- 2021年03月04日
- 日記
妄想映画日記 その112
樋口泰人による2021年2月21日~28日の日記です。デニス・シャーウッドやリー・ペリー、ニール・ヤングなどのレコードをお供に自宅&事務所で地道な作業を続けた日々の記録。オンライン試写で観た『風が踊る』『ブータン 山の教室』『ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実』、さらに宮崎大祐監督の新作短編『北新宿2055』についても。
早起き生活を身体に覚えさせる意味も込めて、午前中から部屋の掃除。昨日届いたデニス・シャーウッドのアルバムをかけながら。だいぶ前に浅川さんがFBで取り上げていて、おおと思って注文してなかなか届かなかったうちに配信でこそこそ聴いていたのだが、しかし当たり前だがレコードででかい音で聴くと全然違う。なんだろう。人生3回分くらい違う気がする。A-1は親父のエイドリアンつながりでリー・ペリーも参加していて、音が部屋中を飛び交う。浅川さんからは家が震えるくらいな爆音で、というメッセージが届いているのだが、さすがに我が家ではそれはできない。


夜は、何人かからやってきていたフェイスブックのスパムメッセージを削除しているうちに何かに触ってしまったようでいきなり感染、わたしのメッセンジャーもものすごい勢いで友人たちにスパムを送り始める。さすがに焦る。急ぎパスワードを変えてとか対処しようとしたのだが、もう、パスワードの変え方さえわからない。皆さんからは即行で「スパム来てますよー」という連絡も入り、こちらにも対応しつつ冷や汗かきながらようやくなんとか落ち着く。1時間くらい。たぶんそんな悪質なものではないとは思うのだが、これがもっと悪質なやつだったらと思うとぞっとする。しかも今回のやつも、果たしてこれで治まったのかどうかもよくわからない。どこかでパソコン自体も全部まっさらにしてきれいさっぱり過去と縁を切る、ということにしたい。とはいえこれを機に、不義理をしていた方たちとやり取りをすることができた、という前向きなとらえ方もある。


2月22日(月)
猫の日、なのだそうだ。「2」が3つならんで「にゃん、にゃん、にゃん」だからと妻が言う。まあ、そんなわけで本日はご飯もおやつも要求通りに満足するまであげる。わたしはうなぎを食った。昨年の夏以来。昨夜のスパムの件ですっかりネガティヴな気持ちになっていたのだが、少しテンションが上がる。boid事務所から1分のうなぎの店「愛川」は丁寧にうなぎを料理していて本当においしい。串焼きも絶品である。




本日はON-Uの流れでビム・シャーマン。歌い方が独特で、前に空気を押し出すのではなく吸い込むような感じ。その呼吸感、何かがどこかに吸い込まれつつ消えていきスーッと静かに吐き出される空気の小さな振動に身をゆだねるわけだ。ファスビンダー本のKindle化作業もゆっくりと進む。身体はなぜか全身がばりばりになっていて夕方の整骨院で緩くほぐしてもらう。


2月23日(火)
花粉がひどい。鼻水と目のかゆみ。気にし始めるときりがなくなる。終日ぐずぐずの中で自宅作業。本日のお供はリントン・クウェシ・ジョンソン。一般的な抑揚を無視した声のなだらかな広がりの中でさまざまな夢想が広がる。初めて聴いてからもう40年が経とうとしている。
夕方からオンライン試写で侯孝賢『風が踊る』。昨年が監督デビュー40年だったということで1年遅れで大特集が予定されている。その中でも上映される監督第2作の81年の作品。監督作は全部観たつもりでいたのだが、これは観てなかった。侯孝賢はエドワード・ヤンみたいに最初から世界の映画史の中にしっかりと身を置き、その中で才能全開でいきなりものすごい作品を撮った人ではなく、初期作品はどこか初々しくもあり、その肌触りが魅力でもあるのだが、これもまた商業映画と自主製作映画との間のような触感。屋外撮影のほとんどがゲリラ撮影ではないか? とか思わせるような周囲の人々のカメラとの関係も含め、当時の人々の生活がそこかしこから伝わってくる。スチールカメラでさまざまなものを撮影している主人公が、人々の暮らしを写したいのだというようなセリフを言うのだが、まさにそれがそのままこの映画だということになるだろうか。商業映画としては、青春映画という枠組みに入るはずの作品だが、アニエス・ヴァルダの初期作品『ラ・ポワント・クールト』や『ダゲール街の人々』の横に置いてみたくなるのはそのせいだ。80年代終わり、『風櫃の少年』を観て無性に高雄に行きたくなったのも同じ理由で、そこに映された人々の暮らしや街の風景の中に重なり合う歴史が、表面的な物語を超えて確実に広がり出しているのである。オリヴィエ・アサイヤスが作ったドキュメンタリー『HHH:侯孝賢』にも、もはや以前とは違ってしまった街並みの中で自分が少年だった頃の話をする侯孝賢の姿が映っている。あの姿を見るたびに、涙が止まらなくなる。
『風が踊る』 2021年4月17日(土)より新宿K’s cinemaほか順次ロードショー
「台湾巨匠傑作選2021―侯孝賢監督デビュー40周年記念<ホウ・シャオシェン大特集>」4月17日(土) ~6月11日(金)
「台湾巨匠傑作選2021―侯孝賢監督デビュー40周年記念<ホウ・シャオシェン大特集>」4月17日(土) ~6月11日(金)
2月24日(水)
今年に入ってから自分にできる仕事を延々とやり続けているのだが、しかしそれで稼いでいるわけではない。自分の仕事と稼ぎがまったく一致しなくなってしまったのだが、それで焦ったりしなくなった。たぶん6月くらいまで、もしかすると今後はほぼ無収入に近いのではないか。まあ、それで生きていけなくなったらそれまで、という変な覚悟だけができている。
本日は朝からON-Uから出たリー・ペリーの2枚を聴きながらファスビンダーのKindle版作業。カートリッジは結局ダメで、もともと使っていたオーディオテクニカのやつを引っ張り出して秘密の水を振りかけて使用。こういう時は秘密の水が威力を発揮して、リー・ペリーの狂った音を部屋中に跳ねまわし始める。稼ぎはなくてもご機嫌、というやつである。花粉は昨日よりましだ。




夕方整骨院。その後、ジョセフ・ロージー『秘密の儀式』。中原のFBでも「とんでもない」と書かれていたが、もう冒頭からまったく尋常ではない。いったいどうなっているのか。ロンドンのバスを正面からとらえたショットだけでもビビる。教会の牧師の言葉の最中にまったく意味不明のくしゃみ。牧師が映されているわけではないので、いったい誰がしたのかも不明なのだが音声上は牧師としか思えず、しかしどうしてそれが必要だったのかはまったく謎。というような細かいところから始まって、バスの中でのエリザベス・テイラーとミア・ファローとの出会い、セクハラ発言しかしないロバート・ミッチャム。そして家屋の不思議な造り、部屋と部屋との関係、町と家との位置関係、海辺の異様な風景。あきれるばかりである。個人的にはありがたいとしか言いようのない映画。
2月25日(木)
2月26日(金)
朝からオーガスタス・パブロで和む。90年代にリリースされた初期音源を集めたやつで、ドラムやベースの音が引っ込んでいて音がいいとは口が裂けても言えないが、それでも十分に何かが伝わってくる。「それゆえに」とさえ言いたくもなる。もろもろの作業も順調に進み、おかげで気分はいいが腰の状態が悪い。同じ姿勢でじっと座っているのとその後がきつい。映画館で映画観るのはしばらく無理だ。夕方、整骨院であれこれ訴える。


帰宅するとニール・ヤング&クレイジーホースの90年代ライヴ4枚組が届いていた。眠すぎて聴くのは明日に回したいのだが、まあ1枚目くらいはね。そしておなじみの音が聴こえてくるわけなのだが、これもまた最高の演奏だとは言い難い。でもそれなのだ。最高の演奏ではない最高のアルバム。ライヴってこういうことだよなと思う。コロナ以降、ますますこういう音は聴こえてこなくなるだろう。『マディ・トラック』は永遠に上映され続けなければならない。nobodyのページで、結城がこんなことを書いている。


2月27日(土)
そんなわけで本日もニール・ヤング4枚組ライヴが流れ続けるのだが、体調は悪い。どうやってもダメだ。近田春夫さんのように『調子悪くてあたりまえ』とはならない。調子悪いとつらいのである。ただそれだけ。調子悪さを乗り切る体力はまったくない。まったくないところでつらいつらいと悲鳴にも似たつぶやきを続けることが大切な気がしている。
『ブータン 山の教室』を観た。ブータンの都会で暮らしオーストラリアに行って歌手になることを夢見る若者が、携帯電波も届かない山奥の村で半年間の教務の仕事を任命される。そんな舞台設定を書けばその後の物語は大体想像できる。そしてほぼ想像通りの村の人たちとの交流が始まるのだが、物語が進むうちに主人公が交流しているのは村人たちではなく、彼らの背景にある大きな時間であることがわかる。とにかくヤクがね。この世界そのものとして登場する。Wikipediaの「ヤク」の項目にはこんなことが書かれている。
「2,000年前から家畜化したとされる。1993年における家畜個体数は13,700,000頭と推定されている。
ほとんどのヤクが家畜として、荷役用、乗用(特に渡河に有用)、毛皮用、乳用、食肉用に使われている。中華人民共和国ではチベット自治区のほか、青海省、四川省、雲南省でも多数飼育されている。
「ヤク」の語はチベット語 「གཡག་」 (g-yag) に由来するが、チベット語では雄のヤクだけを指す言葉で、メスはディという。
チベットやブータンでは、ヤクの乳から取ったギーであるヤクバターを灯明に用いたり、塩とともに黒茶を固めた磚茶(団茶)を削って煮出し入れ、チベット語ではジャ、ブータンではスージャと呼ばれるバター茶として飲まれている。また、チーズも作られている。
食肉用としても重要な動物であり、脂肪が少ないうえに赤身が多く味も良いため、中国では比較的高値で取引されている。糞は乾かし、燃料として用いられる。
体毛は衣類などの編み物や、テントやロープなどに利用される」
『ブータン 山の教室』より
全身どころか排泄物さえも利用可能。そんなヤクとどんなふうに暮らすか、どう語り掛け、ヤクに向かって何をどんなふうに歌うか。それを主人公が学ぶ映画でもあり、それを観るわれわれが学ぶ映画であった。教師として山奥に行った主人公は「生徒」として街に戻ってくるわけだ。全然関係ないかもしれないが、ガス・ヴァン・サントの『誘う女』と2本立てで観ると、「永遠の生徒」としてのわれわれの人生の見晴らしがよくなる気がした。この映画の最後の主人公の歌と、『誘う女』の最後のスケートシーンを重ね合わせて観る妄想。あそこで流れていたのはドノヴァンの「魔女の季節」だったか。そういえば「魔女の季節」から始まる『レイクサイド マーダーケース』も先生と生徒の映画であった。


『ブータン 山の教室』(監督・脚本 : パオ・チョニン・ドルジ)
4月3日より、岩波ホール他にて全国順次公開
4月3日より、岩波ホール他にて全国順次公開
2月28日(日)
昨年の今頃は気が付くとマスクやらトイレットペーパーやらがなくなっていていよいよやばいという危機感がじわっと広がり始めていたのではなかったか。それから1年経ってわれわれの暮らしはかつてとはまったく違ったものになり、日常のすぐ脇にできた裂け目からは「死」の風景が簡単に覗けるようになり、その不安や恐怖がさらに日常を不安や恐怖にまみれたものにしていくわけなのだが、『ブータン 山の教室』でのヤクとの暮らしは、そうではない、生きていることにより近い親密な「死」の姿を見せてくれていたと思う。
ピーター・フォンダの遺作となった『ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実』は、クリストファー・プラマー、エド・ハリス、サミュエル・L・ジャクソン、ウィリアム・ハート、ジョン・サヴェージという名前が並ぶ。いったいいつの時代の映画かとも思うのだが、ヴェトナム帰還兵たちの現在を主人公が仕事のために尋ねて話を聞く、という設定。『ブータン 山の教室』と同様、デヴィッド・グレーバーなら「ブルシット・ジョブ」とも言うはずのおざなりな時間稼ぎの仕事をしていた主人公が別の世界に触れて自分の周りの世界を少しだけリアルなものにするという物語である。だがこの映画では、彼の知らない世界であったヴェトナム戦争もまた命がけの壮大なブルシット・ジョブであり、それが現在の彼のブルシット・ジョブにつながっているという世界の構造も見え隠れして、ほとんど「死者」として生きている帰還兵たちの言葉を聞き伝えるシステムへと、主人公は自身を作り替えようとする。彼らの言葉を録音して世界に残し広めるレコーダーとなる、と言ったらいいか。最後のピーター・フォンダとサミュエル・L・ジャクソンとの感動的なハグがわれわれの涙腺を決壊させるためには、われわれ自身のもうひとつの別の物語が必要かもしれない。主人公が聞き手ではなく学び手へと一瞬で変容してしまうあきれるような何か。「ヤク」が求められる。


『ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実』 (監督・脚本:トッド・ロビンソン)
3月5日(金)より新宿シネマートほか全国ロードショー
3月5日(金)より新宿シネマートほか全国ロードショー
そして宮崎大祐の新作短編『北新宿2055』。これもまた、語り手と聞き手の物語で、最初から最後まで基本的に語り手と聞き手だけしか登場しない。タイトルにもあるように未来の物語であるはずなのに過去の物語のように聞こえてくる観えてくるのは、ほぼ全編が語り手と聞き手の静止画による切り替えし、モノクロの画面という構成で作られているからではない。あくまでもこの物語が未来から見られた過去の物語として作られているからだろう。アラン・タネールが映画を未来から現在を見る道具として使ったように、ここでの宮崎大祐は未来をさらにその未来から見るという視線を通し、われわれの現在を背後から貫こうとしているようだ。それは『TOURISM』から始まって『VIDEOPHOBIA』を通過してきた視線である。未来にあるのか過去にあるのかわからないわれわれの「Country Home」(by Neil Young)を巡っての歩みのような時間が流れた。同時に未来にも過去にも当たり前のようにあるわれわれのブルシット・ジョブの平板な時間のよどみの増幅の退屈を堪能した。


『北新宿2055』(監督:宮崎大祐、原作・出演:漢) 2021年公開予定