日は週末だった。汗だくにつき入浴。
都内陽性4058人。まあもう当然みたいなリアクションのみ。
眠い。
そんなわけで夕餉の後、ふと横たわったら三時間ほどうたた寝してしまった。心地よい眠りであった。昼の三時間の散歩を夜にこうして取り戻す。
本格的に眠る前に『グランド・ブダペスト・ホテル』の続き。終幕に以下のような台詞。
「正直、彼の世界は彼が来るずっと以前に消えてたよ。とはいえ彼は幻を見事に維持してみせた」このことのために本作は作られ、スペクタクルはあるがクライマックスはなく、全て語りが優先される稀有な例である。それを私は美しいと思う、シアーシャ・ローナンのように美しい、と思う。
 
某日、昨夜は結局そのままなんだかんだと夜更かしして今朝起きたのは七時半になった。最近では最も遅い。しかしこの休息を体が求めている自覚はある。
で、朝餉前に草刈り一時間。真面目にやればそれなりに進む。何しろ帽子にマスク、長袖長ズボン靴下手袋安全靴、腰には蚊取り線香ぶら下げての完全防備である。
朝餉は冷凍饂飩、洗濯、読書。
アナログでジャック・ニッチェのサーフィンもの、ジェイムス・テイラーのスタンダード。やはりいわゆるジャガー・ベース(六弦)をあの時贖っていれば人生変わったとか色々考えるが、まあ。そのようにモヤモヤしつつその人生も終わっていくのだ。JTを聴きながら、あれ、なんかこれ、と思ったらホソノヴァだった。でもホソノさんの方が偉い。そうやって超えていくこともある。
サンソン、そして一週遅れのバラカンビート。『ランブル』で感銘を受けたアメリカ原住民のコーラスグループがやはり感動した人からリクエストされ、かかる。Ulaliという名。あの時の驚きのまま、素晴らしい。
天気良すぎて、今日はエアコンも効果薄。都内陽性3058人。夕餉に蜆汁。
眠る前に『さらば愛しのアウトロー』再見。大いに考えごと。
 
某日、起き抜けから一時間の草刈り。やっと半分だが、充実。
休息しつつブルンディの音。いわゆるフツ族とツチ族の民族対立によるジェノサイドのあった国である。その虐殺以前の録音。これはフツ族による演奏のようで、太鼓あり笛あり弦ありと非常に多彩である。フェアポート・コンヴェンションの再結成ライヴ。完璧な演奏であり、現在世界最強というのはこういうバンドのことを言うのだろう。デレク・トラックス・バンドも凄いのだが、こっちの方が上という気がする。何というか背筋の通り方が。
午後からは雨。久しぶりに伊豆の低気圧のあり方にやられる。明らかに東京より重い。直接乗っかってくる感じというか。クラクラする。クラクラしながらこの日記の冒頭、ライカート考察を書いていた。
夕方これまた久しぶりに『ハッカビーズ』。ジョン・ブライオンの鼻につくスノビズムとノスタルジーが昔も今も心地よい。映画も同様にスノビズムが鼻につくがまあうんざりとまではいかない。ただどこかやはりラッセルにはミソジニー的なものがあってそれがこの人を好きだとは言い難くする。
夕餉は猪となめこ汁。昨日の蜆は読んだ小説のせい。都内陽性2195人。摂りながらジョン・ハッセル。最近の作品。
眠る前になんとなく見たくなって『アリー/スター誕生』。さすがに過去作と比較などとは思わないが、これはこれで悪くない部分もあり、ガレージから車を出して戻るあたりからフレームを腰の高さで切って追いかけるくだりなど、それなりに見ていられた。時々レディー・ガガがまるで無防備な顔でいるのも面白かった。しかしせっかくならアリゾナの故郷をほんの少しでも見せたらよかったのにと残念な気もした。エリック・ロスの元のシナリオにはあったのではないか。音楽家の話としてはブライアンの映画の方が上等だったと思う。
終わって気づくとSNSが荒れている。というか東京終了ではないか。


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某日、定時起床で早朝草刈り、ほぼ八割方終結。あと二回で庭完成、といったところか。まだ裏が残っているので全体としては四割に満たないのだが。
朝餉とともにジャック・ニッチェ。『The Lost 74 Reprise Album』というやつでCDでは持っているが、アナログがあるなら欲しいのが人情。いわゆるロバート・ダウニー・シニアの未公開映画のサントラだったように思う。A面の、昨日の『ハッカビーズ』的緩やかさに対して、どんどん現代音楽化していくB面が良い。続けてイーノの『Film music 1976-2020』。
イーノのせいというのではなく寝てしまう。伝え聞く医療崩壊に陥った東京に戻ることは愚蒙そのものだと思う。もはや犯罪集団でしかないこの国の上層どもに対する他人事のような怒りでは済まない、生命の直接的な危機と恐怖が身に沁みる。が、明日は病院の定期検診なので無理なく移動せざるを得ない。
洗濯、ゴミをまとめ、荷造りを終えるがなかなか動く気にならない。本日は吉田健一の命日(アイダ・ルピノも同日)なので小説として未読で残る『怪奇な話』から一篇だけ、とも考えたが、集中力を欠いていては頭に入ってくるものではない。結局二本電車を逃す。往路では眠っていたから見ることはなかったが、熱海の凄まじい惨状は電車からでも一瞬で感じ取れる。今も屋根が泥に浮かんでいる。品川駅は夕方ラッシュでごった返し、恐怖しか感じない。タクシーに飛び乗った。本日都内陽性3709人。
帰宅して緩んだのか、疲れ切ってとにかく眠い。夕餉の後の記憶なし。
 
某日、ぱるるは四時半から起こしにかかる。起きて行き、さんざん撫でてから少し食料を配給した。こちらは採血があるため十一時頃まで食事抜き。往路、首都高は事故渋滞につき初めて下道で行く。六本木通りから溜池で右、築地虎ノ門トンネルを抜け、環状二号は通行止につき場外を超えて右、あとは直進。時間も料金も首都高使用時をかなりオーバー。これがオリンピックである。精算後、タリーズにてリゾットを食してから電車とバスで帰宅。さらに午後、かかりつけで心電図。病院ハシゴの一日。
家で延々とノンサッチ民族音楽。メキシコ、ペルシャ、チベット、バリ、ジンバブエ。
なんかもうここから戻れそうにない気がしてきた。都内陽性4166人。
夜更け、TwitterにDOWSERが上げていたロキシーの2001年ライヴを久しぶりに見て、こんなことじゃいかん、やはり人間最後はガッツだと、やる気を奮い起こしたのだった。それにしてもロキシーは相変わらず素晴らしい。もうロックに戻ることはないなどと思っても何かきっかけがあればごく自然に帰れる場所の一つがロキシーである。
 
某日、明け方の呼び声に目覚めて、窓外が真紅に滲んでいるのを見た。昨夜のふつふつとした闘争心からいえば、いまどき「戦犯」などという言葉をSNS上で使うナンセンスに辟易する。前首相の二代前からそれは天下の回りもので、この世の善に何の効果ももたらさないことは自明である。「検察側の証人」と呼んだ方がずっとマシだろう。
だからというわけでもないが、この夏は梅崎で行こうと考えている。長い間再読せずに済ませてきた反省として。そうしてやはり考えることは非常に多い。もう一度三七年(盧溝橋)以降のことを洗い直すべきではないか。
そんなわけで伊豆とんぼ返り。今回は往路ではっきり鉄砲水の惨状を確認。やはり電車からでは山側は見えず。海側はユンボが入って倒壊した家を撤去中であった。それにしても本日は暑い。めったにその言葉が口から出ない方だが、今日はうだるような暑さだ。
本日都内陽性5042人。最大をマーク。
なんだか日舞の曲みたいなバリのガムランを聴きながらの夕餉を終え、ジンバブエのショナ族がムビラ(カリンバ)を奏でながらの歌。やたらとハッピーな気持ちになるのはこんな時だからか。複雑なリズムの曲は実に複雑なのだが、そこがまたよし。
寝る前に何かと思い『とんかつ一代』を見始めるが全く乗れず。八住原作がダメなのか。このネタ自体がつまらない気もする。暖簾を継ぐとかそういう話題はまるで川島に向いていない気がする。途中で切り上げて、悩んだ末に『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』。邦題が矛盾しているのだが、要するにカポーティについては真実そのものの有意性を覆すところに本質があり、その点は面白いに決まっている。ただ全て既知の話題に終始しているので、いまさら感は拭えなかった。知らない人には面白いのではないか。折からセリーヌの未発表原稿が発見されたという話題が。とはいえ、もし『叶えられた祈り』完全版が今後大著として刊行されても私には読む時間は残されていないだろう。
 
某日、五時半ノラさんにご飯を与えて草刈り一時間。本日より密林地帯に突入。かなり濃厚で替え刃を使用したいところだが、ペンチやらが見当たらず。本当に狭い領域だけでよしとする。一時間でバッテリーが切れ、終了するが、直後ペンチ発見。今はプラスチックの一本刃だが明日は円形ノコ状の刃で行く。シャワーを浴び、朝餉。
その後、やおら『A LONG VACATION』四十周年記念盤を。何種類かのCDを聴いてきたがアナログは初めて。いやはや、やはりドキュメンタリーである。スリル満点。編集点を聴き分ける感じで音楽を聴くというのはビートルズ以来だ。そしてその編集がめちゃくちゃかっこいい。例えるなら『ロンゲスト・ヤード』の分割画面が始まる瞬間みたいな、マイケル・ルシアーノの真骨頂!的な体験に近い。ううう、と声が出る。二度通しで聴いて本日のベストは「Pap-pi-doo-bi-doo-ba物語」だった。


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疲れてしばし睡眠。目覚めてなんとなく辻政信の新書を読むが、どうして若い人が辻や牟田口を擁護というか復権を匂わせる本を書く傾向にあるのか、それが不思議だ。歴史の闇に埋れさせておくべきなどとは思わないが、辻の貧乏や勤勉な幼少期を知ることが有益だとも思えない。しかし戦記小説と並行してこの手のものも読む。
都内陽性本日4515人。運動会は明日か明後日かに終わり、東京にいる保菌者が全国に帰還する。群衆が騒ぐ札幌は間違いなく爆発的だろう。その責任を取る者はもちろん誰もいない。その点に関してだけはこの国のお家芸である。「起きて困ることは起こらない」という思い込み(半藤一利)でここまで来た。あとは呆然である。『がんばれ!!タブチくん!!』のヤクルトの応援団長である。ああいう呆然に現首相は陥る、あるいはすでに陥っている。
食後、『どですかでん』。ずっと見直そうとしてようやく。最大の問題はなぜこのように演劇的デフォルメで糊塗しなければならなかったか、であるが、要するにファンタジーとして考える以外方法がなかったのではないか。黒澤はこの話を信じていない。少なくとも現実には起きえない前提で語っている。だがいまの時代、これはごく現実的な挿話集である。当時も実はそうだった。だが黒澤は信じなかった。川島は『青べか物語』の内容を当然のように現実の生活として受け容れることができた。だが黒澤がこれらを幻想として描くことを狙うのは、この現実を疑っているからだ。例えば、渡辺篤とジェリー藤尾のくだりが回想として明かされる仕組がわかるようでわからないのだが、これも刀を振り回すジェリーの存在も代わろうと言い出す渡辺の論理も、黒澤は信じられなかったのではないか。だから回想にする技巧でフィクション性を強化しなければならなかった。先日のETV特集の精神科病院協会の話ではないが、ここでの渡辺篤は精神科病棟のように「社会の秩序を担保」しており、彼がいないと「一番困るのは警察」ということになるが、それはまた別の話。フィクション性の強化とは現実性の希薄化を企図する。リアリズムとリアルの違い。だから一方では両極が問題になると凝結してしまう。乞食の子供の死とプールは両極に引き裂かれるがゆえにやせ細った現実としての具体を提示する以外に方法を失くした典型的な例だろう。その意味では電車バカのくだりで本当の電車の音と光を窓外に配したのは失策だと思われる。どうせならはっきり電車を登場させればよかった。むしろそれしかない。だがそこでもセオリーが先立つ。舞台に本物は要らないというわけだ。セオリーからの脱出を希求しながら結局そこへ留まる現実にしか黒澤は棲むことができなかった。井戸端の主婦たちにコロスの真似はさせられても、その空間を突き破って現実を超える現実を提示することはなかった。ただ、これも存外悪くないかもしれない。同時期に世間を賑わせた「マジック・リアリズム」のごとき胡散臭さよりよほど清々しい。ここは幻想で箱庭的にふやかすことしかできないただの田舎なんかではなく、原爆と大空襲で徹底的に燃え尽きた国土なのだと念じ直す。ただ、だからこそ電車が不意に画面を突き抜けてそこをどこだかわからなくしてしまうべきだったのだ。ただただ黒澤の真面目さ気の弱さが残念というに尽きる。
 
某日、起床時まだ降雨なかったので早々に準備、ノラさんご飯の後、六時半から一時間半ほど草刈り。本日は円形ノコでいくつもりだったが、ペンチでも留め金が外せず、植木鋏と二本立てで行くことに。その時間もあってやや長めに作業でき、計画した範囲をとりあえずカットできた。今年はこれで済ますことにしよう。作業終了、シャワーを浴びると同時に台風を後ろに控えた雨が強力に降り始めた。
昨夜は小田急線内でナイフ男が暴れたらしい。10人が怪我とのこと。
昼に向けてシーフードトマトリゾットに初挑戦。まず玉ねぎ一個みじん切りを炒める。いわゆるきつね色になったら置いとく。次に生米二合をオリーヴオイルで炒める。これも少し焦げっぽくなったら、ホールトマト1パックと混ぜる。なんとなく水分が飛び始めたら炒めた玉ねぎを混ぜる。さらにシーフードミックスを加える。ここらで塩胡椒とかした方がいいのだろうが、私は忘れた(ので最後にまとめて入れた)。本当はここでレンズ豆を入れたかったのだがなかったのでぶつ切りのインゲンを入れ、なんとなく水分が要るなあと感じたところで水を投入。私はちょっとずつ三回くらいに分けて500mlくらいか。同時に固形のコンソメ一個を入れたが、これは湯で溶いて二個入れた方がいい。そうするとだんだん見覚えのあるようなリゾットになってくる。そんなもんでチーズを入れた。塩梅がわからなかったのでキューブみたいなのを四個入れたが、全然足りなかった。その倍はいっていい。そしてしらすを一パック入れたが、これは火を止めてからでいい気がした。その辺りで食ってみたが、コンソメが足りないのと塩胡椒が足りないのとで超薄味ゆえ、塩と胡椒を足した。かなり足したが時すでに遅し。上手くもないがまずくもない。次回は頑張りたいと思う。
スピード・グルー&シンキ、一緒に購った陳信輝ソロが圧倒的にいい。ブルガリアを経て高橋=ジェフスキー『不屈の民』。だんだん「ゴースト」に似た何かを感じ始めてきた。
夕方、フェミサイドという用語に引っ張られて『エンジェル』のことを思い出し、そういえばあの監督ロバート・ヴィンセント・オニールってどうしてるんだろ、と調べると九〇年代以降記録がなく、しかしゲイリー・シャーマン『ザ・モンスター』の脚本が彼であったと思い出し、さらに撮影がジョン・オルコットで、当時の革命的高感度撮影(この日記冒頭の「ナイター」関連)のことを考えていたので、見るのだが、やはり八〇年代低予算アクションというのは酷くて、フェミサイド的側面含めて痛々しいばかり、こういうものは倫理的にも予算的にももう作れないだろうと思われた。肝心のオルコットは、たぶん街灯だけで「ナイター」やれるかという発想はあったと思うが、当てなきゃ映らないところはどうしたって映らないわけで、それじゃあ申し訳ないね、という感じで蝋燭シーンをわざわざ作ってお茶を濁すが、失笑あるばかりである。それでもしっかりと実検を練りこんだロケ(仕込みのホームレス含めて)に心を打たれ、そこまで悪い気はしなかった。
都内陽性本日4566人。
昼の残りでの夕餉後、ジョナ・ヒル確認に『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』。女性蔑視的描写の多い作品が続くが、2013年の段階でもまださして疑問視されていなかった。先日の『ハッカビーズ』(04)で登場したジョナ・ヒルが十年経たずにこの大役を担う(この間『マネーボール』(11)があるが未見なので帰京次第)ハリウッドの厳しさと懐の深さを同時に感じるが、実はこれまで未知のままでいたマーゴット・ロビー確認が本作を購った最大の理由で、ヒルの出世よりこちらの方が驚きではないか。この後『スーサイド・スクワッド』(16)で注目、トーニャ・ハーディング映画で製作・主演(17)、『ワンハリ』を経て今年の『プロミシング・ヤング・ウーマン』は製作に専念。スコシージと絡むとだいたい出世するようにできているようだが、それでも本作以降の二人の勢いは凄い。ともあれこうしたセクハラ表現撲滅の十年(未見の『PYW』描写確認の必要あり)でもあったわけで、逆に本作によって撲滅に拍車がかかったかもしれない。スコシージも半ばリタイアし、いくつかの意味でエポックメイキングな作品。そういえばマシューが出ていることを忘れていたが、本作はヒル含めてどこか『ビーチ・バム』に似ているというか、ハーモニーにとって凌駕すべきハードルだったかどうか。
それにしてもあの「白いカウンタック」が象徴的すぎて笑うが、本作の「夜」は白痴的に明るい。もちろんそういう批判的意図があってのことだとしても、『ビーチ・バム』のそこここに鏤められた闇の魅力は一瞬も感じなかった。同じことは『ワンハリ』でも感じたが、セクハラもろとも「明るい闇」撲滅の十年だったか。無くなったわけではなく、全体がそうした嗜好に向かっているというだけの話。楽曲使用もほぼ全て非オリジナルのカバー曲であり、ハワード・ショアがクレジットされているが、どこが?といった印象。「仮のオリジナル」として父親=ロブ・ライナーがいて、ヒルに代表される仲間=コピーに囲まれていても常に裏切りの予感に苛まれる。主人公の発言だけが本音であり、真実か。しかし盗聴器の存在さえ彼を裏切る。彼を追うFBIは彼の言葉通り地下鉄で自宅へ帰るうら寂しい日常を憂うだろう。二人の船上のやり取りでは唯一、本当らしさを超えたリアルを見た気がしたが、それこそが「闇」だというようなレトリックは信用しない。それさえ「オリジナル」ではあり得ない。あくまで「闇」は画面として感じるべきものだ。それは何も生み出さない。コピーでさえないものに価値はない。全てが有機的に機能し何も隠すことなく語られたように見えた本作が隠したものは「闇」という不毛さかもしれない。
ここまで徹底的に論理を貫徹することも必要だろうが、傑作だとしてもひどく疲れる。
 
某日、昨日までとは打って変わって夜更けから続く台風襲来で荒天。おそらく昼まで続くだろう。残り物で朝餉を摂り、掃除など帰り仕度。読み通り、昼過ぎに雨雲は遠ざかる。
動くのはうんざりだが、ともあれ帰京。初めてサフィールというのに乗ったが、三千円高いくせに少し早いだけでそれほど快適なわけでもない。
本日、松本憲人の一周忌。
閉会式の始まる前に帰宅、早々に夕餉の支度、食べ終わってバラカンビート。今夜も名曲満載であったが、とにかく民謡クルセイダーズに尽きた。偉大なバンドである。番組終了と同時に寝落ち。疲れたのは病気への恐怖による。
 
某日、ここまでで半分きたのかノンサッチ民族音楽オリンピック、しかしまだ半分、さらに道は長く険しい。今朝はインカ帝国、初期サムルノリ、タンザニア、ジャワガムラン。サムルノリが最も新しくて83年録音だが、帝国主義・植民地主義批判を乗り越えてなお音楽の発見に揺さぶられる。鑑賞ではなく対話の音楽というものがある。極小のレベルから極大まで飛んでいく音響のダイナミズムはポスト型の音域には簡単に嵌らない。伊豆での再生に期待が増す。
午後、ふと気になっていたことを調べるうちだんだん膨らんできて、また新たな企画が浮かんでしまった。おそらく誰も面白がらないと予想されるがやるとたぶん、ああそういうことか、とちょっとだけ驚かれると思う。もちろん内容は秘密。問題は時代設定だろう。どこにするのが一番面白いか考えるだけでもしばらくかかりそうだ。
本日都内陽性2884人。
 
某日、実は前夜にベネット・ミラー『マネーボール』を見てあまりに多くのことを思いすぎてしたためるに至らず、つい思うままに放擲してしまっている。爆風のごとく日差しの強い中を湾岸へ診療を受けに行き帰り、買出しの荷物も渡せば女優はすぐに料理して美味なる夕餉に舌鼓を打った。そしてその間も『マネーボール』という作品について考えさせられていたのだが、何より書き残しておきたいのはこれがこちら側の映画である、というこれはこちらの勝手な思い入れにすぎないのかもしれないが、そうやって「こちら側」というからにはどこかに線引きしなければならないのだが、その線のありかが曖昧である。本作の作られた2011年からこっちのあらゆる局面に線を引いてこちらとあちらを峻別する必要がある、のか? そんな面倒は止してたんに「こちら側」とだけ言っておけばいいのではないか。ベネット・ミラーの冷静沈着な手捌きが私をそのように促す。それは『カポーティ』でハーパー・リーを演じたキャサリン・キーナーとP・S・ホフマンの横並びを見たときに与えられたもう若くない幼馴染の印象が同じ意味合いのままブラピと娘役に乗り移っているのを感じたことが決定的だったか。私たちの生きてきたこと、失敗や挫折や何かをこのブラピとともに味わい直した上で、私たちがやろうとしてできなかった旧弊の否定を実現し、次へ向かうことまで可能な懐を持っている。ブラピというプロデューサーは見事なほど誠実だと思われた。そしてもちろんそのことを誰よりも分かち合っているのは、ごく初期からこちら側のあり方を培ってきたスコット・ルーディンなのだろう。試みにルーディンのフィルモグラフィーをざっと眺めて驚く。ほとんど、正に「こちら側」を共に歩んだとしか言いようがないタイトルが並ぶ。失敗も挫折も山ほどあるが、捨てたもんじゃない、これならこれからもやっていける。ビリー・ビーンはスコット・ルーディンに他ならない。
本日2612人。
 

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某日、唐突だが昨夜遅く田中優子『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』を読みながら、ケリー・ライカートは一葉だと考えることにした。ライカートも「いやだ!」と云ってきたのだ。
午前中は、昨日も聴いたが民謡クルセイダーズ『エコーズ・オブ・ジャパン』と坂本龍一『async』を。両方とも2017年発表とは偶然だが、その頃何かが変わっていくのをあちらこちら感じ取っていたのではないか。自分も本格的にそれまでの環境が瓦解し、別のシフトでやって行くことを始めたところだった。これらを聴いてようやく民族音楽一辺倒から抜け出せる気がしている。
昼にコジマで買出しの後、女優の冷し中華を食して虎ノ門へ。ウェスの新作『フレンチ・ディスパッチ』試写。何やらウェス流の厳かな手つきで始まり、これは巨大な物語世界をほんの少し垣間見るような作品になるのか、と予感したら本当にそうだった。全体はこの十倍はあるのではないか。言うまでも無いが、俳優陣は全員いい。こういう良さをそこはかとなく短いショットで終わらせる技術、というか胆力はなかなか持てるものではない。シアーシャ・ローナンなんて実に勿体無い使われ方だが、彼女の青い目のためだけにパートカラーになっているような贅沢さ。その線でいえばフランシス・マクドーマンドは彼女の最高傑作ではなかろうか。ほとんどジェラルディン・チャップリンに思えた。ジェフリー・ライトとリーヴ・シュレイバーが並びでいると『クライシス・オブ・アメリカ』を思い出さずにはいないわけで、同時に『シャレード』のことを考えるとこれ自体がデミへのオマージュと見ても差し支えないかもしれない。しかし今回の目玉は何と言ってもベネチオだろう。若い時分の役と入れ替わる描写でパラジャーノフをやっていた。フレンチと言いつつロシア風の側面(パートカラーはタルコフスキーっぽくもある)もあるのだった。
アニメーションで味をしめたせいか、活劇部分が実写でなくなったのが寂しいけれど、それも一過的なことかもしれず、静観しておこう。
もはや電車に乗る気には全くなれないのでタクシーを使うのだが、昨日も今日も何か不気味なものを感じた。いわば『ロゴパグ』の「新世界」かと。あるいは『ゼイリブ』かと。街の様子というか人間の実相が突然変わってしまった気がする。「ずっとテレビ見てましてね、楽しかったですよ、オリンピック漬けです」「みなさん黙ってますけど、私は知ってるんです」と、そんなことを今言われると大変気色が悪い。同じような「幸せそうで物知りな人たち」が何人もいるのだ。善人顔で聡明に語らった気の心地よさげな偽物たち。もはや他人と付き合っていられないのではないか。帰りは可能な限り黙っていた。
これからますます家にこもり、伊豆にこもり、できる限り人と会わないようにしようと思う。そのために必要な音楽や映画の盤と書物を厳選し、揃え始める。ちょっとずつ買い揃えるのを楽しみにしていた民族音楽をあっさりまとめ買いした。あとは今まで入手したものを楽しめばよい。特に2017年の二作はヘビロテ必至である。本日4200人。
 

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『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』
2022年公開 (配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン)
 

某日、フジコ・ヘミングのリスト、ショパンを。母の記憶にそのまま結びつくが、私は母がそれを弾くのをぼんやり聴いていただけだ。「ラ・カンパネラ」を坂本さんが初見で弾きこなしたという逸話を知って、改めて聞きたくなった。その坂本さんの『async』は平井玄さんが、もう一つの2017年発表『エコーズ・オブ・ジャパン』はバラカンさんが、それぞれ言及していて知ったものだ。私自身に何か2017年に関する認識があるかといえば、こうしたポジティヴな方向には何もない。昨日も書いた通りそれまでの試みがことごとく失敗に終わり、多くの友人・知人を失い、ただ新たな段階への手探りも早い段階で始まっていた。もちろん去年の今頃まで一進一退で壊れかけもしていた。そしてその後をどう表現すれば適当だろうか、立ち直り直し続ける、というのはえらく婉曲な言い回しだがどうもそのようになる。もしかすると立ち直るということはとうとう訪れず、今後も繰り返し立ち直りをやり直しながら前へ進む、ということのような気がしてならない。病気もあるがそれだけではない。
午前中、まとめ買いした民族音楽を聴いていくが、今回はこれ、と思うものには出会えず。それらはずっと早めに紹介され、消費され、コンタクトし直すまでもない感じだった。
それとともに考えていたのが戦後処理問題だったのがよくなかったかもしれない。かつて名著『敗北を抱きしめて』で学んだつもりだったが、それだけではどうやら不足気味のようで、この部分も再研究しなければ。同時にそれらとはまた何の関係もなくマルセル・カルネが気になってあれこれ検討。
夕方、新たな病院にぱるるを連れて行き、皮膚の治療を検討。投薬。本日4989人。

 
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某日、深夜雨の降り出す直前あたりか、こりんが連れて来た鼠をめぐってぱるるが風呂場で大騒ぎ、とりあえずこりんを風呂場から出し、鼠はそのままにして窓だけ開けて置くと翌朝、いなくなっていた。
朝からスウェディッシュ・フィドルの超絶の調べにやられてしまい、まるで旅が振り出しに戻ってしまったような前後不覚を覚える。インドからどっちを経て至ったか知らないがここへ連なっていることはたしかで、眩暈を覚える。さてここから西へ戻るか東へ戻るか思案して西へ赴くが、これがまた。ケルティック・コーラスと言ったって60年代末の録音だからそれほど、と思ったら大間違い。まだまだオフィーニーさんちの歌声は健在であった。そこからオセアニアへとび、インド=ラーガ(ジョー・ボイドプロデュース!)へ。
どうでもいいが『どうしてプログレを好きになってしまったんだろう』という題の二冊の書物が出ていて、絶対に買わない(そんなものを読んでる暇はない)けれどもAmazonのページで目次に目を通すだけでにやけてしまうので、きっと面白いのだろう。いや、絶対に読まないけれども。
民族音楽はさらにアルメニアへ。これはもうサヤト・ノヴァ、パラジャーノフの世界なのでそのまま久しぶりの『スラム砦の伝説』を。堪能。やはり正面性を考えるとデミやウェスといったごく一部のアメリカ映画との呼応を思う。なお、馬の映画としては上位必至、対抗馬は『アシク・ケリブ』ということになるか。馬だけでなく羊もロバもいる。
夕餉を挟んでいよいよ『フォックスキャッチャー』。まさかそういう映画とは思いも寄らなかったが、負のオリンピック観を裏打ちするような、ここ十年の不快を簡潔に表現する映画だった。その上で誰が誰を殺すのか、その瞬間までわからない『ラ・ピラート』みたいな側面さえ持ち合わせた最高級のサスペンスでもある。そして俳優陣は他人には踏み込みようのないジレンマに苛まれる状況を完璧に造形する。見事というほかない。ベネット・ミラー誠におそるべし。サウンドオフの使い方が作風を決定するようなところがあり、しかしそれを繰り返すわけにはいかないだろう。次回作でどう出るか、また『カポーティ』を見直してみようかとも思う。
「生活保護とホームレスは社会に不要」と発言したYouTuber問題が現れたが、こうした志向は漫然と存在しているはずで、それを根絶しない限り何も変わらないだろうが、いなくなるわけがない。一時は「セーフティネット」という呼称がお為ごかしに過ぎると考えたこともあるが、もはやそれではおさまりのつかない感じだ。植松聖が死刑判決でこいつらがお咎めなしなのはいかにも不釣り合いだろう。笹塚バス停殺人はまだ判決出てないのか知らないが、殺人教唆的な発言に対してそれなりの厳罰が適用されるべきである。倫理を解しない子供向けメディアの行く末と言って済ませるわけにも行くまい。
本日5773人。最大。
 
某日、新型コロナウイルスのあまりの猛威のために猛暑とか雨ばかりだが暑いよりましだとか意識からやや遠ざけていたが、雨は降っている。それも列島をかなり脅かす勢い。
読書していて「視学」という聞き慣れない言葉に出会い、調べると、教員の人事や思想統制に影響力を持つ行政制度であるとわかった。なるほど、これは、とさらに調べると戦前のみのことではなく現在も内容を変更しつつ存続しているとのこと。入国管理局と並んで改革の手を入れるべき重要案件ではなかろうか。
夕方、雨中武蔵小山へ車で買出し。カルディやお茶屋を回り、さらに不動前オオゼキに移動して大量入荷。
本日5094人。ジェリー藤尾氏逝去。若尾様の指をちぎれんばかりに噛みついた『偽大学生』の記憶よ、永遠に。
 
某日、寝る前にふと気になってから起床と同時に調べ始め、地下の蔵書を取り出して(すぐ出せるところに位置していた)、それから延々と藤枝静男を考えていた。少し以前から梅崎を繙いたり私小説家群を考えたりしながら、何か足りない、と唸っていたところに藤枝を思いついて納得した次第。だがもやもやが晴れないのは初期作品、殊に『犬の血』を未読のせいだと思い至り、二十年三十年と講談社文芸文庫の発売を待ってきたが、どうもここは見切り発車的に初版を購入、さっさと読んでしまおうということにした。まるで岩盤鑿岩的な気分で調子に乗り、桃を剥いて食う。便秘気味の腹痛がこごもっており、しばしトイレに籠城して解決をみる。サンソンを聴くと『ARTISAN』三十周年特集。先週かかった「Endless Game」が主題歌だった荒井さん脚本の初連ドラ『誘惑』を思い出した。あの時、一面識もないながら(いや実は湯布院で出くわしているが)神代組の荒井さんのドラマを山下達郎が、ということで実は密かに嬉しかった。いまでも思い出し笑いが泛ぶ。
女優名物「アジアごはん」を夕餉にいただき、バラカンビート。リアノン・ギデンズというアメリカーナのシンガーがいい。そうこうしながらもずっとあれこれと藤枝を読み返していた。梅崎も相当変だが、ちょっと違う。浸透膜の厚さの違いというか。だが他の人よりはこの二人には近しいところがある気がする。こういう変さを映画にできるかどうか。川島には梅崎はできたが藤枝は無理だろう。もしかすると藤枝が最も近づくのはロッセリーニなのではないか。
本日4295人。
 
某日、そして昨日藤枝について行ったことを本日は志賀についてやるような按配で一日が進行して行く。月曜はサンソンもバラカンビートもないので静寂のまま。どうしても藤枝を考えると志賀をその背後に感じるというか、十年に一度ほど訪れるこの行脚は同一パターンであり、今回は女優に奈良行きの打診までしてみた。意外にも乗ってくれた。志賀については昨夜寝る直前にこれまで何冊も購ってきた『暗夜行路』をkindle版で入手したが、これまでそれに比べてもう一つ乗り切れていなかった短篇群を、書物としてではなく梅崎に対してそうするように一作一作を切り離して読んで行く方法で発見しなおしてみようと、山科を中心とした中期を柱に考えつつ三冊購った。
ちなみにホテルを探っていると、朝Twitterで見た客のバッグを新人社員に階段で運ばせるスパルタみたいな最悪のところが広告出していたが、バカ高かった。言うまでもなく絶対行かない。
そうして例によって地下やらあちこちの本棚を探して歩くうちにまた別の本を発見して、それに読まされる。本日の収穫は『加藤泰、映画を語る』だった。一九一六年八月二四日生まれの加藤さんが、彼より少し先輩の小説家たちに探りを入れる私に、俺も探れと言ってきたかあるいは傍で見ながら俺ならこう読むと茶々を入れてきたか。加藤さんは梅崎や小島と一つしか齢が違わないのである。山根さんのこの書物は当時、というのは私にとって第何次加藤ブームだか、後ろを返すと「二〇一三年」初版発売とあるがそれは文庫版、山根さんの最初の「あとがき」の終わりには「一九九四年」とあるのでそれが初見の頃だろう。大学に入ってちょうど十年目、今から二十七、八年前になる。その時には収録されていなかった加藤さんの娘さんである文さんの文章を今回読んで、これがまた滅法面白くて、気づいたらいつの間にか日が暮れていた。正直、これほど美しい回顧録を読んだことがない。心から感動した。自分にとって加藤泰という映画作家の重要性を発見するのはまだまだこれからだと思う。
並行して志賀直哉「転居二十三回」を地図見ながら探査。赤城山と我孫子、山科と奈良はやはり一度訪ねてみるべきか。病後、色々楽しみが増えた。
本日2962人。
 
某日、敗戦記念日に第一報、エルヴィス命日から映像が流れ始めたアフガン解放だが、西側の動揺は想像を遥かに超えて大きく、なぜ日本人がアメリカの敗北を喜びこそすれ怯えているのかよく理解できないまま、とりあえずこちらは若干浮かれ気分でカッワーリーで孤独に盛り上がる。演奏が最高にかっこいい。ハイチ地震は死者1400人。
午前中のうちに単行本『犬の血』届く。しかしすると今度は「硝酸銀」が、となる。この際なので手に入るだけ入れておくかとも思う。そうしてさらにあれこれ読むうちに志賀直哉の短編群が届く。改めて読み直す。今回は山科連作に集中する予定だが、未収を懸念された「或る男、其姉の死」がやはりない。特異な位置を占める重要な作品だと思われ、再読を楽しみにしていたのだが。しかしともあれ、夏の終わりに向けて志賀・藤枝・梅崎という体制が整った。これを経て、次なるステップへ向かう。
梅崎「崖」の、「バートルビー」を想起させる展開、印象的。梅崎の離人症気味の視線にはメルヴィル的なところがある。一方「佐々木の場合」の奇天烈な面白さはなんだろう。志賀の脅威はここにもある。本日4377人。
 

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某日、嵐が去り、戸外の鳥のさざめくような声で目が覚める。ぱるるの呼ぶ数分前。
本日は女優とともに病院。採血とCT。造影剤注射で失敗されて大変バッドな気持ちになるが、結果としては全快とまではいかなくとも一部を除いてかなり良好。今後どうするかは明日担当医らで協議とのこと。夏というよりはもはや秋晴れのような天気で、気温は高いけれど快適。帰りにぱるるのおやつを購いにペットショップへ行き、その時だけゲリラ豪雨が降る。私は店に入っていてジャストタイミングで無事だった。
帰宅後、NHK+で『大友良英presents武満徹の“うた”』を見る。ひたすら涙が溢れる。武満さんに出会い、彼の作品群を浴びるように聴いた時期に得たヴァイブレーションは私の中にもいまも続いている。今年はダニエルのこともずいぶん思い出していたし、まるであの一九九四年が回帰してくるみたいだ。もう一度武満さんに会いたい。
女優はこのたびの検査結果を殊の外喜んでくれた。夫が病気というのはもちろんストレスだったろう。迷惑をかけたと思う。
本日5386人。
 
某日、深夜に目が覚め、またしても一葉研究に取り込まれたため、朝がしんどかった。先生がヒントだけポンと投げ出された「恩寵/歴史」理論は『にごりえ』だけでなく、間違いなく『たけくらべ』にも有効で、ますます厳密に原作に準じた映画化(この際「映像化」であってもかまわない)の必要を強く感じている。
一葉問題があり、志賀・藤枝・梅崎を柱とした問題があり、わが机上は時ならぬ広がりを見せているが、こういう時こそ現実逃避、ということで、家族で伊豆へ移動。
東名渋滞のため第三京浜に逃げたが、平塚から小田原に入るまでの下道で例によってぱるるは乗り物酔い。以後、のらりくらりとごまかしつつ、ユニクロにてTシャツ調達しつつ、午後ゆるゆると到着。しかし到着するなり、食事もごく慎ましく、途中で購ったパン(とはいえこれがなかなか美味)で済ませ、その後はこちらに残してあった諸々の書物チェックに従事。日暮れて以後は読書に専念。本日5534人。
ラストだけチェックするつもりだったが、やはり最初から見直したのはブラピの良さだけではなくケイト・ブランシェットが何から何まで優れた『ベンジャミン・バトン』を。ソフト化に際して色彩は相当に頑張っているのだが、どうしてもデジタルの闇の浅さは残ってしまう。それはそれとして、永遠にまつわる問答をその都度反転させつつ展開させるエリック・ロスのドラマトゥルギーは、やはり大いに参考にすべき点である。デイジーの事故の、決定的な「取り返しのつかなさ」、これもなんとか取り入れたい「if」のアイデア。
 
某日、昨夜のうちに女優の仕込んだチキンスープと、野菜炒めを添えたステーキで朝餉。ある意味豪華すぎるが、案外あっさりと食べてしまう。昨日から予定していた下田行きを実行に移し、十時頃に出発。気持ちの良い天気。女優の学生時代の友人が営むカフェにお邪魔して、悠々自適の時。自宅で採れるパッションフルーツを用いた手作りスムージーが絶品であった。周囲も絶景の砂浜まで徒歩数分。波打ち際のぱるる、大変ご満悦。
帰りつつ日帰り温泉に寄り、買出しして帰宅。良き時間を過ごせば良き睡眠を、とばかりに全員が遅い午睡。夕餉は海鮮サラダ、刺身など。食後、さらに疲れ切って早々に休む。
本日5405人。千葉真一氏、逝く。コロナの犠牲か。
 

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某日、千葉真一については記憶がなんとなく映画館ではなくテレビとセットになっている。古くはやはり『キーハンター』だが、最もしっくりきたのは『影の軍団』シリーズの風呂屋の罐焚き半蔵のとぼけた笑顔だった。そうして仁鶴師匠も亡くなった。合掌。
午前、家の修理と庭をやってくれるヒダイさん来る。一時ほどではないとはいえ伊豆半島もコロナは大変という話。何しろリゾート地だからな。外に出ないのはウチくらいだ。広い雑木林を刈り込む作業について女優と相談。
午後は呆然と過ごす。相変わらず梅崎が面白いので読む。ひとつ気づいたことがあって、漱石との関係で志賀が休筆し、漱石が没した三年後再び書き始めるのは有名な話だが、『三四郎』が世に出た一九〇八年が藤枝の生年、一九一六年漱石の死ぬ一年前に梅崎が生れ、つまり漱石の本格小説は藤枝と梅崎の生れる間にほとんど書かれたということ。漱石没後に私小説が一大ブームになり、一九三七年に『暗夜行路』完結の直前、安吾を世に出した牧野信一の死と共に下火になる。志賀が牧野をどう考えていたかは知らないが、戦後太宰や織田作を批判した志賀を安吾は「私小説家」と揶揄した。それはそれとして梅崎が最初の小説を発表するのは一九三九年、つまり志賀の断筆宣言の翌年である。戦後の梅崎と藤枝の関係についてはこれから考えるが、一つ思うのは志賀も藤枝も梅崎も、私小説家以上に私小説的でありつつ、必ずしもそこに留まらなかったということ。一九二八年の夏、藤枝は奈良に志賀を訪ね、偶然同席した小林秀雄に世話になったりする顛末を事細かに書き残しているが、この年は前述した「私小説ブーム」のちょうど中間点に当たる。
本日5074人。そろそろなんの数字だかわからなくなってきた。
 
某日、未明より雨、午前降りがちなるも昼前にあがる。近場の麺麭屋に家族で散歩がてら。もはや麺麭なるものに無興味だが商売としては変わらぬ成立ぶりを確認。高低差著しい迷路のごとき近所で汗を掻く。
本日やる気出ず、午後も深まってようやく家族での再外出を提案。ドライヴがてらカインズ伊東店にてあれこれ購物。ようやくLEDデスクライトを入手し、机上の夜間が楽になる。帰りに拉麺を食す。拉麺にしろ麵麭にしろ年齢的に卒業したい部類に属する模様。これまでどれほどの拉麺や麵麭を食してきたことか。いや、他のものもそうだが、止める時が来るなど想像もしていなかったが、そろそろ止めてもいいような気がするのだ。年齢の嵩張りとかではなく、許容量を超えたというか。何か達することになる地点に達したというか。これ以上はいろんな事情(主に健康面)で無理とか。
樋口社長が日記に『サマー・オブ・ソウル』のことを書いている。とにかく見たくて仕方ないが、いつになるやら。今日はラジオも聴かなかった。どうもその気分ではない。何か嫌な予感がしてそわそわする。横浜の選挙のせいかもしれない。何もないことを祈る。
本日4392人。ドン・エヴァリー、高橋三千綱の訃報。
 

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(つづく)
 

青山真治

映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、『空に住む』(20)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)、自作『しがさん、無事?』(19)など。

近況:特になし。