映画音楽急性増悪 第18回

虹釜太郎さんの「映画音楽急性増悪」第18回目です。今回は、善と悪の新たなかりそめの定義から観察される「放置」について『ラルジャン』(ロベール・ブレッソン監督)、『梨泰院クラス』(キム・ソンユン監督)、『ドクター・スリープ』(マイク・フラナガン監督)などを例に語られます。

第十八回 放置



文=虹釜太郎
 
 
善…放置、多様性の著しい欠如、人間に状況を決して説明しない、既得権益の秘守、強制の忘却、無関心または記憶喪失
 
悪…部分的関与、人間の倫理程度では推し量ることが不可能な多様性の擁護と体験の保障、多種多様異様な状況での人間の反応の仕方の観察と報酬、強制への過剰反応の観察と援助の審査、過去と未来の間の相対運動に対しての報酬他を基盤とする臨機応変な気づかせの濃淡、死んだことすら理由にならない体験の延長
 
  いったい何の話でしょうか。
 
  善と悪という言い方自体が間違っていて、善は基本的にある状態を指し、悪は部分的関与の濃淡のある行為を指す、よって善と悪の対立などというものは存在しない、などの与太にいきなりではあまりに性急過ぎる。
 
  何の話をしているのか。
 
『狼煙』(2006年/ルドルフ・トーメ)の銃弾はいったいどこからやってきたのか。
 
『狼煙』の銃弾はどこから来たのか。なぜ彼女は殺されなければいけなかったのか。
 
  それについて答えを出すには放置と放心について幾度も考えないといけない。いくつもの遠回りが必要。
 
  悪が善の影程度であるはずがない。では悪とは。
 
  悪の定義は難しくとも、悪に関連することらは無数に挙げることができる人は多いはずだ。穢れ。苦しみ。毒。破壊。ねじれ。差別。醜さ。欠乏。欠陥。弱さ。不均衡。無秩序。カオス。過誤。ねじれ。無目的。生気の無さ。病。賢くない。道理を欠いている。不完全。非現実。理由がない。不確定。不毛。不活発。無力。首尾一貫していない。不明確。残酷。暴力。侵犯。
 
  そんなものはいくらでもあげられるはずで、またそれができないならば、その人は観察をあまりにしない主義なのかもしれない。しかしなにごとかを日々強制されるなかでは、これらについて考えたくなくともそうする習慣が根付いている人もいる。
 
  しかし、それらの中で欠乏、欠陥、弱さ、不均衡、過誤、無目的、醜さ、生気の無さ、賢くない、道理を欠いている、不完全、非現実、理由がない、無力、無秩序、首尾一貫していない、不明確、暗さ、実質を欠いている、どんな存在をも所有しない、不確定、不毛、不活発…らを悪としている修道士ディオニュシウスはあまりに坊主憎けりゃ袈裟までである。
そんな乱暴な定義には天と地の魔術の四種類の映画的排泄物をひりだした無秩序で乱暴なハリーも納得はいかないだろうし、ただがん無視してあやとりの映画を差し出すだけかもしれない(『ハリー・スミスは語る音楽/映画/人類学/魔術』カンパニー社刊参照)。
 
 
  悪の本質は善であり、なぜ善なる存在は自由意思の悪用をそのままにしているのかとかの議論には終わりがない…ように見えるのは、上記のような悪の捏造者たちの熱心さと純粋さが事態を常に不明確にしているからだ。混乱した修道士のような存在は身近に多数いる。
 
  悪は心の自由を強制する時に生じるという話もよくあるものだが、ではその強制はなぜそもそもあるのか。
 
  悪を単純に、存在すること自体の否定、生命的なもの全ての否定、と定義するものもいる。それには同意できない。
 
  悪は根源的なものでなく、根に行きつこうとするものでなく、ただただ表面が過激であり、ひとは表面的であればあるほど悪を生み出しやすいとの定義は、悪は存在すること自体の否定、生命的なもの全ての否定とするよりはずいぶんつまらない誤解を省いている。しかしそこで例に多数あげられるだろうパターン化した犯罪どもをいつまでも悪だとかで付き合っていてもなんにもならない。そもそも犯罪は悪とは関係ない。当たり前だが。
 
  悪についてまともに考えていないと思える頭がよく行儀のよい映画語りは悪は根源的で根に行きつこうとするものというのを是認していなくても、俗悪に表面的に過激な悪?の映画たちよりブレッソンらの方がまともにそれを扱っているかのような態度である場合が多いようだが彼らが全く観ようとしないただただ表面的に過激なだけの映画が悪の映画だとは思えない。映画ではなく映画産業群が延命のためだけにしていることどもをはなから全無視している人たちは多い。
 
  仮にどんな映画監督のことも百字以内で説明できる人がいるとして、いや常にそうすべきだという立場があるとしても(なぜそんなことが必要なのかと言われれば、別にその必要がなければ何の問題もないという答えがあるだけ)、悪の映画について説明することができる人はいるだろうか。そんなことは無理だという以前に、その前提について製作者たちは普段からもっと考えねばならない。それは邦題をつける担当者も含めて。悪の…とつく映画のタイトルについてどれだけ観客たちがぐったりしたかを担当者たちはどのくらいわかっているのだろうか。映画製作者/ドラマシリーズ製作者にはいまだ修道士ディオニュシウスみたいな人間がうようよしている。彼らこそ上記のすべてについて再考してほしい。
 
  ここでもうあきれるほどにざっくりとしたわたしの悪と善の定義を、シンプルに提示しておく。これらの定義について失笑する者や蔑みの笑いをこらえるものやそんな指針など完全に無意味だと無視するものが大多数だろう。
 
 
G…放置、多様性の著しい欠如、人間に状況を決して説明しない、既得権益の秘守、始原の行動様式の付与と軽蔑、無消化、無殻、不敗、強制の忘却、無関心または記憶喪失
 
E…部分的関与、人間の倫理程度では推し量ることが不可能な多様性の擁護と体験の保障と等価交換、多種多様異様な状況での人間の反応の仕方の観察と報酬、強制への過剰反応の観察と援助の審査、必敗を前提とした狡猾、消化の困難、過去と未来の間の相対運動に対しての報酬他を基盤とする臨機応変な気づかせの濃淡、神経期間の不安定さ、極端な個体、勝敗とは無縁の追跡、寄生の再発明、死んだことすら理由にならない体験の延長
 
 
  冒頭にあげたのより意味不明なのが混ざっているが、そこに混ざっているのは映画では製作のアイデアに成り得るものであり、しかしそれにしてもひどい上記の定義について、善についてのそれをG、悪についてのそれをEとしておく。これも傲慢に思えるから、このあさはかな定義はそれぞれNG、NEとでもしておくべきかもしれないがそれも相当にうざいので、ここでは単にG、Eとしておく。
  一般に悪とされているもののほとんどがただ単にずさんなパターンの繰り返しか思考停止の自動行動でしかないようだが、それはここではEともGともしない。それを仮にFとしておく。
 
  Fはまことに残念ながらそれはEやGの素材にすらならないことが多い。そしてその数だけは莫大になっていく。
 
  また今回は詳しく触れることはできないが、上記の善悪のとらえかたとは別に、土地や貨幣といった商品化になじまないものを無理やりそうしてしまったがゆえにそこにEが巣喰い、そしてそれらを放置またはその他のことをするGが作る日常について、本来はこのようなことが映画について語られる場合に、北と南以外の切り傷からも常にそれは問題にされなければならないはずだ。Gを単純化することは危険だし貧し過ぎるし単純につまらな過ぎるということだけは付け加えておきたい。
 
  上記の馬鹿馬鹿しい定義によれば、唐突だがたとえば死刑については、以下の通りに判断される。
  死刑について、Gは端的にどうでもよい立場。この時点で人道的な人間たちとGのとらえ方がはっきり異なってしまう。しかしここでは言いにくいが、はっきり言ってしまうと、世間で一般的にGだとされている人間は、ただの視野狭窄に過ぎず、またあらゆる思考停止の具現化をしている者らである。また世間でEを気取る者はただのナルシストであり、それがダークトライアドだなんだと奉られようがナルシストに上記のEは遂行できるはずもない。
死刑について、Eは反対する。しかしその反対の理由は人道的な理由ではまったくない。ただ生きている間も、死んだ後もまだまだ人間はあまりに体験不足である、と言った時の死後の扱いについてE内部では異なる意見が存在する。
  Gはそもそも可能性の多様さを吟味する能力自体がかなり乏しい。最初に構造や行動様式を付与することと可能性の吟味はまったく関係がない。
  またしても忘却しているか。Gのリニア過ぎる単一能力は、その力強さは既得権益を守ることにおいてしかし常に強い。
 
  ではこれまた唐突ながらベーシックインカム(以下、BI)については「彼ら」はどう考えているのか。
  BIについて、Gは無関心。それによる事実上賛成。
  BIについて、Eは極端な個体の扱いをどうするかでもめ過ぎることによる結果としての反対。
 
  BIについて、なぜEは反対なのか。それは間違っているのではないか。それについての議論が必要である。わたしにとってはGの「放置」は中途半端である。放置ということは遺棄とは違うということ。放置の場合は、その後、確認に戻る可能性があるということ。その方が残虐だとも言える。残酷さ、残虐さを悪のイメージとして押し付けてきたのは善のほうだ。放置しているようで、その実、あとで確認に戻るというのは、その確認する対象について残酷であるということである。
 
  各自がGとEについて自力で考え、それに基づいて、なにやら決まり文句で問題が片付けられているようで、その実ただただ忘却されている、または意図的にそれらについてとらえ直すことが遠ざけられている。しかし身の回りの大問題たちについて、改めて当の自分自身が無意識に決まり文句で判断停止していたことがあきらかなことどもに再度判断し直すことをどこかの段階でしなければならない。これは頭がよいとか悪いとかスペックの問題でなく、やる過程での矛盾の各自それぞれの段階での漏出たちを意識することにこそ意味がある。それら漏出にあまりに無関心な頭の回転だけが早いものたちが多数いる。それら漏出の混乱たちこそが映画であるととらえる時、映画への愛といったよくわからないものよりもよほど、それら混乱たちを直視することの方が…
 
  具体的に映画ではどうなのか。
  『ラルジャン』(1983年/ロベール・ブレッソン)はさまざまなことが既に言い尽くされた映画なはずだ。わたしが毎度気になるのは実と犬で、それは観る度にそうだ。
  悪と善ではなく、悪と善と無分別。無分別は悪のなかのもっとも陳腐な無思慮と一緒くたにされる時もあるが、その定義は難しい。
  『ラルジャン』においては実(木ノ実)と犬が違う無分別として観る度にわたしには現れるが、なぜそうなのか。無分別に早急に可能性を見いだして騒ぎたてるのは危険だ。しかしそれが気にならないならば、この世界に人間として生存している意味があるのか。
 
  犯罪は悪とも善とも無分別とも関係がない。
  犯罪は、悪なる存在からも善なる存在からも無分別な存在からもなされる。それらが悪人、善人、無分別者のなかで処理される世界以外をいかに描くか。
巨匠の作品たちでなく日々忘れられていく混乱にまみれて消えていく映画たち、量産される映画たち、映画語りが決して語らない映画たちにおいてそれらは。
ハリーの作るような映像作品や映画的排泄物についてなにかを語ってもそれはラニ・シンの二の舞になるだけでなく、それはひたすら不毛だが、映画についてはそうではない。正確には別の不毛があるが、ハリーの屁理屈は別として、古典にならない映画において修道士ディオニュシウスのような混乱やそれ以外の強弁や過誤や誤解ばかり引き起こす映画語がどのようにいままで不毛だったのか。その不毛の奈落とは。
 
 
  『リグレッション』(2015年/アレハンドロ・アメナーバル)は、食品偽装が実体化したかのような映画だ。
  本作は一見、忘却というのは悪か、忘却と放置の違いについて考えさせるかのように偽装されている。
  しかし本作の映画音楽はただただずさんな忘却の味方をする。
放置は知っててそうしている。では忘却している神とは? そんな問いの映画ではなく、退行を促す催眠療法は虚偽記憶を生むことがあるだけの再現ドラマになってしまっている。
 
  世界は忘却している善良なる存在で溢れている。彼らは愚昧極まるが、ややこしいのはそんな忘却しまくる愚かな存在が、さまざまに理不尽に傷つく存在に重ね重ね負荷をかけ続け、その善良なる存在の倫理程度では推し量ることが不可能な多様性を獲得させる。
  しかしそのことと忘却するものが罰せられないことは関係ない。負荷を理不尽にかけられた存在がかすかに忘却を免れ、また苦しみ続けるこの世界は残酷な仕組みである。ただ善良なる存在どもはその残酷であるということ自体にまったくかすりさえしない。そんなことを描いた映画ではなかった。
  悪魔教団を含むすべての新興団体はただただずさんな善良さの人間で構成され、それらははなから悪とも悪魔とも関係がない。コレクター気質ではあるだろうが。
  本作におけるわかりやすい映画音楽と音響たちは、忘却と放置の点からやり直す必要を感じる。本作がプロットでなにを描こうが、音たちがひたすら忘却の味方をし続けている事態。こういう例があまりに多くないか。
  偽装が剥がれた後のエマ・ワトソンの表情は、ブロック注射でぶよぶよになったサイコロステーキ偽装剥がれそのものだった。エマはアンジェラの低俗さをうまく演じている。アンジェラも映画自体も一発逆転は当然ながら生まれず、偽装食品のアンサステナブルそのままに沈んだ。
 
  『記憶の夜』(2017年/チャン・ハンジュン)の主人公は罰を選ぶ。他者によって与えられる罰でなく、自らによって自らに与える罰。
原罪の扱いのある地での変容とキメラ。
  そのキメラをとらえる映画はとりあえずはまだ数世紀は続くかもしれない。
  他者によって与えられる罰を放置しておくのではなく、それにずっと立ち会う場合について。『羊飼いと屠殺者』(2016年/オリバー・シュミッツ)は勝ち目のない戦いが複層で奏でられる。観方によっては『狼煙』のリメイクともとれる本作は"不条理な殺人はなぜ起きたか映画祭"でも上映されるはずの作品だが、放置と過干渉の間のスペクトルでいかようにも存在できる弁護士と捜査官、放置ということにおいて逆である二つの立場に身を置くことを選択した殺人者(元々は死刑囚官房刑務官)それぞれについて観る者に強く考えることを要請する。
  きっかけ、動機のない殺人、そしてその星の虫の数より多く存在する未遂について、人間たちはあまりに普段考える習慣がない。分別よりも冒険心が優ったわけでなく、しかし現状追認をめぐる思慮から解き放たれた行動の無数にある結果のひとつがきっかけのない殺人である。その結果のひとつが殺人でなくドッペルゲンガーとして現れる場合もある。 
  殺人について映画やドラマはいい加減、その殺人未満、いや殺人の模擬遍在性について考えるべきである。『ラルジャン』が残念ながら?いまだその輝きを失わないのは、それら模擬遍在性について、映画音楽や映画音響による無視とごまかしをしないからだ。『ラルジャン』の残酷さが映画だけができる放置なのか否かについては『死霊魂』(2018年/ワン・ビン)とあわせ誰かに大部で論じてもらいたい。
 
  動機動機とみなうるさいが、動機がない殺人については既存の高い知性どもでは解明できない。それらについてのあらゆるとんでも説をこれからも無数に検証する必要がある。またその検証のなかで殺人の模擬遍在性と自殺の模擬遍在性についてさまざまな映画、ストーリーではない、ポストプロダクションによる模擬遍在の見えない実践やその失敗群について一部の者たちが関心を持ち始めるかもしれない。ポストプロダクションによる模擬遍在の実践は学校で教えることは不可能だろうが、それらについての横断的議論は今後も映画語りにおいては無視し続けられるだろう。
 
  『悪魔はいつもそこに』(2020年/アントニオ・カンポス)。せっかくラジオの音楽だけで廻っているのに映画音楽がいちいちぶちこわしていく。ここでの映画音楽は、連鎖する悪は止まらないがそれでも人々は生きていくの状態を延々うるさくうっとうしく代弁していくがそんなものはいらない。映画音楽がなければ観る者は、世代を超えて繰り返される理不尽を胸の中の錆のように少しは感じとれることができるのに映画音楽はそれを妨害する。映像はよりクリアになり映画音楽はより曇っていく。
  映画が終わった後にはこの世界では牧師が何度も死ぬことが続いていくだろう希望が静かに満ちていく。この映画に出てくる牧師たちは『田舎司祭の日記』(1950年/ロベール・ブレッソン)のような錯誤や絶望とは無縁な自動機械。ヒッチハイクで殺人を繰り返す夫妻も自動機械で、保安官選挙に汲々とする保安官も。戦後の腐敗と暴力にまみれた田舎町で邪悪な人間たちの思惑が渦を巻くなどという映画の紹介とは違い、彼ら人間たちに思惑などはなく機械のままに動いているだけ。放置されきった地で、意思をもっての殺人、聖職者も保安官も殺人鬼も平等に殺していくことの賛歌だけで十分で映画音楽はいらない。こうした放置と自動機械と絶望とそこでの違和感、その違和感を殺人でしかなし得ない状況。お墨付きの図々しいナレーションは繰り返されるのに、『狩人の夜』(1955年/チャールズ・ロートン)のような斜め上からの視線はない。しかしラストでの青年の睡魔との戦いを見れば、その視線は必要なく、その視線の存在すらなかったとしたほうがしっくりくる。つまりナレーションの視線は意思を持った殺人が生まれるのを待機している放置者ということになる。EなどなくGが残留している、または汚染している世界。
 
  放置者と部分的関与者の違い。
 
  駆除業者を使ってバグを修正とかずいぶん過干渉な神だなという『バスターの壊れた心』(
2016年/サラ・アディナ・スミス)は、二人のジョナの本筋どうこうより、過去のジョナのシーンの音響があまりに壊滅的だ。これで映画がひとつ仕上がるならいくらでも出来てしまう。唯一、ジョナの壁打ちボールの跳ねる音がシーンをまたいでいく箇所にあがきがあったけれど、このような音響で破壊されている映画をさんざん通過すると、映画はエリッヒ・フォン・シュトロハイムの頃からかなり退化しているのではという気が強くする。
ホテルのルームナンバーが逆さになっているのを見せられても正気かとかしか。例えばルームナンバーを逆さまに描くよりも、ジョナの娘が左手でなぐり描くとか数字が逆転してしまうとか父の顔の向きが、その横顔の向きが違うであるとかなんでもいいのだが。本作に足りないのは例えば『天使のくれた時間』(←この邦題なんとかならないのか)(2000年/ブレット・ラトナー)の娘が父に言う「地球にようこそ」的な混乱である。例えばその混乱は娘にとっては真実である。本作の本筋や監督の意図などどうでもよく、ただ完成した本作から伝わってくるのはジョナの他者への関心の無さと観察力の無さと過剰な敗北願望ばかりなのは、監督自身の世界の観察がひどく貧しいからだ。ジョナの演技と無惨極まる音響とキリスト教ユダヤ教のある話だけでゴリ押ししていては映画にはならず監督の願望の吐露にしかならない。まずは過去のジョナにつけられた音響をすべて剥奪してやり直すことが監督には必要なのでは。そうしないならばいくらでも映画は作られてしまう。この映画の中で本筋とは別に無目的な正気の無さがそれだけで道理を欠いて増殖しているような箇所はあったか。それは何だっていいのだが。あまりに古過ぎるはずのテレフォンセックスの無駄に部分的に関与するジョナ。音響による愚劣な省略はジョナがなぜ分岐したかをより考えさせない。ジョナが分裂できたのは原罪説の前史に無意識に肉体が疑問を持ち過ぎたからだとかなんでもいいのだが、肉体からの反乱による分裂の可視化について映画はもっと特別な信号を送れるはずである。ひたすらモノローグが続く映画がつまらないように感じるのは、その特別な信号の撒種やなぶり殺しをあらかじめ放棄しているからか。
映画という短い時間のあいだにいかに無関係なものが堆積し、それがこちらに小さなしこりでもない難病未満を沈殿させるか。『VIDEOPHOBIA』(2019年/宮崎大祐)にあり『バスターの壊れた心』にないものとは。
 
  『梨泰院クラス』(2020年/キム・ソンユン)。奴隷道徳と奴隷根性。第14話のデヒからスアへの言葉からもそれがはっきり出てくるが、そもそもが第1話からそれが扱われている。忍苦する者や疲れる者に奴隷根性を見て軽蔑すること、奴隷を恐怖させ、対等者である敵を持つこと。
チャンガグループ会長チャン・デヒがまず悪の代表のように最初に主人公パク・セロイの前にたちはだかるが、このデヒが本作の怯えと倨傲と恫喝のダイナモ。萎縮する者が奴隷になり、また冷笑している者はそもそもこの箱庭から抹消されてしまっている。その抹消され具合が本作の異常性を浮き立たせる。
  本作紹介ではイソがソシオパスの新世代のヒロイン扱いだが、ソシオパスを言うならセロイもデヒもそうであり、本作の結末はソシオパスのカップル勝手に爆誕である。ソシオパスという分類自体が全くモノトーン過ぎるが。
  デヒ会長とセロイの部分的関与同士の対決が本作の最大の見所なはずだが、セロイが一貫して受動的に強固に発動した部分的関与の悪であるのに対し、デヒ会長は基本的には過干渉である。しかし意思を持って、というよりは妄執で持って部分的関与を様々に行う。奴隷根性の喝破にあまりにとどまり過ぎのデヒよりセロイの方がソシオパスでは。彼は高貴な義務を背負っているかのように描かれる。一聴してはっきり、それでもセロイは立ち上がり闘うのだという梨泰院クラスのメインテーマの音楽だが(それら音楽をわたしは幼児期より「それでも音楽」と呼んでいたが小学校でも同意は得られなかった)、それはセロイのソシオパスを毎回カモフラージュする。セロイに仲間たちはついていっているようだが、あそこまで急激にフランチャイズを推進することへの違和感を持っているだろう仲間への共感能力はソシオパスカップルにはない。
  セロイの能力を引き出し、グンウォンをスポイルしたのは同じデヒである。デヒは、常に同じ場所で喝破しかつ虐待する教師と父という限界の段階から動こうとはせず、その不動さと冷酷さは多くの恨みを買い、しかし覚醒する者を一部に生む。
  第8話において、会長が息子を守るか、傍観するか、見捨てるかは、それはそのまま善と悪の問題のようでいて、そこには悪はなく、過干渉と善の問題しかない。放置とは傍観と見捨てるの両方の意味を持つ。
  本作は、過干渉と部分的関与による能力発現の契機を与える者と呪われた能力発現者とソシオパスが闘う悪のバトルフィールドであり、彼ら悪魔たちの様々な想像作用を全て受けきるのがグンウォンである。
  多くの悪をめぐるらしい映画があまりに総合格闘過ぎるのに対し、グンウォンのすべて受けきるそれは別の誰もが知る興行を思わせる。
彼がもっとも人間らしく悪魔たちを輝かせる。
  しかしドラマと違い現実世界においては上記の悪魔たちは過疎なため、グンウォンのような人間は単にクズであるだけである。
  そして別の見方をする者にとっては、能力発現の契機を与える者と呪われた能力発現者とソシオパスも金をいかに効率的に拡大するかの悪魔にしか見えない。本作がセロイの悪魔化の話にしか映らない人も多数いるはずである。
  タイトルにもあるクラス、すなわち階級もまた能力発現と悪魔化を促す一契機に過ぎない。
  でははじめから堂々と存在しているスアとはいったい何者だったのか。彼女こそが放置をあらゆる過程で体現し、しかも常に超常的に身近でそれを放置し続ける善そのものである(善人だと言っているわけではまったくない)。スアはあまりにも偶然にセロイに会い過ぎる。それは人間には到底不可能なことだろう(笑)。そしてやたらイケメン好きなスアは善の浅薄さをはっきり体現する。しかしチャンガの告発をするスアは放置に耐えられないその生身の限界をあきらかにする。スアはGのクラスにはいない(Gがクラス制かどうかはまた別の機会に)。
  彼らすべてにきっかけの活力を与えたのはグンウォンという愚かしさだった。
  そして死にかけたデヒを延命させたのはセロイであり、ここでは死にかけた悪を救うもうひとつの悪という、悪と悪の対照の炎の設定が実現されている。
  しかしそれを底辺で支えたのは愚かしさの化身だった。それは人間の奴隷根性を喝破して知り抜いていたはずのデヒも予想外のことだった。
  奴隷根性とそれから解放されたら幸せなのかという空虚さが大々的に瓦解する本作が恋愛ドラマであるとはいったい。
  本作はまた父と仮面、偽物の父をめぐる物語である。セロイをもっとも成長させたのはデヒ会長であり、その仮面を剥ぐセロイだが、興味深いのは既に死んでいるセロイの実父が橋を渡るところで、その父はセロイを見守りたいがゆえに成仏できない亡霊のようにも見えるが、その父のセロイに対する全行動はセロイを罠にかける偽の父である悪魔にも見える。特に父が最後にセロイの肩に手をかけるところなどは実に悪魔の残念さがにじんでいる。このシーンを人間のソシオパスが悪魔に笑顔で勝利した瞬間からと見た人はわたしだけではないだろう。コメディアンなら喜ぶはずだ。本物だろうが偽だろうが父の仮面を剥ぐセロイの無意識が露見する。亡霊でもなく偽の父でもなくセロイのよってたつ大切な基盤を常に言いたがる人にとってはそれでもいいが、セロイは父の無限包容をここでついに拒んだ。そこで自らの包容への依存を意識しさらに強化したセロイは、父の無限な包容をリスペクトするスアとも冷酷に別れることを決意している(ルイ・マルの『ダメージ』が下敷きなのかもしれない)。イソを好きになったからスアと別れたというのが表。父を橋に送り出したからスアへの依存も消えイソと実利的に共闘する選択をしたというのが裏。
  はじめから後者しか見えない人はもいるかもしれない。
  そしてスアはセロイが好きなのではなくセロイの父の呪縛が解けていない。セロイもイソも片親の愛をたっぷり享受しているが、そうでないスアの空虚さが漂い、気持ち悪い風が吹くままにドラマは終わる。イチャつくソシオパスカップル(セロイとイソ)のエンディングの画ではっきりとこちら側に響いてくるのは、グンスとスアが自らの中に残る奴隷の消去との闘いがこれからはじまるという姿である。悪と悪の対照の炎の新たなちらつきが層になるチゲの変種はついに現れないままに本作は終わった。しかしチゲの変種のくすぶりは恐竜兔のような変化をしたチゲの遍在となって世界に分散しているはずだ。
 
  本作は登場人物に固有の身体を擦る癖が繰り返し描かれる。セロイのふたつの癖。そして
焦っては手を激しく擦りあわせる動作をする三人の人物グンス、ヒョニ、ホジンが悪魔化するセロイの庇護を受ける事態は、善なる放置者ではそれは作り出せないものであることを改めて強く感じさせる。
 
  荻窪駅から池袋駅へ。善と悪が意味を無さなくなり、罰と愛を分かち合う場所。それを敵対者とも目撃し合う場所。イテウォン・クラスのセロイとイソとスアは最後にそれぞれ笑っていたが、彼らはしかし『輪るピングドラム』(2011年/幾原邦彦/以下、ピンドラ)第24話を観直す必要がある。賢治とニーチェが下敷きかどうかはともかくピンドラが、『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』(2017年/デヴィッド・ロウリー)を含めいまだ多くの映像作品の土台であるかのように錯覚してしまう理由は、執拗な池袋駅へのカウントダウンと穴開きファイルと観察檻の反復が、あらゆる方角にある混乱に、決して譲歩しない運命など変えられないという独裁者を無視しながらひとつの確信を持って再び生き直す際への、いくつもの時間形式の懐胎のばらばらに命を与えているからである。ファイル穴や終着駅へのカウントダウンやその変更への執着がそれを可能にした。時間形式の懐胎のばらばらと時間を行き来することは違う。
  いまや映画や映像作品それ自体が、時間の大きさ自体についての様々な実験場の様相を呈しているいま、それへの無謀な挑戦は、シーズン5到達のはるか手前で切断と解散を余儀なくされた『The OA』(2016年/ザル・バトマングリ、ブリット・マーリング)の爆発的失敗などにも見られる。『The OA』の混乱とピンドラの混乱は少し似ているが、ピンドラの剛腕的終着駅乗り換えが強引ながらも説得力があるのは、監督である幾原邦彦が監督だけでなく音響監督にもなりながら紅の炎と青の飛散を本来なら到底無理な短時間の間に急迫なものになるように自らを一体化させているからである。同じ狂気はブリット・マーリングにもある。彼女のくすぶりは今後も様々に発火していくはずで、それらについて多くの映画語りは常に噴飯的であるかもしれない。マーリングがザル・バトマングリでなくクリストファー・ノーランと組んだら発狂して彼らを完膚なきまでに殲滅しようとする者もいるだろう。
  ピンドラにおける罰の選び方については、余裕のある方は『記憶の夜』や他作品と比較しながら、どうしてこのように罰を選んだのかについて他を論じてほしい。
 
  イテウォン・クラスが経済と階級と奴隷についての作品なら、『ドクター・スリープ』(2019年/マイク・フラナガン)は経済と奴隷についての作品である。本作は悪なる存在の恐怖よりも彼ら共同体の生存方法と彼らの分岐前にフォーカスしている。ホラー作品として優れているかいかにダメかいかに残念かトラウマ克服云々は専門家が好きなだけ論じ尽くしたはずだ。悪たる存在の生存方法について濃度高く描く作品はいくつかあっても、彼らの分岐前についてメインで扱う作品は多いとは言えない。今後もさらに延々と続く続編とプリクエルが猛る製作の中で、それら分岐前をいかに独自の解釈で描くかは映画の可能性とは関係がない。映画の可能性はこれからも前向きに狭義に論じられていくはずだ。しかし映画としてはいかに稚拙であっても、彼らの分岐前を様々に描く作品はその可能性を多くの混乱を撒き散らしながらさらに拡張していく。
  能力者が止むを得ずに部分的関与を続行または封印する時に、その自己防衛または共同体防衛のなかでいかに善と悪に分岐していくか、ではなくEとGにいかに分岐していくか。そこでは悪と善でなく、作品自体がGとEを問い直す場が多くなる。そのような作品がさらに増えていくなかで、映画の可能性を問題にする者はそれら事態すべてを無視して過去の偉大さや可能性を反芻し閉じていく。それはそれで充実している。
  能力者同士がお互いを発見する描写は現在においてさえまだ原始段階なら、今後はさらに特殊効果と音響にいかに頼らないかの競争がより、分岐前を描く強度にも強く影響していく。
  廃墟同士が出遭うことを映画は表現しにくいが、それでもそれらを荒唐無稽に目指す試みは止まない。本作は大聖堂同士が出遭う能力戦が描かれるが、そこではまだアナログのファイルが選択されるしかない。デジタルでの検索は映画に到底馴染まないことをこれからも開き直り続けるかどうか。スチームや旧型の電球や蛍光灯の世界が爆破されていく世界線。
  アナログな能力戦を放置してくれている存在をあからさまでなくても描くことをしていたら本作はまた別の次元に達していただろうが、それを可能にするには新たな犯罪が発明されなければならない。犯罪というからにはそれを審判する立場についての議論がはじまる。それが予想もつかないところからはじまることを可能にするために必要なものとは。憂愁の王であるアンクルダンは議論に応じない。かつてのルターのように悪魔と議論していてはダンは勝てない。では別の能力者であればどうか。
  本作でのローズの失敗を乗り越える存在は、ローズがリーダーの共同体からは現れなかった。アンクルダンは共同体自体作れなかったがSSNS(ソーシャル・シャイン・ネットワーク・サービス)をアナログに構築し直した。アブラは検索淫乱症エラののぞき魔たちを率いる可能性があったが、それは可能性にとどまった。彼らの同類のその後もその前も、彼らがのぞき得なかった弱能力者たちも今後さらに描かれるはずだが、そこでは冒頭に述べたことの洗い直しが最低限強く必要になる。
  本作ではローズのフリックに対する態度がはっきり描かれた。それはローズとアブラの対決や、ローズたちからのアンクルダンの逃避よりも力強く。フリックはグラディエーターの時代から生きてきた。しかしそんな彼は本来ならとっくに死んでいたはずだ。アブラにそれが出来たか。また今後アブラが既得権益の秘守にとどまらないという保証はどこにもない。クロウがアブラにおまえのせいで何人も死んだと言うことは、何重にも複雑に鳴る。それは流れ者が流れ者に言う言葉としてはっきり響かないからである。
  アブラとクロウの違いは、薬物治療のとらえ方の違いにも似ている。あらゆる薬物を否定した結果多くが死ぬ。その薬物には人体が必要である。薬物を容認しながら巻き込まれて死ぬ者を減らすか。
  アルコールが克服されてもコカインもオピオイドも悪霊も瞋恚も克服されない。
  アブラの過度な攻撃性をゴーストであるダンが明確に現れメンター化して収まっているかのようなラストに納得するわけにはいかない。
 
  そしてアンディ。ツーボトルでのコカイン方向のローズの旧タイプのブーストでなく、眠りとの複合能力での脱薬物の僅かな可能性も提示したままあがきながら死んだ。
 不死者がまとめて即座にダンたちに始末されるなかアンディだけがしぶとさを発揮した。それは共同体皆が持つ能力でなく彼女固有のものが可能にしたのだった。ここでのアンディの抵抗を忘れてはならない。少なくともフリックとは違う最期をアンディは遂げた。
 
  映画音楽としての鼓動音はアンクルダンの冷静さにつけられている。ダンが冷静さを失いつつある時に映画音楽としての鼓動音は衰弱する。しかしその時実際のダンの物理的な鼓動は高くなっている。仲間を失った時にローズは激しく悲しんだ。そして激情の後には薬物を使う。仲間をそれぞれ失ったダンとアブラはしかし激しく悲しまず、薬物も使わない。本作の通奏低音は脱薬物と冷静さを推奨している。しかし薬物不可避性と攻撃性はそれらと和解せず、まだこの映画の段階では馴染まない。アブラの今後の最大の課題のひとつはクロウに言われたことである。
  本作の設定について、製作の経緯についての話があまりに多過ぎる。そんなことはどうでもいい。そんなことよりクロウがアブラに死ぬ前に問うたこと、殺されたアンディの継承されない能力とかの話を少しはしてくれ。
  超能力の経済と薬物中毒と薬物リハビリが生む煉獄。薬物がなぜ必要になったかの背景について。シャインを持つアブラはまだそのことを突き詰めて考えていない。
  全員が共謀罪であること。映画の中の人間ではなく現実世界の全員が。映画を好きとか嫌いとかではなく人間はもはや映画を含む作品と共謀して生きていくしかない。ある超能力が納得いかなければそのことをしつこく語らなければ現実世界そのものが危うくなる。奴隷であることを自覚していればいい時はもう過ぎていて、脱奴隷の現実とフィクションに同じ強さで接すること。