宝ヶ池の沈まぬ亀 第59回

青山真治さんの連載「宝ヶ池の沈まぬ亀」第59回は、東京と伊豆を三たび行き来しながら脚本の執筆を進めた2021年4月末から5月にかけての日記。映画は晩春のトニスコ祭りにはじまり小津からフライシャーへ、そしてグールドやキンクス、ドクター・ジョンの音楽とともに初夏を迎えます。

59、さあアナグマさんもごいっしょに!IKO・アイコ・あんでぇ〜♪



文・写真=青山真治


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某日、朝餉を終えて九時前辺りから電話にくっついて何度もかけ、一時間くらいで繋がったがとにかくずっと「大変混み合っております、もう一度おかけ直し…」鳴りっぱなし。繋がってからは非常に丁寧な対応、どちらかといえば緊張気味なのは初日だからか、とにかくスムーズにことは運んだ。区限定・85歳限定という義母のワクチン接種予約をしたのだが、考えていたほど混乱した話にはならなかったのでとりあえず胸を撫で下ろした。何しろシンプルなことだが、そのシンプルなことを煩雑にするのが役所の務めという先入観は簡単には消えないものだ。しかし何もかも役所のせいにするのもどうかとも思った。
では国民性か。
繋がるまで並行して荷造りをし、明日に備えた。書物でかなりの重量になったダンボールを送り、昼前に本日の業務はあらかた片付いたのだった。
昼は新文芸坐で開催中の清水宏特集を思いつつ、同時に伊豆多賀駅と尾城駅の間あたりにあったという清水の農園をかむかふた。もし自分に巨万の富があったなら(と『ストーリー・オブ・マイライフ』以降しばしば空想する)、この世から殺処分という言葉を無くすべく広大な動物ランドを建設し、大勢のスタッフに給料を払いながら、保護犬・保護猫の楽園とするだろう。あと、清水宏全集の実現に向けて現行品のリストアに着手するだろう。
夢のまた夢。
その後『8 1/2』を見るが、予想通り収穫なし。ネガティヴな意味ではマストロヤンニ的キャラクターも考えようによってはありか。
夕餉の後『ザ・ファン』を見ながら、今度は「スコット・フリー」なる兄弟会社についてかむかふた。しかしそれにしてもイギリス人だからということでいくらプロ野球に明るくないと言っても、最低限の取材くらいはそりゃあしただろうから、なんだかへんちくりんなところはすべて意図的と思って差し支えなかろう。とりあえず大リーグなんだから誰が騒いだって雨降りゃ中止だし、そこでまずアンパイアの判断仰ぐよな、と。面白がってIMDbを見ていたら、ラストの時間の錯綜が問題になっている。『バイオレント・サタデー』以降、常套手段と想定していたがそうでもないようだ。まあ混乱はするか。
このときプロデュース参加は始めたばかりだったか、あのアニメ(結構好き)の先付けは三作後の『マイ・ボディガード』から、ということでそこだけ見る。ブラッカイマーとの関係を測りながらやっていたのか、何だか心中お察しする感じ。
なお、そうこうするうちに明後日から緊急事態宣言との大本営発表。
 
某日、とはいえ行くと決めたからには行く。朝餉を摂り、ぱるるの散歩を送り出して、すでに整えた荷を担いで。直前、あちこちで休館・休演の悲鳴が上がって遣る瀬無いが、長期の視点に立ってできることをするしかない。泣いている場合ではない。
十時八分の踊り子、車内では「ユリイカ小津増刊」未読であった小沼純一氏「音とモノの迷宮へ」、大いに参考になる。鈴木一誌さんの文章に引用された「フィルムというものを」「信用できない」という小津発言が目に飛び込んできて、昨夜のウエズリー・スナイプスの「野球だけが人生じゃない」との呼応を感じたのだが、ああこれもどこかで使えるなあ、としか頭が動かない私はどうも全然そういう境地には達してないらしい。しかし、もう先は長くないのだからやれる限りのことはやっておこうとすることが、正しいか間違っているか、または吉と出るか凶と出るか、は終わってみないとわからないのだろう、たぶん。
全ては長い目で見るしかない。
もはや電車も慣れてしまい、あっという間の到着。一月ぶりの研究所である。多賀のあたりだけはこの辺かあっちか、キョロキョロと清水宏の農園のあった場所を探した。そういう名残を感じるような場所は残念ながら見つからなかったが。
日のあるうちは音楽はやめておくかというくらい四方八方から鳥たちの啼き声が聞えて、これはもう楽園の一部である。鶯、盛りは過ぎたか淡白な声。
それでも日暮れ近く、VDP『ヤンキー・リーパー』アナログをじっくり聴くうちに送り出した荷が届き、それを解いて買出し。
あまり腹も減らず、パンなど食しつつ夜は、いつ以来になるだろうか『エネミー・オブ・アメリカ』。見るたびに勉強になるが、今回も象徴界と想像界のバランスを再び三たび、肝に命じた。あのジョン・ヴォイトの若いカミさんというのは必要なのかなどと考えがちだが、必要でないものなどアメリカ映画には残らない。残らないというのは、たとえ撮ったとしても編集で切られるということ。まあPの愛人とかいうことなら話は別だが。もしかするとこの人、トニーさんの奥さんではなかろうか。ともあれこの女性も全体のバランスを1シーンながら絶妙に操る存在である。この人に限らず本作は冷淡な女性やジャック・ブラックの発言などセクハラ・パワハラ的な表現が目立つ。前作『ザ・ファン』にも無いではない離婚がらみのエピソードなど、若干トニーさん個人の「想像界」の反映と考えて差し支えないだろうか。こういう「想像界」シリーズは『サブウェイ123』を経て壮大なるご近所映画の金字塔『アンストッパブル』へと繋がる。それはさておき、これまた前作に続いて驟雨のクライマックス。雨に前触れはないものの、本当に唐突で、しかも強烈なので笑ってしまいかねない。しかしもちろん適当ではない。トニーさんの驟雨は堂に入った一流の雨である。そうして何しろ「信じられるのは女房子供、それに同じ敵を持つ道連れだけ」というのがテーマなので、現在進行しているこの国の状況とも多分にリンクしている。砂に書いたラヴレターがなぜかいつもより沁みた。
見終えてSNSへ入ると、その情勢の中心たる東京の本日の騒然ぶりが伝わってきた。こちらだけ『エネミー〜』で一足早くスッキリした感じで申し訳ないほどだ。
 
某日、朝餉のお供はBW&VDP『オレンジ・クレイト・アート』。しばし感動。
夕方まで本格的にシナリオ作業。途中、買出しに出ようとすると雨が降り始めて、ふと庭にコジュケイが二羽、夫婦だろうか、餌を求めてよちよちと彷徨うのを見る。それで思い出してサンソン。ゲスト竹内まりあ。デュエット、エヴァリーの「Let it be me」カヴァー。
朝の残りで晩を済ませた後、物色した結果、市川版『鍵』。しかしあまりにつまらないせいで原作者をはじめ関係者全員が気の毒になり、途中で消したくなる。スタジオだろうがロケだろうがこんなにつまらぬ雨は見たことない。映画の嘘がこうしたニヒリズムに一時的に浸ったことは承知しているがそれで終わり。棚にしまって速やかに忘れよう。
口直しに『マイ・ボディガード』をトニスココメンタリーで。見ているうちに眠くなる。
 
某日、朝は饂飩。『ヤンキー・リーパー』を今度はCDで。ヌケは抜群、しかしアナログにあったこの音楽本来の一体感がやや薄い。この自然の中で初のグレン・グールド。バッハ。全くもって素晴らしい。CDだけど。CDついでにVDP&モレノ『スパングルド!』。
シナリオ作業として山中を考える。シナリオ全集未搬入が悔やまれる。
午後、考えすぎて疲れたので風呂に行く。客少なくて快適。全身やわらぐ。創業者レイシストなのにオリンピックの幟が立っている。まあその程度の「思想」だ。せっかく伊豆にいるのでついでにカインズへ。特に欲しいものはなし。帰ったらオスカーは『ノマドランド』一色というに等しかった。まあそれもよかろう。みんないまはお休みにしたいのよ。
夕餉の後『マイ・ボディガード』監督コメンタリーの後半。続けて本編を改めて。そうやって見るとまた新鮮。あの雨の晩の自殺未遂の音楽(ナイン・インチ・ネイルズ)はあれでよかったのかとやや疑問視。しかしこうしてシナリオを書いている間というのは自分の内面に降りて行く必要もあって、そういうときに自分の持っている愛情の質というかあり方の確認によって降りた先での握力が試されるのだが、ここでダコタ・ファニングが笑うたびに嗚咽してしまうのは、いまぱるるが傍にいないからで、私にとってダコタとぱるるはほとんど同じ存在だと言ってよい。白と薄茶色に著しく反応している。
そんなわけでさらにもう一度、全編を見直す。そしてさらに『ドミノ』を再び。

 
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某日、長く見ていたので寝るのが遅くなり、三時間余計に寝た。朝食の準備をしつつ珈琲豆を切らせたので買出しに出て、戻って食い、一息入れるべくデイヴ・メイスンとキャス・エリオットのデュオを聴いているとあっという間に昼になる。時間の経過が早いのは充実の証と考えるが、さて。とにかく仕事をしながら『メタル・ボックス』。購入当時バンバン針飛びしていたのにいまかけるとほんの二度三度。どういうことだ。しかし自分がキース・レヴィンのようなギタリストになる夢を見ていたことを久しぶりに思い出す。続けて『フラワーズ・オブ・ロマンス』。
夕餉の時刻まで仕事して、冷凍物のソーキそばを食したが、これはこれでそれなりのものだという感想。その後『ドミノ』を監督と脚本家のコメンタリーで。本作に対する二人の思い入れの深さがわかった。『トゥルー・ロマンス』との類似を言われないように意識していたらしい。その上でトニーさんが過去作から自分にとって重要なエッセンスを抽出していることが確認できた。そして何よりドミノ・ハーヴェイ本人とトニーさんは近しい間柄であったことを初めて知り、ならばドミノの死は深く痛ましいものだったろう。現行作業の中でも近親者の死についての感情を推察しなければならない局面がある。トニーさんはそこから新たな表現を発見していたし、そのような発見は必要だと思われる。でなければ作る意味はない。トニーさんは存在の現実性を可能性として常に向き合おうとした。必ずしも想像力が使えないというのではなく、むしろその現実性のために想像力を使うこと。どれくらいその実際の思いに近くあれるか、そればかり考えて来たつもりだが、まだ足りない。配偶者の死や子供の死と、他人はどういう距離で接するべきなのか。一人でいるときに考えるにはやや重すぎる話だし、簡単には答えの見つからない話でもある。最終的にトニーさんはその思いを双子の母親である奥さんにさせてしまったのだが。
VDPによれば本日ジム・ケルトナーの誕生日とのこと。昨日知らずに祝っていた形。
 
某日、起きたらアル・シュミットの訃報がこれもVDPから。相変わらずBWとVDPの大きな渦の中にいる気がする。ともあれ冥福を祈る。1930年生まれの名エンジニアだった。
「和歌山のドンファン」事件で元妻逮捕。地方の闇、特に和歌山の闇は深い。
久しぶりに聴いたロバート・ワイアットに大きな示唆を受ける。ゴールをそう思って繋いでいけば見えて来る。まあ楽曲そのものを本篇上に使うのは予算の都合があるので、それは次なる作業段階に持ち越しだが。
このところ仕事に疲れるとFBに上げられている虐待された犬や猫を引き取って面倒を見ている施設の映像を見ている。本当にひどい状況にあったために障害を持っていたりする子たちの境遇は悲惨以外の何物でもないしそこまでにした人間たちは決して許されないけれど、健気に生きようとする姿を見ると心が勇気づけられる。本日はそれを見ているうちに仕事に戻れなくなり、さらに見てこなかった朝ドラをついNHKオンデマンドで見てしまった。というのも現役中堅俳優の中で最も口跡が好みである塚地武雅さんの出演を知ったからで、主演の杉咲花さんもまた口跡の美しいことは承知しており二人の掛け合いに興味を持った。今回はまだジャブ程度だったが、今後凄いことになっていくのではないか。朝ドラの撮り方でうまくやれるか心配だが、ともあれ楽しみにしていよう。ついでと言ってはなんだが大河も二週分見たが、やはりなんとなく乗れない。で、せっかくなのでさらにTVerで『コントが始まる』第二回。杉咲さんの芝居が菅田とよく似ているので連想したのだが、やはり似ていた。で、非常に面白かった。初回より数段面白い。五回声を出して笑った。特に自転車の降り方が良い。そして四人のバランスはやはり大変に良い。
饂飩を夕餉として、その後『デジャヴ』コメンタリー。しかし途中で眠くなった。
眠る前にテレビの後ろの壁上方に巨大蜈蚣(ムカデ)発見、スプレイにて処理。
 
某日、昨夜は結局早々に眠り、今朝は七時まで寝ていた。起きたら雨である。朝餉のお供はリトル・フィート『ウェイティング・フォー・コロンブス』。最強のD面。予報では本日終日降る見込みにつき、帰京は明日。『おちょやん』に今後辻凪子出演の情報は喜ばしいが、五月には終わってしまうとは残念でもある。
仕事に戻る前に『デジャヴ』コメンタリーの続き。徹底したリサーチと斬新な技術。そしてここでの「想像界」の導入は歯磨き。雨は過去映像の相棒の射殺とカーチェイスの半分。現実の雨と重なった。現実といえば、元はロングアイランドだったのを台風に遭ったニューオリンズに変えたらしい。トニーさんが日本人だったとして北九州が舞台の話を福島に変えるだろうか。熊本になら変えただろうか。トニーさんはヒッチコックよりローグを目指すと語る。もっぱらスタイルの話だ。結局監督はスタイルに終始する。題材の根源についてはあまり考えない。本作が「のぞき」というヒッチ的主題を語ったとしても。カットされたシーンにWTCで生き残った亀の話があった。
続けて『サブウェイ123』もコメンタリー。今度は『サブウェイ・パニック』との比較を懸命に語るのだが、同じ話ばかりするので少しボケたのか、は言い過ぎとして現場のキレはそれとして普段は気を抜いて生きてたんだなあ、と安心した。とにかくリメイクではない、リメイクとは思ってない、と何度も。しかし最後に牛乳のネタを喜んでいたのでこっちまで嬉しくなった。最後まで見たのは「スコット・フリー」のアニメがラストに出ると記憶していたからで、案の定そうだった。エンドロールで次回作として「ウォリアーズ」の話をした最後に「私はリメイク王ではない」と笑ったのが印象的だった。それにしてもトニーさん、前作あたりから自作をロックンロールと評さなくなった。そうやって自分を鼓舞していたところがあっただろうに、やっぱり寄る年波には勝てなかったか。
結局今日は仕事にならなかった。アイデアが行き詰まり、こういうときは休息に限る。
大阪で死者四十四人というのは凄まじい。そうなる予感は現地で感じたが。
夕餉の後、乗りかかった船ということで『アンストッパブル』コメンタリー。全部は確認できなかったが、最後に「私は画家だから」でキメるのはやめなかった。それにしてもやはりご近所映画の金字塔というに尽きる。人工衛星から町のダイナーまで、が基本。
昨夜に続き今夜もストーブを点けずに済んだが、終日雨だとさすがに冷える。夜更けまで風雨強く、最後にどどーんと来たと思ったらそれきり静寂。春の嵐だろうが不思議だ。
 
某日、運動不足のせいか前夜よく寝たせいか、トイレに起きた際に蚊の襲来に遭って眠れなくなると、まだ暗い西の窓越しに、あかあかとした月と目があった。こうなると動き出さざるを得ず、寝床を出る。まだ三時過ぎたばかりだった。ふとこれまで見ないでいたものを見た。トニー・スコットとは似ても似つかないものだが、こういうものを好きだという若い人たちを理解はできる。決して悪いわけではない。ただそのことと、だからこちらを向いて作ろうということとはやはり違っているので、ひたすらぼんやりするばかりだ。気づくと明るくなっており、さいきんでは最も雲の晴れた空が広がる。ぐっと気温が下がった。しばらくしてそれが私たちの若い頃に流行った日本の女性漫画のエッセンスが根底にあると感じ、なるほどと思った。だからというわけではなく、ただ見るのをやめた。
予想していたものの、やはり一週間では序破急の「序」が限度であった。今回はここまでにして、GWは割と仕事があるので、明けてからまたここへ来て続きをやる。
朝餉を食しながら『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』。先日見たものと内容はそれほど変わらないが、こちらにはコザ暴動の言及がない。ともあれ、少しずつだがこうして戦後沖縄史を勉強する。
完全に日が昇ると快晴の下、鳥たちが初日と同じく強烈に啼く。
洗濯して掃除して、ゴミをまとめて、出発。電車の中でほんの少し眠った。
ぱるるとの再会を大いに祝して、買出しと通院をほぼ同時にこなすとすでに夕刻、連絡などするうちにもう出かけるタイミングである。シアターイメージ・フォーラムにて多摩美出身者・川添彩との上映後トーク。行くと、川添と大橋が待っていた。表で喋っているうちに三々五々当時の学生たちが集まってくる。現時点までの川添の作品は、それがそれ以上人口に膾炙する必要を持たないがゆえにここにあるというようなジャンルに属する、と一応は言える。これでスターがいて整合性のある物語を持てば、トニーさんにも似るだろう。そうなるかどうかは川添次第であり、ならなくてもそれはそれでよい。だから私に言えることはあと少し現実をブーストすれば、つまりはショットを重ねたら別のものが見えてくるのではないか、それも試してみれば、とそれだけなのだった。
 
某日、例によって早朝からぱるるのモーニングコール。かなり眠いのだが、諸々順調にこなし、風呂に入り頭丸め髭剃ってからグレン・グールド。窓からの風も相俟って、爽快。殊にブラームスが良い。午後、ペットショップに買出し。それにしてもグールドが録音中にハミングをやめなかったというのは有名な話だが、実際に聴くと笑えるものだ。
夜は梅本邸で健司卒業記念と松井家送別会。帰宅してTVerで『コントが始まる』第三話。女優は埼玉でKing Gnuのライヴ。気づけば五月になっている。
 
某日、VDP『ジャンプ!』は1984年リリース、最初に新譜として出会った彼のアルバムだが、当時手にすることはなかった。レニー・ニーハウスがアレンジとオーケストレイションで参加している。作曲者としてイーストウッドと組み始めるのもこの頃だが、映画を離れた音楽活動がどういうものであったのか、本日初めて知った。彼は昨年亡くなり今月で一年が経つ。それにしても本作は傑作だ。最近改めて聴くVDPは皆そうだが、もっと早く静聴していればよかった。続けてグールド『リトル・バッハ・ブック』。
午後は届けられた「映画芸術」最新号を眺めつつ、やがてサンソン。「映芸」は格好の題材が集中したが、結局編集長ノート。あらゆる母親は追悼されるべきである。想像界に視線を走らすと映画人の筆は冴える。だが執筆陣・座談陣のチョイス、運動がらみはその道の人々、巨匠ものはシネフィル、製作がらみはおっさんら、女性映画は唯一期待させる女性たち、というチョイスは「ティピカル」そのもの。もう少しなんとかなるはず。そこへ行くとサンソンは凝り方が十枚くらい上手で、コリン・ブランストーンがニール・マッカーサーという変名で六〇年代末に出したニルソンのカヴァーなんて「棚からひとつかみ」で出てくるものか。曲は美しく秀逸、しかし非常に重いものを聴いた。
 
某日、ふと気を緩めると、というか実は逆に引き締まった態度でシナリオに向き直ったために記録する間も無く過ぎ去った時間があり、つまりその半分は調べごとに終始したためであって、おかげでわずかではあるが進展を得た。で、気づくとほぼ二日経過しており、そうなったのはそれだけが理由ではなく予定していた用事が一つなくなったからでもある。
ウィリー・クラントの訃報。この人も神出鬼没であった。多くの巨匠と仕事をしているが、どちらかといえば素早く撮ってくれてその早さの呼吸は捨て難いが、ソツもなく美点もないような、そういう人でもあった。最後に不意にガレルを二本連続で撮った。ゲンズブールとバーキンの周辺にいたこととガレルと仕事をすることを矛盾なく遂行できた稀有な人だともいえる。やはりよくわからない。
 
某日、日変わってまたも無為に一日が過ぎたのは、昨夜の『ビーチ・バム』イベントに出席して休むのが深夜になってしまったせいで、イベントそのものは非常に愉快であり、中原昌也や廣瀬純や町山広美ら各氏とハーモニー・コリンや映画そのものについて語らうのも実に痛快な時間だったが、終わってしまえば体力のなさだけが尾を引いて、こうして雨模様の翌日も暮れていく始末。やったことといえば数日前からの懸案であった仕事場のカーペット剥がしのみ。女優があっという間に実現したリビングのカーペット換えに比べても全く造作もないことをひどくダラダラやっている。そうやってダラダラしながらも考えるべきことはそれなりに考えてはいるのだが。
考えていたのは経済的危機回避のための計画的生活の立て直しである。先月の旅で消費した分をじっくりと節約して修復しなければならない。それゆえ今月の地方シナハンは延期やむなしとする。
夜、あることを確認するために『東京物語』を見始めたら、結局おしまいまで見続ける。これまた『ビーチ・バム』関連で符合があれこれ見つかり、特に「決定的瞬間の省略」と香川京子の「白ソックス」はモロにそうであろう。そういうわけでハーモニーがいよいよ超越的な領域に作家として足を踏み入れた意識の表れを感じ取ったことになるだろうか。そうそう、熱海行きを山村聰と相談する杉村春子の浴衣姿の開脚もね。イベントで廣瀬純からその話が出た時は『ブロンド少女は過激に美しく』のラストを想起していたのだが。そして、この兄妹の家を移動する流れの暴力的とも言いたくなる省略が今回最大の衝撃であった。尾道では朝になるまで原節子の単独ショットがないことも実に意外で、こういうことをやれるようにならんといかんと思った。愛する者を冷遇する忍耐から生じる厳粛さの美徳。
 
某日、昼過ぎにまたグールドが届き、バッハ沼。好みとしてはピアノ協奏曲に聴き惚れるのだが、印象としては真逆の「平均律クラヴィーア曲集」がまた、どれもへんてこりんで面白い。スウィングのように感じる瞬間もある。
午後、義母のワクチン接種に家族総出で。ぱるると車で待っていたが、なかなかの混みようだったとか。会場の駐車場など問題は山積のように見えた。
女優と週に一度の共通の趣味と決めたマッサージへ。帰りに蕎麦屋でカツ丼。効果覿面で、帰宅するなり揉み戻しで体がパンパンに膨張する感じになり、そのまま眠る。深夜、目覚めるが、自爆する夢を見たのが印象的。
 
某日、その夢の悪影響なのかマッサージの後遺症なのか、体調はいいのに精神のバランスを崩し、終日ネガティヴ。なんとか誤魔化そうとするのだが、ダメ。レンタルのルーター返却を巡ってNTTとは喧嘩するし、女優にまで八つ当たりしてしまった。午後遅く雨が降り始めてからようやく気分整う。本降りになる前に買出しを済ませて『晩春』。やはり唐突な省略と決定的瞬間の排除はここらから始まっている。野田くん(当時の年齢は現在の私とタメ)の影響が大きいのではないか。ある種の高踏か前衛に向かったのではないか。年齢で言えば「お父さんはもう五十六だ。お父さんの人生はもう終わりに近いんだよ」という台詞の通り、娘を嫁にやるという心境も含め、大きくは野田くんの主導と考えていいだろう。小津というと鎌倉という話になるが『戸田家〜』の鵠沼を加えても実は三本しかない。ブルジョワ的と腐されても全体の二割程度だ。『東京物語』の画面がその二割の反動のようにひたすら狭さと貧しさに向かっているのが痛ましい。何度でも小津を見直す必要がある。
 

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某日、前夜より食事制限して今朝も空腹で中目黒へ。内視鏡検査。三種類を選択できる。覚醒状態で鼻から、同じく口から、そして麻酔で眠った状態。精密にすべきなので、という理由で麻酔を提案され、同意する。そしてまあ文字通り眠っている間に済んだ。喉の痞えは食道に潰瘍ができたせいで、幅二センチほどの膨らみがある。薬物治療で大丈夫、ということで処方された。薬局はそれなりに時間がかかった。帰宅、用意した朝餉を摂り、再び外出。早稲田大学にて藤井仁子先生主導のマスタークラス。土田環に久しぶりに会う。自分のことを話すのは本当に苦手で大体途中で話の流れを見失うが、最近見たもののことであれば喜んで話せる。三人で行った喫茶店でも話したが、サークルノリで話している限りは幸福なのだ。特にこの二人を含めて十人前後の幸せな顔ぶれが想像つく。
帰宅、夕餉の後、届いた文芸誌など見ているうち早々に眠くなる。
 
某日、朝からTVerで『コントが始まる』第四話。リアリズムは無視(神木くんの母親関連はことごとく)だが、全体の構成は見事であり、第一回と比較して画面の人口密度が格段に上がり、徐々に普通のドラマになってきている。そしてサウンドトラックが実によく、それだけで見ていられるし、俳優陣(殊に鈴木浩介さん)が力量を発揮している。あと、松田家の末娘が松田家の顔をしており、驚いた。ともあれ、野田高梧の実年齢ではないが、親の死なども年齢的に喪主をやると、予算に限りがあってもあるいはわかりやすさとの折り合いにおいても方法を見つけることはできる。経験が全てなどと乱暴なことは決して言わないが、ないよりましということもある。
で、サンソン。また一週間が過ぎた。The Whispersが記憶に残る。
昼過ぎから山中のシナリオ集を探していたが結局見つからない。誰かに譲ったのか。仕方がないのでグールドを聴き続ける。「新潮」連載の小津伝に谷崎『瘋癲老人日記』の鱧に関する記述があり、これまで二度読もうとして両方とも『細雪』で疲れて辿り着けなかったが、その際贖った『鍵』とセットの新潮文庫を見つけ出した。以前も鱧だけ拾い読みしてそのままにしたので、今度こそ通すつもり。グールド、いま聴いているのは坂本さんがセレクトしたやつのバッハ版だけど、終わりに近づくに従ってグールドの声がでかくなり、ピアノを聴いているのか本人の唸りを聞いているのかわからなくなる。
女優が仕事から戻り、夕餉を済ませて『麦秋』。大学の授業用にチェックで見て以来だったので、落ち着いて見て心に染み渡るようだった。そうして移動ショットの多さに驚き、これは本作に限らず想像界的「拾う」仕草の頻繁さにも気づいた。新潮小津伝の象徴界的山中関連では「天衣紛上野初花」つまり『河内山宗俊』を老夫婦とともに大和の老人が見ている。しかし何よりの驚きは、数多のファクターが出揃っていく小津的現実界ともいうべき似て非なるものの跳梁が感じられつつあり、特にあのラストの老夫婦の視線はどこにも向かっていないとしか思えないのがやはり怖い。『東京物語』の押切の二階にいる笠智衆から土手の東山千栄子が見えているかどうかの謎とともにその後もめまいとして繰り返される。さらに今回気づいて何より奇妙だったのは、ふと会話において誰にとっても間宮家が東京の人間であるということになっている点で、もちろんいまは鎌倉に住んでおり、例えば『晩春』の曽宮家であればかつて西片町にいたことが「多喜川」での会話で知れるように『麦秋』でもニコライ堂近くのカフェでの次兄の麦の穂を同封した手紙をめぐる紀子と謙吉の会話やいよいよ家族が離散する晩の老人や長兄の紀子をめぐる思い出話(小学校を出たての頃の鎌倉移住、雨降りお月さん云々)によって引越しの事実はわかる。が、丸の内OLである紀子の周囲(同級生、上司)にとっては今も東京にいるかのようであり、というより鎌倉と東京は無媒介的に接しあっているような印象をあえて与えている気がする。義姉との会話でショートケーキが高い安いという想像界的家計の話になり、それが二人の縦軸となっているがこのケーキを紀子はどこで贖うのだろうか。鎌倉? 東京? 持ち帰りの時間は? それまで婚姻話でウキウキしていた人々は、本決まりになった途端に揃いも揃って浮かぬ顔になってしまうのはどういうわけなのか。笑っているのは佐野周二と杉村春子、淡島千景など周囲の人々だけである。どうも実はこの話、全員空襲で死んでいるという設定(生きているのは次兄)で結婚するとか隠居するということは現世(秋田や大和)に舞い戻ること、を意味するのではないかと眉に唾をつける。だから子供達はやがて眠りこけ、そのうち画面から姿を消すのではないか。彼らはその中間地帯にいるのであり、逆に大和の老人は生死両界を司る何者かであり……といった妄想にかられるのは私だけではなかったはずだ。探し物を探す高橋豊子の反復はゾンビに近いというのも考察の糸口……なんてね。
そうしてこの「全員死人」感に導かれるように拙作『空に住む』は作られた気がする。
 
某日、のんびり準備して十二時台の踊り子号に乗るとすぐに睡魔に襲われ、気がついたら小田原の海が広がっていた。到着した伊豆の家の周りでは鶯がなりを潜め、キビタキだろうか不詳の鳥が盛大に啼き放題啼き散らしている。しばし自然を満喫し、風呂へ行く。歩いていると鶯もまだまだ威勢が良いのを聞いた。風呂はガラガラだったが、くりからもんもんの方々が闊歩されており、なかなかに壮観な眺めであった。帰りに買出し。初日大量購入のため、運搬は一仕事。汗をかいた。
夕餉はパスしてキンクス『ローラ対パワーマン』。アナログ盤だとこんなに軽みを感じられるのかと感動で変な声が出た。ドラムの音にその微妙さが聴ける。ミック・エイヴォリーってやっぱり大したもんだ。最も過小評価された人のひとりだと思われる。ひっくり返してB1が「This Time Tomorrow」。そろそろ『ダージリン』もBDを入手したい。
さらにマーヴィン・ゲイ『What’s Going On』。これもアナログでは初。何もかも新鮮に聴けた。というより初めて聴くような緊張。ジェイミー・ジェマーソンがそこにいる感触を真剣に覚えた。
今日は仕事しないと決めて『おちょやん』も見る。春団治の舞台をやった。まあそれを朝ドラでやるのは荷が重すぎるというものだが。それより西川忠志さんがすごくいい感じに老けていて、これは良いのではないかと思われた。やや中途半端なシーン立てで物足りないがそれはご本人をもっと見ていたいと思わせるところでもあった。
 

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某日、数日前から『燃えあがる緑の木』読書を再開しているが、どうも時間がかかるというかすんなり前に進めない理由を考えてしまう。『懐かしい年への手紙』の後半を読み進める時にはっきり感じていたのは、今世紀に入ってからの大江作品に繋がっていく語りの女性性とでもいうべきユニセックスの感覚だった。しかし『〜緑の木』ではどこか男性性、というより単性生殖の脆弱な頑なさのようなものを嗅ぎ取ってしまう。いわば変貌の手前の逡巡にありがちな後退かもしれない。であれば逆転してスリリングであってもいいはずだが、むしろにやけた鷹揚さばかりが横溢して、それは度々言及されるマルカム・ラウリーの悪影響ではないかとさえ思われた。いま読むには時代遅れなのか。あまり大江にそんなことを感じたことはないのだが。しかしまあ、とりあえず読み通さねば話にならない。
朝餉のお伴はグールド晩年の『ゴルドベルグ変奏曲』。昨夜のジェマーソンではないが、目の前にグールドが何人もいる。鮮烈のきわみ。
作業に行き詰まって、とある日本映画を見たのだが、そこで小さな何かが起こるとしてそれらはその後回収されるべき伏線を引き、うまい具合に回収されるだろう。だが小津においてそうした細部は伏線をなさず、ただ放り出されるだけだ。反復するショートケーキについてもそれが劇として何らかの効果をもたらすことなく、ただ想像界における価値基準に若干の動きをつけるばかりだ。そしてたぶんそれで良いのだと思う。もちろん伏線をうまく回収する術に長けた方々が間違っているわけがない。だがまあそれはそれ。
日暮れていよいよだれてきて、斉藤陽一郎と長電話。一年は経っていないはずだが、それなりにご無沙汰であったはず。それでも定期的に時候の挨拶がてら電話で話す相手も本当に減った。そして話すべきこともすぐになくなる。しかし話がなくなってからの話の長さも年々長くなって行く気がする。陽一郎と話すと三回に一回ぐらい何か変なことが起こるのだが、今回はこちらで虫の羽音がして、どこにいるか探るがその姿が見えず、しばらくして向こうの部屋でやはり虫の羽音がし、やはりどこにいるかわからなかった。直前に最近出たルポルタージュ本の話とそれに関わる別の事件の話をしていて、どうも好ましからざる空気が流れたせいだったかもしれない。しかし、とある事象を評して「川崎じゃないんだから」は笑った。いやホントその通りなのだった。
電話を切り、晩飯を食い、眠ることにする。
 
某日、東京にいることが外界と接することになっている気がして、しかし外界に対して虚無しか感じないのだからできるだけ伊豆にいるのが内向となっているのだとまとめると、朝から再びマーヴィン・ゲイを聴き、キンクスを聴き、『スマイル』を聴く。名盤しか聴かないと揶揄されるかもしれないが、別にそんなつもりはなく、ただこの世の外のような、人間的なものの外にいるような、奇跡のような何かに浸る必要がある。グールドも同じこと。
天空が下り坂になってくるのを見越して明後日分まで買出し。良き散歩道を見つけ、それを下って行った先に今度はクリエイトなる良き薬局を発見。便利と思われるのはそのままカインズに行くのにちょうどよいからである。そして有線で『アビー・ロード』がかかっており、店のテーマ曲はラモーンズ「リメンバー・ロックンロール・レイディオ?」の変奏。気に入ったので、そのクリエイトで必要な文房具を贖い、カインズでもさらに贖い、そうしてマックスバリュで食材を贖って帰宅。カインズでコーヒーミルを入手するかどうか悩んだが、自宅にある気がしてやめた。
午後はある一つのシーンを考え続けて日が暮れてやっと書き上げた。一つのシーンにこれだけ時間をかけたのはいつ以来か。大したシーンではないし、作品のキモになるとかそういうことでもないが、これがあるとないとではかなり作品の表情が変わって来る。そのための前振りなども設えなければならないし。で、それもやって時間がかかった。
途中でまた陽一郎からメール。これはちょっと愕然としたが、最もショックだったのは本人だろう。関東の殺人事件関連。昨日の今日で、さすがに参る。猫が来たので缶詰をあげる。
本日の仕事を終えるなり、雨。夕餉は饂飩。
で、冒頭のみ見て途中で止めるつもりで島耕二版『細雪』を見始めたのだが、これが凄まじく良くて、二度目のはずだがほぼ覚えてなくて、しかし山本富士子が素晴らしく、雪子の造型はこれが一番いいのではないか。最初はやっぱりダメかと思った叶順子も板倉の病気のあたりから徐々に良くなり、クライマックスは素晴らしい。単純なことを単純に描いた筆致の勝利であり、監督も八住利雄脚本も大正解だったと思われた。原作のリズムでは上品に流れた事象たちがこのスピードだと生死も欲望も金銭もギラギラとエグすぎるほどエグい。ほとんど『風と共に去りぬ』である。さすが永田雅一。


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某日、夜が明けても雨風はおさまらず、飯の炊けるのを待ちながら聴くグールドのベルクは赤ん坊の泣き声や風雨と共演になり、大変落ち着く。これがブラームスとなると自分がフレームを邪魔して、鑑賞の域を出ない。
本日は延々と戦前戦中の流れを考察すべく日本史の勉強。昨日贖っておいた文房具のおかげで仕事の捗り具合は上々だが、戦時中に関するWikiなどを読むにつけ、気分がどんどんダウナーになっていく。Wiki程度で何を大げさな、とバカにされるだろうが、心の底から嫌いなのだ、横暴な将校とかが。能力があろうがなかろうが生理的に受けつけないというやつだ。辻とか牟田口とか氏名の字面を見るだけで嫌悪感が走る。そんなわけで暗くなるまで荒れ模様だった天気と相俟ってどっと疲れたのだった。
で、かれこれ十時間以上様々文章を読んでいると、目がとてつもなくしょぼしょぼになり、開けていられない。よって眠りたいが、まだ九時だ。ようやく雨は抜けたか。
 
某日、早寝したら翌朝昨夜分含めたツイートがごった返してしんどいのだが、ついでなので総ざらえ。中でBS大瀧特集の「探偵物語」(薬師丸さん)が上がっていて、大瀧さんの提供ものでは「快盗ルビィ」(小泉さん)と、松本さんの詞もあってこれが最良と思われる。私にとってはこの二曲さえあれば良い。「冬のリヴィエラ」や「熱き心に」は別格。それにしてもインドの変異株、イギリス上陸でまた世界はやばいことになる。ワクチンは果たしてどこまで有効か。イスラエルにも移してみては如何か。
朝餉を済ませて『おちょやん』最終回。定石とは思うが『長い灰色の線』と『オープニング・ナイト』で締めてきた。それは構わないのだが、ラストカットが相米になっていて、これではおちょやん幽霊になるやんか、と突っ込みたくなる。朝ドラは前回の主題歌が毎朝聞くのがしんどくて見るのを止めてしまったが、今回の秦基博はよかった。最終回だけは構成を変えてラストに流せばいいのに、と余計なことまで考えてしまう。
ふと何かの動きに気づいて庭に目を遣ると、薄茶色の綺麗な小動物がいる。仔猫ほどの大きさで目の周りから頭頂部に向けて黒い線状のぶち。胴長足長。これは穴熊であろうと携帯を撮影モードにして構えるが、作動しない、あれ、と焦っているうちに気づかれ、去られてしまった。しかし可愛らしかった。何を食べて暮らしているんだろうか。小さな虫とかトカゲとかだろうか。へんな草の実とか噛んでお腹を壊したりしなければいいが。初めてここへ来たときの明け方、庭の木の高いところを伝って栗鼠が何匹もスルスルと行き交っていたのを思い出す。もちろん栗鼠はいまもいるし、そのうち駆除されたもののかつては野生化したハリネズミが繁殖してたくさんいたらしい。
それにしても天気がいいので鳥どもが好きなだけ高らかに啼いていて心地よい。こういう雨に降り込められた翌日は何もしたくないというのが本音。
昼過ぎ、女優とぱるるが到着。彼らは久しぶりの伊豆である。短い散歩に出て掃除などした後やがて夕餉をいただき、各自穏やかに過ごす。シナリオ作業中、歴史的事実について分からないことが出て来て、メールで先達(荒井さん)に助けを乞うたりもした。助かった。
 

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某日、朝餉の後、ぱるるが走り回っても足を痛めないようにリビングに四角いコルクのマットを敷き詰める。女優は器用に端の細かいカットまで職人的にきちんとこなした。
作業後、休息しつつ『ストリート・ハッスル』。CDはあるが、初めて聴いた際の複雑な感動はアナログでなければ再現できなかった。『MMM』以後、パンクの渦中にここにいた七八年のルー・リードを覚えている。赤の他人がヤバいところ(人生の岐路)に立っているのを初めて感じた気がした。これをリアルタイムで聴いたからその後もルー・リードを聴き続けたのかもしれない。いまでも十分にヤバい気がする。
午後カインズに買出し、交代で風呂へ行き、戻ってから贖った書棚を組立てるなど諸々。全て終えた頃には晩飯の支度なのだった。
本日作業ほぼ手につかず。
 
某日、日々早起きしてすべきことは早々に片付ける習慣ができているので大勢に影響はないのだが、朝餉の後『ガンボ』など聴いた日には全てどうでもよくなるので注意。
 

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その後『アーサー』。子供の頃入手した『マスウェル〜』含め三大傑作をアナログにてコンプリートは四十数年がかり。「シャングリ・ラ」の、ガッゴッ、をここで味わう喜び。
雨模様。降ったり止んだり。まだ肌寒いがどうやら春が移ろい、梅雨に入ったらしい。
作業したくないのだが、荒井さんの貴重な資料提供もあってふと思いついてしまうので手をつけると、案の定ダウナーになっていくのは出来の問題ではなく内容の暗さによってである。クサクサしてしょうがないので気分転換に家の風呂に入る。
夕方、ツイッターに上がった、池江選手の映像について是枝さんの書いた文章を読む。ほぼ思っていた通りの内容だったが、問題が顕在化するとしたら何もかも済んでしまった後のことだろう。そういう意味では沈黙に徹するべきだったという気がしないでもない。
夕餉を済ませ、珈琲豆挽きで苦闘(失敗が続いた)してから『コントが始まる』第五回。折り返しとなるシビアな回だったが、なんだか信憑性の乏しい内容だった。三人の場面や明け方の公園などはさすがに見せたが、全体にどことなく芝居がぎこちなく、台本と演出が時折明らかに噛み合っていかない。それでも結局主演四人の集中力が救った感じ。
 
某日、起き抜けからゆっくり帰京の準備、とともに次回来豆の日程を決め、月内の初稿完成を誓う。溜まったゴミの廃棄も今回のミッション。ぱるるも車酔いしなくなった。
帰宅して眠気に朦朧としつつもアレコレと作業。全く別のものを探しに地下に降りていってふとこれまで触りもしなかった棚を見て、そこに先週探していた『山中貞雄作品集』を発見する。視点を変えてものを見るというのは大事なことだとつくづく。久しぶりにポロポロと拾い読む。なんだか羨ましいくらいシンプルだ。今の作業もかなりシンプルに進めているつもりだがそれでも比較にならないほどだ。
ラジコでサンソンを。また一週間が過ぎた。二週連続アイズレー・ブラザース。そしてご自身のアカペラ「バラ色の人生〜ラヴィアンローズ」。
夜になっても降ったり止んだり蒸し暑い。今年最初の夏日を感じる。
 
某日、収録に出かける女優を見送った後、病院二軒をハシゴ、買出ししてから帰宅、遅い朝餉を済ませて、諸々真剣な考え事。結果、再び地下へ潜入、山田風太郎『戦中派不戦日記』と高見順『敗戦日記』を救出(ついでにピンチョン)。とにかくそれらをパラパラめくるうちに何か浮かぶだろうと適当な調子でいると、田村正和の訃報。しばらく前にも書いたが、映画版とテレビ版の二つの『砂の器』が記憶の中でごっちゃになっていて、私にとって『砂の器』はテレビ版であり、田村正和の和賀英良だったことをまたしても思い出した。あのとき、というのはそれを見たときだが、両親も一緒で、坂本長利さんがおやりになった父親がハンセン氏病でなかったことからその話になり、門司の甲宗八幡という神社の石段に乞食になったレプラの患者が並んで座っていた、ということを聞いた。このことは親から受けた数少ない情操教育というものの一つなのだが、ところがそれより私が気を惹かれたのは田村正和=和賀英良の発見のされ方で、映画館だったかテレビだったか定かでないのだがプロ野球ニュース中、偶然撮られた観客席の映像として和賀の笑顔がはっきり写るのが繰り返し大写しされ、最終的にはコマ送りからストップモーションになる、というのがその場面の構成だった。今でこそそうした手法を珍重しないが、子供だった当時には心奪われるものだったのだろう。何しろそのモノクロ映像(と真野響子さんの美しさ)だけがはっきり記憶に残っている。そういえば、この朝病院の待合室での時間潰しに『忘れられた日本人』を手に取って出たのだった。当然そこには「土佐源氏」、つまり坂本長利さんが昨年か一昨年に1200回公演を果たした一人芝居の元ネタが収めてある。あくまで偶然だが。
夜は女優によるエビ炒め(わが好物)をいただき、寝るまで『不戦日記』をめくった。
 
某日、朝から『不戦日記』『敗戦日記』それから辺見庸『1937』。どれも手に取るのは何度目かだが『退廃姉妹』もどうなるかわからぬゆえ、いまこのシナリオで自分の考える戦前戦中戦後を、ボツでもいいから少しでも描いてしまおうという野心が湧いた。ずっと以前に頭に描いた中島製作所の空爆がこれでやれるかもしれない。昨夜も夢に見たのだ。
夢を見るのは某町の歴史を辿る写真集とも首っ引きであるからかもしれない。
本日も雨であり、女優は打合せに出かけ、夕方帰宅したところで合流、マッサージへ。晩は出前の冷やし中華。眠くて仕方ないが、次の伊豆行きの荷物を作る。
 
某日、いささか緊張気味なのか、いつもより一時間早く起床。食事抜きで湾岸の病院へ女優に送ってもらう。久方ぶりのオーバーホールである。しかし一日がかりでまだ三分の一。残りは来週。よって次回伊豆行きは先になる。内視鏡がうまくいかなかったようで、麻酔から醒めたときかなりつらい状況だった。おまけに絶食のせいか何か、腹痛に見舞われ、しばらくすると下痢に移行。もしかして昨夏の入院以来ではないか。へとへとになったので帰りはタクシーを奮発、買出しはしたが何も食わず、早々に就寝。夜更けに目覚める。
それにしても都倉とか山谷とかはるかに時代を取り違えた連中がいると、八十年近くかけて醸造させてきたこの国が現在至った幼稚さにただただ呆れる。中山をはじめとするレイシスト然り。政治はどシロウトがやるべきだという理想は持つが、そこで求めるのは洗練された大人のどシロウト性であって、時代錯誤の老人などお呼びでない。ましてや半端な若造ごときに知事など道楽も度が過ぎる。
 
某日、ぱるるが払暁に嘔吐して夫婦で心配するがこの時刻では様子をみるしかない。朝にはケロッとして何か食べたがる。恐る恐る食べさせてみる。向こうもやや慎重になる。
おかげで明るくなる前に事務作業をあらかた終わらせた。生きている限りいくつかの事務作業がついてまわるのにうんざりしてきたが、やはり止みそうにない。
朝餉以後はシナリオと『不戦日記』を行ったり来たり。途中で『虫けら日記』が必要になり、アマゾンで入手しようとすると既に持っていることが発覚。慌てて地下に確認に行くと、先日二冊を引っ張り出した書架のすぐ隣にあった。そしてまた延々と辿り続け書き続け、雨の降り込む窓を開けたり閉めたり、するうちにいつの間にか日没、夕食、九時を過ぎるともう眠くなっている。届いた『決定版 日本の喜劇人』をパラパラ。何度も手に取ったがこれまで購入に至らなかったのは内容の陰惨さに起因する。つらい話が多いのだ。しかし今回はちゃんと読もうと思う。べつに「決定版」だからではない。決定版とか完全版とかをあまり本気にしたことはない。
マッスル・ショールズの要、ロジャー・ホーキンズの訃報。
 
某日、早朝から腹立たしいことが多々あるけれど、分けても田村正和の代表作が刑事コロンボのパロディものということになっており、それが日本のテレビドラマの金字塔とさえ言われているのには閉口するしかない。テレビのことなど知らんけれども私はずっとあれがこの国のドラマをダメにしたと思っている。
伊豆へ。一回の日記で三回は初めてではなかろうか。いろいろと荷物を置き去りにしたのが気になり、次にいつ来られるか分からなくなってきたので短い滞在を決めた。シナリオにラストスパートをかけたいという意気込みもないではない。
着くなり天鼓が、どうだ、と言わんばかりの高らかな囀りを聞かせてくれた。しばし玄関に立ち止まる。家に入り、作業準備する間も、今が旬とばかりにひっきりなしに啼く。庭では前回(たしか)咲いていなかった躑躅が満開になっている。
電車の中で『不戦日記』四五年三月から五月。我が家のそばが焼け野原になる。それは措くとして、これを含む山田風太郎や高見順の日記、辺見庸の批評、それに三冊の吉祥寺の写真集は、シナリオを書くこちらをじゅうぶん刺激してくれる。それらに縛られる気はないにしても、資料があることについては目を通すに越したことはない。たんに膨らんで行く。
夕餉に饂飩を作り、その後『バラバ』。これは見直しておきたかった。見ながら先日のイスラエルへの武器輸出をイタリアの港湾労働者が拒否したというニュースを思い出した。必ずしも出来が良いとは思わないが、こうした巨大な史劇では成功したものの方がむしろ稀であり、傑作といわれるものでも実は大したことのないものがほとんどの中、僭越を承知で言うが、恐ろしく頑張っていると思う。そしてこれほど論理と画面が渾然として紆余曲折を経る物語も珍しいのではないか。この構成をじっくり咀嚼することにしよう。スペクタクルに頼らず、エピソードの積み重ねで語るためにはある種の粘り強い演出が必要であり、ここでのフライシャーは相当に粘り腰である。アンソニー・クインとヴィットリオ・ガスマンの関係を、時間をかけてみっちり作って行く流れは素晴らしい。そして最後にペテロとの再会へと至る構成。その上でやはり踊る女たちを配するとフライシャーの画面は、格闘する男たちと同等にイキイキしてくるのである。その辺の緩急のつけ方も学ぶところが多い。ニコラス・レイならつい演劇的な誇張を求めてしまいがちのところをフライシャーはあくまで映画的に処理する。どちらにしてもハードルの高い話だけど。
 
某日、緑茶葉を贖い忘れ、ティーバッグのほうじ茶を淹れるが、大変不味い。気分を変えるべくTVerで『コントが始まる』第六回。全てが十全に機能する完璧な出来で、3分に一回笑うのだが、最終的には驚いた。この回だけで今年のドラマ部門一位決定であろう。
しかしどうしても緑茶を飲みたいので朝餉準備の後、スーパーへ。
コーヒーミルで挽いたコーヒーがまだ決まらない。修行だ。
バディ・ヴァン・ホーンの訃報。91歳。先日レニー・ニーハウスのことを書いたが、同世代の仲間に次々先を越され、御大もさぞやお寂しかろう。次回監督主演作で見事に大団円を迎えてほしいものだ。
そういえば本日はたむらさんの命日である。
午後、ヒントを探して部分的に、と見始めた『大統領の陰謀』を結局最後まで。ウィリアム・ゴールドマンに学ぼうとしたがあまり収穫はなく、むしろ三十分ごとに出番の来るデヴィッド・シャイアに引っ張られただけだった。ディープ・スロートがらみはやはり興味深いのだが。あと、これもまた、言わずと知れた「手ぶら映画」の代表作である。
さらに気分を変えようとイーノ『シュトフ・アッセンブリィ』。アンビエントをアナログで聴くことも念願であったがようやく。まさにそのための音楽。一刻も早い御隠居モードを望む。もう東京の状況には関わりたくないし。
気づけば最高の天気。こんな日差しに恵まれることはもう夏までないのではないか。
で、サンソン。三週連続アイズレー、素晴らしい。毎週この時間だけはぼんやりできる。
本日は日がな「伊東市長選挙」の街角公報が流れていて、18時現在投票率40.55%とのこと。まあまあだな。
夕餉の後、事務所を引き払って以来久方ぶりにInter FM「Barakan Beat」を。たんにラジコの聴き方がわからなくて聴いていなかっただけだが、でもそんなに間が空いているとは感じない、違和感なく聴いていられた。バラカンさんに刺激され、帰宅前夜にもう一度『ガンボ』。クレジットを読むと、これジェリー・ウェクスラーのプロデュースでキース・オルセンがエンジニアなのだった。いやはや、としか言いようがないが。
 

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『10番街の殺人』を見直して、ジョン・ハートの居方のフライシャー性とでもいうのか、犠牲となる欠陥を持つ若者という立場が今回は強烈に感じられた。冤罪による極刑だがこれと、例えば現場を逃れて親戚の家に行くところまで似ている『チェンジリング』の極刑シーンとが並べて論じられる必要を感じた。そんなことはまずないだろうが、その端緒に大島『絞死刑』を置いてもいいかもしれない。ここでは冒頭から終幕までアッテンボローの手に呪いのように麻紐が絡まっているので、ハートもまたアッテンボローに殺されたとみなしてもよいように撮られている。もちろん他のイーストウッド作品ではしばしばフライシャーと同様、犠牲となる若い者と年寄りのカップルによる物語はいくつもあるが、その点よりも冤罪でもそうでなくても極刑はそれほど違わない描写になる(『トゥルー・クライム』のラストミニッツレスキューもあるが)という映画的現実の話として、である。裁判から処刑までシーンバックでアッテンボローとハートはそれぞれ家と裁判所、で交互に描写されるが、どちらもさほど広くない、むしろ「狭さ」が強調される空間で、それが処刑シーンで極に達し、間に風通しのよい実景など挟まれることもなくこの「狭さ」は最後まで持続する。それゆえに本作の処刑の部屋とそれ以外の世界の地続き感は貫徹されている。それはリリントンプレイスという行き止まりの場所がこの世の縮図でもあるかのように捉えたところから来ているのかもしれない。どうも雑感でしかないが、イーストウッドはそれに耐えられず、つい口当たりのよい広さをどこかで求めてしまうのではないか。あるいは空にキャメラを放ってしまうのでは? この違いはどこからくるのか。それは家業、先天性と職業、後天性の違いかもしれない。職業として後天的に映画を得た者はついおまけのような追加を求めてしまいがちなのかもしれない。
結局よくわからない話になったが、シナリオを作っている人間の頭の中なんてどうせこんなものだと諦めていただきたい。理路整然というわけにはいかないみたいだ。
混乱そのもののように法廷に立つジョン・ハートの半開きの唇が忘れられない。
 
某日、梅本健司とイアン・ジェローが同じ今年、大学卒業した。先行き明るい。

 
(つづく)
 


青山真治

映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、『空に住む』(20)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)、自作『しがさん、無事?』(19)など。

近況:8月4日(水)に『空に住む』Blu-ray&DVD(販売元:ポニーキャニオン)が発売になります。