映画音楽急性増悪 第11回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」、久しぶりの更新です。「山形国際ドキュメンタリー映画祭2019」滞在7日間での、主にコンペティション作品以外について書いてくれています。

第十一回 不在と未解決、それらについてすらまったく考えさせなくする存在がどこからやってくるか 




文=虹釜太郎

 
 2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭では七日間で以下の作品を体験できた。
 
『消された存在、__立ち上る不在』(ガッサーン・ハルワーニ)、『ノー・データ・プラン』(ミコ・レベレザ)、『放つ』(ナセル・タグヴァイ)、『私の家は眠りの中に』(ハラマン・パプア)、『老人』(ヤン・ティエンイー)、『あの雲が晴れなくても』(ヤシャスウィニー・ラグナンダン)、『遠く離れて』(シアラ・レイシー)、『夏が語ること』(パヤル・カパーリヤー)、『約束の地で』(クローディア・マルシャル)、『ハルコ村』(サミ・メルメール、ヒンドゥ・ベンシュクロン)、『ミッドナイト・トラベラー』(ハサン・ファジリ)、『白と黒』(ソフラブ・シャヒド・サレス)、『あの家は黒い』(フォルーグ・ファッロフザード)、『ありふれた出来事』(ソフラブ・シャヒド・サレス)、『空に聞く』(小森はるか)、『ごちゃ混ぜこぜ』(無冠のTO)、『十字架』(テレサ・アレドンド、カルロス・バスケス・メンデス)、『髭のおじさん』(バハラム・ベイザイ)、『東京干潟』(村上浩康)、『第1のケース…第2のケース』(アッバス・キアロスタミ)、『死霊魂』(王兵)、『これは君の闘争だ』(エリザ・カパイ)、『革命の花 ヴェトナム・ローズの日記』(ジョン・トレス)、『アリ地獄天国』(土屋トカチ)、『借家』(エブラヒム・モフタリ)、『エクソダス』(バフマン・キアロスタミ)、『見えない役者たち』(チェ・ヒョンシク)。
 
 今回の山形では、イラン特集が組まれた。
「リアリティとリアリズム:イラン60sー80s 」で以下のイラン映画が上映された。
『あの家は黒い』(フォルーグ・ファッロフザード)
『髭のおじさん』(バハラム・ベイザイ)
『放つ』(ナセル・タグヴァイ)
『ホセイン・ヤヴァリ』(ホスロ・シナイ)
『借家』(エブラヒム・モフタリ)
『第一のケース…第ニのケース』(アッバス・キアロスタミ)
『白と黒』(ソフラブ・シャヒド・サレス)
『ありふれた出来事』(ソフラブ・シャヒド・サレス)
『静かな生活』(ソフラブ・シャヒド・サレス)
『女性刑務所』(カムラン・シーデル)
『女性区域』(カムラン・シーデル)
『テヘランはイランの首都である』(カムラン・シーデル)
『雨が降った夜』(カムラン・シーデル)
『水、風、砂』(アミール・ナデリ)
『バシュー、小さな旅人』(バハラム・ベイザイ)
 
上記のプログラムは、また違う場所で繰り返し上映されてほしい。やっと山形以外でも公開されはじめたメヘルダード・オスコウイ監督作品と同時上映で、シーデル監督の『女性刑務所』も公開されればいいのだけれど。各大学の学園祭で法学部主催でなくとも特集上映があれば。学園祭シーズンは終わっているけれど。 
『借家』は、戦時期日本ドキュメンタリー特集で、『住宅問題』や『農村住宅改善』(野田真吉)とあわせて観たかったけれど時間があわなかった。
以前からなぜ、日本では、家賃についての映画、ベーシックインカム(以下、BI)についての映画が撮られないかがずっと疑問だった。家賃がなぜ存在するかについては坂口恭平が。BIがなぜ実現しないかについては、ひろゆきが延々とBIについて議論する動画をひたすら続けていて(一回あたり70分から三時間以上あったりして、既に29回を超えているので未視聴の方はぜひ。トータル時間はかなり長いです)、それがそのままドキュメンタリーだけれど…
坂口がひたすら家賃の存在について根本的疑義をつきつけ続け、ひろゆきがしつこくBIについて、また同時になぜBIが実現しないかについて、なにがその実現を阻んでいるかについて、しつこく静かに辛抱強く、またその語りかけ方を変えながら話し続けていることについて、あまりにも皆が関心がないのに愕然とする。ドキュメンタリー映画批評の存在意義とは。映画館で上映されているものだけが…
 
『チャック・ノリス vs 共産主義』を擁するプログラム「Double Shadows/二重の影 2――映画と生の交差する場所」もまた非常に魅力的なプログラムだったが、時間はまったく足りなかった、
『チャック・ノリス vs 共産主義』(イリンカ・カルガレアヌ)
『マーロン・ブランドに会う』(アルバート&デヴィッド・メイズルス)
『ショウマン』(アルバート&デヴィッド・メイズルス)
『ある夏のリメイク』(セヴリーヌ・アンジョルラス、マガリ・ブラガール)
『ある夏の記録』(エドガール・モラン&ジャン・ルーシュ)
『あの店長』(ナワポン・タムロンラタナリット)
『さらばわが愛、北朝鮮』(キム・ソヨン)
『パウロ・ブランコに会いたい』(ボリス・ニコ)
『声なき炎』(フェデリコ・アテオルトゥア・アルテアガ)
『イサドラのこどもたち』(ダミアン・マニベル)
『木々について語ること ~ トーキング・アバウト・ツリーズ』(スハイブ・ガスメルバリ)
『革命の花 ― ヴェトナム・ローズの日記』(ジョン・トレス)
『アンジェラの日記 ― 我ら二人の映画作家』(イェルヴァン・ジャニキアン&アンジェラ・リッチ・ルッキ)
『富士山への道すがら、わたしが見たものは…』(ジョナス・メカス)
『メカスの難民日記』(ダグラス・ゴードン)
 
「戦時期日本ドキュメンタリー再考プログラム」は以下。 
〈現場の呼吸〉
『造船所』(ポール・ローサ)
『機関車C57』(今泉善珠)
『知られざる人々』(浅野辰雄)
 
〈労働を綴る〉
『炭焼く人々』(渥美輝男)
『和具の海女』(上野耕三)
『流網船』(ジョン・グリアスン)
 
〈土地と鉄路〉
『白茂線』(森井輝雄)
『トゥルクシブ』(ヴィクトル・トゥーリン)
 
〈言葉・響き・リズム〉
『石炭の顔』(アルベルト・カヴァルカンティ)
『夜行郵便』(ハリー・ワット&バジル・ライト)
『信濃風土記より 小林一茶』(亀井文夫)
『土に生きる』(三木茂)
『石の村』(京極高映)
 
〈生活を撮る〉
『或る保姆の記録』(水木荘也)
『住宅問題』(アーサー・エルトン、エドガー・H・アンスティ)
『医者のゐない村』(伊東寿恵男)
『農村住宅改善』(野田真吉)
 
 前回と違い、基本的に今回は積極的には国際コンペ作品と短編は観なかった。国際コンペ作品は最終日に四本観ることができたが、七日間フルに時間を使っても、自分の場合は以下の作品を観ることはできなかった。
 
『理性』(アナンド・パトワルダン)
『誰が撃ったか考えてみたか?』(トラヴィス・ウィルカーソン)
『非正規家族』(許慧如)
『トランスニストラ』(アンナ・イボーン)
『駆け込み小屋』(蘇育賢)
『別離』(エクタ・ミッタル)
『ラ・カチャダ』(マレン・ビニャヨ)
『光に生きる ― ロビー・ミューラー』(クレア・パイマン)
『インディアナ州モンロヴィア』(フレデリック・ワイズマン)
『ユキコ』(ノ・ヨンソン)
『王国あるいはその家について』(草野なつか)
『そして私は歩く』(ラジューラ・シャー)
『山の医療団』(ジジ・ベラルディ)
『セノーテ』(小田香)
『愛を超えて思いを胸に』(マリー・ジルマーノス・サーバ)
『気高く、我が道を』(アラシュ・エスハギ)
『海辺の王国で』(慶野優太郎)
『ここへ来た道』(張齊育)
『さまようロック魂』(崔兆松)
『ソウルの冬』(ソン・グヨン)
『自画像:47KMのスフィンクス』(章梦奇)
『1931年、タユグの灰と亡霊』(クリストファー・ゴズム)
 
 
…七日もいたのに「メイン」プログラムをほとんど観てないじゃないか…同じ映画祭に七日間滞在している者たちが観ている映画がほとんど一致しない場合も多々ある映画祭。
 
 草野なつか監督作品は東京でも観れなかったので、山形で観たかったのだけど、不思議なのは草野監督の『王国あるいはその家について』と『見えない役者たち』がまったく同時刻に別の会場で上映されていたこと。
また最初の時点で気になったのは、事務局ホームページで、特に以下の三本の邦画がきちんと紹介されていなかったことで、その三本とは
 
『東京干潟』(村上浩康)
『アリ地獄天国』(土屋トカチ)
『ごちゃ混ぜこぜ』(無冠のTO)
 
『ごちゃ混ぜこぜ』にいたっては、監督の無冠のTOで検索しても無冠の帝王たちが出てくるばかりで、「無冠のTO ごちゃ混ぜこぜ」と検索しても範田紗々のページでの「ドキュメンタリー映画監督の無冠のTO監督の作品「ごちゃ混ぜこぜ」(153分)に参加させていただきました! フェチフェスの際にインタビューしてもらった映像です! 10/10〜10/17に山形美術館で開催される山形国際ドキュメンタリー映画祭2019にて公式上映されることが決まりました!「YIDFFネットワーク特別上映」という伝統あるスペシャルプログラムの一環です(*゚▽゚)ノ お近くの方はぜひよろしくお願いいたします!」という紹介か「季刊 性癖」のサイトしか上映当日までは出てこないが気になるので会場に向かった。
『ごちゃ混ぜこぜ』が山形国際に参加していることであきらかにこの映画祭は豊かになっていたと感じたが、インターナショナル・コンペ作品ばかりを観ている人たちが、この作品に当日アクセスできたかどうかは疑問が残る。この映画で特に記憶に残っているのは、「季刊 性癖」主催者が性癖を幅広くとらえていることで、例えば皮膚剥がしを一例で挙げていたことだった。筆者もまた長年の皮膚剥がしだが、皮膚剥がしの不思議なところは、皮膚を剥がす瞬間に死体となる皮膚と剥がす自分との間にはっきりとした対話のような何かが何段階も存在していることで、対話が成立しない時は剥がそうとしても会話を止めたり、無理に会話して血が止まらなくなったり、また会話が成立するかどうかぎりぎりの見極めの様々な瞬間が、皮膚剥がしをする主体にとってはそれこそが中毒になっているのである。皮膚を剥がす瞬間に再生が加速するような錯覚もその「性癖」をやめられない一因であり、さまざまな性のあり方があって当たり前という「性」のなかに皮膚剥がしも含まれるとした時、そこに拡がる空間はさまざまな自由を求める運動とも直接関係のないあっけない広大な拡がりがそこにある。偏見を持たないで!だけではなく、そこに広がる広大な何かに接近した 『ごちゃ混ぜこぜ』はより多くの人に先入観なしでもっと観られるべきである。そもそも性癖というものをあまりに人は小さく見積もりがちであるし、他の言葉がもしふさわしいのなら、それについてもこの映画をきっかけに理解されるべきだ。ドキュメンタリー映画愛好家らしき人たちに本作の話題をふってもなかなか返事はない。
 
『ごちゃ混ぜこぜ』については、「山形国際ドキュメンタリー映画祭2019デイリー・ニュース」(以下デイリーニュース)6号で、監督の無冠のTOのインタビューが掲載されている。フェチフェス、縛・万華鏡★︎︎ミューズ★︎︎、STD検査専門クリニック、坊主ストリッパー…について。山形での監督の質疑応答にゲスト出演していたトランスジェンダーガール妃咲が感じている様々な矛盾についても今後、作品が撮られてほしい。無冠のTO監督は山形県上山市に拠点を移している。
 
『東京干潟』『アリ地獄天国』『ごちゃ混ぜこぜ』の三本とも告知は十分でなかったにも関わらず、当日会場には観客たちは多数いて安心はしたのだが、ただ『東京干潟』は今回山形では一回しか上映がないにも関わらず、またこの映画はラストで台風がやって来て終わる映画であるにも関わらず、会場近くに台風接近で一回限りの上映が急遽中止になった。事務局側から急遽『東京干潟』に出てくるシジミのおじいさんに電話することをその場で促された監督はシジミおじいさんに電話をするのだが(正確にはおじいさんと連絡とれる人)電話はつながらず、しかしまさにその電話した瞬間は川沿いのおじいさんの家が台風で流されている瞬間だったことが後に判明するという珍事もあった(山形で一回限りの上映が流れた『東京干潟』は無事振替上映された。ただ振替上映時にはもう映画祭に滞在できない人たちもいたはずだが、監督の上映急遽中止を知らされた瞬間のマジですか!の驚愕の短い挨拶は非常に強い印象を残した)。『東京干潟』はその後、同監督の『蟹の惑星』を以前から評価していた特殊翻訳家柳下毅一郎と監督との対談や劇場でのシジミ汁ふるまいなどを劇場で展開し、また映画を鑑賞した観客の一部がシジミおじいさんと猫たちとおじいさんと同じ境遇の人たちを物理的に援助する事態も起きている。それにしてもシジミおじいさんが生きてきた戦後史の告白を聞けることの僥倖に改めて驚愕すると同時に、既にあまりにも明らかなオリンピック後の日本の荒廃のとてつもない既視感が『東京干潟』の様々な場所に充満していた。
 
ちなみに『記録映画アーカイブ3 戦後史の切断面 公害・若者たちの叛乱・大阪万博』(丹羽美之、吉見俊哉編)には、
『汚水カルテ』(1977年s24分)
『おきなわ 日本1968』(1968年、8分)
『'69・6・15』(1969年、10分)
『死者よ来たりて我が退路を断て』(1969年、64分)
『希望 光と人間たち』(1970年、18分)
『1日240時間』(1970年、10分 ダイジェスト版)
『夢と憂鬱 吉野馨治と岩波映画』(2011年、122分)らが参考映像として収録されている。
 
目次は以下、
序章 戦後史の切断面(丹羽美之)
 
第1部 映画のなかの公害
第1章 『水俣の子は生きている』(土本典昭)
第2章 〈不活動〉との共同――土本典昭『水俣の子は生きている』(1965年)(中村秀之)
第3章 問いと指差し――神馬亥佐雄と『汚水カルテ』の映像試論(角田拓也)
第4章 公害と記録映画――大気汚染から放射能汚染まで(鳥羽耕史)
 
第2部 1968・若者たちの叛乱
第5章 〈映画のビラ〉シネトラクト運動――岩波映画労働組合とその周辺(井坂能行)
第6章 日大闘争とグループびじょん(北村隆子)
第7章 叛乱の時代(長崎 浩)
第8章 68年と映像(筒井武文)
 
第3部 万博とアヴァンギャルド
第9章 記録映画から展示映像へ(坂口 康)
第10章 『1日240時間』と安部公房・勅使河原宏(友田義行)
第11章 パビリオンから見た大阪万博(暮沢剛巳)
第12章 大阪万博と記録映画の終わり――成長の時代と言葉の敗北をめぐって(吉見俊哉)
 
終章 記録映画保存センターの活動成果と今後の課題(村山英世)
 
 
この本の照射とはまた別の戦後史はシジミおじいさんの口からもっともっと聞きたい。シジミおじいさんは預言者でもあるので、2020年東京オリンピック後の日本の壊滅的状況はおそろしく無残なものとして、おじいさんにははっきり視えているはず。このシジミおじいさんに視えているものが日々いかに自分に視えていないかに愕然とした人も多かったはず。ここまでの話を引き出してくれた村上監督に感謝したい。監督がいなければこれらの話を皆が聞くことはできなかった。そしておじいさんの横には常に猫がいた。鳥も。
『東京干潟』についての監督インタビューでは、VIDEO SALONにおけるそれがすばらしい。インタビューの中で監督は以下のように正直に語っている。
 
 ーー台風の翌日のシーンで祭囃子の音がかぶさってきます。あの日がたまたま祭りだったんですか? それともあれは効果音?
あれは迷いました。最後をどうするのか。途中で羽田の祭りのシーンが出てきます。それから、おじいさんが自転車に乗ってシジミを売りに行くシーンでも街の中から祭囃子が聞こえてきます。この映画は、人生をネガティブに受け止めるんじゃなくて祝祭にしたかった。だから祝祭的に終わらせたいと思いました。祭囃子は実は羽田の祭りではなくて効果音なんです。当て込んでみるとしっくりきました。セイヤセイヤという声がおじいさんの内心の声に聞こえてきて。

ーー他のシーンでは、鳥の声もかなり明瞭に入っています。
干潟で聞こえる虫の声、鳥の声は実は後から加えています。本当はあんなに騒がしくはないんです。もちろん、その季節にそこで聞こえる鳥や虫の声であることは間違いではないんですが、それを集めてきて、一緒くたに画面の中に入れました。とにかく干潟を体感してほしかった。
音は整音の方が、1日干潟に来て、その場の音を録りました。でもそれはその季節のものしかない。それをベースにいろんな効果音を加えています。たとえばおじいさんが干潟を歩くときの音や羽ばたきの音とか、ビデオカメラのガンマイクでは入らないので、劇映画に効果音をつけるように足しています。ほぼ全カット、音をつけている感じですね。
僕は映画にとって音はかなり重要だと思っています。音は映像に映っていないものを表現できます。たとえば蟹の鳴き声はないので、鳥に代弁させているところがあります。脱皮のシーンなんかはヨシキリの声とときにシンクロさせたり、交尾のシーンは現場の工事の時の音とシンクロさせたりとか、細かく周到にやってます。もちろん、それは気づかれなくてもよくて…
 
このインタビューの内容は、ドキュメンタリー映画製作を志す者だけでなく、ドキュメンタリー映画を観る全ての人にとって極めて重要な内容なので、ぜひサイトVIDEO SALONにて詳細にあたっていただければ。
 
ドキュメンタリー映画における効果音をどう扱うか、どう「作って」いくかについては、今回の山形では、特に『私の家は眠りの中に』(ハラマン・パプア)、『あの雲が晴れなくても』(ヤシャスウィニー・ラグナンダン)、『夏が語ること』(パヤル・カパーリヤー)の三作品において強く考えさせられた。何よりもまず撮影現場で最初に聴くことの大切さを強調したパヤルの『The last mango before monsoon』と製作途中の長編を早く日本でも観たい。ハラマンの作品では、恩寵としての停電が聴くことの自由を生む。ハラマン作品にしてもパヤル作品にしても村上作品にしても、公の場では語られないことがいかにしてにじみ出てくるかについての各々が独自に発見した方法がある。
 
山形で村上監督と意気投合した土屋監督による『アリ地獄天国』は大学での上映とトークを山形以後に重ねている。『運び屋』と交互に観ても面白い。この映画の主人公の実名変更後のその後やプレカリアートユニオンとの関わり、その闘いの継続の難しさもあわせてこの映画をとらえる時、生活していくためにお金が必要なその後の青年の視点、労働組合の視点、その青年をその後に受け入れた組織の視点、ブラック企業側の視点、それでもその企業に居続ける社員たちの視点、青年をヒーローと認めているライバル企業の社員の視点、この問題を法的にとらえるとどうなるかについての弁護士の視点、いじめ問題としてとらえる場合のいじめ問題に取り組む者の視点、労働基準法に無知な経営者の視点、当該企業のOBの視点、青年の妻の視点、そして………そもそもなぜそれだけの額が生活するのに必要なのかの視点…さまざまに観る者に現れる疑問たちの多さがこの映画が現在進行形の矛盾としていかに鈍く強く輝いているかを示している。ある家族が生活していくにあたり絶対に必要な金額の設定により、働く人が自殺に追い込まれたり、精神をひどく止んでしまうことや、家族自体がその額をめぐって崩壊してしまうことについては、日本ではそれは常にゆっくりゆっくり取り組めばいいものとして扱われ過ぎてきた気がするが、その議論の改めての開始のきっかけになる映画でもある。そもそもなぜ週に五回働かないと人間として、そして家族として、そして配偶者として認められないのかについて考える機会は常に奪われてしまう。またブラック企業の問題とベーシックインカムの問題も切り離せない。でも単体で論じられてしまう。土屋監督のタフさはあきらかに若松監督の影響を受けているように見えるが、映画の中で青年がシュレッダーについてさえ愛情を持って語るシーンを観た時、土屋監督の不思議な母性を感じた。
土屋監督については「デイリーニュース」3号でインタビューが掲載されている。そこで監督は自らを映画監督というよりは、友だちを救えなかった一人と語る。映画で語られる「やまちゃん」とは…についてはぜひ実際に映画を観て…
「撮って」と言われて撮らなかった世界中の監督たちのこと。土屋監督作品はさまざまな大学でも継続的に上映され、上映後の議論の積み重ねが極めて貴重な映画。しかし映画全体のリズムが跳ねていて、定期的に挿入される西村さんの直立不動の姿がおかしい。そのおかしさはシュレッダーについて優しく語る西村さんの姿の瞬間に複雑なスパークをする。
 
 
ドキュメンタリー映画を観ることが、操り人形たちを疑うきっかけになるということが遠のいていっている感じとは何か。操り人形になるとは、話し、騒音、音楽の三者が何者かに従属する手段になってしまっているという事態についての拙い言葉だが、発語の響きと感情やどうにもまとめようなどない空気たちはいまだ翻訳されずに、耳を傾けるしかない作品たちが作られ続けているという希望もたしかにある。誰もが動画を撮り撮られ操り操られて死ぬかもしれない映像イメージの囚人である時代(『フレームの外へ』刊行に際して著者の赤坂太輔が使った言葉のひとつ)に、フレーム外の刺激を受けながら画内の存在に注目し続けること、存在がフレームを出入りする瞬間に視覚から聴覚へのリレーが行われること以外に、あらゆる翻訳の否定などが観る度に当たり前に問いなおされてきたはずのドキュメンタリー映画を観るという行為は、しかし新たな作り手たちの一部が新たな映像イメージの囚人でもあることもはっきり露見していく中、また新たなグレーゾーンのなかに入っていく。
 
さまざな偏見を廃していたはずが、それでもまだ多くの人がいまだ密かに願っているかもしれないなにものか。囚人はあまりにも忘れやすい。囚人は決して忘れない。実態と願望。実情と信仰告白。緊張はあらゆるかたちで弛緩してしまうようだ。なぜ?
 

ドキュメンタリー映画における音でなく音楽について何かを言う不毛さ。しかし、今回の山形でも『遠く離れて』や『ミッドナイト・トラベラー』において、音楽の「力」により見えているはずのものも、残念ながらも、時にそれはより見えなくなり、空間もまったく広がらないようなことが起きていたように感じる。言いにくいことなのだが、やはりこれは………強くそう感じたので、無視することができず。一致し過ぎることによる弛緩について、そんなことなど、彼らの絶望的な状況のまえではどうでもいい小さなことではないかと言う人も多いかもしれない。しかしそれはやっぱり…どうでもいいことではない。映像と音の一致に限らず、一致し過ぎることによる弛緩たちに違和感を少しも感じないならば、それらの一致を促してくる存在と冷徹に闘うことはできないのではないだろうか。
いくつも差し込まれる音楽によって距離が開いてしまうことたち。
抵抗の方法たちとナイーヴさの打ち消しあいは、もっともっと冷淡に観察し続けなければならないのではないかと感じる。
 
 
今回の山形で、そもそもドキュメンタリー映画をなぜ撮るのかの根本についてしつこく疑義を出し直した圧倒的に重要な作品は、35年前にさらわれた知人からはじまって名もない死者たち、無数の行方不明者についてのある試み『消された存在、__立ち上る不在』だったと思うが(本作とまどマギを並べることなど荒唐無稽でしかないと言う人しかいなそうだが、名もない死者たちにある解決を仮構した少女の決意の物語でもあったまどマギを観た人はこの映画もすんなりと観れるはずであり、その回路がいまの日本にないように思われるのは単純に貧しい)、ドキュメンタリー映画における音の扱い方と翻訳の不可能や無効について、改めて初々しく、またふてぶてしい可能性をみせてくれた作品としては以下のがあった。
 
『私の家は眠りの中に』(ハラマン・パプア)
『あの雲が晴れなくても』(ヤシャスウィニー・ラグナンダン)
『夏が語ること』(パヤル・カパーリヤー)
 
いずれもインターナショナル・コンペティションの作品ではないけれど、『私の家は眠りの中に』での暗闇と落雷、クジ予想し続けるピウスおじさんが停電の間に語ることと翻訳不可能なうめきたちは、もはやフレーム外どうこうでなく、停電による気づきの不在たちに似たあらゆる不在がわたしたちの気づきを妨害しまくっていることを明らかにし、『あの雲が晴れなくても』では回転するおもちゃキャトケティがフレームを撹乱するというより、現実と覗き込む現実を撹乱し、聴くことと見ることのリレーというより乱暴な接続が、音の加工と共に、みなが忘れた遊びに記憶を回転し戻すことの不思議とそんなバカバカしさや単純さをすっかり忘れてしまった者たちに目眩をいくつかもたらし、『夏が語ること』では、パヤル・カパーリヤー監督自身が撮ることの前にまず聴くことが大事だったと語った。
 
前回の山形であれば『ウラーーーッ!!!』、今回であればこれら三作品が、ドキュメンタリー映画祭で、それが狭義のドキュメンタリー映画であるかどうかはともかく実際に上映されているところに、この映画祭の魅力を再確認した。
『あの雲が晴れなくても』のヤシャスウィニー・ラグナンダン監督と、『夏が語ること』のパヤル・カパーリヤー監督は二人同席して質疑応答に応じていたが、この二人の女性監督が共に聴くことの貴重さを強調するだけでなく、音を加工することに躊躇しない点については、かつてトリンが音について徹底して考えたこととあわせてアジアの新しい批評家たちにしつこく論じてほしい。
 
 
※文中でも触れた、赤坂太輔の単著『フレームの外へ──現代映画のメディア批判』は書店、または森話社の本取り扱いのショップで販売中。全ての世界映画観賞者だけでなく、映画製作者、映画祭責任者、関係者必読の本。メディアの奴隷にならないために。新しい映画祭や上映プログラムを作るためのヒントが無数にあり。
https://mobile.twitter.com/shinwasha_com/status/1192711273969926144
 
赤坂氏のインタビューは、神戸映画資料館のサイトでも読めます。ジャン=クロード・ルソー関連ですが。
2020年は、赤坂氏への白紙委任状プログラムが組まれるといいですね。
 
 
※山形国際ドキュメンタリー映画祭会場でも販売されていたドキュメンタリー映画関連雑誌を東京でも入手しやすい個人書店ロカンタン書店が、2020年1月10日に西荻窪に新装オープン。以前は予約制でしたが、実店舗が。
ドキュメンタリー映画関連以外にも、映画以外のミニコミも充実。現代詩を含む面白い批評誌『子午線』も入荷。『HAPAX』のバックナンバーや輸入映画DVDも。
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