宝ヶ池の沈まぬ亀 第57回

青山真治さんの連載「宝ヶ池の沈まぬ亀」第57回は、東京と伊豆を行き来しながら趣味の翻訳、依頼を受けた書評の執筆を進め、アルノ―・デプレシャン監督とのトークイベントに出演したり、Bialystocksのライヴなどに行った2021年2月下旬から3月にかけての日記です。映画『マンディンゴ』(リチャード・フライシャー監督)、『ビーチ・バム まじめに不真面目』(ハーモニー・コリン監督)、『アメリカン・ユートピア』(スパイク・リー監督)などについても。

57、三十七年目の「回帰」現象に寄する・白い・讃歌

 

文=青山真治


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某日、二つのクリーンセンターにてゴミ処分して帰京。病院で薬。夕餉はハンバーガー。作業もそこそこにあっという間に眠る。春眠暁を覚えず。
なぜか右手の指先がボロボロ。風船なのか何なのか不明。まさか花粉でもあるまい。あるいはスーパーのお惣菜の入ったプラスチックの器を開ける際などに小さな傷ができるのか。それが増えてこんなになってるのか。そうかもしれない。あれ、意外に痛い。あとは猫缶を開け過ぎているとか。まあ何であれ、痛い。痛いので何もする気が起きず、ペットショップで皆さんの食料を大量ゲットしてきた。
忘れていたが、伊豆でスタンダードサイズがかからない理由はブルーレイプレイヤーがヘボだからという結論に達した。マサルの説。たぶんそうなのだろう。いずれ良いプレイヤーに買い換えるときまでスタンダードを我慢するしかない。
鬱というか神経症というか、深まる。仕事に触りたくても触れない。でも今日はぱるるの三回目の誕生日だった。
 
某日、第二回大島賞該当作なし。さもありなん。何とも歯切れの悪い黒沢コメントがもどかしくてならない。現在この反時代的な賞に値する反時代的な表現者などあるものか。十年選手、二十年選手含めて存在しないだろう。
相変わらずどうも仕事に向い合えず、久しぶりに趣味の翻訳に逃避。Kindleで画面上にテキストとノートを並べて。地下から電子辞書も持ち出して。本の辞書だと字が小さすぎて。前も書いたが『Sanctuary』はそれほど煩雑な文章はないので、スイスイ進んで気持ちいい。鬱積した脳が晴れる。で、以前からの感じでやはり直訳する方が気分がよくて、地の文の持つぶっきらぼうでごろりとした無骨な感じが出る。フォークナーはこれがいい。もちろん最後までやるつもりはないけど、最後の裁判とパリはやっておきたい。
にしても本日はひたすら飯担当だった。
 
某日、今日もやる気が出ないまま『Sanctuary』翻訳。原文を直訳して本来の文章に近づける作業は実に愉しい。並行して大江を読んでいるからといって大江的な語彙になるかというとそういうわけでもない。どちらかといえば中上に近いが、それは私の問題である。難しい箇所はやはり訳本でも咀嚼しづらい文章になっているのだが、咀嚼しづらいままに解き放つことを目指す。いま『ガンズ・アキンボ』という映画の宣伝が喧しいが、本書にもこのアキンボakimboという単語が出てきた。腰に手を当てるポーズのことらしく、女性的な仕草(電子辞書には「ナニヨ」などという時、とあった。アレサ・フランクリン的というか)としての使用が主らしく、男性に使った場合にいくらかクイアー的な暗示が加わるのかどうか、興味深い。並行してパトリシア・ハイスミスのことを考えているせいもあるが、本作の主人公ポパイという存在はどこかトム・リプリーに通じるところがある気がする。原文に触れた瞬間からこれまで抱いてきたイメージがガラッと変わってしまった。引き続き追いかけるつもり。
 
某日、満月だったがもはや月を愛でる視力を失ってしまったことを知る前夜、いつ寝たか曖昧なまま午前四時に目覚め、寒さの残りで身を縮める二月の終わり。樋口社長がビアリストックスについて「よきプロデューサーと出会えれば」と語っていたが、もしそんなものが実在するなら先日の大島賞だってこの悲惨な現状を晒す結果にはなっていないだろう。音楽も映画も大差ない。仮にいたとしてその者がまともに仕事のできる土壌は失われて久しい。前世紀末から二十年かけて寄ってたかって潰し合って焼け野原しか残っていない。犯人が何処かにいるわけでもなく、むしろ犯人さえもいない荒野。大島の絶望、吉田の孤独が、ただ酷寒の風のごとく身に沁みる。
朝餉ののち、家族で散歩。河津桜の咲く公園を越えて武蔵小山まで。帰りに購った穴子弁当が殊の外美味、加えてサンソンのリラックスでようやく、どうにかまともな精神に至る。
『黄昏のチャイナタウン』のことで書き忘れていたことがあって、これは人が泣く映画である。誰が泣くかはこれから見る人のために黙っておくが、人が泣く映画というのはそんなに多くはないのではないか。ゆえに貴重と思われるが、なんだっけ、ヒロインが最後の復讐で泣きながら拳銃ぶっ放しまくるのって……『エンジェル』? もらい泣きなどしょっちゅうだがあれは印象に残っている。
で、自宅に郵送された『ルーベ、嘆きの光』ブルーレイを。三度目か、見るたびに感動が増す。マクベイン的警察日記形式というべきか。女性二人のクロニクル描写が卓抜。マリーが護送される際のスクリーンプロセスや実況見分の帰路の車内を彩る夕日の照明など。だが、これを「ジャンル映画」として分類することが正しいかどうか考えるべきだという気がする。そうした目的で企画開発されたものかどうか、アルノーに質問した上で「ジャンルの(仮の)終幕」ということを話せればと思う。
 
某日、前回書いた「やらなくていいことは本当にやらなくていいのか」という疑問についてまたある監督(同じ日に「芝居しやすい環境」という謎をかけた人だ)がFacebookに美術部の上出来の作り物を写真で挙げており、実際これは「やらなくていいこと」ではないだろうと確信される出来栄えで、正解は現実にあるものを使いたければそうすればいいし、作り物にしたければそうすべきで、どちらでも構わない、ということになる。そうとしか思えない。裁判してでも現実を貫く方法が映画的に正しいなどということはありえない。
ワードで一日一ページ翻訳。訳しているうちはただ味もそっけもないつもりでも、通読すると見事に簡潔なタッチを持っている。過去の翻訳者たちはなるべくわかりやすいように言葉を膨らましていくがその必要はもはやない気がする。
夜半に雨。昼過ぎからずっと低気圧にやられていたが。
 

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某日、午前中『Sanctuary』翻訳。『ボヴァリー夫人』第三部第九章を参照、と註あり、手元に生島訳があったので読むと、死の直後のくだりだが、フォークナーの原文と生島訳の和文がよく似ていて、そういうもんかと思う。そういう、とは文学はだいたいハードボイルドだ、ということ。問題になる「黒い液体」が一体何かは書かれていないのだが、いわゆるエンバーム油かもしれない。訳したものを見直しているとなんだか門司にいるときのような気がする。感覚的にそうなのだ。それはviciousという単語の頻出とも何か関係があるかもしれないし、たんに個人として南部と北九州の類似を求めているだけかもしれない。それを言えばルーベだって北九州に似ているのだが。
前夜からの低気圧で眠りは深かったが、気分は悪く、悪夢も見て、起きたらキャベツを買い忘れていることに気づき、それが世を儚む一大事のように考える自分に呆れた。まったく朝からひどい体たらくだった。終日、雨。風もひどく強い、これは春一番か。
Twitterで平井玄さんがジェイン・ジェイコブズのことをアナキストとして書いていたので『マザーレス・ブルックリン』を見たとき彼女のことを忘れていたと記憶が蘇り、『チャイナタウン』二部作を含めた一連の都市開発もの(?)の連鎖が繋がった。十年前に『ジェイコブズ対モーゼス』だけ読んで『アメリカ 大都市の死と生』を未読のまま放擲していたが、心を入れ替えてこれからの読書プランに加えることにする。
 
某日、満月は昨日か一昨日だったと思うが、本日春嵐の去った明け方の月は見事に輝いて、中空から未だ深い闇空に鮮烈なビームを降り注いでいた。
女優は早朝より本業。よって朝餉はサボる。
ぱるるの散歩一時間半、洗濯機二回まわし、風呂に入り、ブランチをつくり、翻訳、晩飯の献立を考えて買出しに出て、料理を始めるともう日は暮れていた。白菜と鶏肉のクリーム煮。それなりに美味。
夜は翻訳の続き。細部に凝り始めると時間は矢の如くすぎていく。それだけの細部を持っているので、やはり巨匠は凄いと唸る。女の履いた靴が紐もほどけてブカブカ、というのを短くさりげなく書き入れることでその後多様な印象が隅々に波及する。見事だ。
 
某日、午前中に第一章終了。実に愉しい作業だが、ほっとくと終わりまで続くので考えないと。他の作業が疎かになる。偶然、原稿依頼が二つ舞い込んだので、そちらに集中するとして終わったらまた。近藤さんの音源がネット上にフリーで拡散されていた。ご遺族の仕事である。麗しい。偉大な小説などもそうなったらいいのに。趣味の翻訳とか拡散できたら面白いように思うが。
昼、銀行作業に出る。帰宅して、クレジットの住所変更やらネットのプロバイダー変更やら次々と公的行事にハマる。夜、ラム肉を焼いて食す。
しかし日々何をしていても明日のアルノーとの対話のことを考えている。
 
某日、そんなわけで対談の日だが、生憎雨降りの予報。洗濯物など取り込んでの出発。まずは『ルーベ、嘆きの光』をスクリーンで見る。マリー役の女優の頬に縫い傷があり、額の皺もさることながらこの人本物、と唸る。そして大画面で見ると馬が良い。短くはあるが、羨ましい。そうしてトークはやはり時間が足りず、用意した五分の一も話せなかったが、それでもいい時間であった。終了後、お集りの友人諸氏とお茶しながら歓談。
帰宅して「文學界」。朝届いていたのだが、すでに「新潮」の小津論にあった『東京物語』「とんでもない」がらみで思い出し泣きしており、これ以上はトーク前に無理、ということで禁欲していたのだが、実際読むと、最初に接してからすでに三十七年が経過しており、ずっと同じ「翻る白いエプロン」話をしていながら常に新鮮かつ刺激的であり、しかしそれさえ織り込み済みなのにいまなおそうであることを受け入れつつ、もはや感動を通り越してどうしたもんかと呆然と腕組みしてしまうしかなく、ひたすら対処に困り、号泣などとんでもなかった。何か新奇なることを、と功を焦る多数の、なんと凡庸なことか。というわけで先生の「ジョン・フォード論」が完結した。しかしもちろんまだ通読がある。先生にメールしなければ。


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『ルーベ、嘆きの光』(『ダブル・サスぺクツ』のタイトルでDVD発売中)
第3回「映画/批評月間~フランス映画の現在をめぐって~」オープニングイベントで上映

 
某日、寝不足のまま荷造りをしてまずは女優とぱるるを送り出し、昼に重要な案件について比較的長尺の電話連絡。疲れた結果特に何もできず、のそのそ出かけるとそこで電話。またしても開始時刻を間違えているとマサルから。それなら私ではなく情報を送ったやつのメールの書き方が悪いと後から言い訳をするのだが、聞き入れられず。
ビアリストックス@渋谷ラ・ママは、最初の一曲を受付で料金を払いながら聴いた。内容的には演奏がうますぎるという反語的苦情以外特に言うべきことがないが、あえて申すなら歌手の「ありがとうございました」が早すぎる。演奏が完全に終わるのを確認してからにして欲しい。あと、どうも手持ち無沙汰っぽいのでデヴィッド・バーン的に踊るというのはどうだろう。ともあれ満足して二番手の音は聞かずタワーへ行くが目当てのものはなし。
NHKでドラマとスペシャルを見ながらもうじき震災から十年ということを世間はここで噛み締めるのだなあと思う。しかるべきタイミングで噛み締めるということは普段は忘れているほど忙しいということで、私はといえばあれ以来ほとんど忘れたことはなく、何も考えごとをしていなければ、たとえ泥酔していても、地震を警戒し津波を想像している十年だった気がする。かといって二六時中怯えながら生きているというのではない。むしろ待っていると言った方が近い。不謹慎かもしれないが。少なくとも記憶を噛み締めるというレベルにはとても達しない。分かっていることが少なすぎるのだ。あの悲惨に見舞われた遺族の気持ちなど、たかが想像力で推し量れるものではない。
 
某日、起き抜けに「日本橋」なるPR誌の原稿を書き上げ、会社に送る。準備をして饂飩を食し、曇り空の下、九時過ぎに家を出て、予定した通り電車を乗り継ぎ、昼に伊豆着。電車内で書評を依頼されている細野さんの本。最初の五十ページで大感動。相模川の河川敷には撮り鉄の人々が列をなしていた。駅の蕎麦屋でカツ丼を食し、家へ。
撮影はすでに始まっており、偽の管理人としては何食わぬ顔で入り込んだりまた出たりをごく自然にやって溶け込んで行くのだった。
とはいえ何かに集中できる状況でもないので普通にTwitterを見ていたのだが、ここへきて『マンディンゴ』の宣伝が熱い。多くの方がコメントを寄せている。素晴らしいことだ。私も普通に子供の頃フライシャーを面白く見ていたが、作家として意識したのは先日の「ジョン・フォード論」と同じく先生の『映像の詩学』に収められたドン・シーゲルとリチャード・フライシャーを並列で論じた先生の文章によってであり、またそこに載せられた『マンディンゴ』の何枚かのスチル写真によってでもあった。公開当時の「映画芸術」に掲載された文章だったと思うが、七〇年代当時の先生のベストテンには毎年フライシャーが顔を出しており、『スパイクス・ギャング』はその年の一位だったはずだ。『映像の詩学』の出版は一九七九年で私がこの書物を手にしたのはそれから五年後の八四年、以来自分で自分に課した数少ない教科書と呼べるものとなった。アルドリッチもペキンパーも、本書でその作家性を学んだ。近頃ロージーへの樋口社長の不可解な急接近(日記に書いているのだ)が無性に気になって、思わずDVDを貸そうかと昨日もメールしたのも本書が遠因する。ともあれこの教科書に出会ってから三十七年も経とうとしているのだ。それを思うとただ呆然とする。で、『マンディンゴ』だが、これも多くのフライシャー同様劇場では未見、今も保持しているVHSが最初である。名優たちもさることながら、ケン・ノートンに興味は集中した。アリを破ったことのあるあの男が主演だと。それほど印象に残る芝居ではない(製作は後だが私は先に劇場で見た『ドラム』の方が良かった記憶がある)にしても、ひどく親近感を覚えた。晩年は映画におけるのと肩を並べるほど無残であったようだが、この時期はヘヴィー級を沸かせた立役者の一人だった。個人的にはフォアマンよりノートンだったのだ。そして画面にやられた。七〇年代の撮影監督ではリチャード・H・クラインを圧倒的に支持しており、彼の「白」には誰にも真似できない秘密がある気がして、とある自作でなんとかあの「白」を出したくて撮影を依頼したかったくらいだ。もちろんそんなこと言い出せもしなかったが。それはモノクロの、フォード映画の「白」とは違う、カラーの「白」だった。蓮實先生は『マンディンゴ』についての新たなコメントにもあったが当時から「褐色」ということを書いておられた。そうなのだ、そしてこの「褐色」の美しさがその後『ペイルライダー』のブルース・サーティーズへと継承され、漆黒と絡み合っていく。また『マンディンゴ』では「緑」も素晴らしいのだが、それは『マディソン郡の橋』でジャック・N・グリーンが再現するだろう。両方とも初見時、なんとなく『マンディンゴ』を思い出していた。ちなみにコメントを寄せられたどなたかも書いておられたが、あまりに悲惨すぎて数回しか見ていない。正視に耐えなかったというやつだ。もちろん今回の劇場には駆けつけるけれども。
夜、利島の灯台の光が見えた。
 

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某日、灯台のみならず春の伊豆は先月も書いたとおり鶯が囀り、桜が咲き、爛漫の感。枝を伐採し、陽光大いに射し込む庭の木々にはメジロが飛び交い、花蜜を啜っている。ここでアナログの音を、と行きたいところだが、撮影中につき禁欲状態。
昼は過去日記修正。夕方、珍しく撮影が早く終わり、普通に飯を食い風呂に入り、買い物に行き、アナログを聴く。ディラン『プラネット・ウェイヴス』、フアナ・モリーナ『Anrml(Live in Mexico)』。これは非常にいい。スペイン語によるニューウェイヴ。
昼間に『マンディンゴ』やホウ・シャオシェン特集の宣伝をSNSで見たが、そういうのはどうしてもローヤルとかロマンとか三百人劇場で見たいなあと思い、しかしそういう無理なことをいうやつはいまの映画館が好きだとは言わせてもらえないだろうな、とTwitterに書いたら、同世代ホイホイみたいな現象が起きた。さもありなん。
 
某日、さて昨年末より断続的に続いた『DIY日和』伊豆ロケも本日で終了、手探り的に始まった撮影は当然時間がかかり、意外に疲れるものだったが最後は誰もが手慣れた感じでスケジュールをクリアし、最終日は午後三時にオールアップとなった。この四ヶ月で明るいうちにオツカレサマを聞くのは初めてだ。今後はスタジオ撮影になるとのこと。こちらは昨日に続いて過去日記修正。
夕餉を終えてフライング・ブリトー・ブラザーズ『The Gilded Palace of Sin』。『マインド・ゲームス』では知らなかったスニーキー・ピート、ペダル・スチール全開バンド。というかグラム・パーソンズとクリス・ヒルマンの、というべきか。ベースも『L.A. ゲッタウェイ』のクリス・エスリッジ。ダン・ペンが二曲。晩飯後には最適。続けてディラン『ラフ & ロウディ・ウェイズ』取り急ぎD面のみ。さらに『かじゃでぃ風節』両面。フアナ・モリーナ『Un Dia』。傑作。CDでデッド『アオクソモクソア』。だいぶデッドがわかってきた、というかこの人たちがいることでできたムーヴメントがあるんだな、と。ザッパかデッドか、という選択もあったんじゃないだろうか。そして大いなる無知。ジェリー・ガルシアはお爺さんだと思っていたのだ。が、没年は五十三歳だった。
 
某日、翌朝は流れで『アメリカン・ビューティー』。デッド関係はもう少し追跡して見るつもり。ヴァン・ダイクのファースト。ゴミを集めてクリーンセンターへ捨てに行き、帰りに路肩の食堂で昼飯。のんびりと洗濯、自然の空気を吸い、午後三時すぎに帰路に着く。
帰り着いてもいつものように資源ゴミの分別やら買い物やら。郵便物に紛れてLPレコードが某人より多数。レコードというのはポツポツ財布とチャンスに訴えかけながら孤独に手を伸ばすものだという思いを久方ぶりに思い出し、有難迷惑である旨、メールを送る。もちろんそうでない贈り物というのも数々あるけれど。例えば『渚にて』が混じっていて、これを先日探しに出ていたのだ。疲れて早々に就寝。
近所のスーパーでナマコ発見。もちろん贖い、食した。美味。
 

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某日、疲れ取れず。早出の女優にぱるるの散歩を頼まれたが、私もぱるるも眠くてサボってしまう。午後、田巻に頼まれた野暮用を済ませてバスで渋谷へ行き、樋口社長となんとはなしにお茶をして、帰りにレコ屋まわり。HMVに布谷文夫『悲しき夏バテ』のアナログが新盤で置いてあって驚いた。バスやら電車やらに乗って時間つぶしに本を持ち歩くのはもちろん昔からの習慣だけれど、大抵窓外の風景や車内の他人を観察したり、無数の音を聞いたりしているうちにあっという間に時間は過ぎていくのであまり読むことはない。
晩飯を作っているうちに女優帰宅。食後、『光る眼』。この時期のカーペンターは突出して社会派であり、問答無用に反体制である。分けても本作は極めて理知的であり端正に作られている。傑作といっていいだろう。不自然というかぎこちない面もないではない。例えばアルコヲル愛好家の用務員が死ぬ場面はほとんど唐突で、直前に医者が校長室に呼ばれた理由がわからない。ただ、ここで本作の演出の一端が極まるのだが、キャメラが子供たちのPOVに入ることを徹底して避けている。用務員が追いつめられていく過程に子供たちのPOVを重ねてもいいはずだが、カーペンターはそうしない。クライマックスは医者と鞄を同時にフレーミングしたキャメラが子供たちの目の高さに設定されているにも関わらず。本作は「見る/見られる」の切り返しが軸となって演出されているが、肝心なのはその中で子供たちが悪であると特定しないことではなかったか。それでいくらか中途半端な印象に陥ったとしても、あくまで悪はシステムにあり、秩序にあり、子供たちはその駒に過ぎないという設定を保持し続ける。本来なら妻を亡くした医者が常軌を逸する過程など、酒に溺れるとかなんとかもう少し描写が欲しいところだろうが、そうすると子供を今よりさらに憎まれる方向の場面も増えるだろう。本作はそこを微妙な匙加減で回避したのではないか。
ところでこれが『E.T.』を、というかスピルバーグをいささか意識した作りである気がするのは、世界規模で起こっている現象を片田舎でのみ描写する限定の方法からそう思わせるのだが、もう一つ。バザーの始まるとき牧師が女教師に「絵具がいる」と頼み、女教師が教室に絵具を取りに戻る(そこでは密かに用務員が酒を嗜んでいもする)のだが、時計を見上げて「もうこんな時間」と呟いた直後に昏睡は始まる。その昏倒を床にばら撒かれる絵具で表現する(倒れた人物への伏せ目に入るキャメラの呼び込みとして秀逸)のだが要点はそこで、これは偶然の一致の可能性が高いが『ジョーズ』のロイ・シャイダーは遊泳禁止の立札を作るために雑貨屋で絵具を購入するが、その際に筆をドサっと落とすしくじりを演じている。双方ともスモールタウンの様子を同時に伺わせる、腕の見せ所的なシーンだが、ここはカーペンターの勝利ではなかろうか。多少意識はしたのだろうか。
 
某日、十年後の最初の朝は病院。いつも通りに薬をもらい、帰って朝食。ぱるるは朝飯前に女優と散歩に出かけた。
午後、近所でタクシーに乗り「ミッドタウンまで」と言うと「外苑西から星条旗通りで」と答えが返ってきて、それは想像していなかったが確かにそれが早そうなので、それで、と。それくらい馴染みのないルートだったが、行ってみたらえらく懐かしい場所の前をいくつも通過して、それで気を良くして初めて入る試写室にも怖じけることなく非常に好ましく感じ、いい気分でハーモニー・コリン『ビーチ・バム』を見ることができた。映画の出来も前作より数段好きになれる感じ、というより主人公が昨夏までの私自身に酷似(同じ回を見た中原昌也も言うのだからまあそういうことだろう)しているので、同病相憐むかどうか、しかし普段から応援しているマシュー・マコノヒーに終始微笑みつつこれをやられたら嫌う理由もなくなる。あと、もう一つ中原も言っていたが、時間の飛ばし方が大変爽快で、昨夜の『光る眼』も予知のイメージが多出した(こちらは大抵自死)が、コリンはいい方の未来に飛ばしてくれて、そこもまた好きにならずにいられなかった。土台は『脱出』と『いとこ同志』を混ぜ合わせただけのごくシンプルなもので、そしてこれは意識されたかどうか『フォレスト・ガンプ』にそっくりなのだが、出てくるのはどいつもこいつも遣る瀬無い奴ばかりで、緑内障の老パイロットなんか最高なのだが、でもやっぱり女房と二人ずっと笑顔で後半はずっと女装したムーン・ドッグが最高だから全て納得できるのであって、だからこの男に尽きた。こんなデタラメをやっていてもテキサス州知事選に出るとか出ないとか言ってるのだから、本当にまだまだ面白い男である。そして、完成から数年遅れのこの年に公開されるのが偶然であれ、またそれが始まりであれ終わりであれ、とにかくヴァン・モリソンがかかれば何でもあり、も本作の重要なポイントだとも中原と言い合った。
帰りに六本木通りを外苑西通りまで歩いたら、麻布署が更地になっていて、かつて書いた脚本『エンジン』にもその内部が出てきたが、もうその夢も夢のまま消えた。もちろん本物でロケ出来るわけはなかったので、その意味で可能性はまだゼロではないけれど。


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『ビーチ・バム まじめに不真面目』 (提供:木下グループ/配給:キノシネマ)
4/30(金)よりキノシネマみなとみらい・立川・天神ほか全国順次公開

 
先生からなぜか二冊あるというキャサリン・ヘプバーンの自伝を一冊いただく。早速写真を探すが、お目当てのものは見つからなかった。
 
某日、午前中は重要な案件を巡ってあちこちとメールの応酬、昼前に片がつく。ぼんやりしていられるわけでもないので、じっくり時間をかけて来月に至る予定を立ち上げる。済んでから久しぶりに大江の続きを読む。前夜からおそらくひどくなるだろうと思われた雨は予想通り、雷を伴い、終日激甚。夕方、気分を変えるべく『スーパー・チーフ』を聴き始め、ふと窓外を見ると、武蔵小山のタワーマンションが夕陽を浴びていた。
夜、何をするでもなくただ疲れ、遅くに晩飯を食らうとすぐに気絶、目覚めたので朝かと思うとまだてっぺん越えたばかり。二度寝、なのか、再び四時過ぎに起床。
 
某日、それでも晴天だと調子は良くて、午前中は今後の日程の続きを組み立て、病院帰りのぱるるとともに近所の犬カフェでランチ、帰りにスーパーへ寄り、午後はAOLからソフトバンクへプロバイダー移行のための書類やらの作成、郵送、再びスーパー。そうこうするうち早くも陽は西に傾く。
夜半、食後に寝落ち、またも午前零時過ぎに目覚め、課題図書精読。午前三時就寝。
 
某日、課題図書精読は続く。それに関連して気づいたのだが、福生と狭山ってウチから池袋行くのと直線距離では大して変わらないはずだ。まあそれもそれなりにあるが、車なら楽勝であろう。とまあ書名を伏せてもあまり意味がない話でもあるが、と思っていたところで訃報。ほとんど同時にその名が文章にある、しかもその後何度も出てくる。まあ村上ポンタさんなのだが、とにかく心よりご冥福を祈る。何度かお見かけしたが、とにかくその立ち居振る舞いひとつひとつ、限りなく細やかに神経をお使いの方だった。
昨日サンソンで聴いて感動、早速購ったシナトラ『Close To You』だが、同名のアルバムが四種あり、間違ってコンピのものをポチってしまった。昨日のものはジャケットのセンターにタイトルが斜めに書いてある。お間違いなきよう。ちなみにこのコンピにも昨日かかったヴァージョンのタイトル曲が含まれていた。
 
某日、未明に地震。昨日の和歌山といい頻発気味。そういえば和歌山、北部というところまで予知されてたなあ、どこかで。
課題図書精読に集中、いよいよ大詰めというところで時間となり、外出。今日は電車内でも読書を続ける。で、大変久しぶりに半蔵門の試写室。スパイク・リーと聞いて二の足を踏んでいたが、とにかく見るだけ見ておこうと『アメリカン・ユートピア』。これ、正式に「デヴィッド・バーンの」ってつけるべきなのじゃないか。先週に引き続き、コロナ前後、というより今回の大統領選前の映画はどれもそうかもしれないが、最高であった。途中から踊りだしたくてウズウズした。ウズウズしつつ、涙も流す。懐メロみたくなるが、胸に堪えるのだから仕方がない。ジョナサン・デミのことを考えない人はいないだろうが、しかし本作でのデヴィッド・バーンの歌声の良さ、音響の良さは並大抵ではない。ギターの彼女がトレモロアームをギリギリ掴むところなんか、ツボを押さえたシンクロの効かせ方に感心する。内容的にもBLMはもちろん、移民、性差別その他前政権とそのシンパに徹底抗戦する構えのナンバーが並ぶ。そしてそれらはアメリカローカルではなく汎地球的な問題ばかりである。原題では「UTOPIA」が逆さになっていて、しばしば呟かれるディストピアという言葉になんとなく感じ続ける生ぬるさにこうやって反対できるかという発見もあった。しかし何といってもダンサブルなので、公開時にはどうか最前5列ばかり外してダンスフロアをよろしくしてもらいたい。年齢問わずしっかりした大人が見て、踊れる映画になるといい。
 

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『アメリカン・ユートピア』(ユニバーサル映画 配給:パルコ)
5月7日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、渋谷シネクイント他全国ロードショー


どうも大島のリバイバルをやるのに展示した『戦メリ』の海外ポスターが盗まれたとか。あまりいいたかないのだが、TLに並ぶ『マンディンゴ』の感想など、フライシャーに失礼だろうと小言を言いたくなるほど幼稚で、お願いだから黙って見ててくれと言いたくなる。QTのことなどどうでもいい。街を歩いていても、年齢かかわらず人々がえらく幼稚になっている気がした。これもコロナの影響なのか。
夜半、課題図書読了。何度も涙を流した。やはり友情には弱い。良書であった。
 
某日、何年か前から出かける予定のあるときに直前までああ今日はよそうかまた今度ということで、などと出不精に陥り、まして前日に外出のあった場合など特に止めにすることが多かった気がするが、この日は別だった。
新宿武蔵野館という劇場にそんなにいい印象を持っていないのは、確か拙作を上映していただいたこともあった気がするが、それはいまの状態になる前の話で、七階だか八階だかにスクリーンがあった頃のことではないだろうか、お隣のカリテでは『Wild Life』がロードショーされたはずだが、なのになぜいい印象がないかというとその記憶はない。漠然としたものだ。かつてはそれなりの大きさのスクリーンだったのが増設して小さくなってしまったことをよく思っていないせいだろうか。あちこちの映画館がそういうことを始めたごく初期の例だった気がする。当時「武蔵野館なら」とかいう口さがない物言いをつけていたかもしれない、「文芸坐に落ちて来るのを待つよ」なんてことを。そうやって気に入らない映画館の悪口を言うことも映画好きのすることだったのだ、映画館を守れなんてスローガンが当然のご時世と違って。いまさら宗旨替えは無理だ。
にも関わらず、バスと電車を身軽に乗り継いで新宿へ出向き、特に調べもせず間違いもせずあっさり早めに劇場に着いてしまったのは、結局『マンディンゴ』だからか。
しかしどうも腑に落ちないというか、開巻早々私はこれをスクリーンで見ている気がしているのにその自信を持てない記憶の曖昧さがくすぶり続けた。映画はひたすらRHK天才と撮影監督を胸の内で褒め称え続けたのだが、このくすぶりだけは終わっても残った。
それにしても予算をどう使ったのだろうか、芯から腐らせたとしか思えないあの屋敷の殺伐の極みのような壁のエイジングは尋常ではない。そのくすんだ内壁に囲まれて世にも陰惨な芝居を古典劇のような驚くべき精密さで演じ続ける俳優陣、それを見守り、持てる技術を振り絞って昇華へ至らしめる監督、スタッフの果敢なプロ根性に心からの敬意を表する。奴隷売買に向かう夫とその愛人を二階のバルコニーから捉えたキャメラはトラックバックしながらふとパンして、90度曲がった同じバルコニーに現れる妻を捉え直し、それに近付くと再度パンして敷地から出て行く夫が妻を見上げるのを見送るのだが、かつてこのワークを見てアルメンドロス(たぶん『天国の日々』のことだ)よりクラインの方が偉いと驚嘆とともに確信したのはどうしてもフィルムで見ていたからだとしか考えられない。
だが、夫の子を腹に宿した最初の愛人を寝室に呼び寄せると、箪笥を探して見つけた鞭で痛めつけ、挙句階段から墜落させる一連の狂態を演じたスーザン・ジョージとサーク『風と共に散る』のドロシー・マローンとが繋がり、同時にラッセル・メティとクラインが当時において繋がったかというとその自信はなく、ただ『ペイルライダー』のサーティーズとクラインとがはっきり繋がっていたのは記憶している。その意味で五〇年代と八〇年代をその領域において繋いだのが本作であることは間違いない。だから二〇一〇年代に現れた「暗い画面」を作るアメリカの若手たちに言いたいのだが、やるならここまでやらなければダメだ、ということ。暗さに意味を求めるのではなく、客の目をその暗闇の奥に向けさせることこそが映画の根源的な暴力となるような、そのようなあり方に向かって欲しい。
あと、印象的だったのは、いよいよ真相を確信したペリー・キングがケン・ノートンの小屋を訪れる時、事態に気づいた他の奴隷たちが一斉に自分らの小屋に隠れる時の、群舞のような身のこなし。あれを振り付けたフライシャーに、さすが、と。
 

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『マンディンゴ』(配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム)
3/12(金)より、新宿武蔵野館ほか全国順次公開! 

 
注文しておいた細野さんの『あめりか』が届いており、聴く。ほとんどブライアン・ウィルソンの新譜を聴くのと変わらない。しかし、そうでないと聴く意味などない。ジャケットの細野さんの顔が煙に隠れているが、マスクをしているようにも見える。
 
某日、昼にペットショップに出かけて皆さんの食料をいつものように大量入手、女優が冷麺を作り、これを食す。美味。ブライアンと書けばイーチ。待てば海路の日和あり、とはこういうときに使わねばいつ使う、といった感じで、『A LONG VACATION』アナログ盤のあこぎな独占業者が排除されたか、晴れて正規購入が可能になり、順調にいけば万端整ったアナログ環境でズドンと聴ける。即座に注文。
東京でも庭の桃が開花。
 

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午後は本棚の整理、伊豆へ送る荷造りなどだらだらと過ごし、日暮れて某氏より頂戴した旬の野菜を使って焼肉炒めを作り、これを食す。料理はともかく、茹でただけの明日葉や絹さやのうまいこと。
夜になって気になることが二つ。細野さんが二〇一五年のライヴでクリックを使わなかったこと。松本さんが冗談めかして証言しているが、これは重要な話だと思われた。もう一つは『マンディンゴ』。数回出てくる床すれすれのキャメラポジション。四〇年代、例えば『鉄腕ジム』なんかでも試されている非常に印象的な構図だが、斬新というのとは違うとはいえ何か特殊な効果がある。古びたフローリングが見えているということだけなのか、それとも単に床が見えているだけでそうなのか、とにかくそれで見る側に何かを感興させるようなところがある。ちょっと不思議だがどうやらそうらしい。
 
某日、例によって外出不能症。とうとうYouTubeで『斬人斬馬剣』を見てしまう。見たうちに入らないとは思うが、伊藤大輔の偉大さはひしひしと感じた。敵同士だった浪人たちがヒーローとの斬り合いを経て仲間になっていく過程というのがあるんだな、というのがわかるが、奴らが馬を連ねて走る場面やその前に一揆で捕らえられた百姓たちを連行する場面などが地平線ベースのロングで、これはムルナウで何度か見られた構図だが、影響関係はない気がする。馬が連なって走る場面は『番町皿屋敷』でもあって、あの遠乗りも地平線を感じるような広い河原に出かけて撮られた。若殿が毒饅頭を盛られるところを助けるのに馬で乗り付けて饅頭ではなく若殿を奪っていくという発想もいい。一揆の首謀者たちの磔の冷徹、相棒の間抜けな感じもいい。僅か二十数分の部分しか残存しないのは大変に残念だが、確かにこれは当時の傑作と呼んでいい作品だろう。
午後、まだ出不精で、川本三郎さんの『『細雪』とその時代』という本を見つけたので読み始めるが非常に面白い。自分がなぜ『細雪』に惹かれるのか、わからせてくれる。
女優が新潟に旅行に出かけ、ひとり遅い昼食を摂り、その後買出し。
夜、細雪本の続きを読みつつ『秘密』をどうしても読みたくなったのだが地下へ探しに行くのが面倒でついkindleで済ませてしまう。何しろ¥0だ。読めば強力な文章であることは変わらず、五十も半ば過ぎの前期高齢者には息苦しくさえある。同時に阿刀田高の『谷崎潤一郎を知っていますか』というのも入手したが、これはすでに卒業した部類かも。
 
某日、リビングの床で眠ったらぱるるは七時まで傍でおとなしくしていた。珍しい。朝餉は大変久しぶりに白米を普通に炊いた。散歩、一時間半。最初はドナドナ速度だったが、途中からキビキビ、帰り道は再びドナドナ。洗濯してから外出。日比谷図書文化館にて開催中の小村雪岱展。これはほとんど「挿絵」の展示で、資生堂のロゴなども。しかし何と言っても小さい。神戸で見た北斎展のときも驚いたが、とにかく小さい枠にどこまで細かい絵を描けるかが日本の絵師の腕前なのか。挿絵だから当然といえば当然だし、小さいのがいけないというわけでもないのだが。しかし北斎のときは失意の方が大きかった。「神奈川沖浪裏」なんて壁いっぱいとか屏風いっぱいとか期待していただけに。ただ、小村雪岱の絵に惹かれて現在推進中の企画の一つを立ち上げたようなところがあり、それでいえばその魅力が落ちるというようなことはなかった。むしろ印象はさらに良くなった。殊に資生堂がらみのものについては、まさに企画と同時代のものを先行して見ることができて助かった。
 

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某日、起き抜けから荒天ゆえの眩暈、先行き思いやられるが、何かと仕度だの準備だの忙しい一日になる。ようやく片付いたのが午後三時過ぎで、そこからサンソン。若者に「啓蒙」を施す山下氏、そして『リオ・ブラボー』にぐっとくる。だが結局のところ、アマゾンに頼っていても永久に『A LONG VACATION』アナログ盤は手に入らないのではないか、という気がして、しかし一喜一憂しつつこうしてじっとしたまま独占業者の横暴と闘う構えだけはしているのはナンセンスのようでも必要なのではないかと考えて、耐えている。世間はお祭りムードだ。小泉さんのデビューが一年後の同じ日とは知らなかったが、それも含めネット上とはいえ春の祝祭が花開くかのようだ。暗くなっても長雨はなお激しいけれど。
再び到来物の野菜とツナをあえたサラダを作って夕餉として食すと、あっという間に眠くなる。ノルマにも手は伸びず、大江を読んで祝祭に乗りそびれた一日をやり過ごした。
 
某日、二日連続で地震があり二夜連続で記憶に残るようなやたら鮮明な夢を見て、すっかり世を儚む気分で目覚めた。それでやる気半減、粥中止サラダと焼魚のみ、シャワー髭剃り、出発するがすぐに忘れ物に気づく、仕方ないなんとかなると駅へ、すでに一本間に合わないが三十分後にもう一本と思いきや、本日休便だと。仕方なく新幹線を選び、駅周辺に三軒あるスーパーにハーブ塩を求め歩き三軒目でようやく、慌ててホームへ向かうも自動改札でなぜか切符ストップ、駅員が来て解決、どうにか品川へ向かうが新幹線までそれなりの距離、で予想どおり乗り遅れ、駅員と相談、熱海からは在来線で、とホームへ降りると昔の記憶が蘇りそうだ俺はこのホームが嫌いだったと渋面、しかし我慢して熱海、が伊東線は三十分後の発車でただぼんやりと、仕方ない今日はこういう日とようやく諦める気持に。
伊豆に着くとそれはそれ、出しっ放しだった洗濯物を畳みつつアナログ三昧開始で優雅な時間を満喫。ディラン『激しい雨』、VDP『ディスカヴァー・アメリカ』、デニス・シャーウッド『ディス・ロード』。今更だが、豊かな空気の震動として音楽を聴くことの歓び。
庭では鶯の成長した声。庭の花々はすでに散っていた。
食事して日が暮れてニール・ヤング『渚にて』。CDでサーストン・ムーア『By The Fire』、エスター・フィリップス『恋は異なもの』。『ビーチ・バム』のヴァン・モリソンが決定的と書いたが、以前「アナばか」で樋口さんが指摘した『心の指紋』のエスター・フィリップスも決定的だ。どういうわけだかわからないが、あそこで猛烈な生の沸騰のようなものを感じるのが『心の指紋』の正しい見方だと言われたら頷くしかないし、この曲ほどそれに相応しい曲もない。
原稿を書き終えて、夜更けに『雁の寺』。何度見ても三島雅夫の死のくだりがわからない。何が起こっているのか。ただ繰り返し現れるあの扉の鎖の音は印象的。気づいたのはこれと『女は二度生まれる』だけ撮影村井博であること。大映だから不思議ではないが、若尾文子のキャラクターが不思議に近いといえば近い。捨吉を送り出す過去の菅井きんを追う撮影が悪くない。セットの妙味というやつだ。しかしやっぱりもう一つ乗れないなあ。
途中で不意にブルーノ・ガンツが出ているジョナサン・デミは『クライシス・オブ・アメリカ』だと思い出し、探すが東京にある模様。残念。ゼメキスとデミは伊豆に集中させよう。
 

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某日、米を炊き、オーガスタス・パブロを聴く朝。野菜炒めとイワシ味醂干し。
食事しながら『あめりか』再び、そして原稿を仕上げる。


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CDでザ・バンドのセカンドを聴くが、やはりこのバンドはアナログで揃えないと仕方ない気がしてきた。昼に買出し。ナマコGET。¥800。駅の有線で「You’ve got a friend」がインストアレンジで流れていたのだが、それでああ「熱き心に」はこれだったか、と合点した。スーパーで干物多数。一尾¥98。都会に比べて便利なものがない。大根おろしパックとか、アサツキとミョウガのパックとか。そんなもん自分で作れ、というのが当たり前。帰宅して午後はなぜかアクサク・マブール初期二枚。昨年だかの再発と新譜を聴かずに放擲していた。この時期のこの手の音楽とは結局相性がいい。これで育ったんだから当たり前か。
今月二つ目の課題図書精読開始。これは連載直後から瞠目していた。途中から自分の入院で尻切れとなったので、一から読み直す。夕餉はハラミの野菜炒めとワンタンスープ。
その後、夜更けまで精読。
 
某日、まだエンジンのかからぬ朝のうちに洗濯など家の用事をする気にようやくなる。重曹でカップを磨いたり。フアナ・モリーナ『ヘイロー』二枚組。アクサク最新作。朝食後にモービル盤『ビリー・ザ・キッド』。最高である。B面三曲目、映画では最後に流れる曲に足音が入っている。あるいは足音に似せたパーカッション。パットの足音だ、と瞬間的に耳を攲てる。ビリーを探してバルコニーを歩くパットの、幽霊のような足音。
 

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昼餉ののち買出し。
それ以外の時間は全て過去日記の直しに終始。途中、重要な電話を二本。ひとりだと集中しすぎて気づくと外は真っ暗だし、おやつは全部食べちゃうし。中断の仕方がわからない。二〇二〇年になる直前で止めた。途中で猫が庭に現れたのでトイレのついでに柔らかフードをあげた。それにしても過去日記、二年前にはコンビニのうどんとか無印のレトルトカレーとかを「美味」と書いてて超ウケるんですけど。。自分で作ったもの以外なるべく口にしないようにしている現在とは大違いすぎる。
腹が空かないし面倒なので夕餉はパスして、ゲルマン・ジュニア『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』。距離が端正である。悪いことではない。ただ混沌が欲しくなり、それが提示されてもこれではないとないものねだりをしてしまう。お父さんみたいにロングショットの混沌を、なんて言ってしまっては気の毒が過ぎる。「車を盗もう、その方が誠実だ」とか、「べサメ・ムーチョ」歌ったりとか、いいところもある。でもネットを見ていて、世間の様子を知るだに、この映画のように本当にこの国も終わりかけていると思う。七〇年代初頭のソ連を描いたこの映画の人物たちがいかにしらじらしく振る舞いつつ内面で誠実さを渇望し続ける様は、いまこの国で「さあ、解除だ」と解放の喜びを表す「ふり」するように夜更けの路上で酒を飲む人々の姿に酷似して、実に醜悪だ。


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Photo by Maho Toyota

 
某日、そしてぱるるは私のいない東京でも元気にお散歩している。
今朝の一発目はジャッキー・ミットー『Last Train to Skaville』。さらにジョビン『Wave』。
食後、小豆島ツアーの旅程を立てる。ついでのことも含めてやや大掛かりな移動となる。
仕事は昨日に引き続き過去日記見直し。あと少し、あと少しとやってるうちに終わりまで。午頃に始めて、雨が止んでおやつ買いに行った時間を除いて二十二時まで、完走。最初は細野さんとかヴァン・モリソンとか聴いていたが、だんだん集中して聴かなくなった。さすがに昨年の記述にはヘヴィーなものがある。その分エンディングの大団円っぷりは笑えるが。終わってから晩餐。ほとんど夜中に近かった。東京を離れるときの世を儚んだ気分も過去日記とともに流れ消えた感じだ。
 
某日、美しい朝になり、ニール・ヤングとクレイジー・ホースの一枚目。フィドルに心奪われる。VDPシングル二枚。食事中のロイ・オービソン『ミステリー・ガール』はCDだけどこの環境で聴くと、たとえ気分の問題だろうと全然違う。心から素晴らしいと思える。
昨夜の仕事疲れで腰痛が危ういため、日帰り温泉へ。初めて駅前から専用バスで行く。楽ちんである。ただし一人の場合、うっかり休憩室で寝るとバスを逃してしまう。じっくり浸かり、おかげで腰は楽になった。
夕餉の後、課題図書読了。一言で言って陰惨極まりない。だからこの手の「実録もの」には手を出さないようにして来たが、これはちょっと別。昨年来、自殺という二文字を目にするや動揺が始まり、どこを向いたらいいかわからなくなる。担当編集者が私に対する嫌がらせでこれを読ませたのかなどと意味不明の被害妄想さえ起こした。
ビアリストックスのスタジオライヴをラジオで聞いて、なんとか心が救われた。彼らもようやくライヴ慣れというのか、いい塩梅が見えて来た気がする。
だが結局、寝るまで完全には落ち着くことはなかった。
 
某日、起き抜けに鳥たちの声が家を囲むように響いて、さあ帰ろうと思う。仕上げにブライアン『ラッキー・オールド・サン』。CDなのでアナログ盤を手に入れようと決意。
見ようとして持参した『米軍が最も恐れた男 カメジロー 不屈の生涯』を見る。瀬長亀次郎という人物については『ストレンジ・フェイス』執筆時に知り、もっとよく知りたいと考えていたが、再会するまでここまでかかった。これはテレビドキュメンタリー程度のもので映画とは言いづらいが、端緒として。現在の沖縄に対する決定的な違和は頑迷な家父長制である。しかし同時にここで大きく視聴覚を担うのが女性たちであることに期待すべきであろうか。それは亀次郎自身がそう考えていたからだと思われるのと同時に、いま心身共に健康を維持しているのが女性たちだからだ。加えて考えるべきはコザ暴動と『令和元年のテロリズム』最終章が隣り合わせでなければならないということ。二〇一二年以降の政府は明らかに当時の米軍を模倣していることが本作で察知できる。
これのどこにも白いエプロンは翻らないけれども、そこにもそれは、ある。亀次郎にとってそれは『レ・ミゼラブル』のコゼットの腰を覆うエプロンだった。
 

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(つづく)
 

青山真治

映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、『空に住む』(20)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)、自作『しがさん、無事?』(19)など。

近況:「映画芸術」に『細野晴臣と彼らの時代』書評、「波」に『令和元年のテロリズム』書評、それぞれ掲載予定。